シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
番外 キューバの旅が終わって

長い間待ち望んでいたキューバの旅が終わった。

必ずしも「満足した」とは言い切れないが、ともかく終わった。

 

“言い切れないもの”は何かと考えた。旅行社の気遣いの不十分さは大した要素ではない。ではその要因は何か。キューバの社会主義の未成熟さなのか、あるいは・・・ それ以外のことは思い浮かばない。

外国にまで軍隊を送り込む国、国家の幹部がボリビアの革命に参加するという姿、日本に生まれ育った私たちからは想像だにできなかったが、その論理はここでは“普通”なのだろうか、それとも・・・・

今回は“・・・”これが多い。それが実際である。

 

アメリカの経済封鎖で革命勝利後もずっと貧しいままであったこの国の人びとは、底抜けに明るかった。だが、「底」は抜けてはいない。貧しいが故の歪(ひずみ)がそこここにあるような気がした。

 さらにまた、ほとんど地球の裏側にあるこの国と日本とは1万キロ以上も離れている。これからも情報の希薄は変わらないだろう。

 だが、この国はあのアメリカの武力脅迫に一歩も引かずに戦う決意を持っていた国でもある。

 私はこんなキューバと人とカリブの海が好きなのだ、きっと。

 

閑話休題

 

 話は変わるが、わたしは今日で75歳になった。最近は体の衰えを感じ、思考の衰えも感じる。だが、このまま朽ちていく気はない。世間では「後期高齢者」というが、私はそんな風には思いたくない。「好機到来者」だと思うようにしている。

 

3〜4日前に新車を購入した。“死ぬ前の最後の車は中古でなく新車を。それもレクサスあたりを”と思っていたが、レクサスほどでなくとも三菱のいい感じの車だ。なぜ、三菱かって?うちのカミさんが三菱の中古を買っているが、そのメンテナンスでいつも午前中に担当者から電話がくる。彼女は午前中は舞踊家としての身体つくり、踊りの構想を練る時間帯。いつも私が電話に出る。いつしか営業マンとは連帯感が芽生えた。それだけの理由である。三菱を選んだのは。そういうカミさんも4月中旬に舞踊公演を打つ。それが終わったら新車を買うといっている。まだまだ私たちは若い!

                    2018年2月26日  野口信彦

クラシックカーのほうが恰好いいですネ

 

| 旅日記 | 10:07 | comments(0) | - |
−旅の終わりにゲバラ語録を―     2018年2月24日 野口信彦

チェ・ゲバラ

 

  • バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なるによって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家など想像できない。(国連総会出席のためにニューヨーク滞在中、インタビューでの質問“革命家にとって重要なことは?”に応えて)
  • 私のことを冒険家というのなら、たしかにそうだ。しかし、私は違うタイプの冒険家だ。自分の真理を証明するためなら、命も賭ける冒険家だ。
  • 祖国か、死か!(これは7月26日運動スローガン、また合言葉でもある)
  • 我々にとって社会主義の確かな定義は、“人間の人間による搾取の撤廃”以外にない。
  • 一人の人間の命は、地球上で一番豊かな人間の全財産の百万倍の価値がある。隣人の為に尽くす誇りは、高所得を得るより遥かに大切だ。蓄財できる全ての黄金よりも遥かに決定的でいつまでも続くのは、人民たちの感謝の念だ。
  • 人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。
  • 指導者とは、人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。ただ言葉で強いるのでなく、後ろにいる人たちを力づけて、自分のレベルまで引き上げようとするのだ。
  • 国民に意思を伝えるためには、国民の一人となって感じなければならない。国民の欲するもの、要求するもの、感じるものを知らなければならない。
  • 酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全うできないのなら、僕は革命家を辞める。
  • 僕を導くものは、真実への情熱だけだ。あらゆる問題について、僕はこの点から考える。
  • 世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。(5人の子供たちに遺した手紙の一部 キューバを去ってボリビアに向かうに当たり自分の死を予感して)
  • 今世界の他の国が、僕のささやかな力添えを望んでいる。君はキューバの責任者だからできないが、僕にはそれができる。別れの時が来てしまったのだ。喜びと悲しみの入り混じった気持ちで、こんなことをするのだ、と察して欲しい。僕はこの地に、建設者としての希望の最も純粋なもの、そして僕が最も愛している人々を残して行く……また僕を息子のように受け入れた国民からも去って行く、それは僕をとっても悲しい気持ちにするのだが。僕は、新しい戦場に、君が教えてくれた信念、我が国民の革命精神、最も神聖な義務を遂行するという気持ちを携えて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。(フィデル・カストロに宛てた別れの手紙の一部)
  • もし私たちが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。
  • 私はキリストではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架に磔(はりつけ)になるよりは、敵を打ち負かそうと思うんだ。
  • どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!
  • 「きみは、そこで何をしているんだね? 民主主義を再建しにきたのか」アメリカのキューバ侵攻軍の捕虜の中に黒人を発見して。
  •                               (ウィキペディアからお借りしている)

