シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
森安通信

きのう、大阪大学名誉教授の森安孝夫先生からの「森安通信」が届きました。

大変重要な内容だと思いましたので、このブログに転載させていただきます。

野口信彦

 

 

森安通信 読者各位

 

 3月1日の読売新聞に,中国の内蒙古自治区で発掘された遼帝国第6代皇帝・聖宗の王妃(993年没)墓より出土した複数のガラス器の成分が,ウズベキスタンで出土した9〜10世紀の中央アジア産のガラスに近いことが判明したという記事が出ました。ガラスの専門家である中井 泉・東京理科大教授による広範な成分分析の比較検討を踏まえてのことです。

 

一連の調査研究を指揮された牟田口章人・帝塚山大学教授によれば、「中央アジアのガラス器が草原の道を経て東に運ばれた」証拠になるということです。その記事の電子ファイルをこの通信メールに添付します。私もコメントを求められたので回答したのですが,その主旨は,

(1)10世紀のサーマーン朝〜カラハン朝支配下の西トルキスタンで生産されたガラス器が遼(契丹)帝国に達するには,当然ながら中間の東トルキスタンを支配していた西ウイグル王国を経由するはず,

(2)西ウイグルから遼に到達するには,モンゴル高原の草原地帯を通過するゴビ(砂漠)北方ルートと,甘粛省北部にある河西回廊のオアシスの道から北中国を経由するゴビ南方ルートがあるが,当時の南方ルート地帯の複雑な政治情勢に鑑みれば,はるかに障害の少ない北方草原ルートが利用された可能性が大きい,というものでした。

実際,私のライフワークである『古ウイグル手紙文書集成』に含まれる手紙には,商業目的で契丹へ行く者や「契丹へ(国家の)使者として行く者」が登場します。それらの手紙の文面からは,河西回廊の敦煌にあった王国や北中国の五代王朝などを経由するような雰囲気は全く読み取れず,やはりダイレクトに契丹へ向かったと思われるのです。とすればそれは現在のモンゴル国を経由する草原ルートしかありません。

 

 ところで昨日は,帝塚山大学東生駒キャンパスで宇野鷲弑擬によるソグドのカフィル・カラ遺跡の発掘報告会(副題:ゾロアスター教板絵の発見とシルクロード交流の十字路)に参加してきました。この浮彫板絵は,昨年11月3日の新聞各紙で報道されたもので,カフィル・カラ遺跡は8世紀初頭のサマルカンド王の離宮が焼失した跡ですが,板絵本体は6世紀くらいにまで遡るもののようです。その板絵には箜篌(くご=ハープ)や琵琶や笛やタンバリンのような楽器がくっきりと浮き彫りされており,その形状が正倉院所蔵品との比較で注目されました。その報告会も十分に有意義だったのですが,私にとって驚愕だったのは,牟田口教授からUSBメモリに入れていただいた大量の情報の方でした。

 それを帰宅後に見たところ,3月1日の読売新聞に掲載された記事は,実は2月25日に奈良県の橿原考古学研究所で開催された「金の冠 銀のブーツ 遼代王妃墓の謎を探る」と題する学術成果報告会の内容の一部をごく簡単にまとめたものだったことが判明しました。その報告会は一般公開で誰でも参加できたそうですが,どうやらPRは主に奈良県内に限定されたらしく,私は全く知りませんでした。

2012年に大阪と東京で開催された「契丹」展にも,遼朝の王族・貴族の墓から出土した豪華な金銀器とか,贅沢な細工を施した巨大な木棺など中国の国宝級文物が展示されていて目を見張ったものですが,遼代考古学はその後もどんどん発展しているようです。

先のガラス器を出土した聖宗の王妃墓の発掘が,2015〜2016年に実施された内蒙古自治区の多倫県小王力溝にある遼代の遺跡発掘の一環だっただけでなく,これまでにいくつもの遼代墓から出土した染織品の比較研究によって,新たな知見が得られつつあるようです。染織品には金糸銀糸を織り込んだり刺繡したもの,「遼式緯錦(よこにしき)」の技法を用いたものが含まれ,最終的に金襴が誕生する謎に迫れるかもしれません。また染織に関する平安時代の日本と遼国との深い関連性も指摘されていますから,いずれ仏教文化における両国の結びつきも見直されることになるでしょう。

