シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
八千草薫さんと私とのつきあい

わたしが最も好きな女優は吉永小百合であり、八千草薫さんでした。

八千草薫さんと「さん」付けするには、十分な理由があるのです。

その理由のひとつは、私より高齢であるということ、日本の映画や芝居という文化分野で多大な貢献をしてきたことがあり、最大の原因は「美しい」ということです。

 

と、ここまでは誰でもが言えることなのですが、あまりみなさんの知らないことをおはなしします。

私の現役最後の仕事は「日本勤労者山岳連盟」(略称・労山)の専従事務局長だったのですが、八千草さんの亡き夫・谷口千吉監督は、その労山創立の呼びかけ人だったということです。無類の山好きで、彼女と結婚してからも自然の中に分け入り、妻の力量にあった山登りをしていました。

 

もう30年近くになるでしょうか、わが団体の機関誌に谷口千吉さんの思い出を書いていただこうということになり、八千草さんに書いていただきました。それ以来、わたしの“恋の炎”は消えることなく燃え続けているのです。彼女の経営する拙宅近くの成城の小料理屋へ行ったこともあります。もちろん、彼女はいなかったのですが、素敵な雰囲気のお店でした。

 

そのすぐ近くに石原裕次郎の豪華な家があります。いまは奥さんが一人で住んでいて、成城で買い物をすると目立つので狛江まで来て買い物をするとワイフから聞いたことがあります。

                                       

むかし、TBSテレビで多摩川の狛江市内の決壊の被害を扱った「岸辺のアルバム」というテレビドラマがありました。わたしは毎日が多忙で一度も見ることがなかったのですが、当時は大評判だったようでした。八千草さんは、その多摩川の自然の中に分け入って歩いていたということも最近知りました。

 

友人に私の住まいを聞かれて「狛江」というと、よく「あ〜、あの岸辺のアルバムの狛江ですね」と言われました。そのほかには「バカラとばくで捕まった市長のいた狛江ですね」ともいわれるし、「共産党員市長のいる狛江市ですね」とも言われますが、わたしは「超高級住宅街の成城学園の高台からガクンと落ちた先の狛江」だとも言います。

 

共産党員の矢野市長(だった)とは古くからの友人でしたので、夜になって「夫婦で飲もうよ」となって、楽しく話すうちに気が付いたら朝だったということもありました。

バカラとばくの市長だった人物は高橋三雄氏でした。そしてその当時、私は山登りの会「狛江山遊会」の会長でした。あるとき駅近くから自転車で帰宅するとき、無灯火でした。それまで20〜30年も無灯火で乗っていました(よくないことだと、今では反省しています)。その時、警官が私を止めて「罰金だ」とかなんとか言い出しました。わたしはジョークのつもりで「おれは狛江山遊会の会長だぞ!」というと、その若い警官は私を石井三雄氏の後援会長かと勘違いしたようです。「失礼しました」で終わりでした。でも私は「でも交通違反だろう?」といっても、「どうぞお帰り下さい」というばかりでした。権力者に媚びるということは、こういうことだなと痛感しました。

 

その多摩川水害の被害者たちが国を相手に裁判を起こし、その多摩川水害訴訟団として事務局長に吉沢四郎の名前で活躍したのが、ペンネーム土井大助さんだったのです。

2014年に死去する前の土井さんとは主には居酒屋の付き合いでしたが(でも拙著の推薦の言葉なども寄せてくださっていました)、前年に亡くなった奥方の死を毎度毎度、嘆き悲しんでいました。そのとき私は、このような夫でいたいなと思ったものでした。

 

でもその前に、1960年代後半の中国の文化大革命の際、私は北京で日本人紅衛兵たちによる暴力や脅迫などによって生か死か、という状況の時、土井さんは同じ中国の大連にいたことを後で知りました。

 

八千草さんの自宅は、その成城でしたし、小料理屋さんもその近くでした。その関係で岸辺のアルバムのロケの前後には、狛江の多摩川土手をよく歩いていたそうです。そのように自然が好きだったそうです。

緒方貞子さんも亡くなって、そして私の親しい先輩や友人たちも亡くなって、「その人の生涯はどのような人生だったのだろうか」と思いこむことが多くなってきました。「自分の人生はどうだったのだろうか」という思いとともに、「この先何年あるかわからない自分は、いかに生きるべきか」ということを、ことのほか痛切に考えるようになりました。

