シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
「モンゴル」は大忙し

まだ4ケ月先の日本シルクロード文化センター主催のモンゴル・ツアーの参加者が23名になりました。

このツアーで旅行会社にお願いするのは、モンゴルの首都・ウランバートルへの直行便の航空券だけ。あとは主として私が実務を引き受けています。

 

7月の旅とはいえ、とにかく自分の分も含めて23人分の航空券を確保することが最優先。メールのある方、ない方。電話でもつかまらない人、おまけに我が家のFAXは目下故障中。

 

こんなすったもんだの末に、みなさんの登録が終わりつつあります。

パスポートに記載されている漢字とローマ字つづりの正しい名前、パスポート番号と有効期限、それに加えて住所、固定電話と携帯電話の番号などなど。

まあ〜この作業が2カ月近くかかりました。実務とはいえ大変でした。

 

それにしても、モンゴルの旅というものが、こんなに人気があったとは思いもよりませんでした。

始めは、2〜3年前に、ブナの木を見る自然愛好サークルに「白神山地は素晴らしいよ」と言っていたので行くことになったのですが、その下見に参加した女性の方がたから「モンゴルに連れて行って!」とせがまれたのです。

そして昨年末から、モンゴルへ行くことを前提にあれこれ調べ始めたのですが、その時点から参加希望者がどんどん増えていきました。

 

しかし、海千山千の方が多いのでいろいろ大変です。

有効期限というのは、旅行が終わる時点から半年先まで有効なパスポートでないと入国できない仕組みになっています。

それを、「私のパスポートは今年の11月まである。8月2日に帰ってくるのになんでダメなんだ!」と怒鳴りつけられる始末。なかには、1〜2年前に切れているパスポートの写真を送って来て平気な猛者のおば(あ)さまも2〜3名いました。なかにはパスポートを持っていない方もいました。立派なことです。

 

先日は全員の方がたに、色々な文書を送りました。

モンゴルの歴史、「モンゴルが人類史に果たした歴史的役割」や、かつての旅日記、それにあれとこれと・・・

一昨日は参加費の請求を忘れていたので、その文書と一緒にふたたびあれこれ郵送です。

 

ここで気づいたことがあります。

5〜6種類の文書をプリントするのですが、その紙代(約700枚の紙を使いました)とインク代がバカになりません。インクなどは、キャノンならキャノンの純正部品でないとだめというブザーが鳴ります。おまけにタカ〜〜イ!!!

独占禁止法違反で国会で取り上げてもらいたいくらいです。よくみなさん黙っていますね。どこのメーカーの製品だっていいじゃないか!といいたいですね。

 

そしてみなさんには始めに「おことわり」を強調しておきました。

この旅は旅行会社のパックツアーではないこと、自分と仲間たちで一緒に作り上げる手づくりの旅であることです。あまり言いたくはないのですが「個人責任」の旅だということです。

 

「23名もの参加者ですから、添乗員が必要でしょう?」と言ってくださった旅行社を退職された元添乗員の女性が言ってくれました。残念ながら初めからそのつもりであれば予算建てしたのですが、残念ながらおことわりせざるを得ませんでした。

 

そして4月13日の恒例の「シルクロード講座」は、モンゴルに特化したものになりました。

題して「モンゴル遊牧民の暮らしと文化」。お話は、「NPO法人北方アジア交流センターしゃがあ代表」の西村幹也代表

 

うちの奥さんもこの旅に参加するのですが、彼女が図書館から借りてきてくれた西村さんの著書『もっと知りたい モンゴル』(心交社 2009年刊)を読んでいるところです。

 

6月1日(土曜日)午後には、参加者のなんというか『結団式』のようなことをします。

ここでは、先に書いた元添乗員の方から、旅のもろもろの留意事項や注意事項、さらには簡単なモンゴル語の授業やあれこれを行います。

| モンゴル関連 | 11:46 | comments(0) | - |
シルクロードの匂いがする [モンゴル 春の祭り]に行ってきました

きのうの4日、練馬区の光が丘公園で開かれた、日本における最大級のモンゴル祭りと自称する「ハワリンバヤル(春の祭り)2018」に行ってきました。ワイフと2人で家を出て、途中で、看護師歴数十年という年上の友人と待ち合わせて。

