シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
カザフの大統領が突然やめた

 3月19日の外電で、中央アジア・カザフスタンのナザルバエフ大統領が辞任するというニュースが入った。AFP・時事の外電から拾ってみよう。

指導力維持し、権力移行目指す=突如辞任のカザフ大統領

 

 【モスクワ時事】中央アジアのカザフスタンで30年近くにわたり実権を握ってきたナザルバエフ大統領(78)が19日、突如辞任を表明した。ナザルバエフ氏は辞任後も安全保障会議議長と与党党首の職にとどまることから、指導力を維持しながら、来春の大統領選に向けて後継者の選定と権力移行を目指すとみられる。


 ナザルバエフ氏はソ連カザフ共和国で1980年代に頭角を現し、共和国最高会議の投票で90年に大統領に選出された。ソ連時代末期に当時のゴルバチョフ大統領がナザルバエフ氏を副大統領に指名しようと考えていたと伝えられるほどの実力者で、91年に初の直接選挙で当選して以降、これまでに5選された。

カザフスタン共和国初代大統領・ナザルバエフ
任期 1991年12月1日〜2019年3月20日


 ナザルバエフ氏の指導力と石油などの豊富な天然資源でカザフは中央アジア諸国の中でも高い経済成長を遂げた。一方で長年権力を握る同氏が年齢を重ねるにつれ、後継問題が大きな課題として浮上。任期は2020年4月までだったが、自身の年齢もにらみ今回の決断に踏み切ったもようだ。同氏は辞任表明した19日のテレビ演説で「私の今後の課題は新たな世代の指導者の出現を確実なものにすることだ」と強調した。


 後継候補としてはナザルバエフ氏が16年に上院議員に任命した長女ダリガ氏の名前が挙がる。ただ、ナザルバエフ氏の親族に富と権力が集中していることには批判があり、同氏もかつて米メディアのインタビューで「子供たちへの(大統領職の)継承は想定していない」と述べている。国の要職や与党党首を務めながら、後継候補を絞り込んでいくとみられる。
 ナザルバエフ氏辞任を受け、20日にトカエフ上院議長が大統領代行に就任。上院はダリガ氏を後任の上院議長に選出した。

 これには、後日談がありました。

 22日の朝日では、大統領代行に指名されたトカエフ氏は、カザフスタンの首都名称を、退任したナザルバエフ氏の長年の功績をたたえるために、アスタナからファーストネームの「ヌルスルタン」に変更するように提案しました。

 

 こういった提案は、ほとんどがそのまま採用されるのが、半分、独裁国の通例となっています。

 しかし、異変が起こりました。23日の朝日外電では、この首都名を変更する法案が国会で可決された問題で、これに反対する市民ら約80人が当局に拘束されたと伝えています。

 

 私は1989年に、二度にわたりカザフスタンの当時の首都アルマータ(現在はカザフ語のアルマトゥ)に行き、私の所属する山岳連盟の2つの登山隊の遠征と200名からなるトレッキング隊の派遣についてミーティングをしたことがあります。

近代的なアルマトイの街並み(ネット写真借用)

20世紀初頭に建立されたロシア正教会に属するゼンコフ教会。

木造の建築物として世界で2番目の高さを誇る

私もよく散歩しました(2009年5月撮影)

 

 1998年に首都を現在にアスタナに移しましたが、理由は、まだ若い天山山脈の造山運動による地震に備えて首都を移したことになっています。

 

 しかし、当時の国政世論では首都移管によってナザルバエフ自身の功績とする目的もあったといいます。

 

 彼、ナザルバエフは、ソ連が崩壊する直前にゴルバチョフ大統領から副大統領に任命されるという段階にまで出世していたソ連共産党中央委員会の有能な幹部でした。当然彼は、カザフスタンの党書記長としてモスクワ入りしていたわけです。

 

 ソ連崩壊後、彼はカザフにおいて「民主化」をすすめて、見事に新生カザフスタンの大統領に横滑りしたのです。それ以来ずっと30年にわたって現職でしたから、独裁色が強まるのもうなずけます。それを許してきたカザフの市民の民主主義にも問題があります。

貯金もだいぶできたので、娘は親しいものにその地位をゆずって安穏な生活に浸ろうというわけです。

 独裁者はほとんどの場合、自分の名前を印象付けようとします。

 

 わが国でも、新元号に首相である自分の苗字の一つを加えようとしているという「噂」もあります。

 

