シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ある歴史教育教師の手紙 朝鮮通信使ものがたり−8

「朝鮮通信使と下関」について、豊浦高校の生徒が下関で発表会を実施

 

現在、全国的な歴史教育のメーリングリストがあります。私は以前からそのメンバーでしたが、山口県の磯辺さんという方からのメールに、奇しくも山口県で行われた「朝鮮通信使」関連がNHKで放映されたというものがありました。

このNHKのニュースは、私は相撲を見ていてチャンネルを回していたので数秒しか見ることができませんでした。下記にご紹介します。

 

 

皆さん、こんばんは。山口の磯部です。

夕方のNHKニュース【山口ローカル】で標記の会の様子が流れました。生徒にとってはよい励みになったのかなと思います。

自分のインタヴューもとったんだけど、編集の都合ですみませんと電話がかかってきた。あまりよいコメントではなかったので正直なところは助かったと思った。

ニュースにはちらっと映っていたからいいですというところです。

 

滋賀県での夏の発表を地元でもしたらということで進めた企画でしたが、参加者の反応はとてもよいものでした。

・高校生が地元の歴史について調べて発表するのはとてもよいことだ。

・自分たちの知らないことを若い人から教えてもらいとてもよかった。

等々

生徒は、

・下関について改めて知ることが出来てよかった。

・歴史に対する興味関心が高まった。

等々

朝鮮学校の先生方も来られていて、どういうところを見学に行くと良いですか、相互の交流が深まっていくとよいですねと。

 

下関は、朝鮮半島の問題に関して、近いからかとても難しい面があります。

昨夜、卒業生と飲んでいて、市役所に務める者から、朝鮮通信使ってとても良いものだと思うけど、朝鮮の事ってすぐに色々な投書が来る(批判的なもの、県外からもたくさん)ので難しいですと。

更に、下関って色々地方創生に使えそうな歴史的なものがたくさんあるけど、結局活かす事が出来ないと。山口県もと。下関の人たちの間では、色々なところで維新関係など活かさなきゃという声は上がりますが、実際はそうすることのできる人材がいないと。朝鮮通信使にしても、明治維新にしても、ちゃんと学んで活用できるとよいのですが。

 

今日の会で、在日の方や、朝鮮学校の方からは、朝鮮通信使の精神にたって、現代の問題として、相互の交流を若い人たちが進めて欲しいと言われていたし、自分もその通りだと思うが、実際はかなり高い壁があるように思う。色々なところから変えていくしかないんだとは思うが。

 

高校生による地域と世界のつながりを学ぶ活動はとても意味のある、市民を巻き込める活動だと思う。地域創生みたいなことにもつながると思うし、豊浦の郷土研究班、開店休業にならないようにがんばってもらいたいものです。

 

 

磯辺さま

 

はじめてメールします。

みなさまのメーリングリストは数年前から拝見していますが、メールをするのは初めてです。

数年前に、最近皆さまが発刊された本の執筆を依頼されましたが、その任にあらずとお断りしたことがあります。

 

私は東京在住の野口信彦と申します。

「日本シルクロード文化センター」という小さいですが、国際的な規模のサークルの代表をしています。

実は、私もシルクロードという視点から、中央ユーラシアにおける文明の交流について研究しています。

それには日本と最も身近な朝鮮との文明の交流を調べてみたいと思っていました

10数年前には、対馬・壱岐へ行って研究もしました。

先日、日朝協会都連理事長をしている親友のお誘いで、埼玉県の「川越唐人揃い」へ行ってきました。

その模様を当団体のホームページのブログに掲載中ですので、お知らせしたいと思い、メールしました。

念のため、まだ途中ですが執筆中の原稿を添付しました。

 

きのうのNHKニュースは、そちらのことが放映されていたのですが、チャンネルを回すのが遅かったため数秒で終わってしまいました。

突然のメールで大変失礼しました。 野口信彦

 

 

 

 

 

 

 

 

| 歴史 | 08:43 | comments(0) | - |
朝日新聞から  アンコール遺跡から謎のれんが 地下に祭祀跡?初出土

 きのうの朝日新聞に掲載されていた記事です。

 インドからの仏教が、ここインドシナ半島を経由して渡ってきたことの研究を進めたいと思いました。

 興味のある「ルート」ですから(野口)。

 

 

 カンボジアの世界遺産アンコール遺跡群のうち、奈良文化財研究所(奈文研、奈良市)が調査修理プロジェクトを進めている石造寺院跡「西トップ遺跡」(9〜15世紀)で、解体された北祠堂(きたしどう)の地下から、れんがを積み重ねたほぼ正方形の遺構がみつかった。

