シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
―東トルキスタン共和国の成立と崩壊―─什能回

 

 

2.桎梏

 

この東トルキスタン共和国が崩壊してから、すでに半世紀以上が経過した。しかし、時間と運動の形態を超越しても、この運動の現在に与えた影響ははかりしれない。東トルキスタンの民族独立運動は、現在のウイグル民族の歴史を貫く太い糸のような存在であり、現代中国にとってきわめて厄介な桎梏となって立ちはだかっているのである。

 

新疆には数十万の人民解放軍が駐屯している。そのほかに、即座に軍隊組織として編成される数十万の「新疆生産建設兵団」がおり、各単位(農民・工場・高校や大学など)には「民兵」も配置されているのである。司法・行政・文化・教育などありとあらゆる諸民族支配の法の網がかぶせられており、中国共産党の支配の構造は、いささかの揺るぎも見せない。

現在の中国の地図と、赤印が新疆ウイグル自治区の位置です。

新疆の南(下)にあたる部分がチベットで、チベットの周囲の多くの場所(青海省の全域はかつてチベット国でした。さらに甘粛省・四川省と雲南省の一部もチベット国を形成していました。

さらに新疆の東(右)に位置している細長い場所が内モンゴルです。それだけで現在の中国の半分かそれ以上の面積を占めることになります。

 

 

しかし、“民族の自決と独立”の声は、新疆・チベット・内モンゴル諸民族の胸に深く刻まれており、欧米各国のチベットの「ダライ・ラマ支持決議」のように世界各国の少なからぬ世論は彼らを支持している。国際情勢は確実に変化しており、21世紀初頭にはこの問題におけるドラスティックな変化が起こることが予測される。

 

現代中国の民族問題をめぐる国際政治を見るうえで、この東トルキスタン共和国の樹立と崩壊を正しく認識・評価することは、多民族国家中国に組み込まれたトルコ系諸民族を理解し、21世紀の中国の未来像を把握する上で、大きな価値があるものと思われる。

 

※この原稿は1998年ころのものです。

 ですから、そのころまでの新疆の状況を反映したものですし、その後の20年余にわたる激動の情勢は反映されていません。

 2020年の現在からみれば、この頃には想像だにできなかった事態になっています。わたしもこの数年は、新疆の地に足を踏み入れていません。おそらく、入国拒否に遭うだろうと思います。

 

私はここで、新疆の独立をのぞむ多くの方がたにメッセージを送りたいと思います。

 

まず、民族の独立ということは、この東トルキスタン共和国の教訓にもあるように、外国の、しかも大国に依存して実施しようとすれば、手痛い裏切りとしっぺ返しを食らうということです。

自主独立の立場で考えることです。

大切なことは、世界中に散らばっている多くのウイグル人が、共通の目標で団結することです。

 

そしてもうひとつは、世界の世論を味方にするには、”暴力はダメだ”ということです。数人か十数人で漢人の警察や軍人を襲撃して殺しても、百万の軍隊には勝てるわけがありませんし、世界の世論はそれを許しません。共通の目標で団結して、ひとつの指導部を形成し、非暴力ですすめること以外に、目的を達成することはできないと思います。

 

「革命は暴力だ!」と言ったのは、まさに毛沢東そのものだったのです。

ガンジーのように、そしてダライラマ14世のように!!!

(完)

 

 

参考文献

 『東トルキスタン共和国研究』中国のイスラムと民族問題 王柯著 東京大学出版会刊

 『研究誌 季刊中国』一九九八年冬号「シルクロード―中国・西域の歴史と少数民族」   野口信彦著 日中友好協会刊

 同二〇〇〇年冬号「イスラム教の動向と中国の民族問題」野口信彦著 日中友好協会刊

| シルクロードの光と影 | 07:09 | comments(0) | - |
―東トルキスタン共和国政府の成立と崩壊―

四、新疆は今、

 

1.90年代の新疆における分離独立運動の実態

 

次に、1990年代以降の新疆の動きをみてみよう。

新疆ウイグル自治区は改革開放後、とりわけ1990年代になって以降、中国内外から注目を浴びるようになってきた。その理由は、タリム盆地で世界最大級ともいわれる石油が発見されたからであり、そのほかにも豊富な天然ガスや石炭を埋蔵している。「改革開放」で経済発展と工業化を急ぎ、エネルギー資源の不足が表面化している中国にとって、新疆とその天然資源の重要性はますます大きくなっている。