 

| 旅日記 | 01:30 | comments(0) | - |
−カストロとゲバラを評す―

 あまりよくわからないまま感じたことを書く。

 ソ連が社会主義の理想から遠くかけ離れていき、自壊していったあと、世界的に社会主義・共産主義のイメージダウンが広がった。中国は必死になって「中国こそ社会主義だ」と言っているが、私は個人的には、中国も社会主義のイメージから遠くかけ離れたと思っている。

 

 では、私の言う「社会主義のイメージ」とはなにか。それは“強制のない自由”“権力が人びとを殺さないで尊重し、その人権を守るために存在する”“あらゆることが自由であること”そして“搾取のない社会の形成”であろう。まだまだあるだろうが、今のところはこれくらいにしておこう。

アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の

犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)と

ゲバラ(右から2人目、背広の人物の向かって右側)

 

 カストロのこと

 さて、キューバだが、その社会主義のイメージはなにか? 正直に言ってよくわからない。わからないことの最大のことは、革命勝利の時期にはフィデル・カストロは社会主義者あるいは共産主義者ではなかったこと。59年ころフィデルはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語っていたこと。フィデルが明確にソビエト連邦を中心とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年月のビッグス事件の後である。

フィデル・カストロ

 

 

  しかし革命戦争の最初の攻撃が、日中(昼間)の上陸であったためにキューバ空軍によって攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、フィデルの弟のラウル・カストロ、またカミロ・シエンフエゴスなどが含まれていた。そしてその後、フィデルたちの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。

 

 1958年12月29日には、この第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。そこで、政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を支援する多数の市民の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。

 

 1959年1月1日午前2時10分、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1月8日、カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。チェ・ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任するに至った。

 

ゲバラのこと

 1959年にバティスタが国外逃亡してキューバ革命が勝利し、カストロ政権が成立した。ゲバラはなぜかキューバの国立銀行総裁に就任。イルダ・ガデアと正式に離婚し、志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。アジア・アフリカの親善大使としても来日、12日間滞在した。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語ったという。

チェ・ゲバラ

 

 ここで日本人としてよく理解できない方もおられると思うが、アルゼンチン国籍の人間が、なぜキューバ革命に参加したのか。しかし、革命勝利後の人事では、なぜ国立銀行総裁やアジア・アフリカの親善大使などになっていたのか。

 

 ゲバラは、これらのことについて次のような話したことがある。

 「国民の英雄たるもの、国民から遠く離れていてはいけない。高い台座に上って、国民の生活と無縁なところに収まるべきでない」。

 

革命成就

 

 ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権・独裁政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされた。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。0日本でも、とくに大学内外で暴力行為を繰り返していた学生たちがゲバラをもてはやしていた。私たちは彼らを「トロツキスト暴力学生」と呼んで批判していた。

 

 思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリバール、ホセ・デ・サン・マルティン、ホセ・アルティーガス、ホセ・マルティ、アウグストサンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバトーレ・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。また、ボリビアの山中で活動していた際にはトロツキーの全集を読んでいたという。

フィデルの弟ラウル・カストロ

 

 私が40年前にキューバを訪問したとき、ゲバラはキューバの義勇軍を率いてアフリカのコンゴに行っていた。私は通訳の学生に「なぜ、キューバがアフリカまで軍隊を出すのか」を聞いた。彼の答えは明確だった。「なぜって、コンゴはキューバの人びとの祖国だからさ」。

 

※今日の原稿は富士国際旅行社発行のパンフレットウィキペディアなどを、写真はインターネットから借用した。

| 旅日記 | 12:04 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―文豪ヘミングウエイを訪ねて―

 アメリカ人作家アーネスト・ヘミングウエイは1899年にシカゴで生まれて1961年に62歳で亡くなった。死去直前までの22年間はキューバで暮らした。

拠点としたのはハバナ郊外のサンフランシスコ・デ・パウラという丘の上の家。プールもある豪邸は「フィンカ・ビヒア(眺望楼)」と呼ばれていた。

ヘミングウエイの邸宅の一部

「老人と海」の舞台となったヨット「ビラール号」

ヘミングウエイの寝室のベッド。彼は身長が180センチ以上あったというから

このベッドでは小さかったかもしれない

 

 

 後半の1940年代には「使用人9人、猫52匹、犬16匹、鳩300羽、牛3頭、そして妻1人」と自称していた。妻が最後に登場するなんて失礼だろうが、このころの男こんな認識だったのだろう。いや「妻1人」という表現は彼なりのジョークだったのであろう。

眺望楼の庭

ヘミングウエイの胸像

陽気なスタッフ

いい顔してる!

