シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
シルクロードの“秘境”探検に行ってきました

   先日の1日のこと、“シルクロードの秘境”と私が名付けている古代朝鮮研究の一環として、小平市の朝鮮大学校へ行ってきました。今回はクラブの仲間3人と一緒です。

 

 朝鮮大学校講演会としたテーマは「北と南、海外の歴史研究交流の経験と展望について」。

 ひとことで言えば、南北に分断させられた朝鮮半島で、日本など国外での歴史研究を交流して今後の研究を展望しようというものでした。

 

 クラブの仲間に話すと、すぐに3人が「行く」と言いました。

 大学に着くと、先日10月の「日本シルクロード文化センター」での「シルクロード講座」でお話ししていただいた河創国(ハ・チャングク)先生が入り口で出迎えてくださって、小一時間かけて博物館の案内をしてくださいました。

 

 私は前回,この博物館を見ていたのですが、初めての3人は興味津々。博物館は建物の2階にあるのですが、講演会の会場は4階。

 

 はじめは会場の前方にチラホラだった座席も、次第に席が埋まっていき、朝鮮大学校の研究者たちは無論ですが、日本人の研究者や関係者も次第に多数座っていきました。最後には学生たちが入場してきて広い会場はいっぱいになっていました。およそ300人はいたでしょうか。

 

 講演がはじまりましたが、「これは失敗だったかな?」と思うようになりました。

テーマから言えば、いわゆるシルクロード=古代研究の話がないことはもちろんですが、南北の歴史学界における研究交流ですから、私たちの知らない世界の話ばかりでした。それは、却って当然かもしれません。

 

 興味深い話では、70年以上の分断の下でも、歴史研究分野での大きな違いはあまり多くないということでした。これは驚きでした。

 

さらに、南北関係が極度に緊張していた時期でも、この分野の研究者の交流は中断することなく進められてきたということも驚きでした。

 

もう一つはクラブの仲間が3人もこの講演会に出席してくださったことでした。これは望外の喜びでした。

これを機に、今後も“秘境”探検に力を入れていきたいと思っています。

 

| 古代朝鮮の歴史 | 09:44 | comments(0) | - |
シルクロードの新たな峰に挑戦します

 と、偉そうに言いますが、要するに今まで見たこともない、考えたこともない北朝鮮=朝鮮半島の文明交流の歴史とルートを研究しようと思っています。 

 中国だけでないユーラシア大陸からの文明の交流路、それらのルートがどのようにして我が国へ渡来したかを研究するためです。

 ですから米朝会談の成功や南北関係の関係改善を求める気持ちが大です。

 

 国立歴史民俗学博物館の高田寛太准教授の講義を受けて勉強しました。

 「日朝関係史と『磐井の乱』」と「栄山江流域における前方後円墳の造営背景」

光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市朝鮮半島の前方後円形墳(長鼓墳)の1つ。
左に前方部、右奥に後円部と石室。日本列島の前方後円墳同様に周堀を有する。

前方後円形墳(長鼓墳)の分布

 

 私は、考古学は全くの専門外ですので、前方後円墳など形状は知っていても、その歴史や由来などは門外漢です。

 しかし、この古墳時代、朝鮮と倭では活発な交渉が行われていました。

 その中で倭は様々な文化を取り入れてきました。その逆=倭から朝鮮半島への逆輸入もあったのです。その交渉の実態を、「磐井の乱」と朝鮮半島東端の「栄山江流域における前方後円墳の造営背景」に焦点を定めながら、検討するというものでした。

 

 講義はこのテーマに添いながらも、当時の関係が王権間の外交にとどまるものではなく、九州北部との交渉など、非常に多元的で錯綜している実態を明らかにしていました。

 久しぶりに脳みそに汗をかく勉強をしました。

 

 講座のあと講師に尋ねました。「来年あたり北朝鮮へ行って古代文明の歴史遺産などを研究したいと思っているのですが、何か助言をいただけませんか?」と。

答えは「えっ!ムムムム・・・」でした。

 