 

その新疆が、もうひとつ注目を浴びている理由として、新疆のウイグル民族を中心とした諸民族による中国からの分離独立の動きである。

 

90年4月に20人以上の死者を出した南疆アクト県バリン郷の暴動は、「反革命武装暴乱」と呼ばれ、各地に波及した一方で、「ジハード(聖戦)を起こして、中国人を東トルキスタンから駆逐する」とのスローガンを掲げ、秘密組織「東トルキスタン・イスラーム党」の存在を明らかにした。それらの動きの結果として、91年1月に中国共産党中央は党員の宗教活動禁止を指示した。

 

逆の見方をすれば、諸民族の共産党員におけるイスラム教徒の比率が異常に高くなったことと、彼ら自身が分離独立の運動にも関わるようになったからである。

92年2月にはトルコのイスタンブルで「東トルキスタン民族代表大会」が開かれ、新疆各地からは民族代表が非合法に、隣の中央アジアや欧米に亡命しているウイグル人たちも出席して分離独立運動の推進を確認しあった。

 

2000年11月には、イランに亡命していた11人のウイグル人を、中国に強制送還させるというイラン政府の措置にたいして、アムネスティ(国連人権委員会)の力をかりて阻止しようという動きもあった。帰国すれば、長期の刑か死刑に処せられることは容易に予測される。

その後、93年の春と夏にもカシュガルで民族暴動が起こり、新疆各地の人民解放軍の戦車が大挙、押し寄せて鎮圧した。

 

97年2月には北疆のイーニンで「分裂主義者の破壊活動」事件が起こり、2000年にいたるも東トルキスタン各地でデモ、暴動、テロが相次いだ。さらに6月にはウルムチで分離運動の裁判で6人が裁判で死刑判決を受け、即日処刑されるというニュースがあった。また、ウルムチ市内で手広く商売をしているウイグル人女性実業家=ラビア・カーディル=が、アメリカ人の夫に手紙を添えて新聞を同封したところ、「反革命秘密漏えい罪」で逮捕され、懲役5年の刑に処せられたというのも、有名な“噂”になっている。外国には香港発のニュースで知らされている。

 

余談になるが、わたしが98年夏、イリのイーニン市を訪れた際に、念願の「三区革命博物館」を参観した。

 

ほかの参観者は誰一人いなく、歩いているわたしのまわりを公安関係者が多数群がり、私の参観を露骨に妨害し挑発する態度をとった。当時でも、三区革命を賛美する毛沢東の書が書かれた大きな記念碑があるにもかかわらず、分離独立運動なりやまない場所での外国人や諸民族の参観は、それ自体が中国当局の神経を逆なでする行為になっているのである。

イリ・ホテル(旧在グルジャ・ソ連領事館)

イリの林则徐纪念馆

新疆省連合政府(前列右から4人目がカスィミ、5人目が張治中)

 

張治中 元国民党幹部。解放後、政府国防委員会副主席など歴任。

 

 

もうひとつの重要な“余談”は、東トルキスタン共和国政府代表団が、1949年、北京の新政治協商会議に行く途中、飛行機事故で全員が死亡した指導者の遺体を迎えたという、当時の“活動家”の古老にお会いしたことがある。その古老は「あれは事故ではない。我々の代表は北京まで行ったのだ。北京で毛沢東に東トルキスタンの民族自治を求めたが、断わられて大喧嘩になったことが原因なのだ。帰りの飛行機をスターリンと毛沢東が共謀してカザフで撃墜したのだ」。という話を聞いた。その古老は、その2日後に老衰で亡くなった。真相と原因は今では、確かめるすべもない。さらに、ウルムチ市内に住むもう一人の古老には、四六時中、公安の監視・見張り・尾行がついており面会がかなわなかった。これが現在の新疆の現実なのである。

カスィミたちの死亡を公表する新疆政府

三区革命政府旧址 ※これは三区革命博物館ではありません。

1998年当時は写真があったのですが、度重なるパソコンの買い替えで写真が紛失してしまったのです。残念至極です。同じ敷地にありました。

 

 

これらの動きのほとんどは完全に中国当局の管制下にあるため、処刑などの見せしめを目的とした報道か、口コミでしか知ることができない。隣街のデモや集会の動きも含めて、新疆の諸民族にはほとんど知らされないからである。

 