 

きょうは、思いが余ってか話があちこちに飛びましたが、八千草薫さんと私とのお付き合いはそれだけのことでしたが、哀しく、寂しい想いがするばかりです。

それに輪をかけて悲しかったことは、沖縄・首里城の焼失です。

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金婚記念のチベット・アムド旅行

ロンウ―寺

前回の本欄の内容で訂正です。

ドライバー君のお宅でごちそうになった夜のことです。あとからドルチェから聞いて知ったのですが、ノコちゃんから指示された金額のお礼を支払おうとしたら、断固拒否されたとのことです。「お客さんをお招きしてお金など受け取るわけにいかない」ということでした。もう一つあとから聞いたのですが、私たち夫婦のお礼の気持ちもうちの奥さんがお渡ししたとのことです。さすがです。

でも丁重に断られても、なんとかして手輪渡すのがガイドの仕事なのに、彼女はそのまま「はいそうですか」とひっこめてしまったのですね。しようがない人ですね。

 

翌日はいよいよ西寧の街に向かいます。

最初はロンウ―寺(隆務寺)です。

このお寺もラプラン寺と同様、限りなく広いお寺です。今回は説明を省きます。といっても今回は何人もの方がたを引率しての旅ではないからと安心してあまりメモを取らなかったのです。

ここがロンウ―寺の正門です

 

「五体投地」

このお寺の特徴のひとつは数多くの「五体投地」の場所があるということです。

入り口の近くのお堂には、主婦や子どもあるいはおなかの大きい女性や老人の男女ありとあらゆる年代の方がたが、回っています。正確に言うと五体投地ではなく、お堂をグルグルまわることだけです。

その代わり、入り口から出て道路を挟んだ広場は広々とした五体投地の場所です。まずは写真をご覧ください。

 

入り口から入ったところで子どもを遊ばせながら手仕事をしているお母さんが居ました。それよりそばにいた2〜3歳の男の子がなんともかわいくて彼の写真ばかり撮っていました。

彼はこのあと、私を履き出そうとしていました。ニコニコとして

 

道路の向こうの五体投地の広場に出て、遠くの高台などを見ていると突然の爆発音。爆発か!と驚いてみていると、なんと爆竹を大量に爆発させているのです。白、黄色、赤、紫といろいろの色がついています。

色とりどりの色で華やかです。でもご近所はうるさいでしょうね。

 

 

振り返ってお寺を見てみると、お寺の後方にはところどころ小さな建物があります。五体投地を休憩している人に聞いてみると、あれはお寺の現役を退職した人たちの家だそうです。日本で言えば、年金生活をしていて、養護老人ホームに入るまでもないような人の家です。

どこのお寺でも「養老院」と書いた施設があります。結婚をしないで仏教の道を歩んできた人ですから、それくらいのことはしないといけないですね。

後ろの山のどこかに「鳥葬」をおこなう場所がありました

 

 

五体投地をしたことはありませんが、私にとってはダイエットができていいなと思います。全体重をかけて腕で体重を支えて、次は反対側の筋肉を使って立ち上がる。

しかし、そんなことを言って失礼です。それぞれの人が、様ざまな悩みやダライ・ラマと心の中で対話できるという喜びなどを感じながら歩き、礼をささげているのでしょう。わたしもついに彼らと一緒になって5〜6回、歩きめぐりました。

これはお寺の中の礼拝堂です

お寺の外の五体投地をする場所です

 

お母さんに連れられてきた子どもたちも、ときには一緒に五体投地をしています。わけの分からないままに五体投地をする子どもや、多少は理解できて礼をささげる子もいるでしょう。なんともゆったりした風景です。

 

 

しかし、チベット人が焼身自殺するのは、チベット自治区ではなく、この青海省だといいます。ラサの街で6人縦隊の隊伍を組んで行進する武警があちこちにいます。最後尾の一人は必ず消火器を持っています。すべてあれは見せかけのパフォーマンスだということがよく分かりますね。それを考えた軍の幹部はそういうことが分からないのですね。

なかなかおしゃれなシティガールです。最近は、ちょっと着替えれば西寧や上海を歩けるような服装の女性が多いです

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いま、改めてスポーツ・オリンピックを考える

 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開幕まで、1年を切りました。

しばらくぶりのこのブログでは、中央ユーラシアの歴史や様々な出来事を発信してきましたが、私のもうひとつの「本職」はスポーツやオリ・パラなどです。本職と言っても賃金を得る職業ではなく、スポーツ運動やスポーツ研究者としてスポーツの様々な場面で参加しているものです。

 

オリンピック・デーをご存じですか?

