シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
幼児期のあだ名は「チベット」 ――渡辺一枝講演会 盛況裡に開かれる――

今回は正面を90度右にして、幅広い椅子席をつくりました

 

きのう11日の「シルクロード講座」は狛江駅前の「泉の森会館」3階で渡辺一枝さんをお呼びしての講演会を開きました。

短期間の取り組みでしたが、市内のいろいろな団体にチラシを配布させていただいて、おかげさまで42名の方が参加されました。その多くは女性でした。

パワーポイントもなく、音楽もなく、文字通りのお話しだけの極めてシンプルな集いでした。

運営する側は、事前の準備もいらないし、高いギャラの演者も必要ないのでありがたいことでした。

 

開場30分ほど前、2階のロビーでコーヒーを飲みながら待機していると、黒い服装でつばの広い帽子をかぶった女性が入ってきました。この方が渡辺一枝さんでした。

 

一枝さんのお話しは、まずご自分の幼児期のお話しから始まりました。

それによりますと、幼いころからチベットのことが頭から離れなくて、おかげであだ名が「チベット」だったそうです。

また戦死した父が話していた「鳥葬」のことが頭から離れず、たまたまテレビで見た「カイラス」を見てチベットへの思いがますますつのったということです。

 

 

わたしは、一技さんの顔を真正面からみることができませんでした。

何か近寄りがたいんですね。

 

そして一技さんは高野山大学のシンポジウムで入場者に配布された紙袋に入っていたチベットツアーのチラシを見てチベット行きが実現したといいます。

それからの一枝さんのチベットにかかわるおはなしは、淡々としながらも鋭く私たちの心を衝いてくるお話しばかりでした。

15分ばかりの休憩を挟んでの3時間弱のお話しは、多少チベットをかじっていると思っていた私などの思いをはるかに超えることばかりでした。

前列左の男性は山岳連盟の海外登山委員長山中さん。その隣が奥さん。

彼らの結婚式の実行委員長が私でした。その右が愛子さん。ご主人も同じ山岳連盟の幹部です。

 

鳥葬とは、「天に還るのではなく生まれ変わる」こと。死んだ者の肉体は「お布施」で鳥に与えられるだけのことということ。

写真も何も残さないのが原則、ということは相続問題が起きないというお話を聞いて、“う〜〜む、なるほど”とうなりました。

5000Ⅿ以上のヒマラヤを越えてインドに亡命する人たちやとくに子供たちの服装は、布の服でありゴムの靴であったこと。

 

お話しは福島の原発に移っていきました。

震災の年の8月から福島へ通っているが「テレビは本当を言わない」と言い切っていました。

オリンピックの聖火リレーで福島の南相馬を1.2卅る計画があるが、そこの道路ではなく、傍らの草むらはいまでも線量が非常に高くて走ることは不可能なところなのに・・・という衝撃的なお話もありました。

何か男性陣はこのあたりに固まっていました。

 

一枝さんは3時間弱という長時間のお話しの中でたくさんのお話しをされましたが、結論的なこととしては、銃撃されて亡くなった中村哲医師は、日本国憲法を自ら体現した方であったという言葉で締めくくりました。

 

終了後の懇親会にも多くの方が参加されて、汲めども尽きぬ語り合いが続きました。

| チベット関連 | 10:24 | comments(0) | - |
渡辺一枝さん登場! 胸に秘めた方のシルクロード講座出演です 

先日もこの欄で書きましたが、渡辺一枝さんに会うために、わざわざ東飯能まで出かけた主な理由は、彼女に狛江のシルクロード講座に登場していただきたかったからなのです。

先日のブログでもご紹介した渡辺一枝さんです

 

もう20年以上も前になるだろうか、神楽坂がわたしの勤務先であったその近くの、路地を少し入った先にあった小さなシアターで渡辺一枝さんのお話しの会がありました。そこへ行ってお話を聞いたのですが、そのときから彼女の話を聞く会を考えていました。

