シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
シルクロードの匂いがする [モンゴル 春の祭り]に行ってきました

きのうの4日、練馬区の光が丘公園で開かれた、日本における最大級のモンゴル祭りと自称する「ハワリンバヤル(春の祭り)2018」に行ってきました。ワイフと2人で家を出て、途中で、看護師歴数十年という年上の友人と待ち合わせて。

 

ワイフの友人がモンゴル語で紙芝居をするということで11時前には着きました。しかし、オープンは12時。チラシには11時と書いてあるのですが、ここは国の違いがそうさせるのでしょう。でも、会場のあちこちで羊の肉を焼き始めており、ビールも冷たそう。

 

この日の「ハワリンバヤル」は、主催が在日モンゴル留学生会と同実行委員会で大使館などが後援しています。

「可能性を秘めた若いモンゴル 大好きな日本に抱いた夢」と銘打った集いになっています。

もうここには、すでにシルクロードの匂いが漂っています。

 

「日本・モンゴル民族博物館」というテントがありました。

興味と関心があったので近づいてみると、むくつけきひげ面の男がニコニコ座っていました。

場所を聞くと、なんと兵庫県の豊岡市。日本海側です。ワイフが「山陰地方ね」、友人は「裏日本ね」。「今は裏日本なんて言わないんだよ」とわたし。豊岡市立の博物館だそうです。

一見、モンゴルとの関連が薄い地方での市立日本・モンゴル民族博物館の健闘を願って近いうちに訪ねることを約束しました。

 

「モンゴル民族基金云々」というテントがありました。

ここではおなじみのトヤさん、マンダブインの姉妹と家族に会えました。

お姉さんのトヤさんは日本シルクロード文化センターの役員を経験し、毎年1回のイベントの司会などもやって頂いたことがあります。姉妹はモンゴル系のオイラトの出身で北新疆生まれです。会社から独立して、すでに事業はスタートさせているとのこと。成功を祈りたいと思います。

 

妹のブイナちゃん。先日、結婚したと思っていたら、もうヨチヨチ歩きのお子さんを連れての参加。ご主人は日本人。「子供の保育園が決まらなくて大変です。私はまだ働けません。野口先生、どうにかしてくださいよ」といわれました。「僕も頑張っているんだけれど、これだけは少し難しいね」といいましたが、大変です。でも、子どもが生まれる前にいた会社からは、早く戻ってきてほしいと催促されているとのこと。それはうらやましい。

 

次のテントは、羊や牛肉を串焼きにしているテント。すると懐かしい顔が。「Hさんじゃないですか!」と再会を喜ぶ。昔あった「シルクロード倶楽部」の事務所でよく会った方でした。羊と牛の肉を注文したのですが、「時間がかかるのでこちらへ」とうしろのシートへ案内される。男性⊃佑いました。「みなさん。こちらの野口先生はシルクロードの専門家ですので、新疆の話を聞いてください」といって、商売のほうへ戻って行ってしまいました。

 

肉を焼いている男性もウイグル人です(ウイグルの世界では、女性は肉を焼いてはならないとなっています)。彼も「友人が4か月前にウルムチへ帰ったけれど、もう帰ってこられないかもしれません」と言っていました。

 

日本人の彼らは、口角泡を飛ばして私にしゃべり始めました。

中共、共産主義はダメ、やがては「立憲民主党の辻本は国会審議をしないなんてとんでもない」と関係ないことまで口走り始めます。

 

そのころから在日ウイグル人の間では、\験供故郷を帰らないで独立運動を続ける、⊃討里い訖戟鼎惶△襦↓さらなる外国へ行く、せ纏本位で新疆の独立などとは無関係に生きる・・・などの多極分化が始まりました。

おかげで、現在の在日ウイグル人の交流はほとんどなくなり、ほんの少数の友人関係だけの集まりがあるだけです。そこでも、不容易な発言があると友人の間でも当局へ通報される恐れがあるので、危ないことは絶対に口にしません。ですから次第に疎遠になります。不信と疑惑とスパイ活動のオンパレードです。

 

私は、‘本人ができることは限られている。他国に干渉することは間違い。国際的合意と支援が必要、

⊃戟鼎叛こΤ特呂離Εぅ哀訖佑共同の目標を持つことが必要

K塾呂筌謄蹐論こΔら孤立するだけ。非暴力だけが強い力を持つ

などを述べました。

彼らは口をとがらせるようなそぶりでしたが、意味が良く理解できないようでした。

 

