シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
3月28日が「シルクロードの日」って本当!?

 

東京は桜が咲き誇っています。

近所の桜並木をカメラに収めましたが、桜は白が勝ってしまってうまく撮影できません。

おととい、15〜6年前だったかのブログを見直す機会がありました。まだ、このブログを書き始めたころです。

そうすると、3月28日は「シルクロードの日」だそうです。私が書いているので確かでしょう。

いや、確かというのは、書いたことが確かなのであって、その説が正しいかどうかは別です。

 

3月28日がなぜ「シルクロードの日」だというのかを、私はこう書いています。たぶん「私」でしょう。

中央アジアの探検家として知られるスウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンが楼蘭の遺跡を発見した日とされています。

 

スヴェン・ヘディンは、1865年2月19日、スウェーデンのストックホルム生まれ、

そして1952年11月26日に死去。

 

1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地帯の北部を探検していたヘディンは、その途上、1900年3月28日に古代都市楼蘭の遺跡と「さまよえる湖」ロプ・ノールの湖床を発見しました。

シルクロードという言葉は、今の日本では広く中央アジア地方を指して使われていますが、もともとは西南アジア文化圏と中国文化圏を結ぶ東西交通路のことです。

楼蘭の美女は、このような状態で発掘された

復元したもの

 

中国からは特産品である絹が、西からは玉や宝石、ガラス製品などがこの道を通って運ばれました。また、ブドウやザクロ、ゴマやキュウリなどの植物や、音楽や舞踊、奇術や曲芸など、中央アジア・西アジアの産物や風俗が中国にもたらされました。

インドの仏教、イランのゾロアスター教やマニ教などの宗教もこの道を通って伝わり、中国からは、鋳鉄技術や養蚕、製紙法や画法が西方へと伝わっていきました。商業路としてだけでなく、東西文化の伝達路としての役割を担っていたのです。

楼蘭。私は昨年、この地へ行く計画を立てていたが、中国当局の手でつぶされた

 

なんとも不正確さのにじみ出る困った内容です。本当に15年ほど前に、私はこう考えていたのですね。

それよりも何よりも、近年、この日が「シルクロードの日」だという説は、ほとんど見たこともなければ、聞いたこともありません。

当時の「野口さん」は、何を根拠にこのようなことを書いたのでしょうかね?

 

でも、もっと驚いていることは、なんでシルクロードに記念日を設けなければならないのでしょうか?おかしな話です。

シルクロードも、すでに新疆ウイグルは、旅のできる状況ではなくなっています。地獄の様相を呈しています。アフガニスタンもシリアもイラクもとっくに地獄になっています。

 

紀元前のころからシルクロードは様々な文化の交流路として発展してきました。

交流といっても戦争による軍隊の交流もあったわけですが、今とは戦争の内容も規模もなにもかも違っていました。

私や私たちは、スポーツ分野で働くものとして、昔から“スポーツは平和とともに”という標語を基本的な考えとしてやってきました。

 

そういうことから言えば、地球のあちこちで硝煙の匂いのする昨今“シルクロードは平和とともに”という考えも、ことさら現代社会には必要なことだと痛感しているこの頃です。

| シルクロード | 04:10 | comments(0) | - |
中央ユーラシア音楽の集いへ行きました

 この集いのフルネームは「中央ユーラシア(イラン・シベリア・南インド)トラディッショナル・ミュージック」。

 会場は、いつもの東中野駅前「驢馬駱駝(ろまらくだ)」。

広く広報されたチラシの表面

同裏面

 

 実はこの日は、昨日のブログに書いた「アラビアの道」展の帰りでした。この日の昼食は大久保へ立ち寄って焼き肉を思いきり食べてから行こうと思っていました。しかし、いつも行く新大久保からのコースと違ったために、道を間違えたようです。結局、選んだメニューはモンゴルの火鍋だったのです。

 

暖かいというより暑いというくらいの天気だったので、火鍋は失敗でした。おまけにウエイトレスの女性は、まだ日本語が十分ではありませんでした。4000円くらいの高い料理をすすめます。そんな高いものは食べられない、もっと安いものをと思っても、言葉が通じない。中国料理のようなものでしたが、相手はモンゴル人。そして、食べなれないものなので、どれを注文していいかわかりません。

 

結局、生ビールを含めて3000円を超えるものになってしまいました。会場の受付時間が迫ってきます。こんなことならコンビニでうまいサンドイッチを食べたほうが良かったと思っても仕方ありません。冬支度の綿の下着で火鍋。汗をびっしょりかきながら隣の駅の東中野まで行きました。

 

会場に入ると受付けに昨年11月のイベントにも来てくれた芸大の研究者の女性。4月のシルクロード講座は、インド音楽の奏者寺原太郎さんで、内容はインド音楽やラーガについての話と演奏という形になりますが、この日は南インドの演奏もあります。研究の傍らのお手伝いでしょう。(4月は寺原太郎(バーンスリー)、寺原百合子(タンプーラ)2名で来てくれるそうです)。