私がウルムチから単身、トルファンへのバスに乗ろうとしたとき偶然隣りあわせた青年の話では、夜陰に乗じて仲間の家に行き、超短波のラジオでNHKの日本語国際放送やサウディアラビアのウイグル語放送などを聞いて、分離独立運動の状況を把握し、互いに知らせ合うといっていた。

 

無論、発覚すれば逮捕・投獄である。“偶然知り合った”というのは、実は偶然ではない。それは、ほとんどすべてのウイグル人は、中国人(漢民族)と中国政府を嫌悪しており、とくに青年層の多くは具体的な運動に関わりやすいからである。

| シルクロードの光と影 | 09:21 | comments(0) | - |
―東トルキスタン共和国の成立と崩壊―

大国の支持を獲得しながら、それを背景に自らの民族独立を達成しようとしたが、結局その手法ゆえに、国際情勢が激しく変化しつつある時代の流れのなかで、大国間の政治ゲームの犠牲者とならざるをえなかったということは、弱小民族としての運命であったといえるだろう。

 

1949年8月25日、エホメッドジャン・カスミ、アブドリキム・アバソフ、イスハクベク・ムノノフ、デレリカン・スグルバヨフら三区のウイグル人・キルギス人・カザフ人指導者は、中国共産党が呼びかけている「新政治協商会議」に出席するため、ソ連の飛行機でソ連を経由して北京へ向かう途中、飛行機事故で全員遭難した、と公式文書で記述されている。

エフメットジャン・カシミ

 

2000年ころ、私が直接会ったある東トルキスタン革命の古老は「我々の代表団は北京で毛沢東と大喧嘩をした。ケンカして別れたので、毛沢東はスターリンに働きかけて飛行機を撃墜したのだと思う。パイロットはシベリアに流刑されていた犯罪者だった」と述べていた。

1949年10月1日 中国建国を宣言する毛沢東

 

9月15日、新しい代表に選ばれたサイフジン(のちの中共中央政治局委員)が北京に到着し、中共に服従する態度を鮮明化し、そして12月に新疆に進軍してきた人民解放軍が「三区」に入り、東トルキスタン共和国運動は完全に消滅したのである。

中共の要職に就いたサイフジン

 

3.共和国内の二重権力構造

 

 東トルキスタン共和国の政治構造のもっとも重要な特徴は、イリハン・トレを代表とするウラマー(イスラム教の上層指導者)およびトルコ系イスラーム住民社会の上層部出身者の勢力と、親ソ的ウイグル人・タタール人の知識人および、直接、ソ連国籍のカザフスタン人などの軍人や政府官僚のソ連勢力という二つの政治勢力が、前者は政府委員会に集中し、後者は軍部に集中して軍を掌握しながらも、政権内部に共存していたことであった。

共和国主席に就任したアリハーン・トラ

 

二大政治勢力の共存体制は、あくまで「革命の初期段階」で対中国人戦争のためにできたものであった。44年の東トルキスタン共和国運動が親ソ的知識人の主導で起こされたため、軍部と内務省などの重要な機関は、親ソ的知識人とソ連勢力によって掌握された。つまり、二大政治勢力の共存体制は、政治権力のアンバランスな状態によって生じたものでもあった。双方の政治理念が根本的に異なっていたため、いったん外部の目標を見失うと、とくに実権を握るソ連勢力にとって、それを存続させる理由もなくなる。その際には、共存体制は東トルキスタン共和国を内部から崩壊させる因子にもなったのである。

| シルクロードの光と影 | 06:48 | comments(0) | - |
―東トルキスタン共和国の成立と崩壊―

2.中ソに翻弄された“将棋の駒”

 

共和国軍の一部がマナス河を渡ってから、突然、ソ連人総司令官によって全軍に進撃停止命令が出された。そして共和国は45年10月から政府名でなく「新疆暴動地域民衆」の名義で中国政府との間に和平交渉をはじめ、46年1月、和平協定が締結された。張治中のとりなしで、ウルムチ・イリ間に和平が成立し、東トルキスタン共和国」は解消し、連合政府が成立した。

 

しかしまもなく、国民党中央派のウイグル人、マスード・サブリが省主席に任命されると、両者はまた分裂し、結局、イリ側は委員を全部引き揚げて、「保衛新彊和平民主同盟(新盟)」を組織した。実に多くの謎につつまれた出来事であった(この連合政府以降の出来事については、紙数の関係で割愛する)。

