シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
現代シルクロード研究会の報告―2

 その後、紆余曲折があって、ロシア帝国はモンゴル帝国の継承国家として出発しました。ですから、モスクワの貴族たちにはタタール出身者が多かったのです。

13世紀初頭のモンゴル周辺地図

 

 

 その後、14〜17世紀、モスクワは好条件を出してジョチ・ウルスの子孫の王族や貴族をモスクワへ移住することを勧誘、多くのタタール人がロシアに移住し、キリスト教徒に改宗していきました。

 1581年、ドン・コサックのイェルマクがシビルのクチュム・ハーンの支配する町イスケル(シビル)を占領。この年にロシアのシベリア支配が始まったとロシア史ではいいます。

モンゴルの騎馬兵

 

 シベリアの語源となった「シビル」は、漢文資料に登場する遊牧騎馬民の名前「鮮卑」です。

 

 1584年 イェルマク自身は、クチュム・ハーンの反撃を受けてイルティシュ河畔で戦死してしまいます。1598年、クチュム・ハーンはコサックとタタールの混成軍に敗れ、草原に逃げたのですが、結局、ジョチ家の別の子孫であるノガイ族に殺されました。ロシアのツアーリ、ボリス・ゴドゥノフは、捕虜となったクチュムの子らを、皇子(ツアーレヴィチ)と尊称し、優遇したといいます。

出陣へ(ムィコーラ・プィモネーンコ、1902年)

 

 コサック(ポーランド語由来の英語、ロシア語でカザーク)は、ロシア史の定説ではウクライナの逃亡農民といわれていますが、アタマン(トルコ語で百人隊長)と呼ぶ首領を選出し、自立的軍事共同体を形成して、荒野で人馬一体の生活をしていました。

ドニプロ川の河岸でのコサックの見張番。

 

 語源はトルコ語のカザフと同じで「自分の部族から分離して自由行動をとった人びと、冒険者の生活を営むに至った集団」(ロシア正教が言っている)です。黄金のオルドが分裂したあと、ジョチ家の支配から離れてロシア正教徒になった遊牧民集団がコサックの起源であろうといわれています。

コサックのピラミッド。ウクライナ・コサックに遡る騎馬術。

 

一方、カザフ民族は、ウズベク族から分かれた集団です。

 

 コサックは、モンゴル帝国の後裔の遊牧騎馬民と正面衝突しないように、彼らの本拠地の草原からはるか北方の河川沿いに東方へと進んだ。このあと各拠点に建てた砦(オストログ)が町に発展、それぞれの町から南下する。シベリアの森林地帯は人口が少なく征服が容易だったが、草原のジョチ家の後裔の諸国の征服が完了したのは1860〜70年代でした。

コサック・ママーイ。コサックの理想像。

登録コサックの連隊長(18世紀)。

遊び中のコサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年)。

 

きのうと今日の写真・図版は、いずれもウィキペディアから拝借しました。

 

| モンゴル関連 | 10:15 | comments(0) | - |
第10回 現代シルクロード研究会開催のお知らせ

最近は、毎月開催の現代シルクロード研究会です。

テーマが積み重なってきていますので、立て続けにしないとテーマを消化でききれなくなっています。

気楽な勉強会です。お気軽にお越しください。

 

 

テーマ「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」第4回

 

−モンゴル帝国から始まった世界史―

 

                   講師・野口 信彦                       

現代シルクロード研究会」は通算で10回目になります。モンゴル研究も4回目を迎えました。

今回は「モンゴル帝国から始まった世界史」をテーマにしたいと思います。会員が対象ですが、ご希望の方はご一報ののちお越しください。

 

            記

日 時 2017年5月27日(土)午後1時〜4時まで

 

会 場 狛江市泉龍寺・仏教文庫会議室

  

電 話 03−3480−3251

 

郵便番号201-0013 狛江市元和泉1−6−1
            小田急線狛江駅下車徒歩3分程度です。

資料代 500円
狛江駅北口を背中にして左側を直進。突き当りが泉龍寺。

境内の右手奥にある建物が仏教文庫です。

  お問い合わせは野口まで 080−5483−6740

 

 

 

| モンゴル関連 | 08:31 | comments(0) | - |
ウランフ 4  ―内モンゴルにおけるその功罪―
 1945年末、満州や内モンゴルはソ連赤軍とモンゴル人民共和国軍によって「解放」され、中国国民党と中国共産党の争奪の地となりました。日本によって工業建設が進んだ「満州国」は、国共両党にとって死活問題になってきました。内モンゴルの東部地域は満州国の一部であったため、国共の対立が内モンゴルの戦後の運命を決定づける一つの動機となりました。