今回の春のお祭りの実施には、モンゴル人内部での不協和音もありました。

しかし、年に一度、在日のモンゴル人が集まって故郷を懐かしみ、モンゴルの料理と歌と踊りを楽しむ、という点で、ともに主催していくことが大切だと、関係者には話し続けました。

 

翌日の今日は、大人のブフ(モンゴル相撲)大会があります。大相撲のモンゴル出身関取もたくさん来ます。白鳳関は、ブフ(モンゴル相撲)の終わりころに来るとの話です。

今からでも光が丘へどうぞ。わたしは今日は机に向かいます。

 

今日の写真は、残念ですがカメラを忘れました。

したがって、やむを得ずスマホで撮りました。

私はスマホの撮影は嫌いです。

したがって、良い写真は一枚もありません。

まだオープンの前ですが、人がたくさん

舞台では馬頭琴(モリンホール)の演奏。日本人の同好会の方がたも演奏しているようです

ここは紙芝居のゲル。ワイフの友人が手伝っていました

ここは「民族文化基金」のテント。モンゴル人の留学生は300人くらい日本へ来ているとのこと。

まだ多くの青年が日本への留学を希望しているので、その基金を集めている団体だそうです。

| モンゴル関連 | 11:04 | comments(0) | - |
現代シルクロード研究会の報告―2

 その後、紆余曲折があって、ロシア帝国はモンゴル帝国の継承国家として出発しました。ですから、モスクワの貴族たちにはタタール出身者が多かったのです。

13世紀初頭のモンゴル周辺地図

 

 

 その後、14〜17世紀、モスクワは好条件を出してジョチ・ウルスの子孫の王族や貴族をモスクワへ移住することを勧誘、多くのタタール人がロシアに移住し、キリスト教徒に改宗していきました。

 1581年、ドン・コサックのイェルマクがシビルのクチュム・ハーンの支配する町イスケル(シビル)を占領。この年にロシアのシベリア支配が始まったとロシア史ではいいます。

モンゴルの騎馬兵

 

 シベリアの語源となった「シビル」は、漢文資料に登場する遊牧騎馬民の名前「鮮卑」です。

 

 1584年 イェルマク自身は、クチュム・ハーンの反撃を受けてイルティシュ河畔で戦死してしまいます。1598年、クチュム・ハーンはコサックとタタールの混成軍に敗れ、草原に逃げたのですが、結局、ジョチ家の別の子孫であるノガイ族に殺されました。ロシアのツアーリ、ボリス・ゴドゥノフは、捕虜となったクチュムの子らを、皇子(ツアーレヴィチ)と尊称し、優遇したといいます。

出陣へ(ムィコーラ・プィモネーンコ、1902年)

 

 コサック(ポーランド語由来の英語、ロシア語でカザーク)は、ロシア史の定説ではウクライナの逃亡農民といわれていますが、アタマン(トルコ語で百人隊長)と呼ぶ首領を選出し、自立的軍事共同体を形成して、荒野で人馬一体の生活をしていました。

ドニプロ川の河岸でのコサックの見張番。

 

 語源はトルコ語のカザフと同じで「自分の部族から分離して自由行動をとった人びと、冒険者の生活を営むに至った集団」(ロシア正教が言っている)です。黄金のオルドが分裂したあと、ジョチ家の支配から離れてロシア正教徒になった遊牧民集団がコサックの起源であろうといわれています。

コサックのピラミッド。ウクライナ・コサックに遡る騎馬術。

 

一方、カザフ民族は、ウズベク族から分かれた集団です。

 

 コサックは、モンゴル帝国の後裔の遊牧騎馬民と正面衝突しないように、彼らの本拠地の草原からはるか北方の河川沿いに東方へと進んだ。このあと各拠点に建てた砦(オストログ)が町に発展、それぞれの町から南下する。シベリアの森林地帯は人口が少なく征服が容易だったが、草原のジョチ家の後裔の諸国の征服が完了したのは1860〜70年代でした。

コサック・ママーイ。コサックの理想像。

登録コサックの連隊長(18世紀)。

遊び中のコサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年)。

 