 

 ところで前回の通信で短く言及した大阪市中之島の東洋陶磁美術館で3月25日までやっている「唐代胡人俑」展ですが,その展示物は甘粛省の慶城県で発掘された穆泰墓から出土したものです。東洋陶磁美術館の展示でも,またカタログでも一言もソグド人という言葉が出てきていないのは,恐らく元の中文報告の執筆者に加え,日本語版カタログ編者の小林仁氏にもこの「胡人」は鮮卑人であるという思い込みが強く,ソグド人ではないかと疑ってみる余裕がなかったからでしょう。

しかしながら吉田豊・京大教授と私の見方は,やはり墓主の穆泰は間違いなくソグド人であろうというものです。いわゆるソグド姓には穆氏も含まれます。我々にはもはやこれについて一文をものするつもりはありませんので,どなたか若い方がそういう視点で墓の出土品全体を見直しながら,墓誌本文の情報並びに関連史料を精査してくだされば,北朝〜唐代に東方に進出したソグド人について,また1つおもしろい論文が書けるのではないかと期待します。

             不具    2018年3月18日   森安孝夫

| ソグド | 08:53 | comments(0) | - |
漢民族王朝で果たしたソグド人の役割
 

北斉(ほくせい)を領土の一部としていた北斉(550577年)の宰相の一人に、安吐根がいました。彼は酒泉の出身でした。モンゴル高原にいた柔然に商売に行っていて、さらに北斉に派遣されたところを皇帝に見込まれて宰相になったということです。ソグド商人の出世頭の一人でした。

 

彼の出身の河西回廊とくに涼州(現在の武威)あたりにはソグド人が多く、中国に帰化したソグド人のたまり場となっていました。

あまりにも多いので中国人は、「ソグド人はもともとこのあたりの出身で、匈奴に追われて西遷した」と信じていたほどでした。

いまでもウイグル人の多くは、ソグド人はわたしたちの祖先だと思っている人が多いのです。

 

因みに、西方から中国にやってきた人々の姓を紹介しましょう。

ソグド=史  ブハラ=安  サマルカンド=康  タシケント=石 

クシャーニャ=何  カブーダン=曹  マーイムルグ=米、などです。

 

ソグド人の評判はあまりよくないといわれています。

「ソグド人は子どもが生まれると手のひらに膠(にかわ)を塗る。成長して甘い言葉で人を欺き、金をもうけ、手に入れた銭は放さないようにと願うからだ」と言われていました。

玄奘三蔵も「ウソ、偽りが多く、父子ともに蓄財に励んでいる」と言っている。

 

でも、玄奘の言葉は、これは中華思想ですね。

しかし、どれほど嫌われようと彼らがもたらす西域のエキゾチックなモードは大流行しました。その余波は、遣唐使を介して正倉院にも及んだのです。

ソグドの女性(胡姫)が客を引くバーやソグド人のダンス(胡旋舞)は、しばしば漢詩のテーマになりました。

 

敦煌の莫高窟にも奇妙な壁画があります。有名な「シビ王本生」の絵です(第254窟)。

釈迦がシビ王であった頃、タカに追い詰められたハトが逃げてきました。王はハトを助けてやろうとするのですが、タカは納得しません。仕方なく王は、ハトと同じ重さだけ自分の太股の肉を切ってやることにしたのです。壁画は肉の重さを天秤棒で計っているシーンです。

 

白いとんがり帽子のソグド人の姿で描かれています。

もとの話にソグド人はもとより商人も登場しませんが、あくどい商人としてのソグド人のイメージが、この場面で利用されているのでしょう。


この写真がそうです

 

シルクロードでは中国から絹が運ばれたましが、「ソグドの絹」もありました。ソグドの絹は、今日のタジキスタンあたりにあったソグディアナで生産され、西に運ばれることもあったのですが、多くはシルクロードを逆にたどって東に向かったのです。

 