毛沢東と王明

 中国共産党のエリートたちはウランフが求める内モンゴル自治の主張から自らに有利な一面を見出しました。それは、中国共産党の支持を得た内モンゴルの自治はモンゴル人に歓迎されるだけではなく、モンゴル人民共和国からも支持されます。なぜなら、後者は、せめて盟友である中国共産党が内モンゴルを良くしてもらいたいと思うからでした。

 そうした判断から内モンゴルの自治は中国共産党から支持されます。1947年5月1日成立の内モンゴル自治区政府は中国の主権を認め、中国共産党の指導を受けると宣言し、国民党政府から独立したのです。内モンゴルが中国共産党を選択したのは、モンゴル人民共和国との合併に失敗して、それ以外に選択肢がなかったからでした。

ウランフ

 もし、国民党が勝っていたならば、日本の敗戦と同様もしくはもっと悲惨な清算が待っていたはずです。そしてウランフが指導した内モンゴル自治政府は、1948年〜49年の国共内戦のなかで、一貫して中国共産党側に立ち、様々な戦闘に参加して大きな戦果を挙げました。1949年10月1日、北京の天安門広場で行われた中華人民共和国の建国式典に内モンゴルの騎兵隊が参加したことは、内モンゴルの人びとがこの「賭け」に勝ったことを意味しています。

 しかし、ウランフが指導した内モンゴルの自治が国際情勢の変化と戦略的連合の産物であったことを我々は認識しておく必要があります。したがって、その存在自体は極めて流動的なものです。第一次世界大戦の勝利は永遠の安定を意味するものではありません。内モンゴルの自治が、このように強い法的裏付けに欠けていたからこそ、その存続が極めて脆弱なものとなりました。そのため、1948年以降、ウランフは一貫して中国における民族自治の法的整備に努力してきました。

 協力的な民族主義であれ、中国における民族自治制度の法整備であれ、ウランフの努力はほかでもなく内モンゴル人の現代政治思想の産物だといえます。疑いもなくウランフは、20世紀の中国と内陸アジア地域の歴史に大きな影響を残した一里塚的な人物といえます。
(ウラディ・E・ポラク/ボルジギンブレインサイン訳)

※ここでは、ポラク氏自身の書いた内容を曲げない程度での言い回しの変更をしています。同時に、文中に私自身の考え も入れてあります。
 
 これでウランフの紹介は終わります。このあとはいよいよ、文化大革命期における「打倒ウランフ」と、いわゆるモンゴル人ジェノサイドと「内モンゴル人民革命党事件」の実際を楊海英氏から送られた基礎資料を基に、私の意見も含めて書き進めていきたいと思います。

 
| モンゴル関連 | 10:20 | comments(0) | - |
内モンゴルでもっとも影響力を持った男  ウランフ―2 ―現代内モンゴルの創立者―
 ウランフは内モンゴルでもっとも影響力を持った人物ですし、内モンゴル自治区をつくった人物でもあります。
 そしてウランフに対する評価もさまざまで、中国政府の公式評価は「試練に耐えぬいてきた共産主義の戦士で、党と国家の優秀な指導者、傑出したプロレタリアの革命家で卓越した民族工作の指導者」とあります。
それだったら、彼を批判していた時の評価の処理はどうしたというのでしょうか。

ウランフ(烏蘭夫)
1906年12月23日生1988年12月8日没
 
その反面、モンゴル人の中には彼の負の面を酷評する人も少なくありません。
ウランフがデ・ワン(徳王)と対立して内モンゴルを中国に売り渡したという人がいます。
 このウランフの項目の執筆者はウラディン・E・ボラク氏なのですが、彼はこういっています。

 「まるで徳王が内モンゴルの指導者になっていれば内モンゴルは救われていたかのようだ。ウランフに対するこうした負の評価や徳王への惜しみない称賛は、結局、自らの運命を誰かに委ね、自分たちの不幸を誰かのせいにして、いっこうに反省しない内モンゴルの人びとの退嬰(たいえい)した姿としか言いようがない。
 逆に、内モンゴル現代史は“人民”がつくったのではなく、良かれ悪しかれウランフがつくったものだと言っているようなものである。なぜなら、現代的な意味で歴史を創造しうる内モンゴルのモンゴル族“人民”が形づくられず、今後も形成される見通しがないかもしれないという嘆きのようにも聞こえるからである。したがって、ウランフに対する評価はある意味で内モンゴルのモンゴル人が自らを正しく認識する良い機会といえよう」といっている。
 