 

ワイフの友人がモンゴル語で紙芝居をするということで11時前には着きました。しかし、オープンは12時。チラシには11時と書いてあるのですが、ここは国の違いがそうさせるのでしょう。でも、会場のあちこちで羊の肉を焼き始めており、ビールも冷たそう。

 

この日の「ハワリンバヤル」は、主催が在日モンゴル留学生会と同実行委員会で大使館などが後援しています。

「可能性を秘めた若いモンゴル 大好きな日本に抱いた夢」と銘打った集いになっています。

もうここには、すでにシルクロードの匂いが漂っています。

 

「日本・モンゴル民族博物館」というテントがありました。

興味と関心があったので近づいてみると、むくつけきひげ面の男がニコニコ座っていました。

場所を聞くと、なんと兵庫県の豊岡市。日本海側です。ワイフが「山陰地方ね」、友人は「裏日本ね」。「今は裏日本なんて言わないんだよ」とわたし。豊岡市立の博物館だそうです。

一見、モンゴルとの関連が薄い地方での市立日本・モンゴル民族博物館の健闘を願って近いうちに訪ねることを約束しました。

 

「モンゴル民族基金云々」というテントがありました。

ここではおなじみのトヤさん、マンダブインの姉妹と家族に会えました。

お姉さんのトヤさんは日本シルクロード文化センターの役員を経験し、毎年1回のイベントの司会などもやって頂いたことがあります。姉妹はモンゴル系のオイラトの出身で北新疆生まれです。会社から独立して、すでに事業はスタートさせているとのこと。成功を祈りたいと思います。

 

妹のブイナちゃん。先日、結婚したと思っていたら、もうヨチヨチ歩きのお子さんを連れての参加。ご主人は日本人。「子供の保育園が決まらなくて大変です。私はまだ働けません。野口先生、どうにかしてくださいよ」といわれました。「僕も頑張っているんだけれど、これだけは少し難しいね」といいましたが、大変です。でも、子どもが生まれる前にいた会社からは、早く戻ってきてほしいと催促されているとのこと。それはうらやましい。

 

次のテントは、羊や牛肉を串焼きにしているテント。すると懐かしい顔が。「Hさんじゃないですか!」と再会を喜ぶ。昔あった「シルクロード倶楽部」の事務所でよく会った方でした。羊と牛の肉を注文したのですが、「時間がかかるのでこちらへ」とうしろのシートへ案内される。男性⊃佑いました。「みなさん。こちらの野口先生はシルクロードの専門家ですので、新疆の話を聞いてください」といって、商売のほうへ戻って行ってしまいました。

 

肉を焼いている男性もウイグル人です(ウイグルの世界では、女性は肉を焼いてはならないとなっています)。彼も「友人が4か月前にウルムチへ帰ったけれど、もう帰ってこられないかもしれません」と言っていました。

 

日本人の彼らは、口角泡を飛ばして私にしゃべり始めました。

中共、共産主義はダメ、やがては「立憲民主党の辻本は国会審議をしないなんてとんでもない」と関係ないことまで口走り始めます。

 

そのころから在日ウイグル人の間では、\験供故郷を帰らないで独立運動を続ける、⊃討里い訖戟鼎惶△襦↓さらなる外国へ行く、せ纏本位で新疆の独立などとは無関係に生きる・・・などの多極分化が始まりました。

おかげで、現在の在日ウイグル人の交流はほとんどなくなり、ほんの少数の友人関係だけの集まりがあるだけです。そこでも、不容易な発言があると友人の間でも当局へ通報される恐れがあるので、危ないことは絶対に口にしません。ですから次第に疎遠になります。不信と疑惑とスパイ活動のオンパレードです。

 

私は、‘本人ができることは限られている。他国に干渉することは間違い。国際的合意と支援が必要、

⊃戟鼎叛こΤ特呂離Εぅ哀訖佑共同の目標を持つことが必要

K塾呂筌謄蹐論こΔら孤立するだけ。非暴力だけが強い力を持つ

などを述べました。

彼らは口をとがらせるようなそぶりでしたが、意味が良く理解できないようでした。

 