 

この当時、ソ連は国民政府の照会にもかかわらず、東トルキスタン共和国との直接的な関わりを認めなかった。その理由は、東トルキスタン共和国政府成立の闘いが民族革命であるという大義名分を守ることにあった。ソ連が戦後の安全保障をにらんで、「国境の外に広大な空間を求める指向性」をもっていたが、新疆におけるソ連の目的も明らかである。

 

それは、東トルキスタン民族独立勢力を利用して、民族革命の名目で、新疆地域においても中国から独立した民族国家―「外モンゴル」のようなソ連の衛星国―をつくり、ソ連の新疆における伝統的地位を保持することにあった。

 

45年2月のヤルタ会談では、米英はソ連の対日参戦を早期実現させるために、ソ連の対日戦後の中国における権益要求を容認し、中国側の大きな譲歩と犠牲のうえでソ連に譲歩した。

つまり、“外モンゴルの現状は維持する”、“大連商港におけるソビエト連邦の優先的利益を擁護し、この港を国際化する”、また“ソビエト連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復する”、“東清鉄道および大連に出口を供与する南満州鉄道は、中ソ合弁会社を設立して共同で運営する”、“ただしソビエト連邦の優先権は保証する”、などがそれである。

45年2月の「ヤルタ会談」で戦勝国による領土や権益の分捕り協定が成立した。

 

 

ドイツ降伏後、中ソの会談があった。結局、外モンゴルの独立問題については両国ともに固執したが、結局、国民政府が譲歩し、ソ連が中国共産党と東トルキスタン共和国政府にいっさいの援助をしないこと、中国の東北における主権を承認すること、中国への援助は国民政府を相手に実施することを条件に、戦後、外モンゴルにおける独立に関する国民投票の実施を認め、外モンゴル問題に決着をつけた。ソ連外相モロトフの国民政府の宋子文外交部長に宛てた書簡のなかに、新疆に関するつぎのような一節がある。「新疆における最近の事件に関しては、ソビエト政府は、友好同盟条約第五条に規定されているように、中国の内政に関するなんらの意思ももたないことを確認する」。

 

つまり、より多くの権益を獲得するために、スターリンは中国共産党への援助をしないという約束のほかに、東トルキスタン共和国に援助しない、国民党政府による東トルキスタン民族独立運動への反乱平定権を認める、などを約束し、東トルキスタン共和国の歴史的運命をソ連の国益の犠牲にしたのである。この態度豹変・裏切りが、現在の新疆における分離・独立運動の遠因ともなっているのである。

 

だが、実際の停戦はシホ県とアルタイ区を占領するまで続いた。それは、すでにこのジュンガル盆地にあるマイタグ油田(中国名・独山子油田)をソ連が採掘・精製する権益があったからである。さらに、蜂起とその後の革命戦争におけるソ連の援助は、全額無償ではなく、戦後、農産物・畜産物と原材料でそれを全額、返済させたということである。

 

これは50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナムへの「援助」を、それぞれの当事国から全額返済させたことと同様のやり方である。これは「援助」でなく、「貿易」か「商取引」ともいえる行為である。まさに「援助」という名にかくれた「詐欺」行為である。

共和国主席に就任したイリハン・トレ

 

イリハン・トレをはじめとする共和国政府は、中国支配の排除を最も重要な課題としていたため、中国からの独立という民族の悲願をソ連に賭けたことが、かえって第二次東トルキスタン民族独立運動の致命傷となった。ソ連の対中国政策の豹変という事態によって、すぐそこまで手にいれた勝利の果実―ウルムチの占領―をやむなく断念し、和平交渉に応じ、とうてい同意できない「新疆暴動地域の民衆代表」なる名義で和平協定に調印して、とうとう民族独立の夢を捨てることを余儀なくされたのである。

| シルクロードの光と影 | 10:01 | comments(0) | - |
―東トルキスタン共和国の成立と崩壊―

二、「東トルキスタン共和国」の樹立と崩壊

 

1.“「聖戦(ジハード)」イスラームの目覚め”―

 

 1944年夏、第二次東トルキスタン民族独立運動が北新疆イリ区において発生し、11月、イリ地方に「東トルキスタン共和国」が樹立された。これはイリ地方のウイグル族とカザフ族が、国民党の圧政に抗して前後して起こした革命だった。

北新疆イリ区の地図

 

