シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ウイグル人の生活習慣あれこれ ―39 トルファンの歴史学者エミット・ニヤズさんに聞きました

 さて、トルファンでは歴史学者の長老エミット・ニヤズさんから伺った話を・・・

この写真は13年前の2004年11月。エミット・ニヤズさんと

トルファンのどこかでした。私も若かったですね。

 

 

 トルファンは長い歴史を持っている。トルファンには昔から多くの種類の民族が住んでいたが、もっとも数が多かったのはウイグル人だった。トルファンの人々は最初は仏教を信仰していたが、イスラームに改宗した。

 

 高昌故城(カラ・ホージャ)、交河故城(ヤール・ホトあるいはイディクート・シャーハリともいう)、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳(アスターナは「都」という意味)などは千数百年の歴史を誇る仏教遺跡である。だが、今のトルファン人はみんなイスラーム教を信仰している。

 

 西暦840年前にカシュガルでは、カラハン王朝の国ができ、トルファンではイディクート・ハン国ができた(紀元850年〜1250年)。当時、どちらもウイグル人だったカシュガルとトルファンの言葉・文字・習慣・宗教は同じだった。

長老の風格がにじみ出ています。

 

 10世紀、カシュガルのカラハン王朝はイスラームになったが、トルファンのイディクート・ハン国はまだ仏教を信仰していた。その後、両者は400年間戦ったが、トルファンはイスラームにはならなかった。しかし、チンギスハーンの孫であるトゥグルク・ハンの息子ヒズルハンの武装勢力がトルファンに侵攻し、全新疆を征服してからトルファン人はイスラームになった。14世紀のことである。

トルファンの街角でカワップを焼く。

日本の観光客は「シシカバブ」というが、

正しくはシシ・カワップ(トルコ語)。

ウイグルでは、ガイドさんたちは、外来語として

「シシカバブ」というようになってしまった。

| シルクロードの光と影 | 03:18 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―37  トルファン・ハミ地域の歴史

トルファン・ハミ地域の歴史

 

 東部天山山脈南麓に位置するオアシスであるトルファン・ハミ地域は、綿花、葡萄や穀物を産する地味豊饒な土地である。10世紀ころから名前が出るようになったこの地は、天山山脈南北および中央アジアから河西回廊に通じる道として遊牧民族と漢民族王朝との争奪の地となっていた。

以前、わたしの定宿だったホテルの舞姫

 

 この地域は、さまざまな文化の影響を受け、西域独自の様式が生まれた場所であり、しかも、亀茲(クチャ)国と同時に仏教芸術が栄えたシルクロードの要衝として、歴史上きわめて重要な役割を果たしてきた。

 

 2世紀ころ、インドからホータンに伝わって来た仏教文化は、タクラマカン沙漠を越え、6世紀ころにはトルファン地域に広がって、世界に注目された豊かな仏教美術・仏教文化を登場させた。

 

 この地ははじめ、車師(姑師)人の拠点となっていたようで、車師前国の王の朝廷がトルファン西方の交河城(ヤール・ホト)に置かれていた。彼らは天山北部の遊牧民であったが、その後、コーカソイド種の特徴を有し、その文化にはスキタイ・サカ(紀元前8世紀頃に現われた騎馬遊牧民)以前に存在していたといわれるサルマタイ系統が入っていることが明らかになったという。

このかわいらしい少女は、上の写真の舞姫の娘さん。

拙著『シルクロード万華鏡ーそれぞれのグレートジャーニー』の

表紙に使わせていただいた。

お母さんの踊りを一生懸命見ている娘の心が分かる写真だった。

いまから7年前くらいだったが、どのように成長しているか・・・・

 

 モンゴル高原に匈奴が現れると、その支配を受けたが、これに対して漢は軍を派遣して匈奴と争い、併せてトルファン東方の高昌塁に駐屯した。これを契機として魏晋南北朝期には車師人と漢人とが東西に対立したが、5世紀中ごろには車師国は高昌城に拠点を置いていた沮渠氏高昌によって滅ぼされ、トルファンが統一された。

 

 やがて6世紀はじめには、麹氏高昌国が成立し、640年に唐によって滅ぼされるまで、この地を統一した。その後、9世紀にはウイグルがモンゴル高原でのキルギスとの戦いに敗れて降ってきて、タリム盆地のトルコ系民族化が本格的となり、トルファン盆地は西ウイグル王国の領地となり、高昌城は冬の都(夏の都はビシュバリク)となる。

 