今回の春のお祭りの実施には、モンゴル人内部での不協和音もありました。

しかし、年に一度、在日のモンゴル人が集まって故郷を懐かしみ、モンゴルの料理と歌と踊りを楽しむ、という点で、ともに主催していくことが大切だと、関係者には話し続けました。

 

翌日の今日は、大人のブフ(モンゴル相撲)大会があります。大相撲のモンゴル出身関取もたくさん来ます。白鳳関は、ブフ(モンゴル相撲)の終わりころに来るとの話です。

今からでも光が丘へどうぞ。わたしは今日は机に向かいます。

 

今日の写真は、残念ですがカメラを忘れました。

したがって、やむを得ずスマホで撮りました。

私はスマホの撮影は嫌いです。

したがって、良い写真は一枚もありません。

まだオープンの前ですが、人がたくさん

舞台では馬頭琴(モリンホール)の演奏。日本人の同好会の方がたも演奏しているようです

ここは紙芝居のゲル。ワイフの友人が手伝っていました

ここは「民族文化基金」のテント。モンゴル人の留学生は300人くらい日本へ来ているとのこと。

まだ多くの青年が日本への留学を希望しているので、その基金を集めている団体だそうです。

| モンゴル関連 | 11:04 | comments(0) | - |
現代シルクロード研究会の報告―2

 その後、紆余曲折があって、ロシア帝国はモンゴル帝国の継承国家として出発しました。ですから、モスクワの貴族たちにはタタール出身者が多かったのです。

13世紀初頭のモンゴル周辺地図

 

 

 その後、14〜17世紀、モスクワは好条件を出してジョチ・ウルスの子孫の王族や貴族をモスクワへ移住することを勧誘、多くのタタール人がロシアに移住し、キリスト教徒に改宗していきました。

 1581年、ドン・コサックのイェルマクがシビルのクチュム・ハーンの支配する町イスケル(シビル)を占領。この年にロシアのシベリア支配が始まったとロシア史ではいいます。

モンゴルの騎馬兵

 

 シベリアの語源となった「シビル」は、漢文資料に登場する遊牧騎馬民の名前「鮮卑」です。

 

 1584年 イェルマク自身は、クチュム・ハーンの反撃を受けてイルティシュ河畔で戦死してしまいます。1598年、クチュム・ハーンはコサックとタタールの混成軍に敗れ、草原に逃げたのですが、結局、ジョチ家の別の子孫であるノガイ族に殺されました。ロシアのツアーリ、ボリス・ゴドゥノフは、捕虜となったクチュムの子らを、皇子(ツアーレヴィチ)と尊称し、優遇したといいます。

出陣へ(ムィコーラ・プィモネーンコ、1902年)

 

 コサック(ポーランド語由来の英語、ロシア語でカザーク)は、ロシア史の定説ではウクライナの逃亡農民といわれていますが、アタマン(トルコ語で百人隊長)と呼ぶ首領を選出し、自立的軍事共同体を形成して、荒野で人馬一体の生活をしていました。

ドニプロ川の河岸でのコサックの見張番。

 

 語源はトルコ語のカザフと同じで「自分の部族から分離して自由行動をとった人びと、冒険者の生活を営むに至った集団」(ロシア正教が言っている)です。黄金のオルドが分裂したあと、ジョチ家の支配から離れてロシア正教徒になった遊牧民集団がコサックの起源であろうといわれています。

コサックのピラミッド。ウクライナ・コサックに遡る騎馬術。

 

一方、カザフ民族は、ウズベク族から分かれた集団です。

 

 コサックは、モンゴル帝国の後裔の遊牧騎馬民と正面衝突しないように、彼らの本拠地の草原からはるか北方の河川沿いに東方へと進んだ。このあと各拠点に建てた砦(オストログ)が町に発展、それぞれの町から南下する。シベリアの森林地帯は人口が少なく征服が容易だったが、草原のジョチ家の後裔の諸国の征服が完了したのは1860〜70年代でした。

コサック・ママーイ。コサックの理想像。

登録コサックの連隊長(18世紀)。

遊び中のコサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年)。

 

きのうと今日の写真・図版は、いずれもウィキペディアから拝借しました。

 

| モンゴル関連 | 10:15 | comments(0) | - |
第10回 現代シルクロード研究会開催のお知らせ

最近は、毎月開催の現代シルクロード研究会です。

テーマが積み重なってきていますので、立て続けにしないとテーマを消化でききれなくなっています。

気楽な勉強会です。お気軽にお越しください。

 

