シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
香港への人権抑圧強化に強く反対します。

戦前、日本が朝鮮半島や中国、アジア各国を侵略しようとした際、日本で反対運動が起きないようにとの目的で、「治安維持法」を定め「特高警察」を設置しました。

 

日本軍部の朝鮮や中国への侵略戦争に反対する人びとが「侵略戦争反対!」の声を挙げたのは当然のことでした。

しかし、時の政府と特高警察は多くの個人や団体に弾圧を加えて、数千人の人びとを拷問などによって虐殺し、さらに数多くの人びとを逮捕・拷問して「転向」を迫ったのでした。

 

このような1世紀近くも前の日本で起こった忌まわしい人権抑圧法と同質である「国家安全法」が、きのう、中国北京の国会に当たる全人代(全国人民代表大会)で採択されました。

 

1997年7月1日、イギリスが香港を植民地としていた状態から香港が中国に返還されました。当時、中国政府は香港とその後ポルトガルが返還したアモイ(厦門)を含めて「一国二制度」を採用して、中国国内とは扱いを区別していました。なぜならば、今、中国に入る外貨のほとんどが香港を経由して入ってくるからです。

 

当時から現在も中国各地の空港へ行くと、香港とアモイへ行くには国際線でないと行かれません。1966年に私が文革下の中国から日本へ帰る際には、広東の空港まで行って、そこで一泊してから翌日、汽車で香港へ入って一泊してから日本行きの飛行機に乗って帰って来たのです。

 

余談ですが、私たちが希望した日にちのBOAC便は中国政府の妨害で乗ることができずに、翌日に変更せざるを得ませんでした。しかし予定した日に乗るはずの飛行機は、離陸に失敗して香港の山に衝突し全員が死亡したということをあとになって知りました。北京では死を覚悟し、香港では危うく死ぬ寸前だったのですね、わたしは。

 

ともかく中国の全人代の決定は、日本の悪夢でもあった治安維持法に相当する稀代の悪法「国家安全法」によって暗黒の日々が続きそうです。新疆のウイグル人たちと同じような境遇に立ちいたってしまったのです。

 

どこの国でもそうだと思うですが、国家予算に占める軍事費の比率はどこでもトップを占めているのですが、中国に限っては一貫して「国家安全局」の予算がトップを占めているのです。

 

街のお母さんたちが、子供のいたずらが激しくて、親の言うことを聞かないと「そんなに親の言うことを聞かないと安全局に連れて行くからね!」というと、子供のヤンチャはぴたりと止まるほどだと聞いたことがあります。

 

いま、百万を超える多くのウイグル人が囚われていますが、その捕われている家庭に安全局の職員が勝手に入り込んで、寝食を共にしている例が多いそうです。もちろん、家賃も食費もその家庭もち。なかにはお父さんのいない家に男の職員が入りこんでお母さんをレイプすることも多いといわれています。なぜかというと、漢族とのハーフが生まれれば、その子も漢族として登録するからです。

 

私が数十回新疆にいた際も、ウイグル人の芸術関係の大学を訪問したことがありました。2005年に「日本シルクロード文化センター」創立の際に、ウイグル人によるムカームの演奏家たちや新疆芸術楽団の美しい少女たちの踊りを披露してくれたお礼に伺ったのですが、日本でお会いしたウイグルの指導者や大学の指導者たちと一緒に、安全局員だと名乗る女性も同席していました。彼女は私に、これから新疆各地を訪問されるそうですが、安全局から専門のガイドをつけましょうか?と“親切にも”言ってくれたのです。

 

ウイグル人のスパイも相当数います。俗に「ウイグル人の3人に1人は安全局のスパイだ」と言われているくらいです。スパイになる動機は「お前の毎月の給料と同額を出すから、お前のまわりに起こるおかしな動きを連絡しろ」というそうです。中国でも最も貧しい収入の少数民族にとっては、つい、手を出したくなる金額だといえます。

 

10年ほど前だったか、南新疆・ホータンの郊外で「特別警察」が“テロ活動の謀議を図っている連中がいる”との通報で襲撃して、10人近くの人びとを全員殺害したというニュースがありました。