 13世紀に初頭にモンゴルが覇権を握ると西ウイグル王国はすすんで降ってチンギス一族に準じた。

 

 14世紀以降はモンゴルのチャガタイ・ウルスの支配下となり、16世紀初頭には、東トルキスタンにおいて最後までイスラームに抵抗し仏教を堅持していた。しかし、西域カシュガルやホータンにイスラームが入ってきてから、実に400年間にわたる熾烈な争いの末に西域全域が全民宗教となって、この地を統治した。

彼女は親友スルさんの会社の部下。ガイド経験絶無なのでヌルさんから指南役をお願いされた。、

蘭州から車でトルファン経由ウルムチまでの旅のガイドを私が指南させられたのである。しかも無償で!(冗談)

このとき27歳くらいだが、無邪気で可愛い娘だった。日本留学の経験がある。

※きょうはイメージ写真としました。明日からの写真にはご期待を!

 

 古都トルファンは、かつてはイディークトといわれ、ウイグル高昌国の中心地とされている。発音しにくいイディークトという意味は、前半は「偉大な・・・」になり、後半のクトは幸福を表わす。それ以上は表現できない(筆者注)。

トルファンからは19世紀末以来、都城・古墓・古墳・石窟遺跡などから、多くの出土文書・文物が発見されており、敦煌と並んで東洋学研究の貴重な資料の宝庫となっている。

 (この項、『シルクロードを知る事典』長澤和俊編 東京堂出版刊より引用)

| シルクロードの光と影 | 06:06 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―36 クチャのクズルガハ烽火台の伝説

 クズルガハ烽火台のサソリに噛まれた姫君

 

 クチャの街から西へ、カシュガルへ向かう幹線道路を行く。古代クチャ王国の宮城・亀茲故城を過ぎ、最先端のクチャ河を渡ると、車は幹線道路を離れ、一路北西へ向かう。ポプラ並木がうっそうと茂り、緑陰の下にできたトンネルのような道を進む。その木の間から、ウイグル族の家屋の鮮やかな白壁が見え隠れする。車で15分、街の中心から4〜5キロ走ったあたりで、オアシスの緑がなくなる。北は荒涼としたチョルタク山麓の丘陵地帯が連なり、南はタクラマカン沙漠に向けて渺々(びょうびょう)たるゴビがひろがる。誤解を受けないようにお話しておきたいが、ここでいう「ゴビ」とは、特定の砂漠の名前ではなく「砂礫(されき=小石や「つぶて」などのこと)沙漠」のことをいう。


 街から北西10キロ、ひときわ高い丘陵の上に、「クズルガハ土塔」と呼ばれる漢代の最西端の烽火台がある。


 漢の西域経営にとって、往事の亀茲国は最重要地域であった。前漢は鳥塁に西域都護府を置いたが、そこから亀茲国へ向けて、4、5キロの間隔で、烽火台が建設されたと言われる。このクズルガハ土塔は、土をつき固めてつくられており、高さ18メートルはあろう。北は天山に根拠をおいている匈奴を睨み、東はクチャのオアシスを見下ろす烽火台は、敵の襲来を知り警報を発する台としては、絶好の位置にある。地元にはこの土塔をめぐって、1つの伝説が残されている。

これが、クズルガハ烽火台 です


 むかし、クチャの国王には非常に美しい娘がいた。ある日、西方から来た1人の占い師に娘の将来を見てもらったところ、彼女には100日の災いがかかっていて、サソリに刺されて死ぬであろう、ということであった。そこで国王は、街から10キロも離れたクズルガハのこの地に塔のある宮殿を造り、姫をかくまった。毎日のように食事を運び99日が過ぎた。そして最後の日のことである。いつものように食事を届けさせたが、その日は、果物籠に娘の好きなりんごも入れた。ところが、その籠の中に1匹のサソリが潜んでいたのである。そうとも知らずに、りんごを取ろうとした姫は、サソリに刺され一命を落とす。嘆き悲しんだ国王は、土塔の下に身を投げ出し、「娘よ、とどまれ」と叫んだ。

 

伝説はクズルガハ土塔の名の由来を説明しており、沙漠の民にふさわしい言い伝えではあるが、この土塔は間違いなく漢代に造られた烽火台であって、娘をかくまうために建設されたものではない。漢代の烽火台は、チョルタク山系を南北に割って走る塩水渓谷の岩壁の上に建てられていた。塩水渓谷はその名の通り、川底が一面真っ白い塩分で覆われている。夏の増水期を除いて渓谷にほとんど水はない。河床の乾燥により、塩分が結晶して表出しているのであろう。