 これを私なりに見ると、執筆者自身の中国の党と政府への“気兼ね”が垣間見えてなりません。ウランフが内モンゴルの統一への努力をどう見るのかという根本的な評価がないからです。さらに、デ・ワン(徳王)に対する評価にも同じことが言えそうです。しかし、この国で、自らの考えや意見を言えないという背景があることはよく承知しています。
 
 では、“お前はどう見ているのか”ですって?私は日本人であって、内モンゴルの人ではありません。それぞれの生まれた国土、それぞれの拠って立つ立場、それぞれのおかれた環境、拠って立つ考え方でいかようにも考え方は出ます。ただ、これまでのような、中国共産党のいうことをうのみにした言いかただけは避けたいと思っています。
 
 ウランフの生まれたフフホト近くのトメド部はモンゴル中央部6部の一つであり、16世紀に部酋アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派の首領ソナム・ギャムツォと連合したことは、内陸アジア史を根本から変えただけでなく、モンゴル人の世界観も根本から改造され、その後の運命が決定づけられました。アルタン・ハーンが建設したフフホトはモンゴル人にとって宗教の一大聖地となり、モンゴル人のパワーの内向きな傾向をモンゴル人の再興に向かわせるはずでした。
 
※アルタン・ハーン
 アルタン・ハーン(1507年〜1582年)は、モンゴルを支配したハーンで、ダヤン・ハーンの孫です。因みに「アルタン」は「黄金」の山を意味します。アルタイ山脈は、金の山というように。

この上下の写真は、アルタン・ハーンを
指しています。写真はなかったようです。
 
 ところが、その理想は実現されず、新興勢力の満州人と激しく衝突し、敗れたのでした。その結果、清朝時代にここは防備の重点地域となり、綏遠将軍という軍事要衝が置かれ、トメド部の首領であったチンギス・ハーンの末裔たちは消滅されました。清代に再編成されたトメド旗は他のジャクサ旗と違って、自主権がなく、満州人が総官をつとめる中央直轄地域となりました。
 
※綏遠将軍とは、およそ現在の北京市に相当する地域になります。この場合は、一個人の肩書ではなく、将軍府がおかれた都市のことです。のちに、満州の軍幹部が人の将軍として配置されましたが・・・
 

 
| モンゴル関連 | 06:19 | comments(0) | - |
内モンゴルでもっとも影響力を持った男ウランフ ―現代内モンゴルの創立者―
 私は北京でウランフと接する機会が何度かありました。人民大会堂での外国元首やスポーツのナショナルチームの歓迎晩さん会、あるいはメーデーと国慶節での天安門上での式典や、夜、行われる記念晩餐会などで何度か会ったことがあります。無論、挨拶を交わしたことはありませんが、握手は何度かありました。

 そして、66年の春頃には私がいつも出かけていた「前門飯店」で夕食の最中にトイレへ行ったとき、何人かの紅衛兵に腕をつかまれて入ってきたウランフとトイレで遭遇しました。その後知ったところでは、前門飯店に拘束されたまま、およそ2か月間にわたって、いわゆる造反派や紅衛兵による、無慈悲で仮借ない攻撃が連日続いていた最中だったようです。自殺するしかない状況で、実際、多くの幹部や教授・文化人らが自殺をしています。
 
 きょうからは『内モンゴルを知るための60章』(明石書店 ボルジギン・ブレインサイン編著)。
静岡大学教授の楊海英氏(内モンゴル生まれのモンゴル人、帰化したあとの日本名は大野旭(あきら)氏)、編著の『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(3)―打倒ウラーンフー(烏蘭夫)』を参考文献とします。
 わが「シルクロード講座」でもお話をしていただいたことがあり、その後、同書の贈呈がありました。発行は風響社。本の定価は22,000円。

 
 ウランフという名。日本人の方は一部を除いておそらく初めて見る名前でしょうから、きょうは、まず、ウランフの経歴から始めましょう。ここの部分は主としてウィキペディアを引用しました。
 