二つの絹には織り方に違いがありました。

それは、中国の絹=「経錦(たてにしき)」=たて糸で模様を描くシンプルなものでした。

ソグドの絹=「緯錦(よこにしき)」=ソグドは絹を交易品とするなかで、すでに羊毛を使った毛織物で用いられていた技法を応用して、「緯錦(よこにしき)」という織り方を考案したのです。これは画期的な発明で、この織りで絹の模様はより複雑で精緻なものになりました。


タラスの古戦場で。09年6月
 

ソグドの絹は一時代を画しました。やがてこの織り方は中国に逆輸入され、隋から唐の時代にかけて全盛を迎えました。模様もユニークで、図柄から見てギリシア神話のアポロンではないかといわれており、日本の奈良・正倉院に残る「紫地亀甲殿堂文錦」にも見られます。いかにもシルクロードらしい意匠です。

| ソグド | 07:25 | comments(1) | - |
海のシルクロードでも活躍し、日本にも来たソグド商人

陽気もよいのに風邪をひいてしまいました。2日間ばかり机にも向かっていませんが、ブログだけは書こうと思っています。



シルクロードの歴史遺産がぎっしり詰め込まれている三十三間堂。
08年11月撮影。以下同じ。

 

ソグド商人は海のシルクロードでも活発な交易活動を展開し、日本にも渡来したことが明らかになっています。たとえば、法隆寺献納宝物の一部に白檀二点と沈香一点が伝わっています。そのうちの白檀二点が刻まれた謎の刻印と焼印を手がかりに、8〜9世紀のソグド商人の海と陸にわたる交易ネットワークについて、次のように記述されています。

 

白檀に記された墨書は天平宝字5年(716年)のもので、刻名の文字は、中期ペルシア語のパフラヴィー語に「ボーフトーイ」(人名?)とあります。

焼印の文字はソグド文字「ニーム・スィール」となっており、ペルシア人および船に関する史料は義浄『南海寄帰内法伝』にあり、671年の広州に住むペルシアの船商人が書いたものです。

 

慧超『往五天竺伝』(8世紀前半)には次のように書かれています。

「トカラ国より西に1ケ月行くと、ペルシアに至る。この王は以前には大食(ダーシー・ペルシアのこと)を管理していた。・・・・・この地の人は生まれつき興易(交易)を好む。常に西海(アラビア海)に船を汎(浮)かべ、南海(インド洋)に入る。獅子国(スリランカ)が宝物を産するためであるという。さらにベトナムでは金を入手する。さらに船を漢地(中国本土)へ浮かべ、直接、広州に到着して綾絹・生糸・真綿などを入手する」。

法隆寺の丸みを帯びた柱もペルシア様式。

 

アラビア語史料に現れたファールス商人、ソグド系イラン商人の活動

 

 スィーラーフの人アブー・ザイードとマスゥーディの記録:黄巣の乱(87584年)の反乱軍が広東を陥れた時(878年)、そこに住む外国人12万人(一説では20万人)が殺戮され、さらに中国船(ジャンク)が進出。それまでは大食船・ペルシア船が中国に直接、来航していた、とあります。

 

※上記の項は、「ハルブーザ会」における家島彦一氏の「海の道再発見―海洋交流から見たダイナミック・アジア史−」より引用。

※さらに下記は、財団法人秀明文化財団による「MIHO  MUSEUM 研究紀要 第4号」における、加藤九祚先生の「講演資料」中のシンポジウム「中国の中央アジア人―シルクロード東端の発見」における演者の発言から、箇条書きにして拾ったものです。

 

出席者は、司会・菅谷文則氏(滋賀県立大学人間学部)、パネリストは、榮新江、ボリス・I.マルシャク、ヴァレンティナ・I.ラスポポヴァ、吉田 豊(神戸市外国語大学・ソグドの言語研究)の各氏。

奈良・薬師寺の東寺

 

ここでは、次のことが指摘できます。

 

☆日本の正倉院にあるようなペルシア風の文物は、実はペルシア人ではなくて、ソグド人が作ったか、あるいはソグド人を介して東方に伝わったものだと思われる。

☆聖徳太子の時代から日本の法隆寺には白檀の香木がある。それにはソグド語の焼印が押されている。重量または価格を表したものらしい。香木はインド・東南アジアなどの熱帯産である。インドから陸路でヒンドゥークシュ山脈を越え、シルクロードを経てきたものだろう。それであれば、ソグド文字が入っていることを理解できる。しかし一方、ソグド人は、海上ルートである南海交易にまでも手を出していたのではないかという説がある。ソグド人が日本に来ていたかもしれないが、ソグド人の商売の手広さをはかることができる。