これは、数日後に迫った結婚式の打ち合わせをしているところをのぞいたスパイが、“テロの陰謀だ“という情報を通告した結果だとみられています。

 

昨年の香港における大きな抗議活動は、香港の議会による議決に反対する行動だったのですが、今回以降は、全人代での決議ですから、これまでと規模の違う大弾圧が加えられることが予測されます。

これに抗するには、香港の市民以外にも、中国国内の運動や国際的な世論の後押しが不可欠となります。

コロナ禍とは質の違う事柄ですが、こちらは人智を徹すればできないことではありません。人が人を勝手に抑圧することは21世紀の今では通用しないことを知らしめましょう。

 

| シルクロードの光と影 | 10:56 | comments(0) | - |
無頓着でした

先日、「無罪放免」のブログを書いたところ、想像以上の方がたからの反響(主としてお祝いのメッセージ)が寄せられて驚きました。感謝の気持ちを感じたことと驚きも隠せませんでした。

 

わたし個人のことに引き寄せて言わせていただけば、古くからの友人・知人、無論、15年来の活動を進めてきた、シルクロード分野の長年のお付き合いある方がた、この20数年来のシルクロード・ツアーに参加されたことのある方がた、そしてスポーツ関連でのつき合いのある方がた、100人近くの仲間からドット寄せられました。うれしいことです。

 

一方で、あのブログとその反響から思うに、実に多くの方がたが「胆嚢炎」を患い、「大腸ポリープ」を取り除き、「大腸がん」をはじめとした各種のガンを患っている(いた)ということでした。

 

ある友人は10年ころ前、ガンを患い暗澹とした気持ちで「シルクロード講座」などに通ったということを書かれていました。そのころの私は彼が「がん」で暗い気持になっていたことを知りながらも、彼の気持ちや立場を本当に理解する力が弱く、表面的にとらえていた面がありました。

 

「語彙」の少ない私は、そのことをお詫びする適切な言葉も見つけられないままお礼の返信を送りました。そして、そのような各種の病気を抱えている方がたがなんと多くいるのだろうと改めて思いました。

また、街を歩いていて気がつくことは、脳梗塞など頭や心臓などの病気で体が不自由になっている方の多いことにも、最近目がいくようになってきています。自分が高齢化し、病気などにかかると、そういうことが良く見えるようになってきたのでしょう。

私の今回の一連の「病気」の原因は、長年にわたる偏食や多量(でもないと思っていたのですが・・・)のアルコール摂取(なんか医学用語のようになっていますね)などが原因だろうと思います。

 

直接的な原因は2月のアフリカ旅行だったと思います。長年にわたって体を鍛えておかなかった怠慢によって、ヴィクトリア滝で歩けなくなったこと、今でもよくわからないのですが、片目が、突然、パニックのようにグルグル回りだしたことなどが、3月以降の一覧の病気の“静かなるスタート”だったように思います。

ですから今年になって2月のアフリカ旅行とその後の3回の入・退院からはほとんどロクなものを読んでいません。

 

「人類史における世界の感染の歴史」のようなものに挑戦してみたいと友人たちに宣言していたのですが、多くの専門家たちが書いているということもあって、その気も失せました。

ところが5月11日の「無罪宣告」以降、その気になってきたのです。単純なんですね私は。“書きたい”という欲求が沸々とわいてきたのです。

 

何を始めたいのかは、機会があれば書きますが、いまはまだ発表する段階ではありません。

| コメント | 10:58 | comments(0) | - |
「無罪宣告」

1月下旬からだったか2月頃からだったか、新型コロナ禍が世界を覆い、政治活動・経済活動を含めて人びとの日常生活が一変しました。ある意味、逼塞状態が続いています。まさに人類史に記録される出来事が毎日続いています。

 

私は若いころから「自律神経失調症」だとか「うつ症状」が続いていたころがありましたので、3月5日からスタートした入院・治療生活という私の「自粛」はある意味では“快適”でした。

それが4月下旬まで続き、胆嚢炎から「下血」による大腸ポリープの削除、そしてその結果としての“大腸がんの懼れ”を医師から指摘されるという、わが人生最大の危機に直面することになろうとは思いもしませんでした。

 

