シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
今週末から河西回廊の旅に出ます―2

 4日目はいよいよ今回の旅の目玉でもある炳霊寺石窟へ。河をせき止めて造った人造湖で、モーターボートで2時間近くも突っ走ります。その翌日は天水市の麦積山石窟へ。麦を積み上げたような恰好をしているとのことなのですが、私には全然そのようには見えません。

炳霊寺石窟へはこの人造湖を2時間近く突っ走ります

回廊にこのような仏像が無数に並んでいます。

ここまでの写真は、炳霊寺石窟

 

眼もくらむような高さにある麦積山石窟

ここまでの写真は私の撮影ですが、麦積山石窟です。

 

 翌日は青海省の西寧市へ。「のこちゃん」の家族はこの街に住んでいます。翌日は青海湖観光。そして、医学博物館などを観光して翌日、西安市へ。

中国の地図で、赤いところが青海省です。ここは清朝時代、すべてが

チベットの国でした(インターネットから)。

青海湖

ここの2枚は私の撮影です

 

 西寧では観光の目玉がタール寺なのですが、今年になってから、ここは駐車場から数キロも離れた所に設置されて、歩いて小一時間もかかるようになったとのこと。どこかの誰かからどこかの誰かへの袖の下が通って、どこかの官庁がこの理不尽なことを認めたようです。連日の旅の最終コースに近いので、おそらく疲労も蓄積していることだと思い、ここはキャンセルをせざる得なくなりました。

ここは西寧市の医学博物館

西寧市のここはチベットのアムド地区。五体投地の巡礼者も多くいます。

目標はタール寺。

 

 

 西安では、兵馬俑、大雁塔、陝西省古代博物館、長安旧城(西門)へ。

旧長安の城壁。ここから西のシルクロードへ旅立って行きました。

上の写真の城壁から見た西安市内。この道がず〜〜〜っと西へ続いています。

兵馬俑

 

 ここでも陝西省古代博物館が休館日とのことで別の博物館になりました。

 

 今回の旅の仲間には84歳の方がいます。拙宅のすぐ後ろに住んでいますが、毎日歩いたり階段を上り下りしたりのトレーニングを積んでいます。

 

 兵庫県からの常連の人、彼女は大阪の大学を定年退職したので、晴れて自費で行くことになりました。

彼女は大阪の女子大学でモダンダンスを教えていたそうで、このありさま。

 

 むかし、朝日の写真部にいた80歳近い方もいます。

 

 のこちゃん情報では、あちらも日本と同様に、例年にない暑さだそうです。

 暑さ対策と疲労回復、夏の旅はこれが最大の課題になりそうです。

 どんな旅になるか面白そうです。帰ってからの報告を待ちください。

敦煌・鳴沙山の観光用ラクダは、最近では長時間労働で過労死しているそうです

 

 

 そうそう、最近の中国は、見境なく外国人を捕まえています。

 アメリカの青年は帰国後、亡くなりました。ノーベル賞受賞者の劉暁波氏も獄殺されました。日本人の社員もつかまって6人中4人が釈放されましたが、2人はスパイ罪で拘留中です。

 反革命を煽ったり、国家を打倒せよなどといわないで、良心的な主張をしているだけでも捕まるのですから、私もどうなるかわかりません。

 

 では行ってきます。それまでこのブログはしばらくお休みです。

| 河西回廊 | 10:31 | comments(0) | - |
ー27  兵馬俑

 3号坑は、始皇帝を、あるいは始皇帝の墓を守る儀礼兵と作戦司令官のために造られた俑と兵馬の人形である。だが、兵士の前に司令官はいない。司令官は始皇帝だから後ろから命令を下しているのだという。3号坑は2種類ある。弓兵と戦車である。戦車というのは馬に引かせた馬車に兵士が乗って闘いの先頭を走り、敵を打ち砕く役割を持っている。それを戦車という。戦闘は、主に歩兵、弩(ど)兵と射兵が戦う。

弩の弓を構えた兵士(弓は見えないが・・・)

 

 

 当時の馬はかなり小さく、兵士より背の低い馬が多かったようだ。だから漢の時代になって武帝は西域に強く大きく、持久力のある汗血馬を求めたのである。

左の人間の俑と右の馬の俑の大きさを見比べてみてください。馬はかなり小さいでしょう?

