シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
初めて日本で開催されたサウジアラビア展

 きのう、うららかな春の日差しを浴びながら上野へ行きました。

 めざすのは上野・東京国立博物館で開かれている「アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝」です。

 主催は東博、NHK,朝日新聞、サウジアラビア国家遺産観光庁です。

 

 ご存じのようにサウジアラビアにあるイスラームの聖地マッカ(メッカ)には世界中から巡礼が訪れます。

 しかし、この地は人類が再三にわたって出アフリカを試みて、最後に成功したものがホモサピエンス。

いま、世界中に存在している私たちホモサピエンスが通過させていただいたところなのです。

 しかし、そういう私でさえも、シルクロードを勉強している身でありながら、あまりこの国と人びとそしてその歴史を知ってはいません。

 

 この40年間ほど、考古学者たちは先史時代の歴史から、香辛料交易で繁栄したオアシス都市の様子など、イスラーム以前の躍動的な歴史も明らかにしてきています。

 今回は、考古学に最新の成果を含む出土品と、イスラーム時代の優れた工芸品やサウジアラビア初代国王の所持品などで構成していました。

 そして、今回は日本初公開だそうです。

 ですから私がこの国のことを知らないのも無理はないですね。

 

 どうせカメラを持って行っても「ダメ」と言われるだろうと思って持って行かなかったのですが「フラッシュをたかなければ」OKだということ。

 うす暗いフロアで撮影していると女性のスタッフが静かに近づいてきました。「そのスマホはフラッシュがついています」というので、「フラッシュをつけないで撮影する方法を知らないので教えてください」という間もなく、さっさと消してくださいました。

 

 “スマホの写真は写真ではない”とかたくなに思ってきた私も、きのうはスマホで撮影しました。

 きょうご紹介する写真はすべて、そのスマホから撮影したものです。遠近や焦点やあれこれがままならない撮影のこと、不出来はお許しください。

 写真のご紹介も今はまだ無理です。これから勉強ですので・・・・・

 撮影順にご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

| 諸民族 | 10:34 | comments(0) | - |
2月18日の「森安通信」
  不定期ですが、「森安通信」が送られてきました。冒頭の「(2月17日)の朝日新聞夕刊に,6世紀後半の北斉時代に中国で活動したソグド人の墓から出た石棺床(寝台)の記事がやや大きく掲載されていました」とあるのですが、東京方面の朝日夕刊には掲載されていませんでした。朝日大阪本社版だと思いますが、私たちの関心を大いに引くものですので、ここに全文をコピーして掲載させていただきます。
 東京本社版には、「樹下美人図」(作者不明) 婦人が見つめる先は  と題する、大谷探検隊が持ち帰った資料の掲載があります。どちらにせよ、うれしいことです。


きょう掲載する森安先生の写真は、15年11月23日に開いた
「日本シルクロード文化センター創立10周年」での映像です。

森安通信 読者各位

 昨日(2月17日)の朝日新聞夕刊に,6世紀後半の北斉時代に中国で活動したソグド人の墓から出た石棺床(寝台)の記事がやや大きく掲載されていました。我々のよく知る関西大学の森部豊教授が関わっているプロジェクトの紹介であり,ソグド人が学界以外で話題になるのはとてもありがたいことです。因みに似たような石棺床は,滋賀県のMIHO美術館にも所蔵・展示されていますが,近年,西安や太原で同様の物が出土しており,これらについては日本語・中国語の報告書が幾つも出版されています。ところが,今度は英語で石棺床を比較研究した次のような本が出ました。これにはソグド人の漢文墓誌のカラー写真も含め美麗な図版が豊富に掲載されています。
 P. Wertmann, Sogdians in China. Darmstadt: Verlag Philipp von Zabern, 2015.  17200


 石棺床を残したソグド人の大部分はゾロアスター教徒と思われますが,マニ教徒も混じっていたと主張する研究者もいます。
 一方,最近の欧米の東洋学界では,中央アジア〜中国のキリスト教史研究が一種のブームになっていて,以下に列挙するような論文集や単行本が次々に刊行されています。その大きな理由は,モンゴル帝国〜元朝以前の中国のキリスト教遺物として長らく唯一であった大秦景教流行中国碑(たいしんけいきょう・りゅうこうちゅうごくひ;唐代長安に建立)に加えて,21世紀に入ってから洛陽で新たに唐代の景教経幢(きょうどう)が出土したからでしょう。キリスト教徒が多数派である欧米人にとっては,モンゴル帝国以前のアジアにおいてキリスト教徒が活躍した痕跡を探るのはたいへん興味のあることらしく,大きな研究資金もどこかから出ているようです。かつて明代に,唐代以降ずっと土中に埋もれていた大秦景教流行中国碑が再発見された時は,ちょうどイエズス会士が中国に進出を開始していた時期と重なったため,その研究が欧州で一大ブームになったのですが,それと似たような状況が21世紀初頭にも出現したわけです。