しかし、私は過去、1960年代に北京に留学していたころ、内外の留学生の紅衛兵による攻撃で何度も死に直面し、死を覚悟したことが再三ありました。北京飯店の8階から手足を持たれて突き落とされようとしたのですから。天安門広場で4人の仲間で「たとえ彼らに殺されても、日本人の魂を失うことなく立派に死んでいこう」と決意までしたのですから。

 

 

それは、私や私たち少数の留学生が日本人であることを知りながら、その日本人としてのアイデンティティを根底から否定して“毛沢東思想で指導された日本革命をせよ” などという荒唐無稽な暴論を吐いての攻撃が半年間ほど連続したことがあったからです。その攻撃たるや、空手五段や柔道三段の、“きのうまでの同級生”が目を血走らせて攻撃してくるのです。私は暴力の恐怖の前に、“なぜ、きのうまでの友情がかくももろく崩れ去ってかつての仲間を襲うのか”という驚きと悲しみの感情のほうが先でした。

 

帰国後もさまざまな組織活動をリードする立場に就きましたが、そこでも無理解と誤解と悪意にもとづく誹謗や攻撃にも会いました。ですから、今回くらいのことではひるみもしませんでした。と言いたいところですが、「ガン」という業病によって死に直面するかもしれないという精神的な負担はかなりのものがありました。

4月24日に3度目の退院をしてからの毎日は、一見、何でもないようにふるまいながらも、実はそのプレッシャーに毎日さいなまれていたのです。

実際、いつも会議などで会っていた数十年来の親しい仲間の夫が、胃がんで余命三か月の診断がくだったというメールを見たのも今朝のことでした。

 

そしてきのうの11日は、ある覚悟を持って2人で病院へ行って大腸ポリープのガン化についての検査結果を聞きに行きました。まるで死刑判決か無罪放免を聞きに行くかのように感じていました。

結果は「根治しています」でした。

「しばらくはここに来なくても良いですよ。半年後の10月に念のための検査をして、そのあとは1年に1回の検査になります」ということで、無罪放免でした。

 

医師のその言葉を聞きながら、私は隣にいたワイフに抱きつきたくなる衝動を抑えていました。とんでもない大声で「よかった〜〜〜!!」と叫びたい気持ちにもなっていました。多くの友人や息子・娘、そして4年生になったわが孫娘たちに早くこの喜びを伝えたいと思いました。孫はきっと「わ〜い!おじいちゃんよかったね〜、バンザーイ」というだろうなと一人ニコニコ想像していました。

 

この日の診療費は70円。昼に近かったのですが、ワイフが「きょうのランチはとなりのイトーヨーカ堂でおいしいものを買ってお祝いしようよ」と言いました。反対のはずがありません。でも、レジが終わると「今日はあなたのお祝いだから5637円はあなたが出すのよ」と言われました。

ま、ともかく病院の帰りはきのうの天気のように晴れやかな気分になっていました。

 

ブログをお読みの皆様。個人的なことを書いて恐縮なのですが、ご了承のほどをお願いします。

休講が続いている「シルクロード講座」についても、再開の時期を見計らっています。

9月予定のウズベキスタンの旅も終息状況を図りつつ頭に描いています。

 

5月12日 野口信彦

| お知らせ | 10:51 | comments(0) | - |
“親孝行、したいときには親はなし!”

 

ずいぶんとご無沙汰しました。

 

この間の経過を申しますと、3月5日に朝からの腹痛に耐えられず近所の大学病院(慈恵医科大第三病院)に急患で行きました。

そこで「胆嚢炎」という診断でそのまま入院。

 

翌日、胆のう除去の内視鏡手術をしたのですが、心の準備がなかったことと激痛とで悲鳴を上げました。

胆のうに内視鏡で管を通して「嚢」を体外に排出することになったのです。

担当した医師に「お前がへたくそだからこんなに痛いんだろう!ヤブ医者め!」と怒鳴りながら。これまでの人生で経験したことのない激痛でした。

 

1週間後の13日、夜中にトイレに行った時に出た大きなくしゃみをした際に、(翌日に判明したのですが)管が外れてしまいました。昔から私のくしゃみの音は飛び切り大きかったのです。息子が中学生の時、二階のトイレで大きなくしゃみをしたのです。