 

 そしてその後、中央アジア各地を歩くと、クルグズでも、タジキスタンでもどこでも同じような姫君伝説があることが分かった。美しい姫君がサソリに刺されて死ぬのだから、伝説にとってはこれほどおいしいはなしはない。そんなことをいってしまっては、身もふたもロマンもないが・・・・


 河岸はチョルタク山系の最深部にかけて、川底がそのまま隆起したような奇岩の連続である。その河床の真中を、ウルムチとカシュガルを結ぶ幹線道路ができる前の古い道が走っている

チョルタク山系の塩水渓谷


 塩水渓谷から500
メートル程入ったところに、クズルガハ千仏洞があった。クズルガハとは「赤い岩」というような意味である。南北に走る丘陵の東西の壁面に石窟の入口が開いており、現在46
の通し番号が記入されている。比較的保存のよいものが38窟ある。しかし、壁画が残っているものは、わずか11窟に過ぎない。最も古い窟の造営期は、3世紀から4世紀にかけてである。石窟には礼拝のためのチャイティーヤ窟と、僧侶の修行と生活の場のビィハーラ窟があるが、クズルガハ千仏洞の場合は、チャイティーヤ窟が多い。

| シルクロードの光と影 | 09:36 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ―36 クチャ

 母なる河・クチャ河の水源に位置するこの亀茲国の故城を、土地の人々はスバシ故城と呼んでいる。河を挟んで東西に夥しい数の仏塔、礼拝堂、千仏洞がひしめき合っていた。範囲は7000平方メートルに及び、西域最大の仏教遺跡であったろう。玄奘は、「昭怙釐(しょうこり)伽藍は街の北40余里」と記している。クチャの人々の死活を左右する、母なる河の水源にある寺院は、当時の善男善女にとって、いっそうありがたいものに映ったであろう。
 「僧徒は、持戒甚だ清く、まことによく精励している」。玄奘はこの伽藍の僧侶たちの熱心な修行ぶりを讃えている。


    月の如く、日の如く
    大いなる慈悲の仏陀よ
    クチャ河に、永遠の水の流れを 
    豊かな実りを与え給え

 

沙漠に生きる人々の祈りが、この壮大な寺院いっぱいに響いていたであろう。

クチャの街からマイクロバスでスバシ故城に向かった。遺跡の間を流れているスバシ河の河床は大きく荒々しい。かつて、この河の川幅はもっと狭かったはずで、それが遺跡を削って、今見るような幅の広い川になった。スバシ河は、この遺跡を外れたところで、クチャ河と名を改めて3本の流れに分かれる。いずれもクチャ河である。

 

きのう掲載したこの写真は、きょう掲載すべきものでした


 遺跡には仏塔、寺院、住居地区の跡が、塹壕のようにちらばっている。礼拝堂、小会議室、城壁。

小会議室には木の柱の跡が見えており、木材の一部も残っている。城址は日干し煉瓦、石の層、日干し

( かわら ) 、石の層と四層になっていて、日干し磚の底にはワラが入っている。
 龕(ガン:仏像を安置する場所)の跡がある。上部が欠けているが、龕といわれてみると龕である。

※2017年の現在、この上には入れなくなっている。当然であろう。脆い土くれが砕け落ちていたのだから・・・・

 

 最近発見されたという寺院跡のかなり急な階段を登ってゆくと、頂きに近いところに墓室があった。墓室といっても前室らしく、壁ひとつ隔てたその向こうに、死者は今もなお眠っているはずであった。誰が眠っているのであろうか。とまれ、夜毎、月光はこの高所の隅から隅まで照らすだろう。そう思った時程、歴史というものが、悠遠などといったものと無関係に、ただひたすら淋しいものに思われることもなかった。
 

 仏塔跡に上る。上部の壁の中に木材が顔を出し、壁画が少し残っている。最近の発掘で出てきたという階段もある。その階段を上って行き、上り詰めるとその下に墓室があるのが見られた。高所に立って俯瞰する。大天山を背景にした雄大な遺跡である。この仏塔跡を外から見ると、まるで象の頭部のように見える。なぜ、ここに象が登場するのだろうか。おそらくインドからの影響であろう。


 この、魏・晋時代に繁栄した大仏教寺院は、唐末あたりから衰えてゆくが、いついかなる時に廃墟になったかはわからない。スバシ故城がこれだけ残っているのは、全く風と砂のお陰だといえる。風が運んできた砂でこの遺跡は埋まり、護られてきたのである。
 

| シルクロードの光と影 | 11:06 | comments(0) | - |
ウイグル―35 クチャ

キジル千仏洞

クチャの全景を見渡すようにクマーラジーヴァがいる

 