 1906年生まれ1988年北京で死去。モンゴル族。内モンゴル自治区において党と政府・軍の最高職を兼ね、中央の政治舞台において、周恩来を補佐する国民副総理、国家副主席を歴任。北京では「蒙古王」とも呼ばれたことがありました。軍の階級は上将。
 ウランフは内モンゴル自治区西部のトゥメト旗の農家出身。地元の小学校を出て、23年に北平(ベイピン、現在の北京)蒙蔵学校(モンゴル人とチベット人)へ入学。同年12月には中国社会主義青年団(現在の共産主義青年団)に参加。25年に中国共産党に入党。

 続いてモスクワ中山(ちゅうさん。孫文の別名)大学に留学し、帰国後、西蒙工作委員会書記などを歴任。日中戦争では日本軍に対して抵抗運動を指揮、
38年4月に中京綏遠工作委員会委員、翌月には国民革命軍新編第三師団政治部主任代理。
 41年4月、延安に行き、陝甘寧辺区政府民族事務委員会主任、延安民族学院教育長などを歴任。共産党内での少数民族問題を担当。その後、八路軍が支配していた張家口に移転して内モンゴル自治運動連合会を結成、中国共産党の内モンゴル支配の基礎を構築。

 さらに東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西モンゴル自治政府の東西モンゴル共産党工作委員会(1949年に中共中央内モンゴル分局に改称)書記に。 この頃に「赤い息子」を意味するウランフに改名。国共内戦期には、綏遠政府主席、中共晋察辺区中央局委員、中共内モンゴル工作委員会書記などを歴任。
 
その後、1953年には内モンゴル軍区と綏遠軍区が統合、新たに蒙綏軍区設置、同年8月29日にウランフが司令員兼政治委員に任命される。内蒙古軍区司令員(初代)兼政治委員、中共中央東北局委員を兼任、遼瀋戦役や北津戦役にも参加。
1949年の中華人民共和国建国後、内モンゴル自治政府は内モンゴル自治区となり、中央人民政府委員、中央民族事務委員会主任・党組織書記、華北行政委員会委員、中共中央華北局副書記など、内モンゴル大学や中央民族学院の初代学長も。
1952年7月5日に綏遠省人民政府主席に就任、綏遠省と内蒙古自治区の統合を進め、1953年にはたに蒙綏軍区が設置されると、8月29日にウランフが司令員兼政治委員。
 
※このように漢字の肩書や地域名などが次々に出てくると頭が痛くなりますね。    
 このあとから、彼の身辺が怪しくなってきます。文革前期には真っ先に批判の対象となりました。もう少し我慢してお読みください。

 
 1945年9月、政府機構が再編されると、9月29日にウランフは国務院副総理に任命。内モンゴル自治区党委員会第一書記、自治区人民委員会主席、内モンゴル軍区司令員兼政治委員、内モンゴル大学学長、党中央華北局第二書記、内モンゴル自治区政治協商会議主席などの職務も引き続き兼任。
 翌年9月、中国人民解放軍上将の階級と一級解放勲章を授与される。

 1956年9月の第8回党大会において中央委員に昇進し、同9月28日の第8期1中全会で中央政治局候補委員に。
 しかし、1966年に発動された文化大革命では内モンゴル人民革命党粛清事件に巻き込まれ、内モンゴル人民共和国で暫くの間代表を務めた経歴などから「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」と攻撃され、同年5月1日のメーデーに北京入りした際に逮捕・拘留されて失脚した。

 同年5月21日から7月27日、共産党華北局の前門飯店会議が開催され、ここでウランフは徹底的に批判・攻撃され、4回の「自己反省」を強制された。7月27日、華北局は「ウランフの誤った問題に関する報告」を提出し、8月16日にウランフは自治区党第一書記の職を解任されたのを始めとし、党・政府・軍のすべての職務を剥奪されて失脚した。周恩来の保護を受け、北京で軟禁生活を送ったが、ウランフはこの時期、名前を漢風の王 自力と変え、文革期の圧迫を凌ぐ。
 
 文革中の1973年、第10回党大会で中央委員に復帰。1975年1月、第4期全国人民代表大会常務副委員長に選出される。1977年5月には党中央統一戦線工作部部長に就任。同年8月の第11期1中全会において中央政治局委員に選出される。翌1978年、第5期全人代常務副委員長と第5期全国政治協商会議第一副主席に選出。

 1983年6月18日、第6期全人代第1回会議において中華人民共和国副主席に選出。1988年4月に退任後、第7期全人代常務副委員長に転出するが、その年の12月、北京で死去。
 
| モンゴル関連 | 06:42 | comments(0) | - |
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