二軒となりに息子の同級生がいたのですが、翌日「お前の父ちゃん、スッゲー大きなくしゃみするなア〜」と驚かれたとのことでした。

 

その後、下血で退院取消となり、下血も収まった25日にやっと退院。3週間の入院生活でした。大腸の中にある「憩室(けいしつ)」というところから出血をしているとのことで、出血している憩室を探し出すために、二度ほど下剤を1・5リットル、水を1リットルほど飲んで、大腸の壁にバリウムを吹き付けて出血個所を探し出す検査でした。二度の検査で発見したのですが、科学の発達はずいぶんのものだと思いました。私の父は1953年(昭和28年)に同じ胆嚢炎で死にました。

 

その後、4月1日に再入院して翌日の2日に内視鏡による大腸ポリープの除去手術。

そして5日に退院。

3月25日に退院した日、ワイフの車で狛江の有名な根川通りの満開の桜を見て家に帰りました。

 

さらに、4月20日には3回目の入院で翌日にやっと大腸ポリープの除去手術。

大きな5つのポリープがあったとの話。

これは22日に退院できたのですが、前日の21日には主治医に呼ばれて、思いもしなかったことを言われました。「取り除いた五つの大腸ポリープのうち2つの根が深いので、がんの疑いがある」との宣告。

「あったとしても早期がんなので心配はいらない」とはいわれたのですが、5月11日に「死刑判決」か「無罪放免」かの結果が出るということになりました。

慈恵第3病院の一番上、9階の左から2つ目が私のいた病室でした。

 

兄と私は“一卵性兄弟”と思えるほど仲がいいのですが、2歳上の兄も私と同様の病気を患い、10年以上をかけて手術などをして克服したとのこと。

私はそれを、2カ月で経験し、さらに兄は患っていなかった「大腸がん」に5月中下旬から挑むことになりそうです。

体調の弱まって抵抗力のない現在は、新型コロナにかからないように自宅に引きこもっています。94kgあった体重も今は84圈なかなか戻りません。

 

そんな25日の土曜日、息子夫婦がやって来ました(前日にリビングのテレビを買い替えるから付き合ってくれと言っておいたからですが・・・)。

息子夫婦とうちの奥さんが近くの世田谷通りにある山田電器までテレビを買いに行きました。

 

帰ってきた息子は、なんと49インチの15万円の大型テレビを2台買ってきました。

一つはもともと私たちが10万円程度で買うことにしていたリビングのテレビ。

もう一台は私の部屋にあった小さめのテレビを、49インチのテレビに買い替えるために、息子の奴が、私になんの承諾も得ないで、自分のおごりで勝手に買い替えたとのことです。

 

写真専門学校時代、遊び惚(ほう)けてバイクで交通事故を起こすなどの親不孝ばかりしていた息子を、50万円だけ渡してソ連や東欧諸国のヨーロッパへ写真の勉強のために「追放」したことがありました。ソ連崩壊の直前でした。

もうかなり以前のことですが、離婚の際には息子の元妻のおかげで自殺未遂まではかったのですが、翌日、朝いちばんの飛行機で福岡まで出かけて救出してきました。その後、息子をネパールの観覧飛行の会社の社長をしている友人に預けてきましたが、半年後に帰国後、空の世界に入って行ったのです。

 

その息子もテレビ東京の「空から日本を見てみよう」の単独航空撮影を担当するとか各種の航空写真、ドローンでの小笠原諸島・西島の航空撮影などで、多少、その世界では知られるようになったのですが、思いもかけない親孝行に私たち夫婦は大喜びでした。

 

この数十年、息子に「ありがとう」と言えるようなことをされたことがないのですが、今回は「思いもしなかったテレビをありがとう」と言うことができました。

翌日は、今まであった大きな楕円形のテーブルを思い切って捨てて、小さめの夫婦2人で食事ができる程度の新しいテーブルを持ってきてくれました。

でも、子どもというものは存在しているだけでも親孝行なんですね。

 

すっかり模様替えをしたリビングで、いまこの原稿を書いています。

年のいった父親の闘病生活を身近に見て“おやじが生きているうちに親孝行をしよう”とでも思ったのでしょう。

| コメント | 17:53 | comments(0) | - |
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