きのうと今日の写真・図版は、いずれもウィキペディアから拝借しました。

 

| モンゴル関連 | 10:15 | comments(0) | - |
第10回 現代シルクロード研究会開催のお知らせ

最近は、毎月開催の現代シルクロード研究会です。

テーマが積み重なってきていますので、立て続けにしないとテーマを消化でききれなくなっています。

気楽な勉強会です。お気軽にお越しください。

 

 

テーマ「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」第4回

 

−モンゴル帝国から始まった世界史―

 

                   講師・野口 信彦                       

現代シルクロード研究会」は通算で10回目になります。モンゴル研究も4回目を迎えました。

今回は「モンゴル帝国から始まった世界史」をテーマにしたいと思います。会員が対象ですが、ご希望の方はご一報ののちお越しください。

 

            記

日 時 2017年5月27日(土)午後1時〜4時まで

 

会 場 狛江市泉龍寺・仏教文庫会議室

  

電 話 03−3480−3251

 

郵便番号201-0013 狛江市元和泉1−6−1
            小田急線狛江駅下車徒歩3分程度です。

資料代 500円
狛江駅北口を背中にして左側を直進。突き当りが泉龍寺。

境内の右手奥にある建物が仏教文庫です。

  お問い合わせは野口まで 080−5483−6740

 

 

 

| モンゴル関連 | 08:31 | comments(0) | - |
ウランフ 4  ―内モンゴルにおけるその功罪―
 1945年末、満州や内モンゴルはソ連赤軍とモンゴル人民共和国軍によって「解放」され、中国国民党と中国共産党の争奪の地となりました。日本によって工業建設が進んだ「満州国」は、国共両党にとって死活問題になってきました。内モンゴルの東部地域は満州国の一部であったため、国共の対立が内モンゴルの戦後の運命を決定づける一つの動機となりました。

毛沢東と王明

 中国共産党のエリートたちはウランフが求める内モンゴル自治の主張から自らに有利な一面を見出しました。それは、中国共産党の支持を得た内モンゴルの自治はモンゴル人に歓迎されるだけではなく、モンゴル人民共和国からも支持されます。なぜなら、後者は、せめて盟友である中国共産党が内モンゴルを良くしてもらいたいと思うからでした。

 そうした判断から内モンゴルの自治は中国共産党から支持されます。1947年5月1日成立の内モンゴル自治区政府は中国の主権を認め、中国共産党の指導を受けると宣言し、国民党政府から独立したのです。内モンゴルが中国共産党を選択したのは、モンゴル人民共和国との合併に失敗して、それ以外に選択肢がなかったからでした。

ウランフ

 もし、国民党が勝っていたならば、日本の敗戦と同様もしくはもっと悲惨な清算が待っていたはずです。そしてウランフが指導した内モンゴル自治政府は、1948年〜49年の国共内戦のなかで、一貫して中国共産党側に立ち、様々な戦闘に参加して大きな戦果を挙げました。1949年10月1日、北京の天安門広場で行われた中華人民共和国の建国式典に内モンゴルの騎兵隊が参加したことは、内モンゴルの人びとがこの「賭け」に勝ったことを意味しています。

 しかし、ウランフが指導した内モンゴルの自治が国際情勢の変化と戦略的連合の産物であったことを我々は認識しておく必要があります。したがって、その存在自体は極めて流動的なものです。第一次世界大戦の勝利は永遠の安定を意味するものではありません。内モンゴルの自治が、このように強い法的裏付けに欠けていたからこそ、その存続が極めて脆弱なものとなりました。そのため、1948年以降、ウランフは一貫して中国における民族自治の法的整備に努力してきました。

 協力的な民族主義であれ、中国における民族自治制度の法整備であれ、ウランフの努力はほかでもなく内モンゴル人の現代政治思想の産物だといえます。疑いもなくウランフは、20世紀の中国と内陸アジア地域の歴史に大きな影響を残した一里塚的な人物といえます。
(ウラディ・E・ポラク/ボルジギンブレインサイン訳)

