シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
忙中閑あり!紅葉のドライブ、サイコー!

 10月29日の「第7回現代シルクロード研究会」で、何回続くかわからない「世界史の基礎を創ったモンゴル」の連続講座をスタートさせました。

 この準備にはかなりの労力を費やしました。久しぶりの本格的な論究ですので、全力をあげましたが、それにもまして力を入れたことは、パワーポイントの作成でした。世界地図や遊牧騎馬民の勃興地や版図などを示すには、言葉よりも地図があれば、一目瞭然です。

 大変な力を注いで準備しましたが、これは私の力不足のなせる業。自業自得です。

 

 この研究会が終わった翌日から、韓国の百済研究に出向きました。ほとんどの労力をこの研究会に注いでいたので、百済の準備はほとんどできていませんでした。

 しかし、行ってみて驚きました。すばらしいものでした。無論、行っただけでの理解には限度があります。これから文書で調べて、だんだん理解が深まると思うのですが、思った以上の成果がありました。それはいずれ。

 

 

ここまでの3葉の写真は、百済遺跡のもの

これは国立中央博物館のもの


 

 ソウルはマイナス5度くらいの気温が、朝になってやっと氷点下をうわまわる程度の気候でした。おかげで出かける前からグズグズしていた体調が風邪気味になりました。

 

 2日に帰国して翌日の3日は、加藤九祚さんを偲ぶ会。絶対に出席するつもりでしたが、風邪でダウン寸前。やむなく欠席しました。事務局では200人程度の出席を予想していたようですが、倍の400人ほどの出席だったとか。盛会を喜ぶのか悩ましいところですが、それだけ多くの方がたが、九祚さんを偲んだのだと思うと少しは気が休まります。

 

 そして、その翌日の4日と5日は、以前から予定していた奥日光行きでした。はじめはうちの奥さんに「キャンセルできないか」と要望を出していたのですが「キャンセル料が50%!」といわれて、やむなく出かけました。ただし、「寒気がするから車から外へは出ないよ」という条件で。まあ、だいたい車で出かけられるほどに回復させていたのですが、車好きの私にとっては、日光のいろは坂を上ることが楽しみでしたが、ここは日常的な大渋滞のところ。“巧みなハンドルさばき”もできなかったのが、残念でした。しかし、温泉にゆっくり温まり、「飲み放題」のジョッキ2杯と日本酒を5本も飲んで、午後8時から翌日の7時まで、実に11時間も眠りました。それで、風邪から風邪気味になっていたのが、すっかり快適な気分になっていました。げにおそるべきは、酒の滋養ゾ!が実感。

中禅寺湖

雪は消えていましたが・・・

 

 うちの奥さんは「5回も温泉に入った」と大満足。1回千円と思えば、5千円分。宿泊代が6,500円ですから、夕食・朝食付きですから、モトは十分に取ったと思います。しかもここは、車のない方は池袋からバスの送迎付き。それが往復で500円!そうでもしなければ生き残れないのですね、この世界は。

 

 奥日光の紅葉はちょっと遅めだったので、予定を変更して、というより、はじめから予定などなかったのですが、金精道路で沼田へ出て、そこから尾瀬へ向かいました。コースは沼田から尾瀬の鳩待峠へ向かいます。鳩待峠は行きどまりなので、「津名木」から「坤六道路」(=こんろく=この道路を造った当時の群馬県知事の名前だそうです)から水上に出るコースです。

左は鳩待峠への道

 

この上下2葉の写真は、奈良俣ダムの下の方でした。

この辺りも、雪がもうすぐそこまで来ているようでした。

 

 幸いなことに、10月末に通行がストップされる坤六道路は、11月の7日午後4時からストップとのこと。ギリギリ間に合って通行できました。このコースが最適でした。2〜3日前に降った雪が、道路の端に除けられていました。夏タイヤでしたが、久しぶりのわずかな雪道走行。日向(ひなた)は雪がないのですが、日陰や木陰は雪が残っています。心の中で快哉を叫びながら走りました。

 