 

 3号坑では土に埋められて姿を現していないモノが多々ある。空気に触れると原色が損なわれるということだが、“まだ始皇帝の魂が残っている”とみなされていることもあるようだ。

 

 この兵馬俑は当時の秦の製造技術の高さを目の当たりに見ることができる。よく知られている話だが、兵馬俑の兵士の顔は同じものがふたつとなく、すべて違う顔をしている。だが、なぜ墓でなく兵馬俑だったのだろうか。それは中国には、当時まだ「墓」というものがなかったからである。墓ができたのは漢の時代になってからである。

 

 今回は手慣れたベテランガイドと旅慣れた2人の同行者がいたので、じっくり観察できたことが幸いだった。

兵馬俑1号館前で。左が兵庫県の都倉さん、右が鎌倉の三留さん

一号館の中で。今日の写真はいずれも2012年のもの。5年前ですね。

| 河西回廊 | 09:24 | comments(0) | - |
−26 兵馬俑

 2号坑の軍陣は1号坑の東端北側で1号坑との距離は20メートルで(『型・カギがた)を呈し、東西124メートル南北98メートルで6000平方辰量明僂鬚發帖H掘調査から戦車の引き馬350余頭、騎兵用に馬100余頭、その他各種武士俑が900余、合計1300件の陶俑、木製戦車89台で、これらは歩兵、騎馬兵、軽車等で混編された一種の曲形陣である。1号坑の軍陣と比べると、それは当時の補助軍で突出力の強い陣営である。その陣営は4つの陣営に分かれている。

 

 第1の方形陣営は弩兵陣営で曲形陣営の先端に位置し、230以上の弓弩手を持っている。その内甲冑を着た160余の重装備の跪射兵(きしゃへい)は陣営の中心に8列に並び、その外側に170余りの戦闘服を着た軽装立射手が周りを囲んでいる。こうして敵に挑む時この二種の姿勢で射撃でき『百発不休止』、矢が雨

の如く降り、敵に一歩も近寄らせない。

 

 第2の小陣営は曲形陣営の右側で64台の戦車から成り、全ての戦車に1人の御者と2人の甲冑兵で構成され、歩兵は含まず、行進のスピードが速く、突破能力に優れていた為、当時の戦場では敵のど肝を抜いた軽戦車軍である。

 

 第3の小陣営は曲形陣営の中部にあり、戦車、歩兵、騎兵の混合編制でそれは19台の戦車を主戦力とし、260余の歩兵を補助とし、8騎の騎兵隊が後方を防衛し、特殊な役割を持っている。

 

 最後の第4陣営は曲形陣営の左側の騎馬兵陣営である。108の主要騎馬隊と6台の戦車で編制されている。この騎馬兵は強固な肉体を持ち、頭に皮の帽子をかぶり、皮の靴を履き、短い甲冑を付け、片手に弓を、片手に手綱を持ち、あか抜けして、戦馬も強くがっしりとしている。このような騎兵がいったん戦場に投入されると、電光の如くすばやく、風のように動き、雷の如く強く対決するであろうといわれている。

 

 3号坑は【凹】字型をしていて発掘された3つの兵馬俑坑の中で一番小さい。兵俑66体、馬俑4体、戦車1台と兵馬俑の数も少ないが、三つの兵馬俑坑の中で一番重要な役目をしていた。それはこの3号坑が全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部)であったためだ。

 

 秦の兵馬俑坑は秦軍の縮小図であり、戦車や騎馬隊の千里にもおよぶ勝利の行進は又、固く守られた指揮中枢をも備えている。それは2200年前の古代帝国軍を今の世に甦らせている。
 秦の兵馬俑は当時の強大な秦の大軍隊を再現しているだけでなく、軍陣の編列、兵器配列、及び戦略思想等を型象的な実物資料として呈している。

| 河西回廊 | 08:48 | comments(0) | - |
−25  西安・兵馬俑

 1号坑は東西に伸びる長方形で長さ230m、幅62m、深さが5m、総面積は1万4260平方mあり、3つの俑坑のなかで最大である。

 

