シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
焦ってもしかたない
  私事で恐縮ですが、少々焦っています。

 というのは、明日18日、サマルカンド国立外国語大学へ向かう予定なのですが、肝心のビザがおりません。

 

 あちらのJICA派遣の日本人の若い先生に大学当局へ問い合わせていただいているのですが、なにか16日にビザの手続きのためにタシケントの外務省へ行ったという話でした。

 

 それでは間に合うわけがありません。一応、1週間後の25日に飛行機は延期したのですが、それでも間に合うかどうか分かりません。

 目黒のウズベキスタン大使館の日本人スタッフともすっかり顔なじみというか、電話でのおなじみさんになってしまって、ビザが下りたら彼から連絡が来ることになっています。

 

 あちらでは歴史を教えることになっています。抱負はいろいろありますが、思うようにはいきません。

 というのは、あちらでは6月から9月なかばまで夏休みです。

 そのあと10月末まで、全国いっせいの「綿摘み」の動員があります。

 外国語を学び、外国のことを知るために5ヵ月のブランクは大きいようです。

 語学力が心配です。歴史を教えると言っても、まず日本語の理解が先です。それがなければ一歩も進みません。

一人の女子学生のお誕生会に呼ばれたときです。
女性ばかりに囲まれて私はゴキゲンでした。

 

 2年生と3年生だった学生たちも、いまはそれぞれ1学年進級しています。

 やはり外国語を学びたいという学生は女性が多いようです。3年生になった15人くらいのクラスは男子学生が3人ほどです。

 1学年でも2クラスあります。それはウズベク語で日常生活をしている学生のクラスと、ロシア語で生活しているクラスの2つがあるからです。

今は3年生になったクラスの代表チャコちゃんです。
日本人のような顔をしています。

 

男は影が薄いようです。それでも「将来の夢は?」と聞くと、「大統領になりたいです」と言います。気宇壮大です。日本にはそんな男の子が一体何人いるのでしょうかね。見本になる政治家が少ないから、志願者がいないのですね。

 

タシケント行きの飛行機は、以前は週2便あったのですが、今は金曜日の1便だけです。

震災のあとの5月に行った時は、200人以上乗れる飛行機で乗客はたったの26人でした。そのうち16人が団体ツアーで、10人くらいはウズベク人でした。

 

韓国のインチョン空港経由の韓国便があることは知っているのですが、おまけに機内食もおいしいということも知っているんですが、やはり私はウズベキスタン航空にこだわりいと思っています。

 

あと1週間、ウズベキスタンに行かれるのか、行かれないのか判断に迷うところですが、あれこれ一喜一憂しないで、行けるのであれば、行く、行かれないのであれば、日本でやりたいことがたくさんあるので、それをやる、という自然体で臨もうと思っています。

サマルカンドのシャーヒジンダ霊廟で歴史の勉強をしました。

 

出発を延期した25日とその前日は、わが女房殿の舞踊公演の日です。

24日の夜は、彼女の友人で遠来の客が何人か我が家に泊まる予定だそうです。

「困っちゃう」と言われていますが、せめて自分の家にはゆっくり泊まりたいものです。

| サマルカンド便り | 06:51 | comments(0) | - |
帰ってきちゃいました!
今日は6月2日。

一昨日の5月31日、成田〜タシケント往復のチケットを依頼した会社からメールが来ました。「2日夜にタシケントから出る便がキャンセルになりました。1日朝、7時半のフライトの便があります。その次の便は予定が立っていません」という内容です。

 

となると、その日のうちにタシケントに行かなければなりません。

帰国予定だった1日には、教職員の皆さんが「お別れ昼食会」を開いてくれる予定でした。その日、学長・学部長・学長補佐にもお礼のあいさつをする予定でした。1日9時半からは2年ウズベク語のクラス最後の授業がありました。

それらのすべてを吹っ飛ばして帰らなければならなくなりました。

 

すぐにタシケントで仕事中のアリシェル君に連絡を取って、便の確認などを依頼。タシケントまで向かう車を出してくれる小アリ君に電話しました。しかし、この日に限って電話に出ません。あとから聞くと「11時まで寝ていました」。

 

急きょ、スーツケースに荷物をまとめはじめました。ともかく、小アリ君とは12時に大学正門で待ち合わせをしていたので、荷物をまとめる作業を中断して、その時間に合わせてタクシーで行きました。