 景教経幢の経幢というのは,基本的には仏教のもので,「仏頂尊勝陀羅尼経」などの仏典(の一部)と建立の由来・寄進者名などを彫りつけた石柱のことです。幢(どう)の本来の意味は「はたぼこ」です。幢は幡(ばん=はた)と合体して幢幡(どうばん)という熟語になります。幢幡は仏教寺院の本堂内部などに荘厳(しょうごん=装飾)のために天井からぶら下がっている布製(多くは錦や金襴で豪華)または金銅製の六角形のはたぼこを指しますが,経幢というのは境内の地上に建てられる石柱で,多くは八角形をしています。

 洛陽新出土景教経幢に彫り込まれていたのは「大秦景教宣元至本経」というもので,そのタイトルを見ただけでも驚きですが,関係者であるキリスト僧の本名が「米姓」と「康姓」であって,明らかにソグド人なのです。また漢字のほかに景教特有の末広がりの十字架のレリーフがあり,その左右を囲むレリーフはなんと飛天(ひてん)でした。言うまでもなく飛天とは,中央アジア〜中国〜日本の仏教壁画に典型的なモチーフです。 この景教経幢は確かにキリスト教の物ですが,随所に仏教文化の影響が見られるようです。

 なお,私は相変わらずネストリウス派キリスト教(景教)という言葉を使っていますが,最近の欧米学界ではChurch of the East「東方教会」という呼び方に変わってきつつあります。でも,東方教会では日本語で「ギリシア正教会+ロシア正教会」などを合わせて言う場合と混同され,誤解が生じる恐れが大です。




 以下に近年の欧米の景教関係出版物を列挙しますが,これは主に東洋学の研究者や院生向けですので,興味のない方は無視して下さい。
 R. Malek (ed.), Jingjiao 景教. The Church of the East in China and Central Asia. (Collectanea Serica), Sankt Augustin: Institut Monumenta Serica, 2006.
 D. W. Winkler / Li Tang (eds.), Hidden Treasures and Intercultural Encounters. Studies on East Syriac Christianity in China and Central Asia, Zürich / Berlin: LIT Verlag, 2009.
 Li Tang, East Syriac Christianity in Mongol-Yuan China. Wiesbaden: Harrassowitz Verlag, 2011.
 Li, Tang / D. W. Winkler (eds.), From the Oxus River to the Chinese Shores. Studies on East Syriac Christianity in China and Central Asia. (orientalia - patristica - oecumenica, 5), Zürich / Berlin: LIT Verlag, 2013.
 E. C. D. Hunter, / M. Dickens (eds.), Syrische Handschriften, Teil 2: Texte der Berliner Turfansammlung (Syriac Texts from the Berlin Turfan Collection). Stuttgart: Franz Steiner, 2014.
 P. G. Borbone / P. Marsone (eds.), Le christianisme syriaque en Asie centrale et en Chine, (Études Syriaques, 12), Paris: Geuthner, 2015.
 P. Zieme, Altuigurische Texte der Kirche des Ostens aus Zentralasien. (Gorgias Eastern Christian Studies, 41), Piscataway: Gorgias Press, 2015.

 これらはほぼ全て阪大東洋史で購入済みです(最後のツィーメ先生の1冊だけ未購入)。興味のある方は,今春の4月2日(土)に阪大で開催される中央アジア学フォーラムの時に御覧下さい。前もって関係者に連絡していただければ,なお確実です。
              不具  2016218日    森安孝夫
 
| 諸民族 | 10:20 | comments(0) | - |
映画「僕たちの家に帰ろう」の試写会に行ってきました。
6月17日、京橋まで行って、映画「僕たちの家に帰ろう」という映画の試写会に行ってきました。
 
6月17日の本欄を覚えておいでの方は、すぐに理解されると思います。この映画「僕たちの家(うち)に帰ろう」は、「マジックアワー」という映画配給会社が配給する映画で、私はそこの社員の若い女性から助っ人を頼まれました。ま、その内容はともかく、篠突く雨の中を京橋まで行きました。“迷って迷ってようやくその小さなビルにたどり着きました。
 
これまでもお話ししたように、「裕固族」を「ユグル族」ともいいます。ウイグルもユグルも漢語になると同じ意味になります。手間を省くために、当日、会場でいただいたパンフレットから「STORY」を引用します。