 

 専門家によれば、この遺跡群で地下のれんが遺構の発見は初めて。何らかの祭祀(さいし)が行われたとみられるが、宗教的な背景は不明だ。アンコール遺跡群に新たな謎が加わり、専門家は注目する。

 

 奈文研が、刊行した「紀要2017」で報告した。

 

© 朝日新聞 解体された北祠堂の地下から出土したれんが遺構(奈良文化財研究所提供)

 

 西トップ遺跡は都城遺跡アンコールトム内にあり、中央・南・北の三つの石積みの祠堂で構成される。激しい内戦が続いたカンボジアでは石造建造物の修理技術を持った人材が乏しく、極彩色壁画で知られる高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室解体など豊富な経験を持つ奈文研が西トップ遺跡の修理と人材育成に乗り出した。

 

 まず2012年から南祠堂(14世紀ごろ)の解体修理を始め、16年からは北祠堂(15世紀ごろ)の解体を進めてきた。

 

 奈文研によれば、16年7月から解体した跡地を発掘調査し、南北2・13メートル、東西2・08メートル、深さ1・48メートルのれんが遺構が出土した。底面にれんがを敷き詰め、四つの壁もれんがを積み上げる構造だ。れんが1個は長さ20センチ、幅13センチ、厚さ6〜8センチ。規格の異なるれんがもあった。主に遺構の下半分では、れんがの表面に粘土が上塗りされ、黒く焦げた部分も多い。すでに解体修理を終えた南祠堂の地下も発掘調査されているが、れんが遺構はみつかっていない。

| 歴史 | 03:14 | comments(0) | - |
百済研究へ

しばらくお休みしていますが、明日から韓国の百済研究に行ってきます。

 

きょうは、現代シルクロード研究会で「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」です。

午後1時から。

狛江駅前の泉龍寺内「仏教文庫」です。

準備が大変でした。

 

野口信彦

| 歴史 | 09:05 | comments(0) | - |
ベトナムの旅―31 フエの世界遺産の旧王宮

 グエン朝の王宮は初代のザー・ロン帝によって1804年から建造が開始され、北京の紫禁城(故宮)を模して造られたといわれている。高さ5メートル、一辺が650〜700メートルの壁に囲まれ、外側に内堀が張り巡らされている。しかし、実際に見たフエの旧王宮は、世界最大といわれる北京の故宮博物院よりはるかに規模は小さい。でも、それは比較することではないようだ。旧王宮の各種をごく簡単にご紹介しよう。

 

旧王宮前で集合写真。今度の添乗員は集合写真が好きだった

北京の紫禁城(故宮)。きょうは、この写真のみがネットのもの

 

午門(王宮門)

午門の「午」は、南の意味になる。または正午になると太陽が建物の頂上に来たからだともいわれるが、そうであれば、季節の変化で太陽の位置が変わるのをどう説明するのだろうか? ま、でも、つまらない疑問であった。

5つある門の南門に望楼がある。中央の門は皇帝の外出時にしか使われない。左右の門は文官や武官が使用していた門である。これはどこもそのようになっている。現在は私たちのような観光客が通っている。

午門

 

大 砲

 午門の南側に9門の大砲がある。東側の4門は四季を表し、西側の5門は五行を表しているという。1803年1月31日から1年かけて完成したというが、これは大砲を四季に分けて分納したためだという。

 

フラッグタワー

 フーン川の土手にそびえる国旗掲揚台。1968年のテト攻勢の時には24日間にわたり解放軍の旗が翻(ひるがえ)っていたということである。

フラッグタワー

 

太和殿

皇帝の即位や国賓の歓迎などの式典が行われる場所。王宮の正面にある赤い屋根の大きな平屋の建物である。北京の紫禁城を模して造られたが、やはりこれも比較するべくもなく規模は小さい。だが、大事なことはモノの大小ではない。

ザーロン帝が創建し、その後何度か修復されたが、ベトナム戦争中の1968年に完全に破壊され、1970年に再建された。

大和殿

 

顕臨閣

 グエン王朝の菩提寺。庭には歴代の皇帝の名前をかぶせた9つの大きな「鼎(かなえ)」が置かれている。この鼎類は王朝の正統性と不動性を象徴しているという。

顕臨閣

 

鼎(上・下)

 