荷物を作り終えて、ホテルの精算も終えて、3時にも行きました。小アリ君が「夕食の10ドルを8ドルにさせました」と豪語していましたが、そんなことはありませんでした。10ドルでした。では、あの夕食の量が少なくなって、うまくもない夕食に変化したものは、なんだったんだろうとも思いました。

 

「日本文化センター」にも行き、居合わせたディオールさんなどウズベク人の先生に、今日、帰らなければならなくなった事情を話しました。皆さん、がっかりしてくださいました。ほかの先生や3年の学生たちも驚いていました。

 

どうやら、学部長と学長補佐にはお別れのあいさつをすることができました。

3年の学生たちにも一人一人と握手をしてお別れを言うことができました。

2年ウズベク語のクラスの1人にも電話をしてお別れを言いたいといって会えました。3人の女子学生が学生寮に居合わせて正門で会えました。

 

学生寮にいた3人の学生と左は泉地(いずみつ)先生。


6月中下旬には名古屋に帰る、泉地(いずみつ)先生にもお別れを言うことができました。アリシェル君にプレゼントした拙著『シルクロード 10万年の歴史と21世紀』を一時、回してもらって図書館に寄付することができました。

サマルカンドからタシケントへ向かうと、
シルダリア(シル河)を通過する。

 

小アリ君の猛烈なスピードの運転で、3時間半で300kmを走破してタシケントに着きました。

アリシェル君と落ち合って空港に行き、リコンファームをしに行きました。すると、その1日の便も無くなったと窓口の女性は言います。「次は3日の日に出る」と。

結局、すったもんだの末、翌日1日朝7時半に出ることが確認されました。

 

夕食はタシケント在住の日本人の皆さんと一緒。

7月にはサマルカンドに行って外国語大学へ赴任して、すぐに出身の福島へ帰るJICA派遣のSさん、9月から学校へ戻ります。泉地先生とシルバー・ボランティアから派遣されて6月中下旬に帰国するK先生たちと韓国焼肉屋へ行きました。どういうことか小アリ君の友達という青年も2人ばかり紛れ込んでいます。

タシケントの焼き肉料理屋で9月からサマルカンド外大へ赴任する福島県出身のSさん。

 

タシケントに来た時と同じホテル。大広間のような部屋に幅の狭い、寝返りを打つと落ちてしまうようなベッド。

 

やっと飛行機は飛びました。

中央アジアからウルムチ上空、中国大陸の広大な上空を飛び、海へ出て朝鮮半島、再び海、はるか右手の日本列島上空には梅雨空の分厚い雲が垂れ込めています。

タシケントを飛び立つと、すぐに天山山脈が現れます。


茨城県上空から右へ回り込んで成田へ。すいた座席で下界を見ながら思わず口をついて出た言葉が「あ〜あ、日本へ帰ってきちゃった」。

 

駐車場の車に座った瞬間、左ハンドルから右ハンドルへの感覚に戻れました。すいた道をスイスイ通って1時間少々で我が家へ帰り着くことができました。

「あ〜あ、日本へ帰ってきちゃった」。

| サマルカンド便り | 07:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
シャヒズィンダ廟群で野外授業
    5月28日(土曜日)。

2年のウズベク語クラスの学生たちとシャヒズインダ廟群での実地の歴史学習に行った。

 

大学前からバス。私は初めてバスに乗った。乗るとすぐに別の大学の男の学生が私を見つけて席を譲ってくれた。もう、席をゆずられるように見えるのかと思ったが、せっかくの親切。座ることにした。

日本でも震災以降、「親切」なわかものが増えたが、これほど自然にすっくと立ち上がる人は少ない。

 

ほかのウズベク人教師2人も、一緒に参加するといっていたが、やはり来ない。あれは社交辞令だったのか。

クラスの女子学生の中で人気のあるハンサム男の学生が、私のザックを背負うといって聞かない。ありがたくお願いすることにした。

バスは「ISUZU」と書いてあるが、聞くと、「いすず」と現地の合弁で造られたそうだ。日本では見たことがない旧式のバスだが、それはやむを得ない。

何とも言えない美しさに魅了される。

 