 

テーマ「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」第4回

 

−モンゴル帝国から始まった世界史―

 

                   講師・野口 信彦                       

現代シルクロード研究会」は通算で10回目になります。モンゴル研究も4回目を迎えました。

今回は「モンゴル帝国から始まった世界史」をテーマにしたいと思います。会員が対象ですが、ご希望の方はご一報ののちお越しください。

 

            記

日 時 2017年5月27日(土)午後1時〜4時まで

 

会 場 狛江市泉龍寺・仏教文庫会議室

  

電 話 03−3480−3251

 

郵便番号201-0013 狛江市元和泉1−6−1
            小田急線狛江駅下車徒歩3分程度です。

資料代 500円
狛江駅北口を背中にして左側を直進。突き当りが泉龍寺。

境内の右手奥にある建物が仏教文庫です。

  お問い合わせは野口まで 080−5483−6740

 

 

 

| モンゴル関連 | 08:31 | comments(0) | - |
ウランフ 4  ―内モンゴルにおけるその功罪―
 1945年末、満州や内モンゴルはソ連赤軍とモンゴル人民共和国軍によって「解放」され、中国国民党と中国共産党の争奪の地となりました。日本によって工業建設が進んだ「満州国」は、国共両党にとって死活問題になってきました。内モンゴルの東部地域は満州国の一部であったため、国共の対立が内モンゴルの戦後の運命を決定づける一つの動機となりました。

毛沢東と王明

 中国共産党のエリートたちはウランフが求める内モンゴル自治の主張から自らに有利な一面を見出しました。それは、中国共産党の支持を得た内モンゴルの自治はモンゴル人に歓迎されるだけではなく、モンゴル人民共和国からも支持されます。なぜなら、後者は、せめて盟友である中国共産党が内モンゴルを良くしてもらいたいと思うからでした。

 そうした判断から内モンゴルの自治は中国共産党から支持されます。1947年5月1日成立の内モンゴル自治区政府は中国の主権を認め、中国共産党の指導を受けると宣言し、国民党政府から独立したのです。内モンゴルが中国共産党を選択したのは、モンゴル人民共和国との合併に失敗して、それ以外に選択肢がなかったからでした。

ウランフ

 もし、国民党が勝っていたならば、日本の敗戦と同様もしくはもっと悲惨な清算が待っていたはずです。そしてウランフが指導した内モンゴル自治政府は、1948年〜49年の国共内戦のなかで、一貫して中国共産党側に立ち、様々な戦闘に参加して大きな戦果を挙げました。1949年10月1日、北京の天安門広場で行われた中華人民共和国の建国式典に内モンゴルの騎兵隊が参加したことは、内モンゴルの人びとがこの「賭け」に勝ったことを意味しています。

 しかし、ウランフが指導した内モンゴルの自治が国際情勢の変化と戦略的連合の産物であったことを我々は認識しておく必要があります。したがって、その存在自体は極めて流動的なものです。第一次世界大戦の勝利は永遠の安定を意味するものではありません。内モンゴルの自治が、このように強い法的裏付けに欠けていたからこそ、その存続が極めて脆弱なものとなりました。そのため、1948年以降、ウランフは一貫して中国における民族自治の法的整備に努力してきました。

 協力的な民族主義であれ、中国における民族自治制度の法整備であれ、ウランフの努力はほかでもなく内モンゴル人の現代政治思想の産物だといえます。疑いもなくウランフは、20世紀の中国と内陸アジア地域の歴史に大きな影響を残した一里塚的な人物といえます。
(ウラディ・E・ポラク/ボルジギンブレインサイン訳)

※ここでは、ポラク氏自身の書いた内容を曲げない程度での言い回しの変更をしています。同時に、文中に私自身の考え も入れてあります。
 
 これでウランフの紹介は終わります。このあとはいよいよ、文化大革命期における「打倒ウランフ」と、いわゆるモンゴル人ジェノサイドと「内モンゴル人民革命党事件」の実際を楊海英氏から送られた基礎資料を基に、私の意見も含めて書き進めていきたいと思います。

 
| モンゴル関連 | 10:20 | comments(0) | - |
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