私がこれまでのウイグルの旅で聞き知った、仏教が隆盛を誇っていた当時のホータンの仏教東漸の話をお伝えしよう。7年前、ホータンである歴史学者に話を聞いた。

ホータン郊外のコクマリム石窟は、頑固な仏教徒に攻められて、殉教したイスラム教徒を聖人として祀っている。
仏教の到来
仏教は2世紀ごろにインドのカシュミールから南疆のホータンに入ってきたと言われている。その後、カシュガル、クチャ、トルファンに広まり、中国、朝鮮を経て日本にも入っていった。このように仏教は約1000年間も西域の全域で仏教文化の花を咲かせ、隆盛を誇ったのである。
トルコ・イスラーム化する以前のアーリア・仏教時代に繁栄したホータンは、これを攻撃する側のイスラーム教徒からは『殉教のホータン』と呼ばれた。豊かなオアシスの富に支えられた仏教側が強力な抵抗を継続して、多くの殉教者をイスラーム勢力から出させたからである。
その結果、約40年にわたる抵抗のあと、11世紀はじめにようやくカラハン王朝軍がホータンの仏教政権を滅亡させ、その間に多くの破壊が行なわれた。最も多く破壊されたのはカシュガルだったと考えられている。だから今ではカシュガルには仏教遺跡がほとんど残っていない。

紀元1世紀、前漢のころ仏教寺院として栄えたラワク遺跡。
イスラーム教徒は彼らとの40年間にわたる抵抗戦争を闘った仏教徒を“ガンコな連中”と呼んでいるが、イスラーム側の犠牲が非常に多かったので、仏教徒の墓を暴き、仏教寺院などをことごとく破壊した。そしてその上に自分たちイスラーム教徒の墓を作ったのである。
アミーナさんは決して認めないが、イスラム教徒は仏教徒の墓の上にトイレを造ったのである。
西域ではそのような戦いを経て、あらゆる仏教的な文化や習慣が次第になくなっていき、あらたにイスラーム文化が急速に入り込み始めた。仏教は平和裏に西域に根づいたにもかかわらず、イスラームは、ホータン、カシュガルから全新疆を攻略するまで、400年間もの熾烈な戦いを、なぜ経なければならなかったのか。改めて考えてみたい。
しかし、西域から仏教が消えてからおよそ1000年近くが過ぎた現在でも、いまだに新疆各地に仏教やそれ以前の宗教・信仰の残滓が存在しているのを、私は自分の目で見てきた。
「キリスト教を信仰しているウイグル人は少ないけれど、いることはいる」という。「どれくらいの数がいるのですか?」と聞くと、「アクス自治州460万人のうちでは10人くらいいるだろう」とのことである。それは確かに少ない。「キリスト教は景教ですか?」と聞くと、「漢族と同じ宗教です」という。それならば景教=ネストリウス派キリスト教である。彼らは同じ場所に集まって生活しているようだ。「そこに行きたい」と言うと、「彼らがどこにいるのか誰もわからない」と言う。
「千年くらい前に仏教が入来するまで、ホータンの人びとはさまざまな宗教を信仰してきた。最初は火を崇めるゾロアスター教を信仰した。神の象徴である太陽、、星も信仰した。そのあとはシャーマニズムである。水、風、土、木などを信仰し、大自然を大切にし、自然を信仰してきた」。
仏教の教えによってさまざまの伝承があるとして、この歴史学者は次のような伝承を話してくれた。
ある日、ワイル・カナ(wairu kana)という人が杏の公園で修行していた。その人を見た人たちはびっくりする。それで村の偉い人たちは彼に会って、なぜここで修業しているのですか?と聞いた。そして聖者が一心不乱に修行していることをホータンの王に報告する。ホータンの王はそのことに非常に興味をもち、まず自分もやってみようと思い、聖者にいろいろ質問した。彼は「私は釈迦の弟子である。仏教を伝えるためにインドの地から来た」という。
さらに仏教の特徴を王に説明した結果、王は仏教に心酔した。ホータンの王は説明を聞いて、「仏教を伝えることを許す。仏教を伝えなさい、仏塔を作りなさい」と言った。ユサ・サンユ・ハワ(Yusa sanyu hawa)というホータンの王が最初の仏教徒になった。王が仏教を信仰したことによってホータン人はみな仏教を信仰し始めた。初めにホータンで作られた仏塔は「zenmo(ゼンモ寺。賛廟寺院とも書く)」であり、その後、たくさんの寺院を造り始めた。
ペルシア語やアラビア語によるホータンの歴史や伝説などによると、ホータン市の周囲500ヵ所以上に寺院が作られたという。それ以降、北はクチャ(亀茲)、南はホータンが仏教の中心になった。仏教は発展していき、たくさんの寺院が造られた。