そのときは話しかけることもできませんでしたが。

同様です

渡辺一枝写真展で展示されていた作品です

 

その後、渡辺一枝さんは1996年に『チベットを馬で行く』という本を文芸春秋社から出しました。

たまたまその直前、私と7〜8人の友人とでチベットのカイラスへの旅を実施しました。これが私のチベット初見参でした。ですからそのころの私の頭のなかはチベット三昧だったのです。散々苦労し、敗退したチベットの旅から帰ってきて、9月にこの本を発見して購入したのです。

 

ところで、ワイフの高校時代からの親友が所沢辺りで、渡辺一枝さんとの交流があるということを聞いていたので、紹介をお願いしていました。

それが先日、突然、「2〜3日後に飯能で渡辺一枝さんの写真展がある」という話。車で2時間かけていき、シルクロード講座への出演がやっと決まったのです。

ここからは私の1998年のチベット・カイラスへの旅の一連の作品です

ランクルがスタック(川にはまって)しているとき、近くの小学生たちが見学に来ました。

しばし、交流の時間になりました。私のこの写真が1998年度の「機関誌コンクール」でトップになりました。

チョーオユーのベースキャンプから望む名称不明の山。

多くの人は、これがチョーオユーだと勘違いして言う。驚くべきことにチベット人のガイドも間違えていた。

山や丘あるいは湖などは神のいるところとして必ずタルチョがある

 

そこでいただいた何種類かのパンフで分かったのですが、彼女は1987年3月に保育園の仕事を退職した翌日に、1人でチベットへ出かけたとのこと。

偶然にも私は同じ年に、勤務先の社長から「私のあとを継いでほしい」という要請を受けて、翌日に「退職届」を出し、そして、たまたま別の要請があって「日本勤労者山岳連盟」の本部事務局長として迎えられました。

 

登山の専門家でもなく、逆に山登りはあまり好きなほうではなかったのに、です。

そして2004年2月に定年退職・退任して、脱兎のごとく出かけたのが新疆ウイグルの地でした。時は違えど、チベットとウイグルという地も違えど、気持ちは共通していたのだと思っています。

 

飯能でお願いをしたときは、私の態度があまりにも性急だったのでしょうか、「家に帰ってから予定を見ます」ということでした。「謝礼は1万円しか出せないのですが・・・」といっても、そんなことは全然かまいませんよという態度でした。

お話しも、強引でわがままで勝手な私とはすべてが正反対。これで二度ぼれしました。

マナサロアール湖を望むナムナニ峰

 

今までのシルクロード講座の会場は和泉多摩川の「みんなの広場」という会場でした。

こんどは渡辺一枝さんだからもっと集まるだろうと思い、勝手に80人入る「泉の森」会館を予約してから役員会に相談しました。快諾です。

私が「渡辺一枝さんが椎名誠の奥さんだということはあまり言わないほうがいいよね」というと、わがクラブの事務局長殿いわく「椎名誠より渡辺一枝さんのほうが有名だし、人が集まるよ」とのこと。安心しました。

私たちの車は毎日5〜6回ほどスタックする。温暖化で永久凍土がどんどん溶けてくるからであろう。

この時はトラックで巡礼に向かっていた人たちが、極端に冷たい川に入り込んでトラックを引っ張ってくれた

チベットの独立派が作成したチベットの地図。月と星が新疆ウイグル、その右が内モンゴル

 

渡辺一枝さんをお呼びするまでのことは以上ですが、1月11日(土曜日)は1時受付開始で1時半開会です。ご家族やお友達と誘い合わせて是非、狛江までお越しください。お待ちしています。

| チベット関連 | 11:38 | comments(0) | - |
チベットといえば渡辺一枝さん

20年か25年ほど前、勤務する神楽坂の近くに小さなシアターがありました。

そこで、チベットに関する講演会がありました。お話ししていたのが椎名誠さんの奥さんでもある旅行作家の渡辺一枝さんでした。

どなたかとお話しする一枝さん

 