クムトラ千仏洞からムザト河を15キロ程遡った上流に、新疆地区最大の石窟寺院キジル千仏洞がある。キジルとは「水源」のような意味になる。敦煌莫高窟に次いで、シルクロードに咲いた仏教美術の名花である。土地の人びとはキジルを「上の千仏洞」、クムトラを「下の千仏洞」と呼んでいる。かつてはムザト河に沿って道があったのだろう。現在、クチャからキジルへ行くにはムザト河の渓谷を避け、だいぶ遠回りをしなければならない。

ムザト河


 奇岩の聳える塩水渓谷を北上し、天山南麓とチョルタク山系との間のゴビを西進する。道は拝城県のオアシスを目前にして南下すると累々たる丘陵地帯に入る。突然、丘陵地帯が途切れる。眼下にはムザト河の流れがあった。

クチャの千仏洞の向こうには、まだ荒涼とした土地がある


 キジル千仏洞は、ムザト河北岸に東西2キロにわたってつくられている。その数は現在236窟が確認されている。開窟の時期は3世紀。そして9世紀〜10世紀まで石窟の造営は続けられた。放棄されたのは11世紀頃。この西域最大の千仏洞は、今世紀初頭に多くの探検隊が発掘調査したことでも知られている。

キジル千仏洞

 

 仏教美術において、飛天は主尊の如来を讃えて虚空を飛びながら合掌し、あるいは散華( さんげ ) (花を撒き散らすこと)あるいは奏楽によって供養する姿で現わされる。飛翔の方式は大別すると2種類あって、1つは鳥類のように翼をはばたいて飛ぶもの、もう1つは天衣をひるがえしながら飛ぶものである。クチャには、男性飛天、女性飛天、楽天像、飛天童子、菩薩形飛天、天女風な飛天など独自の西域風の飛天が数多く姿が描かれた。

 

 キジル石窟には、前室、後室や回廊があり、涅槃図の天井には美しい飛天が奏楽や散華している画が描かれている。特に、スバシ故城のトンネル状の廊下には琵琶、ハープ、笛、華盤などを持った飛天が飛びかい、奏楽し散華している姿が数多く見られる。

キジル千仏洞へ着く前に数々の窟があったであろう遺跡が立ちはだかっている

 

 

 ここのガイドには、以前は大学で専門的な研究をしてきたウイグル人がいた。最近ではガイドはほとんどが漢人になっている。どうしてだろう。まだ、大学を出たばかりのような若い娘が一生懸命説明する。それもマクドナルドのスタッフのように決まった言葉しか話さないように見受けられる。しかもとても下手な日本語である。それでも、しどろもどろの説明が終わって、こちらから質問をすると彼女は答えられない。質問の日本語が分からないのだろう。答えられないどころか、“なんでそんな質問をするんですか!”とばかりに怒りをぶつけてくる。なんと無知で短気でわがままなガイドかとびっくりする。帰りには、普段はそんなことをしてはいけないことになっているが、ガイドが帰宅するために私たちの車に同乗するのである。そして結局、私たちは遠回りになり、お姫様は堂々とご帰宅となる。エライ変わりようであった。

玄奘三蔵もこの谷川を歩いて行ったのだろう

 

スバシ故城

 

 亀茲国の全盛期、4世紀の王城の絢爛さを『史書』は伝えている。「外城は長安城に等しく、室屋は壮麗なり」、「王宮の壮麗さは(かん)として(光輝くの意)神居の如し」、王城は、三重の城郭で囲まれ、外城は長安城の如く、宮室は玉や金で飾られ、その壮麗さは、たとえようもないほどであったという。河を隔てて2つの寺院があり、大城の西門の外の路の左右には、おのおの立仏の像の高さ90余尺のものがある。伽藍は100余ヵ所、僧徒は5000余人・・・。人々は功徳を積むことを競っている。


 7世紀の初め、クチャを訪れた玄奘三蔵は、仏教の盛んなる様を次のように記した。

 

「街門には、30メートル程の仏像が、左右に1体ずつ立っている。西方からクチャに向かう旅人たちは、遙かなゴビの果てからも荘厳な2体の仏像を拝しえたであろう。クチャは最大の仏教都市でもあった」。玄奘三蔵『大唐西域記』から。

| シルクロードの光と影 | 09:06 | comments(0) | - |
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