今では廃墟同然に何の維持管理も施されていない、
メリカワット仏教遺跡。
401年3月、中国の有名な僧・法顕(ほっけん)がホータンにやってきた。法顕はホータンの仏教の祭りを見に来たという。毎年4月1日から14日まで仏教の祭りを行ない、ホータン城のまわりの14ヵ所に大きな仏塔を作り、そこに14の大きな仏像を作った。そのきれいに飾られた仏像を大きなおみこしのような山車に乗せ、14の街をまわった。老若男女みなこれを見て楽しい時間を過ごした。
祭りの日には王や王宮の人たちが一般の人たちを迎える。仏像を乗せた車が王城の近くに着くと、王は王服を脱いではだしで城楼から降り、右手でお香を左手で仏典を持って、仏像を載せた車の前で礼拝をしてお香をたく。この時、ホータンはまるで天から花びらが降ってくるようなお香の香りがいっぱいになり、非常に感動的な雰囲気になったと記録されている。このような行事が14日間も続く。法顕もこのような行事に参加したといわれている。
今は仏教の祭りはなくなったが、現在はイスラーム教徒として4月に墓参りする人が多い。有名な墓場を順番にお参りすることがあるのは、その影響だろうと思われる。
ホータンでは仏教が入来して次第に盛んになるにしたがって、山や谷あるいは川のそばに仏像や仏塔がたくさん作られていた。
6〜7世紀ころ、玄奘三蔵はホータンに6ヵ月間滞在したといわれる。当時、ホータンの人びとはみな仏教徒になっていたので、ホータン人は玄奘三蔵を熱烈に歓迎した。今、私たちが確認できる寺院は20ヵ所ある。
現在、ホータンには138ヵ所余りの仏教遺跡が確認されている。彼のいう20ヵ所は見学が可能な観光ポイント(いわゆる開放されている場所)のことだろう。
10世紀後半からイスラームがホータンで盛んになりはじめ、のちに中国から仏教伝道者が来て、膨大な経典を持ちかえった。
仏教文化に関するものはホータン地区にはたくさんある。特にホータンでは仏教文化が非常に盛んだったので、仏教の文化・芸術・ドラマ・踊りや習慣がたくさん残っていた。20幕もののドラマが記録されたものもあるが、今はなくなっている。仏教がなくなることによって、文化のすべてがなくなっていった。
政府に禁止されただけではなく、イスラームになってから禁止されたものが多い。漢人は現在でも仏教を信仰している。そのために日常生活の中にまだ仏教の影響が残っている。水に唾を吐かない、火を信仰する。月や太陽に向かって大小便をしない。頭や歯が痛くなったら、頭に大きな布をかぶせて、綿花、木の枝や草などに火をつけて頭や体のまわりに回す。それで病気が治ると信じているからである。
しかも、ゾロアスター教の影響も残っている。朝早くに起きて月に向かって拝むとか月や太陽に向かって大小便をしないというのは、太陽や月を大切にしていたからである。
ホータンのぶどう並木。
サカ族(スキタイ)が入ってきて、インド語とインド文字も一緒に入ってきた。サンスクリット文字である。だが現在、それを読める人はいない。今は使わないが、資料として発見されているものはある。ホータンでは5世紀頃までカロシュティー文字を使ったという。
ホータン語やホータン文字は残っている。昔のホータン語をしゃべれる人はいないが、文字を読める人はいる。新疆ウイグル自治区博物館の館長イスラフィル・ユスフ、研究員アブドゥケユム・ホジャ、北京では耿世民やアイトルスンなどの研究者がいる。
現在でもケリア河の周囲には、仏教の影響が非常に強く残っているが、仏教を信仰している人はいない。ヨートカン遺跡は仏教が衰えるまで都だったところである。ホータン人の中にはネストリウス派キリスト教(景教)を信仰したものもいた。
ホータン人は長い間仏教を信仰していたので、イスラームになっても、心の中で仏教を信仰していたかもしれない。100年くらい前にはホータンに漢人もたくさんいて、仏像を持っていた漢人もいた。
1930年、ホータンで戦争があった。当時の王朝は満州族の清朝だった。トゥンガン(東干)戦争ともいい、「満清反乱」ともいう。それはホータンにいる満州政府にたいする反乱だった。その頃、ホータンには漢人の寺院があり、寺院の中で修行をする漢人の仏教徒もいた。しかし、1930年以降、仏塔はほとんどが破壊された。ウイグル人が仏教遺跡を大切にしなくなってきたのは、仏教が宗教上の敵だったからである。
メリカワットには仏教の遺跡があったが、イスラームによって徹底的に破壊された。今でも、沙漠からホンのわずかだけ遺跡の末端が顔をのぞかせている。