廟群に着くと、入り口近くに日本人の若い女性たちとすれ違った。少し立ち話。彼らはキルギスから来たボランティアの方がただそうで、休暇を利用してサマルカンドに観光に来たそうだ。

 

シャヒズインダ廟群は、アフラシアブの丘の南麓にあるサマルカンド随一の聖地。チムールゆかりの人びとの霊廟が一直線に建ち並んでいる、奇妙な“死者の通り”である。

霊廟の街並みの多様さ、美しさでも中央アジアに並ぶものがないといわれているが、私自身もこれほどの美しさのあるところをほかに知らない。

巡礼に来たウズベク人のツアー。

 

 シャヒズィンダとは、“生ける王”という意味で、7世紀、アラブの侵略時に生まれた伝説が元になっているという。

 

それによると、布教のためサマルカンドにやってきた預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバースが、ここで礼拝をしている最中にゾロアスター教徒に襲われ、首をはねられてしまった。ところが彼は動じることなくも礼拝を終え、自分の首を抱えると深い井戸の中へ入っていき、彼はそこで永遠の生命を得て、イスラームが危機に陥っているとき、救いに現われるのだという。

 

さらに、ここを2度訪れると、メッカに一度行ったことになるともいわれている、ありがたい廟群である。

 この文章の大半は、拙著『シルクロード 10万年の歴史と21世紀』の部分だが、それを途中の石段にみんなで座って、私が説明して1人ひとりが読む。

ドイツ人のツアーが説明しているのを神妙な顔で聞いている学生たち。

 

 印象に残ったシーンがあった。

ある一つの小さなモスクに入ると、中年の女性が座りながらお祈りをしている。私のあとからモスクに入って来た学生たちは、その姿を見ると、無言になって、座って、一緒にお祈りをする。その女性のお祈りが終わって、両手を顔の前から下げると、その人と同じ所作をして終わる。

普段、ワーワーキャーキャーにぎやかに騒いでいるが、初めて彼らの厳粛な場面を見た思いになった。

たしかに豚肉を食べるというキルギスとは多少違うのかもしれないというと、「先生、ウズベク人で豚肉を食べるのは、ロシア人やコリアなどで、ムスリムは食べません」といわれる。そうか、そうか。

 

 来週の木曜日が彼らの授業(毎週木曜日と土曜日が彼らの授業の日)だが、その日は私がタシケントに向かい、夜9時半の飛行機で帰国する日。

準備をしておけば授業はできると思うのだが、学長や学部長へのあいさつなどがあれば無理かもしれない。

 したがって、今日が最後の授業になるかもしれない。

みんな写真好き。カメラを向けると、この通りの若い娘たち。
左の男子学生が頼りになる。

 

 みんなで昼食を食べながら言う。「あなた方は、これから長い3ヶ月の夏休みがあって、そのあとは11月まで綿の収穫作業に参加するでしょう。

5ヶ月以上学校を休んで、その間、日本語を勉強しないと全部忘れてしまうからね。そのときにこそ自分で学習する、あるいは今いるみんなで計画を作って、協力しあって勉強するなどの努力で未来が開かれるから頑張ってください。11月に私が来た時に、また、楽しいけれど厳しい授業をしましょう」と。

 ピクニック気分だった授業の終わりの話だったので、かれらも「はい、一生懸命努力します」とまじめな顔で答えていた。

最後の質問が来た。「でも先生、質問があります。そのときにこその、こそとはなんですか?」


 
シャヒズインダ廟群の入り口にある階段。登りと下りの段数が同じなら、幸せが訪れるといわれている。

 サマルカンドに来て、わずか1ヶ月後の6月2日に帰国するというのは、何とも短い滞在期間と思われるでしょうが、また、11月までずいぶん間をおいて再訪するのだと思われるでしょうが、その間5ヶ月間以上は学校の授業がないということが、第1の理由。

 

 第2の理由は、わたしにも日本で責任を負ってやることがたくさんあるので、長期の海外生活は現実問題、無理なのである。

大学と学生には迷惑な話であろうが、それでも受け入れてくれるのをいいことに甘えることにしている。

| サマルカンド便り | 01:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
 盛況だった「震災報告講演会」
 26日午後、大学で一番大きな講堂で「震災報告講演会」が開かれた。
 