ここからの写真も、野口が2009年5月に撮影したアルマトゥのものです。地図は除きます

市内の小学生たち

赤印がセミパラチンスクの核実験場

セミパラチンスクの核実験で生まれた「奇形児」

木造の「民族楽器博物館」

私が初めて行った1989年のときは、この「オトラルホテル」が最高級のホテルでした。

私たちの案内をしてくれた旅行社の幹部は、当時、ここから出てきた共産党幹部の

乗る乗用車を足で蹴っていました。

みんなソ連共産党が憎しみの対象でしたので、大嫌いでした。

市内の中央バザールの風景

アルマトゥ空港から見える天山山脈の支脈のアラタウ山脈

これは1989年に撮影した、当時の空港ターミナル

| news | 10:51 | comments(0) | - |
森安通信 読者各位               190315

 

今日は少し長文ですが、森安通信をコピーしてお送りします。

なお、必要でない個所については割愛させていただきました。

森安先生、怒らないでください。

赤字の部分は私が色をつけました。

 

 以下は学問的な話です。21世紀になって私は「日本におけるシルクロード上のソグド人研究の回顧と近年の動向(増補版)」(森安孝夫編『ソグドからウイグルへ ──シルクロード東部の民族と文化の交流──』汲古書院, 2011, pp. 3–46)という学界動向を発表し,その中で「日本の学界にとってショッキングな出来事は,2002年にドラヴェシエールÉtienne De la Vaissière『ソグド商人史』Histoire des marchands sogdiensがパリで出版され,しかもその執筆者がフランスの若手研究者だったことである.本来なら,このような単行本はソグド研究の長い伝統と分厚い蓄積がある日本で真っ先に出版されてしかるべきであるのに,完全に先を越されてしまった」と書きました。その本が,ついに日本語で読めるようになりました:

 

影山悦子(訳)『ソグド商人の歴史』岩波書店,2019年2月。

吉田豊教授の神戸市外大時代の教え子である影山さんの御苦労には心より感謝します。ただし価格が18,500円と高額で,内容もプロ向けですので,大学の図書館や歴史研究室では是非とも備えていただきたいものですが,高校教員にはお薦めできません。

 

 今年2月17日に,奈良の大和文華館で開催された遼代の墳墓出土品と平安文化をつなぐようなシンポジウムがあり,これまで飛鳥・奈良時代に中国から渡来してきた緯錦(よこにしき)の技術が,日本国内で独自に進化して倭錦と呼ばれるものになったと考えられてきたが(これもいわゆる国風文化),実は新発見の10〜11世紀の遼代墳墓から出土した染織品の中に同じ技術のものが多数存在することが判明したそうです。

 

一方,アメリカでは藤原氏の建立した宇治平等院の建築や壁画が,チベット仏教(敦煌仏教)や遼仏教の強い影響を受けているという博士論文が出されているそうです。

そうなると,従来は無視されがちであった遼帝国(契丹)と平安日本とを結ぶルートのあった事が予想されます。その場合,当然ながら,対馬・壱岐が浮かび上がってきます。近年は遼・高麗・日本を結ぶ仏教文化の交流が注目されていますが,上川通夫・愛知県立大教授によれば,「遼・宋・高麗の混成商人団」が媒介した可能性もあるそうです。誰でも知っている13世紀モンゴル時代の「元寇」に比べ,1019年の「刀伊(とい)の入寇」という事件の背景は分かりにくいのですが,「遼・宋・高麗の混成商人団」を裏返して考えてみれば,何かが見えてくるのかも知れません。

 

 最後に,前回の森安通信(2019年2月3日配信分)で紹介した帝京大学主催のシンポジウム「シルクロードを掘る──いま蘇る,いにしえの道」に残念ながら参加されなかった方には朗報となるお知らせをします。

妹尾達彦・中央大学教授が主宰される公開シンポジウム「ユーラシア考古学を楽しむ」の案内が届いたのですが,その趣旨は,「近年におけるユーラシア大陸の考古学の進展には,目を見張るものがあります。遺跡の発掘が続き,新たな事実が次々と明らかになってきています。本シンポジウムの目的は,ユーラシア大陸の各地域で発掘にあたってきた各分野を牽引する研究者に集っていただき,ユーラシア考古学の現在に迫ること」だそうです。

 

日時:3月30日(土) 12:30〜18:30

会場:中央大学多摩キャンパス 2号館 4階 人文科学研究所会議室 1

 〒192-0393 東京都八王子市東中野742-1 多摩モノレール「中央大学・明星大学駅」下車徒歩5分

参加費無料

 