うちの奥さんと高校時代からの友人のTさんから、7日にメールが来ました。

「飯能で一枝さんの写真展がある」と。

10数年前から、わが日本シルクロード文化センターの「シルクロード講座」あるいは11月のイベントの講演に渡辺一枝さんをと願っていた私は、なかなか連絡先が分かりませんでした。

 

Tさんが渡辺一枝さんと少々の関係があるといっていたので、分かったら教えてほしいとお願いしておいたのです。

それが「飯能・チベットを知る会」という団体が昔からあって、そこが主催する「渡辺一枝写真展 私と同じ黒い目の人」と題する写真展でした。そこと多少の関連があったということのようでした。

一枝さんが会場に来るのは9日と12日だということなので、急遽、きのう9日にワイフと行きました。

受付前の陳列品

 

ドライブを楽しもうということで、高速道路を使わないで下の道で行くことにしたのですが、なんと2時間もかかりました。ナビも2時間と言っていました。2分違いでぴったり会場に着きました。「ナビはすごい!」と思いました。

会場に入って一技さんが受付にいたので、さっそく、ご挨拶をしてお願い事もしました。

 

 

さほど広くない会場に彼女の写真が展示されていました。なるほど30年以上もチベット・モンゴルなどに通い詰めただけの写真だな〜と感嘆しました。

とりわけ私の興味を引いたのが、会場中央のテーブルに置いてあった写真集でした。

このアルバムがたくさん置いていてありました

 

その一部です

 

そのうちの数冊を見たのですが、私の想いと共通する角度からのものでした。

渡辺一枝さんとお話をしたいと思ったのですが、何人かの女性が会話待ちのようでしたので遠慮しました。このようなとき私は人をかき分けてまで話ができないので、写真だけ撮影の許可を求めて映しました。どなたか女性と話していたところを、撮影の許可を求めたのですが、その女性が「私もですか?」というので、断固として「あなたはけっこうです」と言ってしまいました。悪かったな〜、言いすぎだったな〜と今思い起こしました。でも、“あんたに用はないよ”というのが、その時の実感でした。

帰りは、圏央道と中央高速をひた走って1時間で帰り着くことができました。

 

会場でご都合を伺ったのですが、「今はわからない」とのこと。「では帰宅したらすぐにメールを差し上げますので、1月11日のご都合のご返事をお願いします」とお願いしたので早速、いただいた名刺でメールをしようと思いました。

それがありません!あれほど大事にしておいた名刺なのになぜないのだろうと何回も探しましたがありません。ワイフは帰宅後すぐに踊りの連中で出かけたのでわからないまま今朝になりました。

私と少し年下の渡辺一枝さんです

 

彼女に聞いたところ、帰り際に、受付でCDを買う時に大切にしていた名刺をテーブルにおいたのをおぼえているということでした。そのまま帰ってきてしまったのですね。彼女はそれしか心あたりがないとのことでした。ワイフの言葉にはいつも蛇足が付きます。「せっかくいただいた名刺を置いてくるなんて一技さんに失礼よ」。

しかしTさんからワイフあてに来たメールに渡辺一枝さんのメールアドレスがあるということで、それを探してやっと、今朝、送信することができました。

作品の一部

受付辺り

 

まだあります。“誤植〜校正の神様”と自称している私(誰も言ってくれないので自分で言っています)ですが、送り終えたメールを見て、渡辺一枝さんの名前を「一さん」と間違えていたことが判明したのです。

すぐにお詫びと訂正のメールを再送したとことです。

| チベット関連 | 12:07 | comments(0) | - |
金婚記念のチベット・アムド旅行 最終回

さぁー、このレポートもこの辺が潮時ですね。この回で終わりにしましょう。

ガイドのドルチェとドライバー君は帰宅しました。「帰るときにはわたしのメールアドレスを教えますから、野口先生が日本へ帰ってからも連絡を取り合いましょう」といっておいて、「給料をもらってから帰るわ」ということで、サヨナラのあいさつもなしにサッサと帰っていきました。これが現代っ子なのでしょうね。