 このあとは、古代日本のシルクロードと大陸文明の導入―奈良・大宰府・対馬・壱岐及び沖ノ島文化に学ぶという、大胆で且つ無謀ともいえるテーマに挑戦して研究を進めたいと思っています。

 

九州・福岡県の宗像大社

同 辺津宮 社殿 (右に拝殿、左に本殿:いずれも国の重要文化財)

| 古代朝鮮の歴史 | 11:04 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−6 秀吉の気概とスペインの無敵艦隊

 

さあ、それでは秀吉の時代のもう一つの物語りを少し詳しく見てみましょう。

 

秀吉は明の征服をもくろんで、手始めに朝鮮を討とうとしましたが、みじめな失敗に終わりました。所詮、道理のない侵略行動だったからでしょう。

 

しかし、この事件を当時の国際情勢全体から見ると、このたたかいは、豊臣秀吉が主導する遠征軍と、明とその属国である李氏朝鮮の軍との間で朝鮮半島を舞台にして戦われた国際戦争で、16世紀における世界最大の戦争であったと言えるでしょう。これを利用しようとした外国勢力がいました。

スペインです

スペインのフエリペ国王

 

旧植民地主義国の雄であったスペインは、中南米を植民地とし、アフリカ、アジア各地も支配していました。そして次に狙ったのが明の中国でした。ここに秀吉の戦略が見えて来て、合作をはかったのです。

 

この時代、スペインによってまだ征服されていなかった国は、東アジアでは、明(朝鮮半島含む)と日本のみとなっていたのです。  

ポルトガル王のジョアン3世の依頼でイエズス会からフランシスコ・ザビエルらの宣教師を日本へ派遣して、主として九州・四国の大名らをキリスト教に改宗させました。

ポルトガルの貴族出身だったザビエル

 

ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領してアジア進出の拠点とし、さらに翌年にマラッカ王国を占領して南シナ海に進出、中国との接触を開始した。明朝の北京での交渉は失敗し、ようやく1557年にマカオ(澳門)に居留を認められたとされている。

以後、ポルトガルはマカオを拠点として中国、さらに日本との交易を行っていった。マカオのポルトガル商人には公式な交易以外にも密貿易で利益を上げようとする者も多く、そのうちの一部は中国人のジャンク船に乗って漂流して1543年(1542年ともいう)に種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた。これが契機となって、ポルトガルは日本との南蛮貿易を開始する。その後もマカオは、インドのゴア、マレー半島のマラッカとともにポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄した。またイエズス会のアジア布教の拠点ともなった。(トメ・ピレス著『東方諸国記』岩波書店)より

 

スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのです。

スペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことでした。尖兵はフランシスコ・ザビエルの宣教師「部隊」でした。

 

当時のスペイン宣教師とは表向きはキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を抱えていました。当時のアジアの拠点はマカオでした。キリスト教の伝道と見せかけ、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言っては改宗させ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、植民地占領などを行っていたのです。

マカオの聖母聖誕司教座堂

2016年の李斌生司教

| 古代朝鮮の歴史 | 04:50 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−5 「通信」とは、「信(よしみ)を通わす」

秀吉が16万もの大軍で朝鮮に出兵した際、徳川家康は肥前(今の熊本県)の名護屋城に出陣しましたが、兵を朝鮮には送りませんでした。そして政権を握ると、東アジアの平和なくして日本の平和はないと考え、朝鮮との国交回復に努力しました。その結果1607年、朝鮮国王から徳川将軍への使節が派遣されました。それが「朝鮮通信使」でした。

『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

 

後述しますが、秀吉の頃、世界最強の帝国主義国スペインの世界戦略がありました。中南米のインカ帝国をわずかな兵士で支配しました。そして次に狙ったのが、中国の明の支配です。そのためには強国日本の戦闘手段である武士が必要でした。その日本を利用して明を支配し、そののちに日本を支配しようとする戦略でした。

 

歴史に“もし”はないといわれますが、秀吉が朝鮮出兵を行わなければ、スペインは当然のことながら、明を植民地として、のちに朝鮮と日本をも狙ったことでしょう。

スペイン王フェリペ2世 1580年頃、

 