 水上では数十年来のなじみのソバ屋「やぶそば」で天ざる。

 

 まさに、忙中閑あり。そして今は今週土曜日の「シルクロード講座」で、4〜5月に行ったインドシナ半島5カ国の旅のレポートです。これはほとんどをパワーポイントで進めるので簡単な作業だと思ったのですが、意外に大変。でも、きのうで基本的な作業を終わりました。一生懸命にやれば、意外と早くやれるものです。

帰京後6,7日、朝から晩まで一生懸命やりました。きのうは別の研究会だったのですが、その前に終わりました。で、いま、ブログを書く余裕ができたのです。 

| 旅日記 | 05:44 | comments(0) | - |
カンボジア編を終えて― ―侵略の精算は終わったのか―23

 朝鮮戦争を挟んでのやり取りは、あれこれあるが、結論として、サンフランシスコ平和条約の前年の50年、アメリカの「対日平和条約に関する7原則」で日本の「無賠償」が打ち出されたが、その後の賠償協定で一般化するのは、生産物や役務の供与という形の賠償であった。日本企業がその国へ出かけていって、ダムや橋をつくったり、道路をつくったりする「援助」のことであ

る。

上段:長津湖の戦いで撤退する米第1海兵師団

中段左:アメリカ空軍F-86

中段右:仁川上陸作戦で揚陸中のLST
下段左:仁川に上陸するバルドメロ・ロペス中尉率いる海兵隊員
下段右:M26戦車の前に立つ韓国人難民

 

 

 ハノイ市郊外の大きなつり橋型の橋やアンコール・ワットの修復作業なども、その中に含まれるのだろう。賠償すべきことをしないで、「役務の供与」でコトを済ませようとしていたということが、今回の旅で分かってきたのである。

 外務省の幹部は「賠償は、結果的には、我が国の貿易の拡大に役立っていた」(外務省戦後外交史研究会編『日本外交30年』)と、その本質を語っている。その賠償が実施される60年代後半から70年代にかけて、東南アジアに日本企業が猛烈な勢いで進出したのである。

 結果として日本は、実質的には賠償を払わずに国際社会へ復帰し、朝鮮戦争の特需で経済的な「離陸」をし、日本企業の進出を伴う「賠償」で高度成長に成功していった。

 

 日本はサンフランシスコ平和条約で1965年に日韓条約を締結した。当時私も「日韓条約反対」を叫んで日比谷野外音楽堂の集会と国会のデモなどに参加したことがある。しかしそのとき日本は「賠償」とは言わなかった。植民地支配による被害を賠償ではなく、「経済協力」の形で決着をつけた。日本は今も、1010年の韓国併合条約を「不法」とは認めず植民地支配を正当化する立場に立っているからである。日本は未だに与えられた被害には敏感だが、与えた植民地支配を謝罪し、賠償するという意識が希薄である。

ソウルで行われた大韓民国の国家成立記念式典

 

戦前の天皇制のもとでの「内地延長主義」という考え方がある。「一家に新しい弟(朝鮮)ができたから文明化してやれ」という論理である。「中華思想」の日本版である。これを「小中華思想」というが、当時「今日からは日本人だと長煙管(キセル)」などという川柳があった。“その国を支配しているのだから、文明のないお前たちを文明化してやる”という驚くべき思想であった。

 

 一方で、戸籍は厳密に「内地国籍」、「朝鮮国籍」、「台湾国籍」と分けて、その移動は基本的に認められていなかった。敗戦後は、徴兵徴用した植民地出身の軍人軍属を、国籍・戸籍にもとづいて、軍人恩給や戦傷病者・戦没者等援護法などの対象から巧妙に排除したのである。

韓国に到着したダグラス・マッカーサーを迎える李承晩大統領

 

 戦争や植民地支配による被害者への個人補償は、まだ解決していない。国と国との協定で放棄された請求権に個人の請求権は含まれていなかったのである。だが、個人の請求権は残っていると被害者は主張している。韓国人被害者の裁判では日本の最高裁は「解決済み」としているが、中国人の場合、請求権はあると日本の裁判所で言っている。日本人の空襲被害者への補償の問題もある。

