シルクロード日誌

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uウイグル民族の起源とマニ教、仏教の関係
 

ウイグル民族の起源とマニ教、仏教の関係を簡単な年表でご紹介したい。

今日の写真はいずれもモンゴルの首都ウランバートルの国立歴史博物館に
展示されていたウイグル関係のもの。
上はウイグル貴族の展示品。


隣のこれはウイグルの庶民の展示品。貴族のものと比べて貧しいものが多い。


  • 世紀以前 - モンゴル高原北部のセレンゲ河上流域に興る。
  • -世紀 - オルホン河、トラ川流域で東突厥の支配下に置かれる。
  • 世紀前半 - 東突厥の滅亡後、唐に服属する有力部族連合のひとつとして台頭する。
  • 744 - 懐仁可汗が可汗を称し、遊牧ウイグル帝国(744-840)を興す。
  • 745 - 突厥を滅ぼす。

    ウイグルの起源を書いた文書。
  • 757-763 - 安史の乱に介入。援軍を送ってを助け、定住文化導入の契機をもたらす。
  • 763 - 代牟羽可汗がマニ教に帰依。この頃、ウイグルは繁栄を極め、吐蕃(チベット)と並んで唐の辺境を脅かす。 
  • 779 - 内紛により牟羽可汗が殺され、以降、幼く在位の短い可汗が続く。
  • 795 - 宰相クトルグ・サングンが自ら擁立した幼い第6代可汗に代わって可汗に即位(懐信可汗)。
  • 世紀初め - 遊牧ウイグル帝国が最盛期を迎え、西はシル・ダリヤアム・ダリヤ両河まで、南は高昌(トルファン)までを版図とし、天山東部の領有を吐蕃と争った。
  • 830年代 - 天災やハン位継承の内紛により混乱。
  • 840 - キルギスの侵入により、ウイグル帝国が滅亡。一部のウイグル人は中央アジアや河西回廊に移住し、天山ウイグル、甘州ウイグルを形成。また、別の一部は中国に逃れて唐や契丹に服属した。
  • 1026 - 甘州ウイグルが西夏に滅ぼされる。

    匈奴の版図を描いた世界地図。


    モスクワ、キエフまでをも統治したモンゴルの版図。

  • 12世紀前半 - 天山ウイグル王国、契丹人の西遼に服属。
  • 1209 - 西遼の介入に反発したウイグル王国内の勢力が西遼から派遣されてきた総督を殺害し、モンゴル帝国チンギス・ハーンと結ぶ。
  • 1211 - ウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギン、チンギスの招請に応じて自らモンゴル宮廷を訪れ、モンゴル帝国に服属し、財政を預かる身分となる。

    もっとも現実に近いといわれるチンギス・ハーンの肖像画。
  • 13世紀後半 - カイドゥの乱勃発により、元とカイドゥの両勢力の最前線に位置したウイグル王国は圧迫を受け、王家が甘粛に移住。王国は事実上消滅する。

 

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ホータンへの仏教の伝来
 

私がこれまでのウイグルの旅で聞き知った、仏教が隆盛を誇っていた当時のホータンの仏教東漸の話をお伝えしよう。7年前、ホータンである歴史学者に話を聞いた。

ホータン郊外のコクマリム石窟は、頑固な仏教徒に攻められて、殉教したイスラム教徒を聖人として祀っている。

 

仏教の到来

 

仏教は2世紀ごろにインドのカシュミールから南疆のホータンに入ってきたと言われている。その後、カシュガル、クチャ、トルファンに広まり、中国、朝鮮を経て日本にも入っていった。このように仏教は約1000年間も西域の全域で仏教文化の花を咲かせ、隆盛を誇ったのである。

 

トルコ・イスラーム化する以前のアーリア・仏教時代に繁栄したホータンは、これを攻撃する側のイスラーム教徒からは『殉教のホータン』と呼ばれた。豊かなオアシスの富に支えられた仏教側が強力な抵抗を継続して、多くの殉教者をイスラーム勢力から出させたからである。

 

その結果、約40年にわたる抵抗のあと、11世紀はじめにようやくカラハン王朝軍がホータンの仏教政権を滅亡させ、その間に多くの破壊が行なわれた。最も多く破壊されたのはカシュガルだったと考えられている。だから今ではカシュガルには仏教遺跡がほとんど残っていない。

紀元1世紀、前漢のころ仏教寺院として栄えたラワク遺跡。

 