熱心に聞いてくださったウズベク人学生の皆さん。
前列の人は、JICAで看護師として派遣されているTさん。
撮影は、日本人のタマラさん。

 椅子はぎっしりと詰めて配置されている。事前に入念な予行演習をしてあったので、プロジェクターも快調。

学部長のあいさつから始まった。

「野口先生が外国語大学に来られて2週間だが、新しい歴史を学ぶことは大変良いこと。しかも、今日は日本の大きな震災についてお話をしてくださる。これは私たちの大学にとっても大変有益なことである」云々のあいさつ。

東洋語学部長の開会あいさつ。


通訳はA君。 

会場には80名くらいが入っていた。その多くは日本語科の学生や教職員達である。

 

100枚にもなった写真を思いきり削って70枚くらいに縮めた。

1枚の写真にも思いが込められているので、つい、説明が長くなる。

1時間半の4時にはどうしても終わらせたかったが、結局、2時間近くかかった4時半になってしまった。

右は、プロジェクター操作をしてくださった、「サマルカンド・ペーパー」の工房で技術指導をしているSさん。

 

1時間半経過した4時になったところで、「皆さん、遠くへ帰る方はここで退席しても結構ですよ」という。しかし、「あと、10分くらいで終わりますから」とも言ったので、帰る人はいなかった。

 

講演が終わってから教員や学生たちが近づいてきて、「よかったです」、「津波のことと原発のことが、よくわかりました」と言ってくださる。その言葉が一番うれしい。

A君の通訳も堂にいってました。 


日本人のメンバー、何人かの学生・教員たちとアイスクリームを食べに行く。

| サマルカンド便り | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
5月26日  製紙工場見学と多摩(タマ)伝説
   25日、9時半からA君と明日の震災講演会の会場下見。ぎっしり詰めると300人は入る会場でプロジェクターもマイクも好調。ただし、プロジェクターは私のパソコンとの接続の関係で自分のものを使う。初めてスクリーンを見た。これは教室へ持って行かれないというもの。であればプロジェクターはサマルカンドまで持ってこなくてもよかったのかと思う。

下見が早く終わったので、きのうカレーをごちそうになった九大ドクターコースのSさんにA君が電話して「これから製紙の過程を見に行きたい」とお願いし、外大の前で待ち合わせして3人で一緒に行く。タクシーで30分ほどのところにその工房はあった。観光バスが何台も止まっていてフランス人たちが大勢入り込んでいる。

途中で見えるのは、ちょうど今日が小中学校の修了式。卒業する生徒は胸に「卒業生」と書いたたすきをかけている。たくさんの子どもたちが街頭にあふれ出ている。これから3ヶ月の長い夏休みに入る。中学3年生と高校3年生は6月に入ってから国家試験があり、上の学校への進学が決まる。

彼女の説明で紙の製造過程を見る。

中国からもたらされた紙は8世紀中ごろ「サマルカンド・ペーパー」としてこの地に入り、そののちシリアのダマスクス、バグダッドを経てヨーロッパにもたらされた。その間、およそ600年かかった。


九大ドクターコースのSさん。典型的な日本人のお嬢さんインテリの雰囲気。


「サマルカンド・ペーパー」は、初めはいろいろな木を使用したが、いまではほとんど桑の木の皮を剥(は)いでつくる。その皮を短く切って、お湯で洗い、繊維をほぐし、それらを川の水の動力を使用して、たたくなどする。

後加工として、繊維を磨き、川にはさんで「なめし」、「にじみ止め」などを施す。

ここでは彼女は、製紙の指導というより、工程や見学者の把握など管理の仕事が主らしい。その前にはJICAの専門家が来ていて、模様をつけたりの現地指導をしたようである。

完成直前の「サマルカンド・ペーパー」


このような「窯」で煮る。

 

「MARQANDA」という店で昼食。マクドナルドに似たマークを持ち、看板にしている。サマルカンドは旧名がマラカンダ。うまく作ったものだ。そこでAくんとSさんにお礼の気持ちでごちそうの昼食。そのあと私のいるホテルへ行ってしばし、休息。

で、ホテルへ戻る途中に「サマルカンド国立大学」がある。ここはタシケントの国際大学より古い大学とのこと。しかも、ここの外国部学部が独立して、現在の「サマルカンド国立外国語大学」になったとの由。入り口が、小さな博物館になっている。興味があるから面白い。

