シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
朝鮮通信使ものがたり−6 秀吉の気概とスペインの無敵艦隊

 

さあ、それでは秀吉の時代のもう一つの物語りを少し詳しく見てみましょう。

 

秀吉は明の征服をもくろんで、手始めに朝鮮を討とうとしましたが、みじめな失敗に終わりました。所詮、道理のない侵略行動だったからでしょう。

 

しかし、この事件を当時の国際情勢全体から見ると、このたたかいは、豊臣秀吉が主導する遠征軍と、明とその属国である李氏朝鮮の軍との間で朝鮮半島を舞台にして戦われた国際戦争で、16世紀における世界最大の戦争であったと言えるでしょう。これを利用しようとした外国勢力がいました。

スペインです

スペインのフエリペ国王

 

旧植民地主義国の雄であったスペインは、中南米を植民地とし、アフリカ、アジア各地も支配していました。そして次に狙ったのが明の中国でした。ここに秀吉の戦略が見えて来て、合作をはかったのです。

 

この時代、スペインによってまだ征服されていなかった国は、東アジアでは、明(朝鮮半島含む)と日本のみとなっていたのです。  

ポルトガル王のジョアン3世の依頼でイエズス会からフランシスコ・ザビエルらの宣教師を日本へ派遣して、主として九州・四国の大名らをキリスト教に改宗させました。

ポルトガルの貴族出身だったザビエル

 

ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領してアジア進出の拠点とし、さらに翌年にマラッカ王国を占領して南シナ海に進出、中国との接触を開始した。明朝の北京での交渉は失敗し、ようやく1557年にマカオ(澳門)に居留を認められたとされている。

以後、ポルトガルはマカオを拠点として中国、さらに日本との交易を行っていった。マカオのポルトガル商人には公式な交易以外にも密貿易で利益を上げようとする者も多く、そのうちの一部は中国人のジャンク船に乗って漂流して1543年(1542年ともいう)に種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた。これが契機となって、ポルトガルは日本との南蛮貿易を開始する。その後もマカオは、インドのゴア、マレー半島のマラッカとともにポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄した。またイエズス会のアジア布教の拠点ともなった。(トメ・ピレス著『東方諸国記』岩波書店)より

 

スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのです。

スペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことでした。尖兵はフランシスコ・ザビエルの宣教師「部隊」でした。

 

当時のスペイン宣教師とは表向きはキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を抱えていました。当時のアジアの拠点はマカオでした。キリスト教の伝道と見せかけ、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言っては改宗させ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、植民地占領などを行っていたのです。

マカオの聖母聖誕司教座堂

2016年の李斌生司教

| 古代朝鮮の歴史 | 04:50 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−5 「通信」とは、「信(よしみ)を通わす」

秀吉が16万もの大軍で朝鮮に出兵した際、徳川家康は肥前(今の熊本県)の名護屋城に出陣しましたが、兵を朝鮮には送りませんでした。そして政権を握ると、東アジアの平和なくして日本の平和はないと考え、朝鮮との国交回復に努力しました。その結果1607年、朝鮮国王から徳川将軍への使節が派遣されました。それが「朝鮮通信使」でした。

『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

 

後述しますが、秀吉の頃、世界最強の帝国主義国スペインの世界戦略がありました。中南米のインカ帝国をわずかな兵士で支配しました。そして次に狙ったのが、中国の明の支配です。そのためには強国日本の戦闘手段である武士が必要でした。その日本を利用して明を支配し、そののちに日本を支配しようとする戦略でした。

 

歴史に“もし”はないといわれますが、秀吉が朝鮮出兵を行わなければ、スペインは当然のことながら、明を植民地として、のちに朝鮮と日本をも狙ったことでしょう。

スペイン王フェリペ2世 1580年頃、

 

結果的に日本は朝鮮から撤退しました。

その後のスペインは、無敵艦隊の敗北などでイギリスやオランダなど新興の帝国主義国に押されて国力を低下させ、もうアジアにかまっていられなくなったのです。

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』

スペイン北西部フェロル港を出港する無敵艦隊

 

スペインの脅威が去り、朝鮮を手に入れる必要がなくなったようです。

わたしたちは、スペインという世界最強の大帝国に対して、これに臣従しなかった秀吉の気概を評価しても良いのではないでしょうか。

 

さらに、川越で入手した各種資料には“徳川家康は平和を求めた”とありますが、これには歴史の検証が必要だろうと思います。

ただし「鎖国政策」を採ったといっても、朝鮮や一部ヨーロッパとは長崎の出島を通しての交易があったので、教科書通りに受け止められないことは事実でしょう。

 