 

 1980年代以降、さまざまな市民運動によって、アジア太平洋戦争の被害者の声を直接聞く機会が増えてきた。日本軍「慰安婦」問題をはじめ、強制連行動員、韓国、台湾の植民地支配出身の軍人・軍属、サハリンに起き去りにされた朝鮮人の問題など、個人補償を求める声が高まって来た。それが90年代の戦後補償裁判の大きな流れにつながり、市民運動がその裁判を支えた。

李承晩(左)

 

 だが、私が訪ね歩いたインドシナの国ぐにの戦後補償はどうなっているのだろうか。

 日本における市民運動が大切なのは理解できるが、当該の国々の市民の運動はあまり聞こえてこない。だが、日本がアジア諸国を侵略したことは事実であり、大きな被害を与えたことも事実である。そこで被害を与えたことを謝罪することも大切なことである。

 

 まだまだ、戦後は終わっていない。そう思うのは私だけなのだろうか。決してそうではないと思う。

         (この項、恵泉女学園大学名誉教授・内海愛子さんから引用)

| 旅日記 | 09:23 | comments(0) | - |
ベトナム編、カンボジア編を終えて―22 ―侵略の精算は終わったのか―

 これまでの一連の旅物語の文章の結末をどうつけるのかも考えないままにスタートさせたが、ベトナム編のハノイがA4版で62ページ、フエ・10ページ、ホーチミンが16ページ、そして末尾の歴史概略が7ページの合計95ページとなった。そしてカンボジア編は26ページ、総合計で121ページとなった。このうちホーチミン市に関しては数年前に行ったときに書いているので、だいぶ省略してある。

ベトナムとカンボジアの地図。

北(上)は、これから書き進める予定のラオス。

 

 私が意図した今回の旅の目的は、ほとんどが達せられなかった。カンボジア編の最後の3回は、シェムリアップの日本人経営の居酒屋で会った安田さんから寄せられたものである。全体として、到底、私の意図に沿う内容にはなり得なかった。

私(左端)の隣が安田さん、右端がオーナーの中保さん

おいしかった!

 

 それはある程度、やむを得ないことだと思う。ベトナムにおいては、日本軍が太平洋諸島の日本軍への食糧として強奪した、ベトナム人が食べるコメを取り上げて、百万ともいわれる餓死事件がある。

 あの当時はフランス本国は、すでにドイツに占領されていて、ヴィシー政権というドイツの傀儡政権が存在していた。いわばファシズム「日独伊三国同盟」の身内ではあった。その「フランス軍」が統治していたのであった。そのフランス軍もある程度の関わりがあったのだということも判明した。

 

 しかし、現在のベトナム人が日本に抱いている“日本”は、発達した国、ベトナムに比べて多くの点で優れた国というイメージが定着している。その日本軍の71年前までの侵略活動よりも、はるかに強大なアメリカの侵略活動、北爆が強烈に残っているからである。

 

 カンボジアにおいても、日本軍の侵略活動は安田引用文書にもあるような、日本軍の規律の良さなどが描かれている。防衛省資料室の資料だから、昔の日本軍を悪く書くはずもないのだが、ある程度は反映されているのではないだろうか。それよりも何よりも、キリング・フィールドのようなポルポトの暴虐、あまりにも強烈な虐殺の出来事があったので、日本軍の侵略活動を覆い尽くしてしまっているのだともいえる。

数万人のしゃれこうべが空をにらんでいた。

 

 その日本侵略者は、戦前、台湾と朝鮮を植民地として支配し、さらに1931年の「満州事変」以降、中国東北部(いわゆる「満州」地方と現在の内モンゴル)を侵略していった。この侵略活動を、さらに中国全土に広げ、アジア・太平洋戦争へと拡大していった。この植民地支配や侵略戦争がもたらした被害については、戦後補償を求める裁判などが行なわれてきた。 

 