 イスラーム住民はこの革命を「11月革命」と呼ぶが、現在の中国においては「三区革命」と呼んでいる。それは革命の意味が違うからである。毛沢東は1949年8月にエホメッド・ジャン・カスミにあてた手紙のなかで、「あなたたちの長年にわたった奮闘は、全中国の人民民主主義革命の一部である」と述べ、それを「民主革命」と定義した。しかし、エホメッド・ジャン・カスミ自身は1946年に、「我々は民族革命を行なった」と、第二次東トルキスタン民族独立運動の性格を「民族革命」と定義していた。

 

 1944年8月、イリ区・ニリカ県のウラスタイ山のなかに、トルコ系イスラム住民による反政府武装ゲリラ・グループができた。17日にグループはウラスタイ山中に入ってきた警察隊を襲撃して10人の警察官を射殺し、9月にも鎮圧しにきた300人の軍と警察を撃退した。そして10月にはニリカ町を落城させた。ニリカ町の反政府ゲリラも彼らに合流した。

イリ・カザフ自治州の位置

 

この反政府ゲリラは最初からソ連の支援を受けていた。なぜ、ソ連が彼らの武装蜂起を支持したのか。それは、前年の43年はソ連がスターリングラードの勝利ののち、再び目を東方に向ける余裕ができ、新疆での影響力を取り戻すために、東トルキスタン民族独立勢力にたいする支援を本格的にはじめたと考えられるからである。

東トルキスタン・イスラーム共和国軍陸軍将校

 

蜂起したイスラーム系住民たちのソ連との関係の違いはさまざまであったが、中国の支配を排除するためという共通の目標のもとに結束し、ほとんどの人がソ連の支援を求めていたことは客観的な事実であった。これが、33年の「東トルキスタン・イスラム共和国」との基本的な性格の違いであろう。

 

 その理由は、地理的にソ連がもっとも近く交通が便利なことであった。とくにソ連と親しみを持ち、留学の経験をもつウイグル民族の知識人たちは、中ソ国境の都市クルジャに集まっていた。次に、時期的に見れば、盛世才がソ連と反目していた時期であり、諸民族の盛世才にたいする反感は、親ソの感情に簡単に結びついた。また、なによりも、カザフ民族、キルギス民族、ウズベク民族やタタール人はソ連領中央アジア加盟共和国と同じ民族であり、ウイグル人も彼らと血縁関係にあるということであった。

 

 1944年10月から11月、この独立運動は最高潮期を迎えた。ニリカ城の陥落のあと、11月7日、「クルジャ蜂起」が勃発し、12日に東トルキスタン共和国政府が成立した。この組織母体はクルジャの民族解放組織とニリカの反政府グループであった。そしてこの蜂起の指導者は、ソ連人のアブドキリム・アバソフであった。

 

 この革命で特筆する事実は、蜂起軍の中心がソ連人だったことである。蜂起軍の総指揮官はソ連人のアレクサンドルであった。結論としていえることは、ソ連軍隊は直接、中国領内に出動して、戦車・大砲・飛行機などを動員して中国政府軍に壊滅的な打撃を与えたことである。

 

しかし、重要なことはこの革命闘争が、より多くのイスラーム教徒を動員するために、イスラームの教義の権威を利用して“イスラーム聖戦”というかたちで行なわれたことである。東トルキスタン共和国政府樹立の戦いは、まさにソ連によって支持されたトルコ系イスラーム住民の中国の支配からの民族独立をめざす「聖戦」であった。

東トルキスタンイスラム共和国国章

 

 

 やがて東トルキスタン勢力は、三つの戦線で新疆各地へと全面的に展開していった。45年7月から、北部戦線においてはタルバハタイ区に突入し、続いてトリ県、ドルビリジン県、タルバハタイ区のチョチェクなどを次々と解放し、アルタイ区、ジンホを陥落させ、マナス河の西岸まで到達した。

 

マナス河はウルムチまで134キロの距離であり、ウルムチをほとんど掌中にできる2日間の距離である。ウルムチの陥落は時間の問題となった。共和国軍がこのような成果をあげることができたのは、いうまでもなく、ソ連が指導力を発揮しなければ各地の民族主義勢力の統合もなく、ソ連の支援がなければ東トルキスタン共和国の勢力拡大も不可能であった。

| シルクロードの光と影 | 09:06 | comments(0) | - |
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