 

 皆さんは6月23日という日が何の日なのかご存じでしょうか?

1994年に制定された「オリンピック・デー」なのです。

 第二次世界大戦後の1948年、国際オリンピック委員会(IOC)は第42次総会において、1894年6月23日のIOC創設を記念し、ここで近代オリンピックをスタートさせることを決めた日です。そしてこの日をオリンピックデーとすることを決めました。

 「スポーツを通じて相互理解と友好の精神をつちかい、平和でより良い世界の建設に貢献する」というオリンピズムの普及と、さらなる理解を得るための活動がオリンピズム・ムーブメントです。世界各国のNOCは、そのために様々な活動を行っています。

 

オリンピック・ムーブメントの頂点はオリンピックの開催です。

 オリンピックの開催は、人びとに大きな夢を与える最大の祭典です。同時に、オリンピックの基本精神と理想を多くの人びとに理解してもらう最高のオリンピック・ムーブメントでもあります。

 

 なぜ、「五輪」というのでしょうか?

 これは事情を知れば、“ああ〜、なるほど”と思います。今は亡き川本信正さんというスポーツ評論家がいました。元読売新聞の記者でした。川本さんがスポーツ記者の頃、オリンピックという文字を書くときにかなり字数を取ることに悩み、なんとか短く書く方法はないものかと考えた結果、五輪マークからヒントを得て「五輪」としたことが始まりです。

 私も川本さんの生前、何度もお話を伺うことがあり、そのことは知っていました。最初にお会いしたのは1970年代の初めころだったと思います。

 私たちは1965年11月に「新日本体育連盟」という、体協(日本体育協会、現在の名称は日本スポーツ協会。わたしたちはすでの20年以上前に「新日本体育連盟」から「新日本スポーツ連盟」とその名称を変更させています)とは全く性質の違うスポーツの全国組織を発足させました。基本的な考えは「いつでもどこでもだれでもがスポーツを」と「スポーツは平和とともに」でした。川本さんはこの全く新しいスポーツ団体の誕生を見て、「東の空からスポーツの希望の星が日の出のように昇った」と述べて感激したそうです。わたしは創立の年の2月に、その分野で働くために、北京体育学院(現在は、北京体育大学)留学したのです。

 

 もう少し話を進めます。

 オリンピックを開催するのは国ではなく「都市です。

またNOC(国内オリンピック委員会)は、IOCの下部団体ではなく平等の立場です。スポーツは誰に対しても平等だという考え方から来ています。ですからIOCが認めていないNOCやIF(国際競技団体)も存在しているのです。

 

 もう少し話を進めます。

 1983年のIOC総会で、当時のサマランチ会長は、1976年のカナダのモントリオールで開催されたオリンピックが財政的には大失敗し、42年が経過した2019年の今もその負債を市民が返済しているという事態に考えが至ったようです。

「スポーツで平和を守れるのであれば、オリンピックは残さなければならない」という考えから「プロを導入する」方向に大胆に舵を切ったのです。しかし、プロを導入したことからくる、「負の遺産」も大きく残されているのも事実です。アメリカのテレビ局の時間が最優先されるような・・

 最後に。オリンピック・ムーブメントの真意は「平和と友情」です。主催の東京都と組織委員会は、あまりそのことには熱心ではないようです。そのことよりも、1945年までアジアの各地を日本侵略軍が襲って各地・各国の人びとを虐殺した象徴であった「旭日旗」をオリンピックに持ち込もうとすることのほうが熱心なようです。

 さらに、この「平和と友情」の精神が欠けた国際大会では、ただの世界選手権になってしまいます。「戦争をやめよう、軍隊を持たないと世界に宣言している日本という国が、わざわざその憲法を変える必要は全くない」ということも大切なのですが、そのこともあまり多くは語りません。