イスラーム教徒は彼らとの40年間にわたる抵抗戦争を闘った仏教徒を“ガンコな連中”と呼んでいるが、イスラーム側の犠牲が非常に多かったので、仏教徒の墓を暴き、仏教寺院などをことごとく破壊した。そしてその上に自分たちイスラーム教徒の墓を作ったのである。

アミーナさんは決して認めないが、イスラム教徒は仏教徒の墓の上にトイレを造ったのである。

 

西域ではそのような戦いを経て、あらゆる仏教的な文化や習慣が次第になくなっていき、あらたにイスラーム文化が急速に入り込み始めた。仏教は平和裏に西域に根づいたにもかかわらず、イスラームは、ホータン、カシュガルから全新疆を攻略するまで、400年間もの熾烈な戦いを、なぜ経なければならなかったのか。改めて考えてみたい。

 

しかし、西域から仏教が消えてからおよそ1000年近くが過ぎた現在でも、いまだに新疆各地に仏教やそれ以前の宗教・信仰の残滓が存在しているのを、私は自分の目で見てきた。

 

「キリスト教を信仰しているウイグル人は少ないけれど、いることはいる」という。「どれくらいの数がいるのですか?」と聞くと、「アクス自治州460万人のうちでは10人くらいいるだろう」とのことである。それは確かに少ない。「キリスト教は景教ですか?」と聞くと、「漢族と同じ宗教です」という。それならば景教=ネストリウス派キリスト教である。彼らは同じ場所に集まって生活しているようだ。「そこに行きたい」と言うと、「彼らがどこにいるのか誰もわからない」と言う。

 

 「千年くらい前に仏教が入来するまで、ホータンの人びとはさまざまな宗教を信仰してきた。最初は火を崇めるゾロアスター教を信仰した。神の象徴である太陽、、星も信仰した。そのあとはシャーマニズムである。水、風、土、木などを信仰し、大自然を大切にし、自然を信仰してきた」。

 

仏教の教えによってさまざまの伝承があるとして、この歴史学者は次のような伝承を話してくれた。

 

ある日、ワイル・カナ(wairu kana)という人が杏の公園で修行していた。その人を見た人たちはびっくりする。それで村の偉い人たちは彼に会って、なぜここで修業しているのですか?と聞いた。そして聖者が一心不乱に修行していることをホータンの王に報告する。ホータンの王はそのことに非常に興味をもち、まず自分もやってみようと思い、聖者にいろいろ質問した。彼は「私は釈迦の弟子である。仏教を伝えるためにインドの地から来た」という。

 

さらに仏教の特徴を王に説明した結果、王は仏教に心酔した。ホータンの王は説明を聞いて、「仏教を伝えることを許す。仏教を伝えなさい、仏塔を作りなさい」と言った。ユサ・サンユ・ハワ(Yusa sanyu hawa)というホータンの王が最初の仏教徒になった。王が仏教を信仰したことによってホータン人はみな仏教を信仰し始めた。初めにホータンで作られた仏塔は「zenmo(ゼンモ寺。賛廟寺院とも書く)」であり、その後、たくさんの寺院を造り始めた。

 

ペルシア語やアラビア語によるホータンの歴史や伝説などによると、ホータン市の周囲500ヵ所以上に寺院が作られたという。それ以降、北はクチャ(亀茲)、南はホータンが仏教の中心になった。仏教は発展していき、たくさんの寺院が造られた。

今では廃墟同然に何の維持管理も施されていない、
メリカワット仏教遺跡。

 

 401年3月、中国の有名な僧・法顕(ほっけん)がホータンにやってきた。法顕はホータンの仏教の祭りを見に来たという。毎年4月1日から14日まで仏教の祭りを行ない、ホータン城のまわりの14ヵ所に大きな仏塔を作り、そこに14の大きな仏像を作った。そのきれいに飾られた仏像を大きなおみこしのような山車に乗せ、14の街をまわった。老若男女みなこれを見て楽しい時間を過ごした。

 

祭りの日には王や王宮の人たちが一般の人たちを迎える。仏像を乗せた車が王城の近くに着くと、王は王服を脱いではだしで城楼から降り、右手でお香を左手で仏典を持って、仏像を載せた車の前で礼拝をしてお香をたく。この時、ホータンはまるで天から花びらが降ってくるようなお香の香りがいっぱいになり、非常に感動的な雰囲気になったと記録されている。このような行事が14日間も続く。法顕もこのような行事に参加したといわれている。

 

今は仏教の祭りはなくなったが、現在はイスラーム教徒として4月に墓参りする人が多い。有名な墓場を順番にお参りすることがあるのは、その影響だろうと思われる。

ホータンでは仏教が入来して次第に盛んになるにしたがって、山や谷あるいは川のそばに仏像や仏塔がたくさん作られていた。

 