 

帰国前日のこの日は、のこちゃんが運転をしてガイドです。

最初は、私は何度も行っている「中国西蔵医薬文化博物館です」。

前回の2年前に来た時には、バカでかい建物だったという印象だったのですが、その後ろにもう一つ、それよりも大きな建物ができていました。

この何年かで2000兆円もの外貨準備ができている国だから、お金は無尽蔵にあるのでしょう。ここも2年前にレポートしていますので省略します。

大きな大きな博物館です

2人で映るのにもやっと慣れてきた感じです

博物館内部です

横のものを縦にできまん

日ごろから「ヨコのものをタテにもしない」わたしですので・・・

このように働きながら、みんなで歌う歌が最高に素晴らしいものなのですが・・・

 

 

次は「東関清真寺院」です。

イスラム教徒を中国では「回族」といいます。そのお寺、要するにモスクです。

東関という言葉は、発音は「ドンガン(東干)」。

清王朝末期という時代に大規模な反乱が起こり、清の軍隊が数百万人のドンガンを殺略したのですが、その攻撃の最終目的は、現在の北新疆にいたジュンガルでした。要するに中国のイスラム教徒のお寺です。

モスクをガイドする回族の青年です

ここはさすがに警察の警戒が厳重です。

しかし、チベット自治区ほどあからさまな(自動小銃と消火器を抱えながらの一列縦隊の行進)警戒ではなく、武器を持たない丸腰です。

 

東干はどこから来たのかという論争があります。わたしはモンゴルがヨーロッパ各地を攻めた時、中央アジア各地から奴隷として連れてきた人びとだと思っていますが、私の友人は「明の時代の船で海から連れてこられた」と言って譲りません。ただ、「イスラム教徒になった漢民族人だ」という説は、誰からも支持されていません。

学校で勉強したものをお父さんに見てもらいます。彼女はお母さんには思い切り甘えますが、お父さんは相当に怖いようです。

でも、食べ盛り

4人そろって記念写真です

お店の前では、どこでもやるのですがチベットの曲で踊りの輪ができます。ただし、躍るのは漢族だけですね

私たちは見物しながら・・・

遊びや踊りは子供が大好きです。わたしも。でもなぜチベット人が踊らないんでしょうか?

 

翌朝5時、ノコちゃんのご主人が空港まで案内してくれて、上海での6時間待ちのあと無事に成田へ帰ることができました。

成田から愛車でスイスイ自宅へ帰ったのですが、この9月10日という日は台風15号が暴れた翌日だったのですね。とくに千葉県がひどい被害があったそうで、東関東道沿線も被害が激しかったとあとで分かりました。楽しく旅行をして帰ったあとだけに、何やら後ろめたい気持ちの残った、しかも印象的な旅でした。

そうそう、思いだしました。この旅は私たちの結婚50年を記念するものでした。

| チベット関連 | 08:47 | comments(0) | - |
金婚記念のチベット・アムド旅行

五体投地のお寺からは次のお寺「センゲジョン寺」へ。

ここでは、内モンゴルから巡礼に来た青年と仲良しになりました。内モンゴルもモンゴル国も同じチベット仏教ですが、わたしはお寺に食傷気味ですので、カットします。うちの奥さんは宗教学を勉強していたので、興味津々でした。踊りのネタにもなるんでしょうね。

内モンゴルからやってきた彼との遭遇は、なぜかいつまでも私の心に残っています

きらびやかな寺は、どのような歴史があるのだろうか?

