シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ー16  シルクロードの名詩2編と井上靖さんの解説

 

シルクロードを旅する人には、次の歌が最も好まれていることだろう。

王翰(おうい)の詩である。

 

   葡萄の美酒 夜光杯( やこうはい )

   飲まんと欲して琵琶馬上に催す( うなが )

   酔うて沙馬( さじょう ) に伏すも君笑う ( なか )

   古来 征戦 幾人か( かえ )

 

 以下は、敬愛する作家井上靖さんの上記の詩の評である(出典不明)。

 「夜光杯になみなみとつがれた葡萄酒。飲まんと欲すると、誰か馬上で琵琶をひきはじめた。よろしい。もっと飲もうではないか。たとえ、沙漠に酔い伏したとしても笑ってはいけない。戦いの中で還れなかった人のなんと多いことか。


 西域での戦いの苛酷さをうたって、悲愴の気がある。実際に多くの人が家人や友人知己を失っていたにちがいない。西域の沙漠での人の苛酷な命運をうたって名詩のほまれたかい王翰(おうい)の詩であるが、それは前二句の道具だてによって、いっそうきわ立っている。


 葡萄酒、夜光杯、琵琶、それらはいずれも西域伝来のものであり、異国情緒に満ちている。葡萄は中国語でputaoであるが、それは外来語の音訳であり、口にのぼせれば、それだけ異国的なのだ。それに馬も西域のそれが珍重されたのである。こうした道具だてを全詩の調子を乱すことなく、かえってそれによって主題を盛り上げている」。

 もうひとつ有名な王維の名句を。声を出してよむと実感がわく。

 

渭城朝雨( ちょうう )  軽塵 ( けいじん ) ( うるお )

客舎( きゃくしゃ )青々 柳色 ( りゅうしょく ) ( あら ) たなり

    君に勧む更に尽くせ一杯の酒

    西のかた陽関を出ずれば故人無からん

 

 『唐詩選』にもおさめられている、有名な「涼州詩」と題する七言絶句。

涼州とは広い意味で河西四郡のことで、敦煌地方は西涼(せいりょう)ともいわれ、「涼州詩」はこの地方の民謡に合わせて作ったといわれる。

| 河西回廊 | 09:53 | comments(0) | - |
河西回廊の旅ー15  河西回廊と若き霍去病将軍

※きのうからブログが動かなくなって、「先生」に教えを乞うて治りました。

 

 武威と張掖紹介

 

 武威と張掖は、いずれも河西回廊のオアシス都市で、漢代の河西四郡の東から1つ目と2つ目、唐の時代でいえば、それぞれ涼州と甘州に当たる。

中国製の地図による河西回廊。見にくいですね。

 

 これらのオアシスは、元来、南の祁連(きれん)山脈から流れ出て、北のバダイジャラン沙漠へと消えていく融雪河川沿いにできた水場で、はじめは月氏(げっし)などの交易民族によって、休憩所や物資の集積所として利用されたものであるが、のちに遊牧民族国家である匈奴=フン族=の手に落ちて、藩王である昆邪王(こんやおう)と休屠王(きゅうどおう)が、その配下の部族とともに家畜を放牧するための領地となっていた。

これも見にくいですね

 

 これを奪取したのが武帝治世の漢で、青年将軍霍去病(かくきょへい)は両王を打ち破り、河西回廊から匈奴を駆逐した。その後この地には、匈奴の逆襲を防ぎ、また西域との交通を保護するために、まず軍の駐屯所がおかれ、それらは警備哨としての烽火台、連絡ルートの役を果たす長城、そして急襲救援用の騎兵隊を収容する砦というシステムによって緊密に結びつけられ、食糧を供給するための屯田兵と水利兵も送られた。

 

 霍去病

 [生]建元1(前140)?〜[没]元狩6(前117)

若き将軍は、戦で食料が足りなくなって兵たちが飢え死に寸前の状態でも、うまいものを食べて、けまり(蹴鞠)を楽しんでいたという。今と違って貴族と兵士では、まったく待遇が違っていたのだと思います。良い悪いは別にしてですが・・・
 

 中国,前漢の武帝時代の武将。衛皇后および衛青の姉の子。衛青の匈奴遠征に従って功を立て,冠軍侯に封じられた。次いで票騎 (ひょうき)将軍として匈奴を討ち,匈奴諸王や王子を殺し捕虜としたので,渾邪 (こんや) 王は一族を率いて漢にくだった。元狩4 (前 119) 年には大将軍衛青とともに匈奴の根拠地を討ち斬首7万に及んで,その権勢は衛青をしのいだが,まもなく病死した。武帝はその功を表して墓を茂陵(西安北西方) に造らせた。墓と匈奴を踏まえた石馬が現存する。ウィキペディアから。

霍去病の記念の碑

 

 こうして確保された河西回廊には、それからは流刑地として、さらには困窮農民の移住開拓地として、しだいに漢民族が入り込み、そうした民衆を統括するために内地と同様の行政制度が施行され、紀元前1世紀の前半までには、武威・張掖・酒仙・敦煌という河西4郡が、相次いで設置されていったのである。それ以後の河西回廊は、いくたびかの支配民族の交代と言う事態はあったものの、灌漑農耕・畜産業オアシスという基本的性格は変わることなく、現代にまで至っている。

これはインターネットから引用した張掖の写真

 

| 河西回廊 | 17:06 | comments(0) | - |
河西回廊の旅ー14  麦積山石窟

 麦積山石窟は中国、甘粛省天水県の南東にある麦積山に残る石窟寺院である。

 

 194の石窟や磨崖仏が現存。造営は宋代に及び、各時代の塑像・壁画・磨崖仏など多数を残しているす。

 まるで収穫した麦わらを積んだような外観から、古くから麦積山崖の名で呼ばれ、切り立った断崖には合計209の石窟が穿(うが)たれている。

首が痛くなるほど見上げなければならない。   

 

 5世紀初頭にすでに禅の修行場として有名であり、清時代まで絶えることなく開窟、修理がおこなわれ、塑像が7800体、壁画1000平方メートルが今なお保存されている。
 

 1993年に中国重点文物保存単位に認定され、現在世界遺産申請に向け準備を進めている。

 また周囲は仙人崖、石門、曲渓とともに「麦積山風景名勝区」として国家風景名勝区に指定されている。

仏像の上に、さらに階段があり回廊がある

 

 とにかく、広い。暑いせいもあったが歩くのに体力がいる。またさらに、幾重にも登っていく先に回廊がある。そして、そこかしこの仏像などがある。まぁ〜、写真をご覧ください。

このような回廊が長く続く

この仁王像は圧巻だった

よくもまぁ〜、こんなところに・・・・

 

写真上段の孔は、杭などを差し挟んで板を敷いて回廊にしたもの。

遥か下を観光客が歩いています

 

| 河西回廊 | 08:33 | comments(0) | - |
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