プログラム

 12:30-12:40  妹尾達彦(中央大学人文研研究員) 「趣旨説明」

 12:40-13:40  林 俊雄(創価大学教授)「ユーラシア考古学を楽しむ」

 13:40-14:40  山内和也(帝京大学教授) 「スイヤブと砕葉鎮城」

 14:50-15:50  岩本篤志(立正大学准教授)「バクトリア北部の仏教遺跡と玄奘 −立正大学の発掘調査から−」

 15:50-16:50  清水信行(青山学院大学名誉教授) 

         「沿海州渤海古城 クラスキノ城跡の調査成果と課題」

 

 [討論]

 17:00-17:20  松村公仁(アナトリア考古学研究所研究員) 「アナトリア考古学から」

 17:20-17:40  佐川英治(東京大学教授) 「東洋史学から」

 17:40-18:00  小林謙一(中央大学教授) 「日本考古学から」

 18:00-18:30  総合討論

 

 私はこれに参加することを決め,終了後の懇親会にも出ますので,もし会場でお会いできれば幸いです。遠慮なくお声をかけて下さい。

                 不具    2019年3月15日      森安孝夫

 

3月30日には私も参加する予定です。

会場でどなたかとお会いできれば幸いです。(野口)

| シルクロード | 09:50 | comments(0) | - |
3月10日、11日というこの頃

 

74年前、1945年の3月10日は、米軍のB29の無差別爆撃により、深川を中心とした東京東部の下町一帯が焦土と化し、10万人以上の方がたが亡くなった日です。

 

 

生まれて2年が過ぎていた私は、母親と2つ年上の兄、それに数人の家の子郎党(古い言い方ですが、まったくこの通りでした)とともに東北へ疎開していたので生きながらえました。

父親と15歳になっていた姉は深川に残っていましたが九死に一生を得ました。それからの私と家族の20年近くの生活は貧困のどん底の生活でした。

 

8年前の2011年3月11日は、東日本大震災の地震と津波によって行方不明を含む2万人以上の方がたが亡くなりました。今でも多くの方がたが、家に帰れないでいます。

 

福島第一原発は大きく破壊され、今も放射能を完全にはコントロールできておらず、自宅に帰れなかったり、帰っても元の生活には戻れない方がたもいます。

 

私と妻とその友人は、この年の4月、被災地を訪れるとともに、秋田県の渤海国使節の迎賓館の遺跡を訪ねる旅をしました。

ある程度道端に寄せたがれきの道を黙々と歩く老夫婦がいました。話しかけましたが、ただ、首を振るだけでひと言も答えませんでした。

この写真は私のPCの画面の背景写真に据えています。

震災直後の11年3月頃に発行された週刊朝日の震災特集号にあった写真です。

両親を津波で奪われ、がれきの前で涙を流しながらトランペットを吹く

女子高生ということでした。

 

 

この3月10日前後と言う時期は、世界の各地でいろいろなことが起こっています。

 

今日の朝日を見ていて、ハッと思いおこしました。

そうです。3月10日はチベット動乱と言われる日です。

でも、私はこの「動乱」という言葉は好きではありません。これは「チベット人による民族蜂起の記念日」なのです。

 

中国=正確に言うならば、清、明、元などの王朝は「チベットを支配していた」と歴史を偽っています。これは支配ではなく単なる「駐藏大臣がラサにいた」ということを「支配していた」といっているだけでした。要するに大使を配置していたというだけのことです

 

チベットには正規の政府があり、軍隊があり、切手もあったのです。

1949年10月1日に毛沢東の中国共産党が全中国の権力を握ってすぐの1951年、中国人民解放軍と言う侵略軍がラサに進駐しました。

この時は、平地から3500m、5000Mの高地への進軍で数千人が高山病で死んだということです。

 

その後、チベット各地で侵略者への反乱が続きました。

その頂点に立った反乱が1959年3月10日の蜂起でした。

この日、駐留軍の司令官たちがダライラマを観劇に招待していました。このことを知った僧侶や市民たちは「これはダライラマ猊下が中国軍にどこかへ連れていかれる策謀だ」と思い、決起したのです。

 