☆突厥の可汗が中国から手に入れた絹を、西方に売りさばいていたのはソグド人だったことがよく知られている。

☆いくつかのソグド語文書から、彼らが“偉大な神”を意味するアドヴァグと呼ばれる神を崇めていたことが分かっている。アドヴァグはインドラである。インドラの乗り物は象である。ソグド人は彼らの神の姿を表現するのにインドの神の姿を使ったわけである。このアドヴァグ神は大変重要な神で、ソグド語文書では、ゾロアスター教の教祖である預言者ツァラトゥストラの問いに答える神となっている。

☆ソグディアナ自体、その中心地では、ほんの少数部分が仏教徒だった。しかしその東のタシケントのような居住地にはソグド人の大きな仏教寺院があり、東方ではソグド人の多くが仏教徒になった。ソグド人の大多数は中国の影響の下で仏教徒になり、唐代の多くの仏教仏典がソグド語に翻訳されることになった。

☆実は日本にもソグド人が奈良時代にやってきている。文献にも記録がある。それは奈良にある唐招提寺の4代目住職が安如宝なのだが、この人は中国揚州のソグド人である。これは文献の記録にはっきりと書いてある。したがってソグド人と日本とはまったく無縁の話ではない。日本書紀にも何ヶ所か出てくる。

☆さらに2006年9月22日の新聞各紙では、奈良時代を中心に大寺院の法要などで催された仮面劇「伎楽(ぎがく)」に使われた面が、所蔵品の中から見つかったと、天理大付属天理参考館が19日に発表したと報道している。奈良時代の東大寺で使われ、酒に酔った西域の人物を表わした「酔胡従(すいこじゅう)」の面と見られている。


トルファンで発掘されたソグド人の像。
 

これらの説をあわせると、西からの民族と文化が怒涛のように中国に入ってきて、その潮流の一端が鑑真和上についてきた。もし安如宝があのまま揚州にいたら、安史の乱で、安禄山、安思明憎さで8千人ものソグド人が殺されたので、彼も殺されていたかもしれない。よくぞ日本へ来て唐招提寺の4代目住職になってくれたという気がする。

 

 以上述べてきたように、はるか中央アジアの一隅に興ったソグド人が東漸して、トルファンや河西回廊の各地に居を構え、都長安においても交易商人や軍人あるいは役人として富と権力を手にした結果、史料の上では明らかになっている日本への渡来という事実、なんと夢とロマンに満ち溢れているのでしょうか。なおいっそう解明と分析の努力を進めたいと思っています。

                  

| ソグド | 05:45 | comments(0) | - |
シルクロード交易を独占したソグド人−2
 続いて同じような内容ですが、2006年4月26日付の朝日新聞に掲載された記事をご紹介しましょう。
 

西安で続々と発掘されたソグドの石槨

 

シルクロードの交易独占 見えてきたソグド人 軍事的にも影響力 唐の確立に関与も

 

シルクロードの東西交易を支配し、チンギス・ハーンの侵攻で歴史の表舞台から消えた中央アジア出身の民族ソグド人の足跡が明らかになりつつある。自らの歴史を書かず、「幻の民」と呼ばれてきたソグド人だが、中国の都・西安(長安)で、墓が相次ぎ発見されている。出土した墓誌の解読がすすみ、中国の王朝に大きな影響を与えていたソグド人の活躍の一端がたどれるようになってきた。

今日は昨日と同じ写真です。

 

北周(556581)や唐(618907)などが都を置いた長安。人口100万を越え、世界最大の国際都市の一つとして栄えた。西安文物保護考古処によると、都を囲む城壁の外側へ北側に数キロ離れた付近で、2000年以降、ソグド人の墓3基が相次いで出土した。

 

北周時代のもので、家の形に築かれた石槨(せっかく)のなかに遺体を安置する石製ベッドが置かれていた。石槨の外壁などには、帽子をかぶり、ひげをたくわえた鼻の高い人物や、ゾロアスター教の炎が描かれている。