※グーグルで「鼎」を調べてみた。

「古代中国で使われた、三本足の鉄のかま」とある。

「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」(周の定王の時、楚の荘王が周の王室に伝わる宝である九鼎(きゅうてい)の大小・軽重を問うた故事(日本語に直すと、さしずめ「物語」になるか)から、統治者を軽んじ、これに代わって天下を取ろうとすること。転じて、ある人の実力を疑って、その地位をくつがえそうとすること、とある。

〖鼎〗 てい・テイ・かなえ

三者が向かいあった形。

「鼎立・鼎坐(ていざ)・鼎談」などの言い方がある。

金属製の一種のなべ。三本足で両わきに耳がある。「鼎俎(ていそ)・鼎鐘・鼎銘」

 

ティエンムー(天母)寺

フーン川を見下ろす高台に1601年に建立され、1844年に高さ21メートル、7層からなる八角形の塔のティエンムー寺が完成した。

ティエンムー寺

サイゴン市内で抗議の焼身自殺をした僧(朝日新聞の写真)

 

寺の裏にある自家用車のオースチンは、1963年、南ベトナム政府の仏教弾圧に抗して、サイゴンで焼身自殺したこの寺所属の僧侶が使っていた車。

僧が使用した車・オースティン

 

| 歴史 | 04:29 | comments(0) | - |
ベトナムの旅  フエの町と歴史−30

 2016年4月27日 空路、古都フエへ向かう。

 

 フエは、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省の省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していたグエン朝の首都に定められていた。フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある。日本でもベトナム戦争の半ばまでは「ユエ」と呼ばれていた。

ツアーの面々も、もうすっかり打ち解けあっています

 

フエの紹介

 

 南北に細長いベトナム国土のほぼ中央に位置するフエは、70年ほど前まで、ベトナム最後の王朝であるグエン(阮)朝(1892〜1945年)の都があったところである。この都市は、ベトナムの文化、宗教、教育の中心であり、今でもその面影を残している。現在の人口は驚くほど少なく30万人余り。有名な激戦地、米軍の基地があったダナンから北西に約100キロのところに位置している。

 

 フエにはハノイのような町並みやホーチミン市のような喧騒は聞こえないが、静まりかえった街並みを歩けば王朝があった時代の馨りにつつまれる。王宮、寺院、皇帝廟などの風格のある建築物が点在するこの街は、1993年、ベトナムで初めての世界遺産に登録されている。

 早めの昼食を食べてから出かけたが、この日はこの旅で最高の気温。38度あると誰かがいっていた。

フエの街の様子

 

 以下、旧王都のフエの歴史概観を。

 フエは、紀元前111年の記録がある。前漢によって設置された日南郡の首府は、フエ近郊に位置すると推定されている。2世紀末に建国されたチャンパ王国の首都はフエ近郊に存在したと推定されている。その時代のフエは東南アジア内陸部の物品を中国に出荷する積出港として機能していた。かつてこのあたりにはチャム人が住んでいた。

 

 1307年、北ベトナム方面のチャン朝とチャンパ王国の間に結ばれた協定によって、烏里(フエ地方の旧称)は割譲されて化(漢語読みでフア)州と改称された。

 1401年から1402年にかけて胡朝を滅ぼした明がベトナムを支配下に置いたのち、チャン朝の王族の生き残りはフエを拠点として、1413年まで明に抵抗をつづけた。1558年のグエン朝入城までにフエのキン族化はほぼ完了していた。

のどかな田園の様子

 

 1801年、ザーロン帝はフエを制圧し、町をグエン朝の首都に定めた。ザーロン帝は星型の城郭を持つ王城の建設を計画し、1805年にサイゴンに置かれた太和殿がフエに移されて王宮の建設が始まった。グエン朝のフエは、中国的要素が強い北ベトナム地方で培われた文化に、南ベトナムのチャンパ文化を取り入れて発展していく。グエン朝第4代のドゥドゥク帝は建築事業も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

1953年の頃のバオ・ダイ帝

 

 1883年にフエはフランスによって占領され、この地で2回にわたって条約が締結された。第2次フエ条約(パトノール条約)によってベトナムがフランスの保護国とされたあとも、グエン朝の皇帝は大戦末期までフエの宮殿に住み続けた。1945年8月24日に皇帝バオ・ダイは退位を宣言してフエを去り、グエン朝は滅亡する。これをベトナム8月革命という。

皇帝・バオダイ(元ベトナム民主共和国最高顧問)の坐像

| 歴史 | 09:49 | comments(0) | - |
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