ダライラマの冬宮であるノルブリンカ宮殿前は、国民党との戦争で勝利し、鍛え抜かれ、最新式の武器を持った軍がありました。

撃たれて死んだ僧侶や市民たちが5000人ほどいたといいます。市民たちの武器は一発ずつ弾を込める旧式銃だけでした。

2007年のノルブリンカ宮殿。

2007年の旅の友の一行。関西方面の弁護士さんたちと。

これはノルブリンカ宮殿の中にあったダライラマの寝室

同じくダライラマの椅子

ステレオなどがあるダライラマの居室

 

ダライラマはこの時に亡命行をはじめて、最終的にインドのダラムサラへの亡命を果たしたのです。

この十数年は国境を越えて亡命しようとするチベット人にたいして、軍の優秀な狙撃兵が狙い撃ちするのでほとんどの亡命者が殺害されるので激減しているといいます。

 

私が最初にチベットへ行ったのは23年前の1996年のカイラスへの旅でした。

その後、2007年に行った時にはガイドがこう言いました。

「ポタラ宮には五千人の僧侶がいましたが、今ではチベット人僧侶は12人だけです。そのほかの僧侶はみんな僧侶の姿をした若い中国人の兵士たちです。ポタラ宮内部の金の仏像などはすべて奪い取られました。いまあるものはすべて金メッキなどの偽物です」と。

2007年当時のポタラ宮。部屋数は5000くらいあるといわれているが、

誰も正確な数は知らない

 

わたしたちは3・11が来ると震災を思い出すのでなく、いつも東北を思って復興の努力をすることが必要でしょう。それは特別に行政とその長に責務があるはずです。政府と安倍首相のことです。

 

チベットに関しても、今この瞬間でも多くのチベット人が抑圧され、殺されていること、隣のウイグルの地でも百万を超えるウイグル人が強制収容所で塗炭の苦しみを味わっていることに思いを馳せることが大切なのではないでしょうか。

そして日本においても、あの戦争の惨禍を二度と再び味うことがないようにすること、そして2千万人をも殺害したアジア各国への侵略戦争に二度と手を出さないことが大切だと言えます。

この遊牧民の女性が綱を持っている犬は、オオカミとも戦うといわれるチベット犬。

今では上海や北京の金持ちがみんな買って連れて行ってしまったといいます。

 

下の写真は人々の幸せと輪廻転生を祈ってはためくタルチョ

| 東日本大震災関連 | 11:26 | comments(0) | - |
シルクロードの断捨離をしました

 

 一連のシルクロード講演会が一段落しました。

 

部屋の中は見るも無残、目も当てられない惨状です。

私の机の上は、もう表現できないほどです。

おとといの夜、ワイフから「講演が一段落したら、私が手伝うからあなたの部屋の整理をしよう」と提案されました。

今はやりの「断捨離」です。

 

いつもベッドに入ると部屋の反対側にある本棚を見て、「あそこの本をあっちに移して・・・」などと妄想を飛ばします。妄想というのは、そのようなことは自分では絶対にできないと確信しているからです。

 

きのうの5日、朝食後、ワイフが雑巾をもって私の部屋に入ってきました。

「あれをこちらに移して・・・」と言いながら、オタオタしている私をしり目にさっさと片づけはじめます。「山の神」ではなく「部屋の神!」です。

 

朝9時からはじめて、夜の7時でやっとメドがつきました。

ほとんどすべての書類関係を移動しました。

古新聞を入れるビニールの袋が4つになりました。

部屋の中をシルクロード関連の書籍とA×4の紙が飛び交いました。

 

ここで考えました。“こんなに紙に書いたものが多いということは、自分はまだコンピューターではなく、紙でものを考えて、紙で処理しているのだな”と自己分析ができてきました。

ですからきょうも紙の処分をすすめていますが、そうかといってパソコンで何もかも操作できるほどの技量は持ち合わせていません。

スマホでも使えるのは電話の受け答え、メールとフエースブックを見る、返事は書かない、ネットでニュースを見る程度です。

多くの時間は自宅にいるのですからスマホを手放そうかなとも思いますが、電話は手放せないので、困ったことです。

 

でもまぁ〜、部屋の中と机のまわりが整理されたのですから、これからは「大航海時代」と「一帯一路」の研究に進もうかなという思いもあります。

そうそう、整理をしていたら探していた台湾のある重要なテーマを書いた資料が出てきました。

高度計やらなにやら機能がたくさんついている時計を一昨年に買ったのですが、それも同様にトリセツがなくなっていたのですが、それも出てきました。

渤海関係の資料もあれもこれも出てきました。

これからが楽しみです。

| コメント | 09:39 | comments(0) | - |
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