墓誌が残っていたため、墓主の名前が判明している。
「安伽」「史君」、「康業」など。

 

同考古処の孫福喜所長によると、中国に定住したソグド人は、安(ブハラ)、史(キッシュ)、康(サマルカンド)など中央アジアの出身地に応じた姓を持つのが特徴。この姓などから墓主はいずれも、ソグド人とみられるという。

 

史君墓には夫婦が合葬され、墓誌には漢文と32行のソグド文字も併記されていた。史国(キッシュ)出身。夫は86歳で死亡したが、北周の皇帝からソグド人が集中していた涼州(現在の甘粛省武威)の「薩保(さっぽう)」という官職に任命された。薩保は、ソグド人社会で一定の自治権が認められていた官職で、安伽墓も同州(現在の陜西省)の薩保だったとされている。

 

ソグド人文化史に詳しい神戸市外国語大非常勤講師の影山悦子さんによると、これまで中国で見つかったソグド人の墓は、墓室内に彫刻などソグド文化を残すものだけでも計11点。外国の美術館などに収蔵された5点は考古学的な情報が少ないが、570600年ごろに埋葬されたものと推測される。

 

このほか寧夏回族自治区の固原では隋・唐代のソグド人で史氏一族の七人分の墓誌が出土している。西安でも唐代のソグド人と見られる100人程度の墓誌が見つかっており、解析がすすんでいる。

相次ぐ発見を受けて、中国や日本、欧米でソグド人の研究が注目されつつある。


 

史氏墓のソグド文字を読み解いた京都大教授の吉田豊さんの話では、ソグド人は4〜8世紀、シルクロード交易を実質的に独占し、長安や敦煌、河西回廊(甘粛省)など中国各地にソグド人が集落をつくって定住。交易による膨大な利益を背景に一千人単位の軍団を持つまでに成長するものも現われた。

 

遊牧民の突厥やウイグルとも深い関係があり、軍事的に大きな影響力を持った。唐の玄宗皇帝に反旗を翻した安史の乱(756763年)でクーデターを起こした安禄山はソグド人だったとされる。

 

固原出土の墓誌を研究する早稲田大助教授の石見清裕さんの説明では、墓主の史氏一族は唐の中国統一戦争を軍馬供給で支え、二代皇帝のクーデターに関与。隋以前に中国に移住したソグド人たちが唐王朝の確立に直接かかわり、ソグド人も中国の歴史を深いところで動かしていたという見方が強まっている。

 

最盛期の長安ではソグド人をはじめ、約10万人の外国人が定住していたとみられる。日本からの遣唐使だった井真成ら多数の外国人が暮らした痕跡が明らかになりつつある。05年9月には康業墓のわずか500メートル北で新たな外国人の墓が出土。墓誌の記述からはインド人と推測されるが、はっきりしていない。

 

石見さんは「唐は多様な民族が交流し、融合して生まれた国だったのではないか。ソグド人の実態解明は、国際的な帝国に迫る手がかりになる」と話している。

 

ソグド人の墓の発掘で得られた成果に現わされているものは、彼らの権力と文化が想像以上のものであったことが理解できる。長安の小雁塔の敷地の中にある資料庫で「安伽墓(あんかぼ)」の墓室を囲んでいた石のレリーフにも、西域の薫りたつ絵柄の上に、ところどころ金の塗料が残っている状態だった。スキタイ以降の黄金文化を保っていたソグド人の裕福さが偲ばれる。

 

| ソグド | 06:10 | comments(0) | - |
シルクロード交易を独占したソグド人−2
 続いて同じような内容ですが、2006年4月26日付の朝日新聞に掲載された記事をご紹介しましょう。
 

西安で続々と発掘されたソグドの石槨

 

シルクロードの交易独占 見えてきたソグド人 軍事的にも影響力 唐の確立に関与も

 

シルクロードの東西交易を支配し、チンギス・ハーンの侵攻で歴史の表舞台から消えた中央アジア出身の民族ソグド人の足跡が明らかになりつつある。自らの歴史を書かず、「幻の民」と呼ばれてきたソグド人だが、中国の都・西安(長安)で、墓が相次ぎ発見されている。出土した墓誌の解読がすすみ、中国の王朝に大きな影響を与えていたソグド人の活躍の一端がたどれるようになってきた。