 戦前の日本軍と政府は、日本軍国主義によってアジアをはじめ、多くの人びとに被害を与えたので、戦後の政府はそれらの国々と国交を結ぶときに、その被害について賠償が検討された。国家間の賠償には1951年のサンフランシスコ平和条約とアジア4カ国のビルマ、南ベトナム(両国は当時の国名)、フィリピン、インドネシアと結んだ賠償協定、そのほかのアジア諸国と結んだ準賠償と呼ばれる経済協力がある。

カンボジアのこの橋も「ODA」の名のもとに行なわれた

 

 また、自ら植民地を持っているイギリスは、「植民地支配の不法性」が問題となることを懸念したためか、日本の立場を支持した。日本と、英米両帝国主義国家の連携が、韓国を講和会議から排除した。ここが原因となって、現在でも韓国との間のさまざまな問題が存在しているのである。

フランス統治時代のベトナムの街

 

| 旅日記 | 10:34 | comments(0) | - |
悲劇をはらんだ、人なつこい カンボジアの地と人―21 南部仏印とタイへの進駐

2016年5月    引き続き、
カンボジアにおける1940年頃の日本軍の活動についてまとめてみたい。
これに係る資料は非常に限られていることから、ウェブ上にある資料をもとにまとめることとする。
まずは1941年の南部仏印とタイの進駐について。

きょうの写真も私の撮影したイメージ写真です。

ここはアンコール・ワット

先の記事でも書いたとおり、1907
年より現在のカンボジアに当たる土地全ては、ベトナム、ラオスと共にフランス領(フランス領インドシナ、仏印と呼ばれる)となっていた。そのうち現在の北部仏印(現在のハノイを中心にトンキンと呼ばれた地域)に対し、日本軍が進駐を開始したのは1940
年9月22日。

上と同じところ

 

その後、1940年11月23日から1941年5月8日、タイ・フランス領インドシナ紛争が起き、この結果、現在のカンボジア北西部(バッタンバン、バンティアイミアンチェイ、シェムリアップ)が、タイへ譲渡されることとなった。
そして、1941年7月2日に開かれた御前会議において、南部仏印への進駐が決定され(「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」)、同28日より進駐が開始されている。



これを担ったのは海軍、南遣艦隊(司令官:平田昇中将、後に小沢治三郎中将)、第2遣支艦隊(司令官:新見政一中将)、そして陸軍、第25軍(司令官:飯田祥二郎中将)、第25軍には近衛師団も含まれていた。サイゴン(ホーチミン)には7月30日に上陸を開始、8月8日にこれを完了。
これを受け、日本の南仏進駐に反対していたアメリカは、8月1日に日本に対する石油の輸出禁止を決定している(太平洋戦争の引き金となった決定。)



現在のカンボジア域内への進駐については明確な日時は不明ながら、ホーチミンの到着後、間もなくこれが開始されたと思われる。
カンボジアへの進駐後、タイ領であった北西部を除く各地において、更なる侵攻に向けて準備活動が進められた。



1941年12月8日、太平洋戦争開戦。
これと同時に日本軍(第15軍、司令官:飯田祥二郎中将)はカンボジアからタイへ向けて進駐を開始した。
トンレサップ湖北側からは近衛師団先遣隊が現在のシェムリアップ方面へ、同南側からは近衛師団主力がバッタンバン方面からタイ領へ進軍、両部隊はバンティアイミアンチェイからポイペトの周辺で合流し、9日にはバンコクへ入った。(飯田は1941年11月に第25軍を離れ、これに代わり山下奉文中将が司令官となった。)また、日本軍は8日の進軍と同時に鉄道も接収したが、ポイペト国境付近16キロの期間についてはレールがなかったため、この連結作業を開始し、10日までにこれを終えた。

キリング・フィールド


日本の進軍に対する抵抗から、タイ南部において一部戦闘があったが、カンボジアに面する西部においては、アランヤプラテート上空で戦闘機同士の戦闘があった他は目立った衝突はなく、進軍は非常にスムーズに進んだ。
8日のうちに平和進駐協定成立が成立、12月21日には日泰攻守同盟条約が結ばれている。
第15軍はその後、タイからビルマへの侵攻を開始している。第25軍は、第3飛行集団、南遣艦隊、第22航空戦隊と共に、12月8日からイギリス領マレー、シンガポールへの侵攻を行った。