映画のパンフレットの表紙。左側は私の机の上にあるもので関係ありません。

 
両親が放牧する土地を求めてより奥地の草原に移住しているため、兄のバーテルは祖父の下で暮らし、弟アディカーは学校の寮に住んでいる。兄は弟が母親の愛情を一人占めしていると思い込み、弟は兄ばかりが眼をかけられていると感じ、互いに嫉妬しあっていた。
 
夏休みが来ても父親が迎えに来なかったことから、アディカーは拗ねる兄バーテルを説得して父母を探すため、2人きりの旅に出る。広大な砂漠をラクダにまたがり、干上がってしまった河の跡を道しるべに、ひたすら荒野をたどって行く―――――
 
痩せて枯れてしまった大地、見捨てられた廃村、そして崩壊した遺跡、河西回廊の変わりゆく風景は、光り輝いた土地が工業化のために消滅し、伝統が新しい社会へと変貌してゆく様をまざまざと見せつける。

17日の本欄でもご紹介しましたが、映画にも登場した「馬蹄寺石窟寺院」です。
 
そしていつしか2人の旅は、彼ら「ユグル族」としてのアイデンティティーの探求へと変わってゆく――――――
 
見終わった私はいろいろ感想がありましたが、社長が「専門の大学の先生からアドバイスを受けています」というので、わたしは控えました。
 
ラストシーンのころ、子供たちの上に大きな風船がユラユラと漂います。案の定、子供がその風船を手に取ります。“子どもじみた手法だなァ〜”と思っていたのですが、これがわたしの浅はかな認識だと思い知らされました。河西回廊など砂漠の多い地域では、日本のような「気象予報」は成り立ちません。風船に観測器具を取り付けて飛ばし、それで観測するのだそうです。しかし映画は、それをずいぶんとメルヘンチックに描いていました。それが上のほうの写真の風船です。
 
ところで、現在のウイグル人を「古代ウイグル」の末裔だと思い込んでいる人がほとんどです。在日ウイグル人のなかには「ウイグル民族5千年の歴史」と言い切る人もいます。これは歴史的にも最終的に確認されてはいません。モンゴル高原でキルギスの襲撃に会い、四散して河西回廊やタリム盆地と周辺に定住し始めたころ、タリム盆地には数多くの「印欧(インド・ヨーロッパ)語族」の人びとが定住生活をしていました。河西回廊にも数多くの諸民族が混住していました。そこに入り込んだのが古代ウイグルの人びとでした。
 
それ以上のことについては、まだまだこれから研究する課題ですので、この辺にしておきます。
 
| 諸民族 | 10:27 | comments(0) | - |
鉄勒(てつろく)の歴史
しばらくご無沙汰していました。私の部屋のリフォームがやっと一段落しました。タタミ2畳分ほど広げましたので、かなり広く感じます。15畳ほどになりました。まだ、床の上には膨大な量の書籍と文書類が放置されたままです。この整理が大仕事ですが、1週間ぶりにリビングから自室に戻って眠ることができました。

机の上に隙間を作って、きょうのブログを書きました。

今日はこのブログを書き終えると、部屋の整理です。落ち着けるのは来週からでしょうか。
本題に入ります。

こんな状態です。悲惨でしょう?
 
鉄勒(てつろく)の歴史
 
鉄勒はチュルクとも読めます。「チュルク」とは「トルコ」のことですので、トルコ系民族と置き換えて読むこともできます。
鉄勒は南北朝末期の6世紀ころから唐代の8世紀ころにかけて、北アジアを中心に広く分布していた古代チュルク系遊牧諸部を漢族側から呼んだ総称です。匈奴の後裔だといわれています。
 
突厥の「厥」の漢字は、現在の漢字の「欠」に当たります。随分ひどい書き方です。中華思想から見るとこうなるのですね。“血痰だらけの野蛮な遊牧民”、特別な欠陥のある遊牧民という意味でこの漢字を用いたのでしょうね。
 
名称としては、丁霊(丁令)や勅勒の後身で、丁霊は高車丁令あるいは単に高車とも呼ばれましたから、高車の後身でもあります。6世紀の前半にその一部はのちの突厥とともにモンゴリアを支配していた柔然の支配下にありましたが、鉄勒が柔然を攻めようとした時、突厥は柔然に恩を売るべく鉄勒を討ったため、以後はかなりの部族が、突厥が興隆した時にはその支配下にはいり、突厥が弱体化すると半独立の状態になったようです。
 