今日は昨日と同じ写真です。

 

北周(556581)や唐(618907)などが都を置いた長安。人口100万を越え、世界最大の国際都市の一つとして栄えた。西安文物保護考古処によると、都を囲む城壁の外側へ北側に数キロ離れた付近で、2000年以降、ソグド人の墓3基が相次いで出土した。

 

北周時代のもので、家の形に築かれた石槨(せっかく)のなかに遺体を安置する石製ベッドが置かれていた。石槨の外壁などには、帽子をかぶり、ひげをたくわえた鼻の高い人物や、ゾロアスター教の炎が描かれている。

墓誌が残っていたため、墓主の名前が判明している。
「安伽」「史君」、「康業」など。

 

同考古処の孫福喜所長によると、中国に定住したソグド人は、安(ブハラ)、史(キッシュ)、康(サマルカンド)など中央アジアの出身地に応じた姓を持つのが特徴。この姓などから墓主はいずれも、ソグド人とみられるという。

 

史君墓には夫婦が合葬され、墓誌には漢文と32行のソグド文字も併記されていた。史国(キッシュ)出身。夫は86歳で死亡したが、北周の皇帝からソグド人が集中していた涼州(現在の甘粛省武威)の「薩保(さっぽう)」という官職に任命された。薩保は、ソグド人社会で一定の自治権が認められていた官職で、安伽墓も同州(現在の陜西省)の薩保だったとされている。

 

ソグド人文化史に詳しい神戸市外国語大非常勤講師の影山悦子さんによると、これまで中国で見つかったソグド人の墓は、墓室内に彫刻などソグド文化を残すものだけでも計11点。外国の美術館などに収蔵された5点は考古学的な情報が少ないが、570600年ごろに埋葬されたものと推測される。

 

このほか寧夏回族自治区の固原では隋・唐代のソグド人で史氏一族の七人分の墓誌が出土している。西安でも唐代のソグド人と見られる100人程度の墓誌が見つかっており、解析がすすんでいる。

相次ぐ発見を受けて、中国や日本、欧米でソグド人の研究が注目されつつある。


 

史氏墓のソグド文字を読み解いた京都大教授の吉田豊さんの話では、ソグド人は4〜8世紀、シルクロード交易を実質的に独占し、長安や敦煌、河西回廊(甘粛省)など中国各地にソグド人が集落をつくって定住。交易による膨大な利益を背景に一千人単位の軍団を持つまでに成長するものも現われた。

 

遊牧民の突厥やウイグルとも深い関係があり、軍事的に大きな影響力を持った。唐の玄宗皇帝に反旗を翻した安史の乱(756763年)でクーデターを起こした安禄山はソグド人だったとされる。

 

固原出土の墓誌を研究する早稲田大助教授の石見清裕さんの説明では、墓主の史氏一族は唐の中国統一戦争を軍馬供給で支え、二代皇帝のクーデターに関与。隋以前に中国に移住したソグド人たちが唐王朝の確立に直接かかわり、ソグド人も中国の歴史を深いところで動かしていたという見方が強まっている。

 

最盛期の長安ではソグド人をはじめ、約10万人の外国人が定住していたとみられる。日本からの遣唐使だった井真成ら多数の外国人が暮らした痕跡が明らかになりつつある。05年9月には康業墓のわずか500メートル北で新たな外国人の墓が出土。墓誌の記述からはインド人と推測されるが、はっきりしていない。

 

石見さんは「唐は多様な民族が交流し、融合して生まれた国だったのではないか。ソグド人の実態解明は、国際的な帝国に迫る手がかりになる」と話している。

 

ソグド人の墓の発掘で得られた成果に現わされているものは、彼らの権力と文化が想像以上のものであったことが理解できる。長安の小雁塔の敷地の中にある資料庫で「安伽墓(あんかぼ)」の墓室を囲んでいた石のレリーフにも、西域の薫りたつ絵柄の上に、ところどころ金の塗料が残っている状態だった。スキタイ以降の黄金文化を保っていたソグド人の裕福さが偲ばれる。

 

| ソグド | 06:10 | comments(0) | - |
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