 

ここ同仁は仏教美術の中心的なところ。タンカ工房が数多くあり、街にはたくさんの絵師がいました。5分ほど訪ねた工房では高校生くらいの少女が真剣なまなざしで描いていました。聞くと、まだこの工房に入って3か月だとのことでした。彼女や多くの絵師たちが早く一人前になれるよう思いました。

 

このあと、だいぶ近くなっていた西寧へ向かいます。途中、ドルチェの友人と会いました。

“ガイドは仕事中に個人的な仕事をつくってはならない”ということは古今東西、鉄則ですが、彼女はそれを無視して、あるいは知らないのか臆面もなくやってのけてしまいます。でも、素人のガイドながら、私たちのような旅行者にとっては、それもひとつの風物。かまわん、かまわん。

街の風情!

ドルチェの友だち。日本でそうですが、顔は可愛いのですが、日本語をあまりよく理解できていない女子アナがいますが、彼女は違うのでしょうね。

彼女は私たちを食事に招待してくれましたが、早く西寧に着きたいのでお断りしました。

 

その友人とは(以前にも少し紹介しましたが)、以前、東京で知り合った々留学生の友人だそうで、実家が裕福なのでドルチェも随分と助けられたといいます。

そのお友達はこのあたりの地方テレビ局のアナウンサーをしているそうですが、闊達な漢語とドルチェとは早口のチベット語で話しまくっています。

 

ついでに言いますと、ここ青海省のアムド地方とチベット自治区のラサ地方とでは言葉が通じません。数年前、私をラサ空港に送るために空港へ向かうとき現地のドライバーとノコちゃんがなんだか口喧嘩をしていました。言葉が通じないので結局、漢語でケンカをしなくてはなりませんでした。しまいにはお互いに「なんで私たちは漢語でケンカするんでしょう」と苦笑してしまって終わってしまいました。

 

そしてやっとノコちゃんに会ことができました。こう書くと、まるでいとしい恋人と会うような言い方ですが、彼女をうちの奥さんに会わせたかったのですね。“ほら、これまでのチベットの旅のガイドが、こんな娘さんなんだよ”と。

これがお店の内部です

店の名前は「薩其奥」=さちお です。ノコちゃんが町田市の大学へ留学中に大変お世話になり、その教えに感銘を受けた恩人だそうです。

「薩其奥」=さちおさんの写真です

うちの奥さんとノコちゃんが初めて会いました。

 

のこちゃんは、自分たちがスタートさせたお店へ私たちを案内してくれました。メールでは「最近、カレー屋さんを始めました」と言っていました。カレーが中心ですが、揚げ物やなにやかやと日本食中心です。

みんな日本食ですね

 

やがて元気よくメトゥ(娘さん)ちゃんが帰ってきました。お父さんは大学の日本語の先生、娘は小学校4年生。6月に学年末になるので、もう4年生。わが孫娘と同い年です。利発そうなかわいい顔をしています。“ここにもわたしの娘と孫がいた!”と思いました。彼女はあまり日本語ができませんが、やがてお店の端っこで宿題をはじめました。

これが「メトゥ」ちゃんです

でも、まだまだ甘えん坊です

 

あとで聞いたところによると、クラス全体は65人ほどで、そのうちチベット人は2人しかいなく、メトゥはその中でも全体のトップ5人の1人に入っている成績だと、お母さんのノコちゃんは鼻をピクピクさせながら(そのように見えたのです)自慢していました。

私とメトゥとのツーショットですが、何か体がこわばってますね

うちの孫も最近はハグもしてくれません。

 

とにかく中国の学校は、宿題がとても多いということは以前から聞いていました。やがてお父さんも来ました。以前ここへ来たとき、青海湖へみんなでドライブしたのですが、彼は上半身に入れ墨をしていたのです。驚いたのですが、それは入れ墨の模様の入ったTシャツだったのです、子供のような茶目っ気たっぷりでした。

店の「薩其奥」=さちお、の看板もちゃんとあります

| チベット関連 | 11:42 | comments(0) | - |
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