 

彼は世界の各地を旅しながらここで執筆活動を続け、「誰がために鐘はなる」「海流のなかの島々」といった作品を発表していた。

 朝日が昇るころから7〜8時間を執筆にあて、昼から夜中までは自由な時間とし、定宿のホテル、アンボス・ムンドスのある旧市街でラム酒を2倍にしたフロ―ズン・ダイキリなどを飲んだという。わたしたちはそこへも行き、ダイキリを飲んだ。観光客そのまんまである。

ヘミングウエイが良く通ったバー&レストランでダイキリを

「ダイキリ」でいいのかどうか?違っているかもしれない

キューバのコーヒーは世界的にもおいしい。

お土産に持って帰ったら大好評だった。

その代わり「葉巻」はそうでもなかった。

なぜなら、いまは煙草を吸う人が少ないからである。

 

 この生活パターンは私と同じである。夜は外出がない限り、晩酌を飲んでから9時にはベッドに入る。目が覚めるのは朝2時か3時ころ。ブログやメールチェックなどはこの時間に書く(きょうは朝食後に書いているが)。

 そして外出がない限りは昼食も睡眠薬代わりにアルコールを口に入れ、午後目覚める。快適である。大相撲中継の時期は目覚めるとテレビの前に座るので、わたしの執筆タイムは昼までである。自称、「午前中だけ生きている男」。

 

 「老人と海」はキューバ第二の都市サンティアゴ・デ・キューバで書かれた。そのホテルも博物館ではなく、今でもそのままホテルだが、ヘミングウエイの部屋はそのまま保存されていた。 

 私は「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」などの映画は見た。だが小説は読んでいない。理由は、ほかに読むものがたくさんあったからである。

 

 

 ヘミングウエイはここキューバで多くの作品を書いた。ノーベル賞を受賞したその才能は世界屈指であったろう。しかし私は違う考えを持っている。

彼はあくまでも支配者アメリカの庇護の上に莫大な原稿料を得て裕福な生活を謳歌していたのである。私とは正反対である。スペインの人民戦線での戦いを描いた「誰がために鐘は鳴る」は映画を見る限りでは、ファシストに抵抗したスペイン人民を支援する世界各国の義勇軍兵士を描いた傑作といえようが、彼の作品の下地はどこにあったのだろう。小説を読んでいない私にはこれくらいしか言えない。

 今もあるアメリカ大使館。さて、アメリカというか

トランプはこれからどういう態度に出るか

| 旅日記 | 11:03 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―ハバナの老人クラブで―

 そろそろ旅も終わりに近づいた半日、カリブ海の海岸にある老人クラブに行った。

カリブの海は美しかった!

 

 富士国際での“うたい文句”は「キューバの老革命家との交流」とあったが、とんでもない、地域の老人会である。しかし、交流は心温まるものであった。

 

 まず初めに68歳とか言っていた女性が代表者でご挨拶。

以前の日本人旅行者がおいて行ったもののようだ

キューバ側の代表

 

 そして健康体操などの紹介、数少ない男性陣からは歌があった。あれこれの紹介と交流のあと、日本側からも一応「代表者」があいさつ。代表も富士国際が「決めていて」くれた。そうではなく参加者同士で自主的に決めさせればいいのにと、その拙劣なやり方に失笑した。このころにはもうすでに参加者同士の交流も進んでいるので「仲間」になっているからである。

「健康体操」を披露してくれた

 

左は「ガイド見習い中」のヨルダン君

 

 交流が終わりに近づいたころ、日本側からの出し物が必要になっていた。このようなときほとんどの場合が「ふるさと」か、あるいは「さくらさくら」を歌うくらいで終わる、それも歌詞の「一番を二回」くらいで・・・・・

このようなとき、最年長の女性だかの提唱で「炭坑節」を歌いながら輪になって踊るというものであった。とくに最後の“さのよいよい!”の掛け声のところは大きな声で歌いながら踊るので、私の見た目では大好評であった。

炭坑節です

若い女性も楽しんでいました

おばさまたちも楽しんでいました

 

 このようなとき、どういうことか私は一緒に輪の中に入って楽しめない悪いクセがあった。終始、勝手にカメラマンとして動いていた。

 

誰かが「カストロとの思い出を一言」と要望したが異口同音に“イヤよ”とばかりに断られた。終わってからガイドのマリアさんに、なぜ断られたのかを聞いた。答えは「あの頃の苦しいことを思いだしたくないのですよ」と言われたが、もう一つ別の答えもあったのではないかと後になって疑いだした。

それは「カストロの共産主義に対する疑問」だったかもしれない。そうでないかもしれない。そしてそれはガイドとしての「矜持」だったのかも知れない。

会場での記念写真

男声独唱

これは富士国際が用意したプレゼントのようです。

 

 私や私たちは、この交流会がどのようなものかあまり知らされていなかった。

 日本側からの贈り物も富士国際が用意したものであった。そんな心のこもっていない、何を送ったのかもわからないやり方でなく、事前に参加者に連絡をし、一人一品なんらかを準備していくなどのやり方ができたはずである。この時期にキューバへ行こうとしている参加者は、そんなこともできない連中だとでも考えているのだろうか。そこまで頭が回らなかったのか、ずいぶんと粗雑なやり方である。

 

 

 交流が終わってから外の海岸に出て、みんなで記念写真を撮った。

 カリブの海は久しぶりの好天で輝いていた。

お別れ際にカリブ海を背景に・・・・・

私はこのような時、集まっている最中の写真が好きです。

まだそろっていません

| 旅日記 | 03:29 | comments(0) | - |
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