この人物が、ムガール帝国を創ったバーブル。



「アリシェール・ナワイー」をたたえるペルシア語の賛辞。

 

午後、A君の親戚でもある考古地理学者が私のいるホテルへ来てくれる。

彼の名はジュラク氏。動物の骨などを地理学的に研究を進めてきているという人。

考古地理学者が私のホテルを訪ねてくださった。


昔、「トマ」と「タマ」という民族が現在の東京へ行ったという。今の江戸川、荒川、隅田川と多摩川だそうだ。

「紀元前1世紀ころから西暦4世紀ころまで、中国を従えていたトゥジンウエイという民族がいた」。彼のいうこの話は、私の判断では、これは匈奴=フン族以外にいない。

彼らはドナウ川のフンガリーからシルダリアの北までを支配していたという。シルダリアの北というのが、どうも変だ。“東のモンゴリアはどうした”となる。

のちに中国を支配したこの民族の王はタムガチュといった。タムガというのは、「ハンコ=印鑑」のことだが、そこから彼の名前は「タムガ」になった。「私はそれを7年間、調べている」という。

 

カザフスタンの百科事典に、「東京にタマ族のお墓がバラバラにあったので、1949年に多摩川の近くに集めて埋めなおした」という。

 「日本は先祖代々のお墓があるので、数百年もお墓は変えない。1949年にそのようなことがあったとは考えられない」とは言ったが、こういうことは直球で返事をするものではない。数千キロも離れているのだから、言語も変化するし、長年の経過で伝言ゲームのように人から人への伝承の過程で変わっていくことがある。じっくり聞いて調べればいいのだ。

 「私はウズベキスタンやカザフのトマ族が日本に行って生活をしていたのだと考えている。江戸川のあたりがトマで、荒川、隅田川があって多摩川がある。その多摩川の周辺にタマ族がいて、そこに集まって住んだのだ。これは2004年のウズベキスタン百科事典にも記載されている。江戸川にトマ族がいて、多摩川にはタマ族がいた。カザフにもモンゴルにもタタールにもタマ族はたくさんいる。ところでタマという意味はどういうことですか?」。

 「多摩とは、山奥に人や森林や動物がたくさんいるという意味です」といった。多摩の語源を調べたことはないが、たぶん、そんなところだろう。

これが、カザフスタンの百科事典に掲載されている、東京の江戸川、荒川、隅田川と多摩川の地図。



もう一つ話した。それはかつて朝鮮半島にコリアの語源となった高句麗や高麗がいたが、その民族が日本の多摩川に移住してきて狛江になったといわれている。埼玉県の高麗川(こまがわ)もそうだし、そのようなところはたくさんあるので、それとの関連を研究してみましょう、と答えた。タマとコマ、これも何か関連がありそうである。


 さらに彼は続ける。

コリアも日本もチュルク族につながっていると思う。それをどう思うかという質問が来た。

これには「現生人類が7万年ほど前から地球各地への移動を始めたのだから、ミトコンドリアDNAからいえば、当然、中央アジアや中国、朝鮮半島を通して日本に伝来してきた。しかし、数万年前と2〜3千年ほど前とを比較するのは困難だ」と答える。

 

話は進んだ。彼は「地理学的にも人類の発生はアフリカではなく、地球各地に7層に分かれて誕生した。その人類は途中で、宇宙のどこかに逃げた。そのような跡がメキシコから発見された」となってきた。さあ、分からなくなってきた。7層に分かれていたというのは、7回、大きな災害が起こったという意味のようである。まだまだ彼の説と質問が続く。

 

人によっては日本人もチュルク族だという学者もいる。

スマトラにも「トーバ」という湖があるが、日本にもトーバがあるというが知らないですか?

アルタイ語系に日本語もトルコ語も入っているが、そうか。

極めつけの話が来た。

宗教的には、ウルグ・ベクの本には、「ノアの方舟」のような話がある。彼の本には4つのウルス(モンゴル語で国という意味)があり、そこに3人の息子がいた。ソムはアフリカへ、ホムはインドへ、ヤパスがチュルク系になった。このヤパスは、イシク・クルからアルタイの南にまで広がった。

 

さ〜て、どこから手を付けていいかわからなくなってきたゾ。

 

| サマルカンド便り | 01:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
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