 繰り返しますが、オリンピックの基本は、平和と友情なのです。

 

 

 

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おや まあ〜〜!!世間は動いていますねェ〜〜

私がいつも机に向かう二階の部屋は道路に面しています。

左を向けば、道路の向こう側はマイカーも含めた駐車場があり、そこも含めて荒れ地で草茫々でした。

私の車のところだけはコンクリート製です。

昨年の初めころ、隣家の若旦那が「お宅はどうするんですか?」といってきました。「なんかあったの?」と聞くと、世間は大いに変わっていました。

鉄塔の下のコンクリート部分が私の車の駐車スペースだったのです。

いまは右端の家だけが移転してきています

カメラの目線から見ると、あちらのほうが背が高いということがお分かりでしょう?

 

 

駐車場も含めたこのあたりの大地主が亡くなったとのこと。

その相続問題がどうなったか分かりませんが、それが原因かどうか、駐車場を更地にして8軒の分譲住宅を建てるとのこと。

そんなことより私は困りました。

道路を跨げばわが愛車がいる。その代わりの駐車場を探さなければならない。

やっとのことでさがした駐車場は歩いて350歩。4分ばかりかかります。

ワイフの軽乗用車はわが家の庭ですから問題ありません。

 

それがこのところ建築ブームです。

でも、なかなか買い手がつかなかったようで1年以上かかって、伐採〜整地〜土地の醸成〜買い手がつくと建築が始まる。

それがこのところ5〜6軒をまとめて建築しはじめました。

モンゴルから帰ってきたら軒並み高い建物がありました。

 

建築といっても土地の整地から色々役割分担があるようです。

そこで働いていた青年たちはネパールの人たちでした。

「ナマステ」といっていろいろ話しました。

 

すると4〜5日前、突然、引っ越していて空き家になっていた隣家の取り壊しが始まりました。

今度は中国人の集団です。若者たちに中国語で話しかけます。すると「あなたの中国語は大変うまい」右の親指を立てます。

はじめ私はこの言葉で得意になったものですが、これは中国人の常套句。喜ぶほどのことではありません。

中国人の「親方」といえる人は女性の中国人でした。

ワイフからそそのかされて私は、その女性に中国語であるお願いをしました。

「私は物書きだけど、この作業では騒音がうるさくて仕事ができないなァ〜〜。でも暑いところご苦労様ですね。

ところでお願いなんだけど、取り壊しついでに屋根の上のパラボラアンテナを私にくれないか」と。

築35年近くですから、出てくるのは廃材ばかり。

すると我が家も同じことなのだ〜〜と再認識しました。

 

くれました!くれました!パラボラアンテナを!

で、モノのついでに「私の家の屋根の上のアンテナと付け替えてくれないか」。お願いはとどまるところを知りません。

さすがに「とび職なのでアンテナをつけることはできません」と言われましたが・・・

するとワイフが自分が役員をしている「ブナの会」というサークルに「建築業の会員がいるから彼にお願いしてみる」とのたまわりました。

 

隣家の建物がなくなると、この猛暑でカーテンのないリビングは直鎖日光でいっぱい。

ワイフは冷血人間いや、まちがい。低血圧ですからエアコンは大嫌い。

例年のようにエアコンをつけるつけないの夫婦ゲンカのボルテージがいや増します。

 

最近の家は土台に背の高いコンクリートをつけるので、二階建ての我が家よりはるかに高くなっています。

こちらからは南ですから、あちらからは北。これからは上から睥睨されて、視界もさえぎられて、冬はさぞかし寒いことだろうと思います。

 

閑話休題

今度はまったくちがう話ですが、今朝9時から11時まで、往年のNHKの特集「シルクロード」を放映していました。

自室の掃除を半年ぶりにやろうと決意していたのですが、「掃除をしなくても死にはしない」と思い直してテレビに見入りました。

20年ほど前、東大大学院で「地学」を研究していた李という若い中国人研究者に、わがワイフが苦労してすべてをダビングしてくれたビデオ画面を貸したのですが、今でも帰ってきていません。すべてを持って行かれたのです!