6〜7世紀ころ、玄奘三蔵はホータンに6ヵ月間滞在したといわれる。当時、ホータンの人びとはみな仏教徒になっていたので、ホータン人は玄奘三蔵を熱烈に歓迎した。今、私たちが確認できる寺院は20ヵ所ある。

現在、ホータンには138ヵ所余りの仏教遺跡が確認されている。彼のいう20ヵ所は見学が可能な観光ポイント(いわゆる開放されている場所)のことだろう。

 

10世紀後半からイスラームがホータンで盛んになりはじめ、のちに中国から仏教伝道者が来て、膨大な経典を持ちかえった。

仏教文化に関するものはホータン地区にはたくさんある。特にホータンでは仏教文化が非常に盛んだったので、仏教の文化・芸術・ドラマ・踊りや習慣がたくさん残っていた。20幕もののドラマが記録されたものもあるが、今はなくなっている。仏教がなくなることによって、文化のすべてがなくなっていった。

 

政府に禁止されただけではなく、イスラームになってから禁止されたものが多い。漢人は現在でも仏教を信仰している。そのために日常生活の中にまだ仏教の影響が残っている。水に唾を吐かない、火を信仰する。月や太陽に向かって大小便をしない。頭や歯が痛くなったら、頭に大きな布をかぶせて、綿花、木の枝や草などに火をつけて頭や体のまわりに回す。それで病気が治ると信じているからである。

しかも、ゾロアスター教の影響も残っている。朝早くに起きて月に向かって拝むとか月や太陽に向かって大小便をしないというのは、太陽や月を大切にしていたからである。

 
ホータンのぶどう並木。


サカ族(スキタイ)が入ってきて、インド語とインド文字も一緒に入ってきた。サンスクリット文字である。だが現在、それを読める人はいない。今は使わないが、資料として発見されているものはある。ホータンでは5世紀頃までカロシュティー文字を使ったという。

 

ホータン語やホータン文字は残っている。昔のホータン語をしゃべれる人はいないが、文字を読める人はいる。新疆ウイグル自治区博物館の館長イスラフィル・ユスフ、研究員アブドゥケユム・ホジャ、北京では耿世民やアイトルスンなどの研究者がいる。

 

現在でもケリア河の周囲には、仏教の影響が非常に強く残っているが、仏教を信仰している人はいない。ヨートカン遺跡は仏教が衰えるまで都だったところである。ホータン人の中にはネストリウス派キリスト教(景教)を信仰したものもいた。

 

ホータン人は長い間仏教を信仰していたので、イスラームになっても、心の中で仏教を信仰していたかもしれない。100年くらい前にはホータンに漢人もたくさんいて、仏像を持っていた漢人もいた。

 

1930年、ホータンで戦争があった。当時の王朝は満州族の清朝だった。トゥンガン(東干)戦争ともいい、「満清反乱」ともいう。それはホータンにいる満州政府にたいする反乱だった。その頃、ホータンには漢人の寺院があり、寺院の中で修行をする漢人の仏教徒もいた。しかし、1930年以降、仏塔はほとんどが破壊された。ウイグル人が仏教遺跡を大切にしなくなってきたのは、仏教が宗教上の敵だったからである。

 

メリカワットには仏教の遺跡があったが、イスラームによって徹底的に破壊された。今でも、沙漠からホンのわずかだけ遺跡の末端が顔をのぞかせている。

 

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12月19日 メキトからホータンへ
寝坊助の若者たちには辛かったろうが、6時起床、早朝7時に新紀元ホテルを出て、一路、ホータンに向かう。だが、みんな時間にはきちんと起きている。

西域南道は果てしない・・・

 

新疆時間朝7時は北京時間の9時だが、まだ辺りは真っ暗である。行きかう車はみなライトを上向けにして走る。ドライバーの眼に反射して危険なのだが、なぜ上向きにして走るのだろうか。エメットはライトをパッシングして下向きにするように対向車に促すが誰も下げない。10時ころになって周りが見えるようになり、やがてライトを消して走れるようになる。だがまわりは、もやで見通しは悪い。

11年7月1日の中国共産党創立90周年を記念して延伸した、
カシュガル〜ホータンの南疆鉄道とすれ違った。

 