彼女は「」4月にシルクロード講座へ行ってもいいですか?と聞きます。

 

この日のコーディネーターは、寺田亮平。

我がクラブのメンバーでもあります。

寺田亮平

トゥバのイギル

 

そして出演は、トゥバ音楽の彼の次には口琴演奏者の直川礼緒。奥さんも含めた何度かシルクロード講座に出演していただいています。口琴の販売にはシベリアのサハ出身の奥さんも・・・ご挨拶しました。

口琴を演奏する直川礼緒

 

そして次が、私の狙いでもあったイランの音楽を研究している、慶九さん(女性)と東大で院生として研究中のアミンさん(男性)。

慶九

北インド古典声楽習得中、イラン音楽とペルシア詩への興味が増し、2007年イランへ語学留学。8年半のイラン滞在の間、常にイラン人家族や学生たちと共に生活しながら、音楽と詩を通してイランの文化に触れる。2008年〜2014年、イラン教育庁奨学金給付生としてテヘラン国立芸術大学・イラン音楽演奏科にて学ぶ。20159月帰国。セタールとタンブールの演奏を主にラアナーイー・ファミリーに師事し、彼らの演奏グループメンバーとして、イラン、日本、ヨーロッパにて共に演奏活動を行っている。

イランの楽器 セタール

アミン

 

私は以前、ウルムチの友人からある一枚のCDをもらいました。それはイランの歌手がクルアーン(コーラン)を各国の言葉で歌うすぐれものでしたが、その歌を歌っていた彼アミンの声とそっくりなのです。

 

最後の演者は、南インドの音楽でしたが、私は所用で会場を後にしました。所用といっても、この日から大相撲。我慢が出来なくなって帰宅したというわけです。

このようにしてまで会場へ行ったのは、ひとえに、シルクロード講座や秋のイベントの新しい出演者をいろいろ探している最中でしたので、行ったわけです。

南インド音楽を演奏するプリヤダルシニ・プラカーシュさん

| シルクロード | 10:21 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−10 いよいよスタートした交流

いま大相撲界は、日馬富士の「暴力問題」で、揺れに揺れていますが、当事者からの声がなく、“オレもオレも”の声で本当のことが分からなくなっています。いずれ明らかになるでしょう。この際、マスコミに警告しておきます。「軽々しく発言すると、みっともないことになる」と。

 

だいぶ、まわり道をしました。本道に戻りましょう。

ここからは、『日本と朝鮮 2000年』(下)(NHK「日本と朝鮮 2000年」プロジェクト 編著)を参考にしています。

 

漢城(ソウル)に対馬藩からの使者

 

豊臣秀吉による朝鮮侵略は、朝鮮半島に大きな傷跡を残しました。

1592年から7年。のべ29万人の大軍を朝鮮半島に派遣しての暴虐でした。

朝鮮王朝は、秀吉が死去して日本軍が撤退したあとも、再侵略を強く警戒していました。

日本軍撤兵の翌年1599年、対馬藩から使者が訪れて「和を結びたい」と伝えられました。王宮では「本当か?」「再侵略の動きはないのか」と、日本側の真意が分からないまま、議論が紛糾しました。

 

そこで王朝は、公式ではない形で使節を派遣し、日本の国情を偵察させることにしました。朝鮮王朝は僧侶の政(ユ・ジョン)=松雲大師に白羽の矢を立てたのです。

 

僧侶の政は家康と秀忠に対面

 

かつての僧侶の政は、僧侶の兵を率いて日本軍と戦った経験がありました。

日本軍の再侵略の有無、それを探ることを主な任務として1604年、「探賊使」として日本へ向かいました。

 

わたしも行ったことのある対馬は、漁業を中心にして、交易もしている海の民が多い島です。政は対馬の藩主である宗義智(そう・よしとし)から情報を得ようとしました。

 

対馬藩の薦めで京都の伏見まで赴いた政は、そこで家康に面談します。

家康は朝鮮と「和を結びたい」と述べています。

対馬藩に残っている『朝鮮通交大紀』では、「私は朝鮮出兵には関係していない。朝鮮と私には何の恨みもない。私は朝鮮と和を通じることを望んでいる」と言っています。

まあ、かなりご都合主義的な話ですがね。

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年

羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。

江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。神戸市立博物館収蔵、池長孟コレクション。

 

| シルクロード | 09:36 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−9  「しばやんの日々」から

島原の乱の最初にキリシタンは、なぜ、寺社を放火し、僧侶を殺害したか

 

偶然ですが、「しばやんの日々」というブログを発見しました。

このブログへの掲載についてご本人の許可を得たいのですが、どのように連絡を取れば分かりません。

私が探していた徳富蘇峰の文献引用についても書いてありましたので、無断で掲載させていただきます。

少々長い文章ですが、関心のある方はお読みくださいー野口。

 