『随書』鉄勒伝には、東はモンゴリア、西はカスピ海方面までを含め、大きく7つのグループに分けウイグル(回鶻)や薛延陀(せつえんだ)など個別の部族名を挙げています。その風俗は突厥とほぼ同じですが、婚姻形態が異なり、また突厥は死者を火葬するのにたいして、鉄勒は土葬していたという相違点があります。
 
630年に東突厥が唐によって滅ぼされると一時勢力を持ち、またその中の9部族の連合体は九姓鉄勒(トクズオグズ)と呼ばれましたが、646年には唐による※羈縻(きび)支配に服しました。680年代、東突厥の復興時にはその支配下に再度入りましたが、やがてその一つである、ウイグルが強大になっていきます。
 
羈縻政策=羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称です。古くは漢の時代にもみられますが、唐の時代に最も巧みに利用されました。中国の王朝は、周辺の異民族・諸国家に対し政治的・軍事的・文化的な従属関係をつくりあげましたが、これらの具体化は、領域化(内地化)・覊縻・冊封などの形態を採りました。
領域化とは、支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を送り込んで、そこの住民を中国の国法下に置いて直接支配することです。
次に、冊封とは、周辺民族・国家の首長に王や侯といった中国の爵号を与え、形式的な君臣関係の元に中国の支配秩序に組み込むことです。
両者に対し、覊縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものです。
 
東ウイグル可汗国
では、鉄勒と切っても切れない関係にある東ウイグル可汗国についても触れましょう。
この東ウイグル可汗国は、古代チュルク族のひとつであるウイグルが、8世紀から9世紀にかけてモンゴリアを中心として建てた遊牧部族連合国家です。
 
突厥支配期の7世紀から、鉄勒の主要な部族連合体だったトクズオグズのなかで頭角を現していたウイグルは、突厥末期にはトクズオグズを率い、さらにバスミルやカルルクを加えて勢力を増して突厥を滅ぼし、744年に可汗国を樹立しました。


写真をご覧ください。

トゥバ南部にある古代ウイグル帝国の要塞だといわれているボル・バージュン遺跡

ここはシベリアです。ロシア共和国内のシベリア南部のトヴァ自治共和国に古代ウイグルの遺跡があります。わたしはまだ行ったことがありません。一度は行きたいと思っていますが・・・ 古くはスキタイ・匈奴やモンゴルやその後身に至るまでほとんどの遊牧民族はこのあたりから発祥しました。シベリア南部はトルコ系遊牧民族の揺籃の地なのです。

わが日本シルクロード文化センター役員の寺田亮平君は、毎年夏、
この地を訪れてトヴァ音楽の研究に通っています


(上)日本シルクロード文化センターの月例「シルクロード講座」でトヴァの民族衣装を着て準備中の寺田君


現在のトヴァ人です=資料から
 
この項のご紹介はここまでにとどめておきましょう。
 
| 諸民族 | 10:14 | comments(0) | - |
柔然の歴史
柔然は4世紀末〜6世紀半ば、モンゴル高原を支配した遊牧民族集団です。蠕蠕(ぜんぜん)あるいは茹茹(じょじょ)とも表記されることがあります。言語はモンゴル系といわれていますが、何せ記録がないため確証はありません。
北魏にしばしば侵入し、対立関係にありました。同じく北魏の敵である南朝の諸王朝とは、こんにちでいう甘粛や青海方面を経由して交流があったとされています。

4世紀の後半、柔然とその周辺国
 
柔然の君主は可汗を名乗っていました。かつてはこれが可汗号使用の最初と考えられていたようですが、それ以前に鮮卑の拓跋部が使っていたことが最近明らかになりました。5世紀には西方に勢力を拡大し、高車を打ち破り、エフタルとも戦ったといわれています。

柔然の騎馬戦士=資料から


柔然の人々=資料から
 
女巫が国政を壟断(ろうだん)しようとしたエピソードが伝えられており、シャーマンの影響力の強さがうかがえます。
6世紀初めにモンゴル北方の丁霊を破り、その反攻に備えて木末城という砦をつくりました。

 
これに関連して興味深いのは、柔然最後の可汗阿那瓌(あなかい)が522年に北魏に対して1万石の穀物を種蒔用に要求して支給された翌年、一転して北魏に侵入し、2000人と家畜を略奪して北方に逃げ帰るという事件が起こったことでした。これは匈奴の場合と同じくモンゴル北方に城砦を築き、その周辺で漢族に農耕をさせようとした表れでしょう。
 
6世紀中ごろ、配下の突厥に滅ぼされました。その一部が西方に逃れてアヴァルになったという説もあります。
 
建国402年、滅亡555年。首都は不明。
 
| 諸民族 | 14:30 | comments(0) | - |
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