 

それはともかく、これは全編を放映するのかな?スマホをうまく使える人ならわかるのでしょうが楽しみにしておきましょう。

いやいや、そんなことを書こうと思ったのではありません。今日まで2日かけて自室の棚の整理をしていたのです。

机の奥を活用するために本を移動しました。

眼の前のシルクロード関連の本を大移動。

今学んでいるものの資料や研究資料を大量に目の前の書棚に移動。

まあ〜まあ〜満足しています・

これから昼食なのですが、気が付いてみると部屋の掃除は全くやっていませんでした。

明日でいいや〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

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やっと!

やっと、ブログを書く心の余裕ができました。

といっても、本当のところは兄が重病に陥って、心の余裕がないはずなのですが、どういうことか私は、このようなときに、開き直るというか、“心の余裕”ができてしまうようです。

 

やっと、で、もうひとつ。今日の新聞で白鵬が、やっとモンゴル政府が国籍離脱を容認したとの報道がありました。

モンゴルの英雄と言われた白鵬の父親が昨年、亡くなりました。それまでは息子の国籍離脱に反対だったとのことでしたが、その父親が亡くなってハラが決まったようです。

 

15歳でモンゴルから日本に出てきて、42回の優勝を積み重ねてきました。横綱在位は10年を超します。白鵬は当然のこととして、引退後はモンゴル国籍のまま「一代年寄」として、協会と大相撲に貢献したいとの意思がありました。これを阻んできたのが、協会の言う「国籍条項」なのです。

 

現在、モンゴルをはじめとして数多くの外国人力士がいます。グローバル化した大相撲の世界を、現在のような隆盛を誇ることができるのにも、白鵬の力が大であることは誰でもが認められることだと思います。

 

しかし白鵬のその意思を阻むものがありました。相撲協会という「壁」です。

これだけ外国人力士が多くいるのにも関わらず、「日本国籍」がなければダメ!という頑迷な態度と思考は変わりません。

 

外国人であることと、相撲の功績やその資質・情熱は何ら変わることがないはずです。白鵬に対しては、今年春場所の千秋楽で、優勝インタビューの際に、観客に呼びかけて三本締めをしたことに対して「相撲道の伝統と秩序を損なった行為」として譴責処分としました。

 

「伝統」というものは、“古いものを頑迷に守っていればいい”というものではありません。世の中の移り変わりや動きに対して、機敏に対処して新しいものをつくっていくという仕事もあるはずです。

 

相撲界のみならず日本の社会では、およそアジアやアフリカなど非白人に対する態度となると、途端に尊大になる傾向があります。その頂点だったのが、あの悪名高い「大東亜共栄圏」の考えでした。わたしはこれを、日本やアジア特有の「欧米崇拝志向」の裏返しだと思っています。さらにいえば、「中華思想」で「東夷」と言われている日本人の、「小中華思想」=「小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種であり中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明をいう」(ウィキペディアから)の表れだとみています。

 

何の根拠もなく、小さい国、遅れていた国、などに対して、自分は、大きい国、えらい国と勘違いして蔑視する傾向のことだと思います。

メディアもどこも、この「白鵬叩き」には容易に迎合します。

本当に相撲が好きな者は、良い相撲を取るものには喝采を送ります。だれにでも。

 

この際、相撲協会は年寄名跡の取得に関しては、改革の必要性があります。

改革のもう一つは、この年寄名跡が数億円で取引されるなどの不明朗なことこそ改革すべき事柄であります。自分たちの既得権を守ろうとする極めて保守的で頑迷な勢力が今でも幅を利かせていることこそが「弊害」そのものです。

 

いまこそ、このような大時代的な「伝統」や「弊害」を取り除く勇気と決断が求められています。元横綱とか大関だったからというだけで大きな力を持てるような勢力だけが幅を利かせる世界でなく、あたら進取の気概を持った能力のあるものを排除しようとすることとの戦いでもあるのだといえます。いま、必要なことは利害関係のない外部の意識の注入でしょう。

 

横綱・大関だったから組織運営能力があるわけではないのです。逆に子どものころ、若いころから相撲界だけで暮らしてきたものにとっては、その能力は不足しているということが常態ではないのでしょうか。

 

法的根拠のない「国技」という美名にいつまでも酔っていては時代に取り残されます。

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