通信使は江戸時代に12回、毎回400500名の大使節団が来日し、国家間の外交にとどまらず、学問・芸術を通じた豊かな文化交流が実現しました。

通信使が通る沿道では、行列を一目見ようと人垣ができ、宿舎には文人たちが交流を求めて押しかけたといわれます。隣国との友好的な交流が200年近くも継続した歴史は世界的にも稀(まれ)だと言われています。

| 古代朝鮮の歴史 | 10:49 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−4 室町時代からはじまった朝鮮通信使

室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧政策を日本に要請することが目的でした。倭寇の朝鮮半島での活動は13世紀には始まっていたとの記録があり、15世紀以降は「明」が「海禁(鎖国)政策」によって私的な交易を禁じた影響もあって大規模化しました。

1410年には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われるという事件も起きています。

跳梁跋扈した倭寇の足跡

 

強奪・略奪・殺人をほしいままにした倭寇

 

日本では14世紀以降に朝鮮との貿易に進出していきました。

朝鮮で官職を得る「受職倭人」、朝鮮各地の港で暮らす「恒居倭人」、有力者の使いとして訪れる「使送倭人」と呼ばれるものもいました。

 

朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として「倭館」を建設する一方、倭寇対策として1419年には対馬を攻撃する「応永の外寇」も起きました。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役ともなりました。

 

この室町期の朝鮮通信使は都合3回行われました。

第1回は1428年、第2回は1439年、第3回が1443年。 

 

豊臣秀吉に派遣された朝鮮通信使

織田信長は明・朝鮮との通商交易をはかり、年使を派遣しましたが朝鮮はこれに応じず、次いで政権を掌握した秀吉は、1587年の九州平定後に対馬の宗義智に命じて交渉にあたり、朝鮮国王李昖の来日を求めました。

こうしてはじめから服属を求めず、秀吉による天下統一の祝賀使節を朝鮮に求めました。こうして1590年に朝鮮通信使が派遣されたのです。

 

今から420年ほど前、豊臣秀吉は突然、15万の軍勢で朝鮮を侵略しました(文禄・慶長の役159298年)。これには中国の明が朝鮮を支援しました。

この戦争は朝鮮を戦火に巻き込み、多くの朝鮮人が捕虜として日本に連行されるなど大変な被害を与えました。

 

1596年(慶長元年・宣祖29年)の朝鮮通信使

文禄の役において日本軍は朝鮮軍や明軍と戦い、やがて和議の機運が高まりました。

1596年の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行したものでした。

朝鮮では当初、通信使派遣に反対しましたが、派遣しなければ、再び侵攻があるかもしれないという議論になり、朝鮮通信使の随行がきまりました。

 

しかし、冊封使は豊臣秀吉に接見できましたが、朝鮮通信使は接見を許されずに堺で待機となりました。冊封使は日本軍の朝鮮撤退を求めましたが、豊臣秀吉は激怒して交渉は失敗に終わりました。

堺には和平の成功と帰国を期待する多くの朝鮮人が集まってきましたが、日本の再出兵を知った冊封使は」帰国して、慶長の役となったのです。

 

豊臣秀吉時代の朝鮮通信使履歴は、1590年と1596年の2回でした。

 

これは江戸時代の加納安信の朝鮮通信使行列です。

| 古代朝鮮の歴史 | 09:04 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−3 榎本弥左衛門と朝鮮通信使

なぜ、埼玉県の川越で朝鮮通信使のお祭りを開くのでしょうか。

それは榎本弥左衛門という人物がカギでした。

この人物は16261686年没の川越の大商人だったそうです。

彼は19歳の時に日本橋にも塩の店を持っていました。

塩だけでなく穀物やたばこなども水運を利用して川越に運んでいたそうです。

 

弥左衛門は165510月、朝鮮通信使を見るためにわざわざ江戸まで行きました。そしてそこで見た朝鮮通信使行列の華やかさや規模の大きさに驚いて、その後、弥左衛門が住んでいた本町では、川越氷川祭礼の「練りもの」として、朝鮮通信使の仮装行列である「唐人揃い」が始まったという話です。

 

弥左衛門は「三つ子よりの覚(おぼえ)」と「万(よろず)の覚」という『覚書』を書いていました。近世の町人で文書を残しているのはきわめて少なく、歴史的に貴重な書物としても有名だそうです。この本によって弥左衛門の人となりが分かると思います。

東洋文庫の『榎本弥左衛門覚書』平凡社刊

 

このように、むかし、朝鮮通信使は川越に行ったことはないようです。しかし、江戸から日光東照宮までは1636年、4355年の3回ほど行っているようです。埼玉県の草加・越谷・春日部・栗橋などの日光街道を通っていったようですが、川越には寄っていません。

 