途中、少し明るくなってから朝食にする。私はポロが好きなので、店頭にいた主人にトゥランが「ポロはある?」と聞くと、オヤジは「ある」という。店の中に入ってポロを注文すると、奥さんは「ない!」の一言。「主人があると言ったのに、それはなんで?!」と思うことがあるが、これがウイグル人のやり方、いちいち怒っていてははじまらない。

 

ほかの店で食べようと思ってトゥランが主人に、ポロをやっている店を聞くと「そういう店は絶対にない!」との返事。それを聞いては笑うしかない。面白いところだ、ここは。“他では食べさせないぞ!うちの店で食べさせるゾ”の「絶対、ない!」という姿勢がいい!結局、ウギュレ(スープのうどん)を食べる。

「ポロはほかの店には絶対ない!」と宣言された食堂。

 

およそ400km、凍てついた道路をひた走る、約6時間かかって懐かしいホータンに着く。

 

早速、ホテル探しだが、ドライバーの知っている超近代ビルのホテルができたそうで、そこへ行く。が、新築のホテルは、はじめは「満室だ」とのこと。

次の返事は「まだ外国人を宿泊させる許可を得ていない」とのこと。公安から単独の外国人あるいは私個人か、は泊めてはならない、とのお達しが来ているのだ。やっと「浙江大酒店」を探し当てる。インターネット設備があった。

 

トゥランに電話を依頼。夏の11年8月の日本シルクロード文化センターのシルクロードツアーの際、現地ガイドをお願いしたアリヤさん。夕食を一緒に。

彼女たち夫婦は5年間ほど調布市にある電通大学の大学院に留学していた。私はその隣町の狛江市。友人に電通大学の教授もいる。同行してメンバーにも調布市在住の会員がいる。アミーナさんも面識のある人たちだった。

 

トゥランはいとこ(おばあちゃんの妹の息子だから、正しくはおじさんになるのだが、彼は25歳)と会うので、さかんに連絡を取っている。

トゥランたちのいとこがホテルにやってくる。高校の体育教師で、身長は185cm。バスケ選手としてはそれほど大きくはないが、動きは敏捷でずば抜けていたそうだ。

 

トルファンのアミーナさんに電話すると、ちょうど、その“いとこ”のお母さんと一緒のところだった。お母さんは涙を流して喜んでいるとのことだった。なぜ泣くのかわからないが、いとこ同士が会えたのを喜んでいるのであろう。

 

トゥランの話によると、「いとこがつとめている高校の校長が、野口さんのためにバスケットかバレーボールの試合を考えている」ということと、「その校長が野口さんに会いたいといっている」とのことであった。それは願ってもないことである。取材ができる。

彼らはドライバーと4人で食事と飲み会に出かけて行った。私はアリヤさんご夫婦と会食である。


アリヤさんご夫婦。

 
男2人は、決してご機嫌ではない。


アリヤさんと夫が車でホテルまで迎えに来てくれた。彼女はホテルのロビーで待っていてくれたが、夫は車の中。後部座席から挨拶のため握手を求めたが様子が変だ。あまり社交性がないのかもしれないと思った。「KRORAN」クローランだが、これでローラン(楼蘭)と読むレストランに行く。

 

レストランの一番奥に案内されたが、そのさらに奥には、なんと、さっき別れたばかりのトゥランたちがいた。「なぁん〜だ」ということになったが、それぞれ別のテーブルに座る。

 

あまり食べられないので、ポロと小さな椀に入ったラグメン、それと羊の腰肉を注文。アリヤさんとは8月のメンバーのことなどあれこれ話すが、夫は終始、むっつりしたままである。性格なのか、機嫌が悪いのかどちらかである。よほど「どこか具合が悪いんですか?」と聞こうとしたほどであった。

 

いくつか考えられる。「オレの最愛の妻に会いたいという日本の男は誰なんだ!」という嫉妬心、あるいは生まれつきしゃべらない性格、あるいは「(いまちょうど新築の家の内装をしている最中なので、引越しの途中だった)、妻の実家に間借りしているので、それらの忙しいときに来やがって!」という、イライラか、そのいずれかだろうし、或いはその全部かもしれない。

 

そうそう、もう一つの可能性があった。それは、ウイグル人が外国人と単独で会うとCIA(国家安全局)がうるさいので身のん危険を感じているということだ。もうひとつは、彼自身が党員で、外国人と会ったことが分かると立場がまずくなるということである。客好きのウイグル人にとっては珍しい人物であった。おいしい料理と気まずい気分が交錯した時間であった。あとから聞いたが、隣のテーブルでその様子を見ていたトゥランも怒りまくっていた。

今回は彼らと会わなければよかったと思った!

 

 

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