これらに係る資料としては、防衛庁防衛研修所戦史室の 「戦史叢書 マレー侵攻作戦」が詳しいようだ。折を見て探して読んでみようと思う。

ポイペト−アランヤプラテート間の線路が連結された時期については、Brenden Whyteの「Railway Atlas of Thailand, Laos and Cambodia 」との間に若干の誤差があるため、これについては他の資料にも当たってみたい。

これはインターネットの写真借用です。

 

と、大分長く引用したが、これが「やきとり大将」で出会った安田氏から寄せられた資料である。感謝したい。この引用の初めにも書いたが、この内容の判断は読者の皆さんにお任せする。

 

9日、衰えた体力に鞭打ってラオスのルアンパバーンへ移動。ターボプロップの小さな飛行機の機内でも時たま胃が差し込むように痛くなる。機内食の小さなサンドイッチは本当に小さなものだったが、恐る恐る食べた。水は怖いのでやむを得ずビール。

 

カンボジアからお別れだ。

| 旅日記 | 09:26 | comments(0) | - |
カンボジア北西部における日本軍の活動 16年4月30日ー20

かねてから関心のあったテーマ、カンボジアにおける日本軍の活動について簡単な調査を行った。調査を実施したのはバンティアイミアンチェイ州モンコルボレイ郡。

 

調査のきっかけは、知人の祖母が1940年代前後に、モンコルボレイで日本の軍人を見かけたことがあるという話を聞いたことであった。残念ながら、そのおばあさんはすでにお亡くなりで、他に当時の記憶のある方を探したところ、1929年生まれのおじいさん(87歳)にお会いすることが出来た。高齢ながら、当時13、14歳の記憶は今も鮮明で、おじさんは以下のような話を語ってくれた。

 

きょうは私の撮影したイメージ映像です。

1.1940
年頃、タイの軍人と一緒にトラックに乗る日本の軍人を時折見かけることがあった。日本兵はきちんとした身なりで、髪は短髪、制服と帽子を被っていた。1台のトラックには6,7人の日本兵が乗っていた。
2.日本軍の主な任務はタイとカンボジアを繋ぐ鉄道の警備で、任務にはタイの軍隊と共同で当たっていた。
3.当時、プノンペンにはフランス軍がいたが、北西部でフランスの軍人を見ることはなかった。フランス軍は日本軍を恐れていた。日本軍は非常に強いという印象を持っていた。
4.日本の軍隊は非常に規律正しく、それが日本軍の強さの秘訣であったと思う。地元の人々が食料等を無償で提供しようとしても、部隊長の許可なしでは受け取ることはなかった。また、盗難等の犯罪を犯す者(軍人)はなく、犯罪があった場合、正式な調査が行われ、犯罪を犯した者は厳しく罰せられる規則があるとバッタンバンの友人に聞いたことがある。
5.日本軍が飛行機に乗っているのを見たことがある。地上から攻撃されることを恐れないというように、低空で飛んでいたのを覚えている。
6.日本軍はサルを軍事目的で訓練し、タイの軍人に聞いたところ、手投げ弾を投げることが出来るとの話であった。
7.日本軍はワット・ルベアに木造の橋を建設した。建設した理由は既存の橋が爆撃された後でも、タイとの交通網を確保することであった。
8.お坊さんらとバンコクへ行った際、ファーランポーン駅(バンコク中心部の駅)でマレー半島、ビルマ等に出発する日本兵を見た。



文献等によれば、
1945
年には明号作戦というフランス軍を駆逐する軍事活動があったというが、特にそれに関する記憶はないとのこと。実際、現在のバンティアイミアンチェイ周辺においては、軍事衝突はなかったのであろう。すでに80年近い年月を経ており、当時のことを記憶している方も僅かな状況である。
カンボジアに関る日本人の1人として、こうした記録を残していかなければならないだろう。調査継続である。

| 旅日記 | 07:10 | comments(0) | - |
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