結果的に日本は朝鮮から撤退しました。

その後のスペインは、無敵艦隊の敗北などでイギリスやオランダなど新興の帝国主義国に押されて国力を低下させ、もうアジアにかまっていられなくなったのです。

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』

スペイン北西部フェロル港を出港する無敵艦隊

 

スペインの脅威が去り、朝鮮を手に入れる必要がなくなったようです。

わたしたちは、スペインという世界最強の大帝国に対して、これに臣従しなかった秀吉の気概を評価しても良いのではないでしょうか。

 

さらに、川越で入手した各種資料には“徳川家康は平和を求めた”とありますが、これには歴史の検証が必要だろうと思います。

ただし「鎖国政策」を採ったといっても、朝鮮や一部ヨーロッパとは長崎の出島を通しての交易があったので、教科書通りに受け止められないことは事実でしょう。

 

通信使は江戸時代に12回、毎回400500名の大使節団が来日し、国家間の外交にとどまらず、学問・芸術を通じた豊かな文化交流が実現しました。

通信使が通る沿道では、行列を一目見ようと人垣ができ、宿舎には文人たちが交流を求めて押しかけたといわれます。隣国との友好的な交流が200年近くも継続した歴史は世界的にも稀(まれ)だと言われています。

| 古代朝鮮の歴史 | 10:49 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−4 室町時代からはじまった朝鮮通信使

室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧政策を日本に要請することが目的でした。倭寇の朝鮮半島での活動は13世紀には始まっていたとの記録があり、15世紀以降は「明」が「海禁(鎖国)政策」によって私的な交易を禁じた影響もあって大規模化しました。

1410年には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われるという事件も起きています。

跳梁跋扈した倭寇の足跡

 

強奪・略奪・殺人をほしいままにした倭寇

 

日本では14世紀以降に朝鮮との貿易に進出していきました。

朝鮮で官職を得る「受職倭人」、朝鮮各地の港で暮らす「恒居倭人」、有力者の使いとして訪れる「使送倭人」と呼ばれるものもいました。

 

朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として「倭館」を建設する一方、倭寇対策として1419年には対馬を攻撃する「応永の外寇」も起きました。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役ともなりました。

 

この室町期の朝鮮通信使は都合3回行われました。

第1回は1428年、第2回は1439年、第3回が1443年。 

 

豊臣秀吉に派遣された朝鮮通信使

織田信長は明・朝鮮との通商交易をはかり、年使を派遣しましたが朝鮮はこれに応じず、次いで政権を掌握した秀吉は、1587年の九州平定後に対馬の宗義智に命じて交渉にあたり、朝鮮国王李昖の来日を求めました。

こうしてはじめから服属を求めず、秀吉による天下統一の祝賀使節を朝鮮に求めました。こうして1590年に朝鮮通信使が派遣されたのです。

 

今から420年ほど前、豊臣秀吉は突然、15万の軍勢で朝鮮を侵略しました(文禄・慶長の役159298年)。これには中国の明が朝鮮を支援しました。

この戦争は朝鮮を戦火に巻き込み、多くの朝鮮人が捕虜として日本に連行されるなど大変な被害を与えました。

 

1596年(慶長元年・宣祖29年)の朝鮮通信使

文禄の役において日本軍は朝鮮軍や明軍と戦い、やがて和議の機運が高まりました。

1596年の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行したものでした。

朝鮮では当初、通信使派遣に反対しましたが、派遣しなければ、再び侵攻があるかもしれないという議論になり、朝鮮通信使の随行がきまりました。

 

しかし、冊封使は豊臣秀吉に接見できましたが、朝鮮通信使は接見を許されずに堺で待機となりました。冊封使は日本軍の朝鮮撤退を求めましたが、豊臣秀吉は激怒して交渉は失敗に終わりました。

堺には和平の成功と帰国を期待する多くの朝鮮人が集まってきましたが、日本の再出兵を知った冊封使は」帰国して、慶長の役となったのです。

 

豊臣秀吉時代の朝鮮通信使履歴は、1590年と1596年の2回でした。

 

これは江戸時代の加納安信の朝鮮通信使行列です。

| 古代朝鮮の歴史 | 09:04 | comments(0) | - |
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