弥左衛門はその後、1700年頃の川越氷川まつりで、朝鮮通信使の仮装行列である「唐人揃い」と呼ばれる練り物を出しました。

「唐人揃い」とは中国人のことではなく、この頃は広く外国人を指していました。

また、川越氷川神社には、「唐人揃い」が描かれた「氷川祭礼絵巻」や実際の通信使を描いた「朝鮮通信使行列大絵馬」も奉納されており、川越町人の進取と異国情緒を楽しむ心意気を感じ取ることができるとされています。

 

以上は、当日会場で配布されたパンフレットを参考にしています。

 

会場には約束した11時には石井賢二さん、踊りの稽古で遅くなったうちの奥さんは1時半頃に顔を出しました。会場で日朝協会の役員を紹介されました。

 

「第13回 復活! 唐人揃い! 朝鮮通信使! 多文化共生国際交流パレード 川越唐人揃い  争わず互いに助け合った歴史を現代によみがえらせる!」

と銘打ったこの日は、12時に市長や正使の子孫や参加者たちがそろって、この珍しい行事に集い合いました。

 

障がい児学級の「けやき学園」の子どもたち

 

次からは、順番が逆になっていますが、朝鮮通信使の歴史やそもそもについてお話を進めていきましょう。

ときあたかも、世界記憶遺産に登録されたばかり。その意義はともかくとして、地元や関係者、参加者たちは心から集いを楽しんでいました。そして私たちも楽しみました。

「世界記憶遺産登録」を喜んでいました。

「シンチャオ」ベトナムのグループがパレードにも参加していましたが、屋台も出ていました。フランスパンにベトナム風のものを挟んだものですが、私はそれとビールでランチにしました。そこでは多くのベトナム人がビールを飲んでいましたが、そのお父さんに「高い、高い」をおねだりして大喜びをしていた女の子がいました。印象的なシーンでした。

 

| 古代朝鮮の歴史 | 08:45 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−2 国際色豊かな友好と交流のつどい

会場のお寺に入ると、まだ受けつけの準備中。参考資料としての書籍を購入したのですが、おつりが出てくるまで5分以上かかりました。本当に“主婦がボランティアでお手伝いしているという姿”でした。「おつりは3日でも4日でも待ちますよ」というと、大笑いしていました。

慣れない受付で、はじめはテンヤワンヤでした

 

お寺の境内が開会式やパレードのあとのイベントの会場なのですが、まだ人影も疎(まば)ら。しかし、境内の端の方に、おなかやおへそを出した(おなじことかな)比較的若い女性やおばさんたちの群れがいました。リンボーダンスのグループの方たちです。

ベリーダンスの皆さんです。

 

この日の参加グループ名を書いてみましょう。国際色豊かで実に多彩です。

けやき学園=子どもたちが通信使の楽隊を模した衣装と演奏がありました。

子ども通信使=将来の国際友好をになう子ども隊の衣装とパレードです。

榎本弥左衛門=川越の豪商。1655年の第6回朝鮮通信使を江戸で見学して、川越に持ち込んだ人物。

朝鮮通信使=三使:正使、副使、従事官。正使役の柳鐘○さん:釜山文化財団代表理事。この人は往時の正使の子孫だそうで、この日も子孫という方が何人もいました。

この人が「正使」の子孫の柳さん

 

誕古団(テゴタン)=韓国の伝統音楽を通して、日朝・日韓の友好を願う在日コリアン・韓国人・日本人のグループ。

テゴタンの皆さんだかよくわからなくなってきましたが、かれらは川越高校の皆さんのようです。

 

カトリック埼玉西部有志の会=「世界のみんな兄弟さ。隣人さ、友達さ」と、フィリピン・ベトナム・日本、みんなで踊り、合唱します。

埼玉朝鮮初中級学校舞踊団

朝鮮学校舞踊団のみなさんたちです。女の子たちはお化粧をしてみんなきれいでした

 

平和の翼コーラス

日朝協会 東京・埼玉・群馬県連

はなこりあ=「はな」は「ひとつ」

よさこい鳴子踊りとアリランをミックスした「よさこいアリラン」

ベトナムグループ「シンチャオ」

「シンチャオ」はベトナム語で「こんにちわ」

アオザイがとてもきれいでした

 

現代の朝鮮通信使あいち=愛知県から参加。

ロクセラーナ=中東のベリーダンスのみなさん

民族衣装=世界各地の民族衣装を着ての参加

実に様々な国・民族の方がたがいました。

 

NPO川越きもの散歩

埼玉エイサー隊

13回を迎えたこの祭りも、かれらは13回出演しているそうです

 

ペウレ・ウタリの会=アイヌの人たちの参加です

越中おわら風の盆

なんとも幽玄な「越中おわら風の盆」でした。特に男の踊りが印象深かったですね

あいアイ=川越の障がい者施設の方がた

| 古代朝鮮の歴史 | 11:52 | comments(0) | - |
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