 1号坑の兵馬俑の軍団は、文字通り始皇帝の近衛兵の役割を果たしており、東に向かって攻撃態勢を取っている。編成は前鋒の主要軍団、左右の側方部隊、後方の防衛部隊の4つに分かれている。主鋒の前方部隊は傭坑の最前部に横3列で構成され、全部で204体。兜をつけず束髪のまま脚絆(きゃはん)を締めて手には弩を持ち、勇ましいその姿はまるで宝剣の刃(やいば)のごとくである。

 

 前方部隊の後ろには東西に伸びる11本の溝に戦車と歩兵が38列に並んでいる。これらの歩兵のほとんどが鎧(よろい)を身に付け、足には脚絆を巻き、手には矛、戈、亜戟等の長い武器及び、弩を装備する重装備の兵士である。彼らは戦車部隊との連合隊であるため、その勢力は磐石で、決して倒すことのできないような部隊となっている。

 

 俑坑の南北両側にはそれぞれ外側を向いて立っている兵俑があり、軍陣の左右両翼をなし、敵の横からの攻撃に備えている。軍陣の最後列は西を向き、大軍陣に背を向けて立っている。この軍隊は後方防衛部隊である。
 これらの主要任務は後方からの攻撃に備えると共に主要部隊の後顧の憂いを解く為のものである。


 
 

| 河西回廊 | 09:34 | comments(0) | - |
ー24 広い広〜〜い 兵馬俑一号館

※私事ですが、先日まで続いた全国的な交流行事が大成功の裡に終わりました。

 きのうは、その慰労会を行って一応の終わりを告げました。

 ホッとしている今です。

 この河西回廊の旅のシリーズも間もなく終わりです。

 近いうちに、蘭州から河西回廊を通って、敦煌〜クムル(ハミ)〜トルファンまでの旅もお伝えしていきたいと思います。

 玄奘三蔵が国禁を犯してインドへ求法の旅に出ましたが、『大唐西遊記』に出てくるのはいつもトルファンの高昌故城あたりからです。天の邪鬼の私は「じゃあ、トルファンの高昌故城の手前までの旅をしよう」と思っていきました。そこらへんを・・・・・

 8月5日からは、仲間たちと一緒に、今掲載している河西回廊の旅を逆に行く旅に行きます。

 

西安・兵馬俑

なんでこの写真なのかわからない。

 

 西安観光は、まず兵馬俑(へいばよう)からである

 

 兵馬俑は秦始皇帝の軍団の俑だが、1974年、集団農場の井戸掘り作業の途中に、偶然、発見されたもので、世界の考古学上最大の発見といわれている。その発掘した俑は8千数百体にものぼっている。

兵馬俑はいつも大混雑である。気のおけないいつもの仲間との3人旅

 

 

 発見したのは、4人の楊さんという同姓の農民たちが農作業の最中に偶然、発見したものである。だが、この楊さんは作業していた4人全員が楊さんであることから、最初に畑を耕しているときに「コツン」と俑を当てた楊さんに代わって、今では年老いた楊さんから比較的若い楊さんがお土産屋さんで写真集へサインをする仕事をしている。皆、楊さんだから間違いではない。この先、何代になっても同じ楊さんだから大丈夫である。

兵馬俑一号館は格納庫のような大きな広い建物である。

 

 

 最初にコツンと俑を当てた楊さんが売店に座っていた頃、私は写真集に彼のサインを頂いた。そこに私の名前を書いてほしいとお願いしたのだが、だいぶ苦労していたことを思い出す。文盲だったのである。

 

 兵馬俑は全体として1号館から2号館、3号館と「品」の字型に配置されている。秦始皇帝の銅車馬陳列館から構成されている。楊さんが最初に「コツン」と当てたところが1号坑になっている。

| 河西回廊 | 10:07 | comments(0) | - |
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