※ここでは、ポラク氏自身の書いた内容を曲げない程度での言い回しの変更をしています。同時に、文中に私自身の考え も入れてあります。
 
 これでウランフの紹介は終わります。このあとはいよいよ、文化大革命期における「打倒ウランフ」と、いわゆるモンゴル人ジェノサイドと「内モンゴル人民革命党事件」の実際を楊海英氏から送られた基礎資料を基に、私の意見も含めて書き進めていきたいと思います。

 
| モンゴル関連 | 10:20 | comments(0) | - |
内モンゴルでもっとも影響力を持った男  ウランフ―2 ―現代内モンゴルの創立者―
 ウランフは内モンゴルでもっとも影響力を持った人物ですし、内モンゴル自治区をつくった人物でもあります。
 そしてウランフに対する評価もさまざまで、中国政府の公式評価は「試練に耐えぬいてきた共産主義の戦士で、党と国家の優秀な指導者、傑出したプロレタリアの革命家で卓越した民族工作の指導者」とあります。
それだったら、彼を批判していた時の評価の処理はどうしたというのでしょうか。

ウランフ(烏蘭夫)
1906年12月23日生1988年12月8日没
 
その反面、モンゴル人の中には彼の負の面を酷評する人も少なくありません。
ウランフがデ・ワン(徳王)と対立して内モンゴルを中国に売り渡したという人がいます。
 このウランフの項目の執筆者はウラディン・E・ボラク氏なのですが、彼はこういっています。

 「まるで徳王が内モンゴルの指導者になっていれば内モンゴルは救われていたかのようだ。ウランフに対するこうした負の評価や徳王への惜しみない称賛は、結局、自らの運命を誰かに委ね、自分たちの不幸を誰かのせいにして、いっこうに反省しない内モンゴルの人びとの退嬰(たいえい)した姿としか言いようがない。
 逆に、内モンゴル現代史は“人民”がつくったのではなく、良かれ悪しかれウランフがつくったものだと言っているようなものである。なぜなら、現代的な意味で歴史を創造しうる内モンゴルのモンゴル族“人民”が形づくられず、今後も形成される見通しがないかもしれないという嘆きのようにも聞こえるからである。したがって、ウランフに対する評価はある意味で内モンゴルのモンゴル人が自らを正しく認識する良い機会といえよう」といっている。
 
 これを私なりに見ると、執筆者自身の中国の党と政府への“気兼ね”が垣間見えてなりません。ウランフが内モンゴルの統一への努力をどう見るのかという根本的な評価がないからです。さらに、デ・ワン(徳王)に対する評価にも同じことが言えそうです。しかし、この国で、自らの考えや意見を言えないという背景があることはよく承知しています。
 
 では、“お前はどう見ているのか”ですって?私は日本人であって、内モンゴルの人ではありません。それぞれの生まれた国土、それぞれの拠って立つ立場、それぞれのおかれた環境、拠って立つ考え方でいかようにも考え方は出ます。ただ、これまでのような、中国共産党のいうことをうのみにした言いかただけは避けたいと思っています。
 
 ウランフの生まれたフフホト近くのトメド部はモンゴル中央部6部の一つであり、16世紀に部酋アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派の首領ソナム・ギャムツォと連合したことは、内陸アジア史を根本から変えただけでなく、モンゴル人の世界観も根本から改造され、その後の運命が決定づけられました。アルタン・ハーンが建設したフフホトはモンゴル人にとって宗教の一大聖地となり、モンゴル人のパワーの内向きな傾向をモンゴル人の再興に向かわせるはずでした。
 
※アルタン・ハーン
 アルタン・ハーン(1507年〜1582年)は、モンゴルを支配したハーンで、ダヤン・ハーンの孫です。因みに「アルタン」は「黄金」の山を意味します。アルタイ山脈は、金の山というように。

この上下の写真は、アルタン・ハーンを
指しています。写真はなかったようです。
 
 ところが、その理想は実現されず、新興勢力の満州人と激しく衝突し、敗れたのでした。その結果、清朝時代にここは防備の重点地域となり、綏遠将軍という軍事要衝が置かれ、トメド部の首領であったチンギス・ハーンの末裔たちは消滅されました。清代に再編成されたトメド旗は他のジャクサ旗と違って、自主権がなく、満州人が総官をつとめる中央直轄地域となりました。
 
※綏遠将軍とは、およそ現在の北京市に相当する地域になります。この場合は、一個人の肩書ではなく、将軍府がおかれた都市のことです。のちに、満州の軍幹部が人の将軍として配置されましたが・・・
 

 
| モンゴル関連 | 06:19 | comments(0) | - |
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