前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。
この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心な
キリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広隆の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重正の領土となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。


そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日本史』で確かめてみると、こう記されている。


「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.160-161)


この文章を普通に読めば、島原・天草地方のキリシタン弾圧がひどかっただけでなく、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったものと理解するしかない。学生時代にはこのような記述を何も考えずに鵜呑みにしていたのだが、よくよく考えるといくつも疑問が湧いてくる。

このブログで何度か事例を記してきたとおり、禁教政策はこの地域だけではなく各地で行われていたし、信仰の篤い多くの
キリシタンは、迫害を受けた場合に抵抗もせずに殉教の道を選んでいる。なぜ島原・天草のキリシタンは、他の地域のように殉教の道を選ばずに、幕府と戦うことを選択したのだろうか。
また3万7千人とも言われる反乱勢が12万以上の幕府軍と4ヶ月間も戦っているのだが、これだけ長期戦になったのは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に、当時平戸にいたオランダ商館長クーケバッケルがバタビヤ総督に宛てた書状が引用されている。これを読むと、島原藩の領主松倉重政がどのような政治を行ない、島原の乱を主導したメンバーがどういう連中であったかが見えてくる。

「…有馬の君主[
有馬直純]
は、陛下[将軍]の命にて、他国へ移封せられたが、彼は僅かに若干の臣下を伴い行(ゆ)いた。これに反して新たに有馬に封ぜられたる新領主[松倉重政]は、ほとんど悉(ことごと)くその旧家臣を率いてきた。これがために先領主の旧家臣らは、その歳入を奪われ、非常に困窮して、何れも百姓となった。この百姓は、ただ名のみで、その実は、武器の使用に熟練した兵士であった


 新来の領主は、彼らの旧禄を奪ったにとどまらず、さらに彼らおよび従来よりの純農民に課税し、彼らの負担し得ざる程の米穀の高を徴した。而してもし上納し得ぬ者あれば、日本人の蓑(みの)と称するものを着せ、これを首と体とに捲き締め、縄(なわ)もて両手を背後にしかと縛(しば)り、しかる後この着物に火をつけた。かくて彼らは火傷するばかりでなく、中には焼死する者もあった。この悲劇を蓑踊りと称した。

 この執念深き領主は、また婦女を赤裸にして、両足を縛りて、さかしなに吊るし、その他種々の仕方もて、彼女らを侮辱した。


 しかも人民はかろうじてこれに耐え忍んだだが、その嗣子にして江戸に住する領主[松倉重治]に至りては、さらにその上に重税を課したから、むしろ坐して餓死を待たんよりも、自殺するに若(し)かずと、まず自らの妻子を手刃するにいたった。


 長崎港の南方、有馬領の対岸に位し、退潮の時は、徒歩にても渡り得べき島がある。これが天草島だ。ここの農民もまた、その領主に虐げられた。彼らの領主[寺澤堅高]は、平戸の北方15哩(マイル)の唐津にありて、恒に誅求を事とした。而して彼らは有馬の農民と、互いに相呼応して、一揆を爆発せしめた」。

このように、島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことをオランダ人が記録していることは重要なポイントである。

外国人の記録だけではなくわが国にも史料があるようだ。たとえば『天草征伐記』には、一揆の中心メンバーの名前が記されているという。徳富蘇峰の同上書にその史料が紹介されている。

天草甚兵衛、同 玄札、大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、芦塚忠右衛門、赤星内膳、この六人一所に集まり、暫らく物語した。大矢野作左衛門曰く、さてさて口惜しきことよ。このままにて餓死に及ぶとは。時に天草玄札曰く、この島(天草島)の領主寺澤志摩守(廣高)は善人であったが、今の兵庫頭(堅高)は、法令苛(きび)しく、無法に百姓に課役をかけ、福分の百姓も悉く貧しくなり、恨み骨髄に徹している。今この時に於いて、一揆を起こし、運を開くか、左なくば、潔く討死しては如何と。芦塚忠右衛門曰く、尤も妙だ。この島は種子島に近く、島中の鉄砲五六百梃もあらん。百姓共も修練して鹿猿を打つ猟師なれば、武士たりとて、これには及ぶべくもあらず。かつこの島民は本来切支丹なれば、この宗門に託して、不思議を現わし、一味徒党を以て、一揆を企つべしと。これにて評定一決した。」

徳川幕府の正史である『徳川実記』にも首謀者の名前が明記されているようだ。
徳富蘇峰の解説によると、「徳川実記には、小西行長の遺臣にして、朝鮮役に軍功のありたる大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、山善右衛門、森宗意の5人が、主謀者となり、大矢野村庄屋益田甚兵衛の子四郎(後に時貞)といえる、16歳の少年を擁して愚民を煽動した」とある。

『天草征伐記』と『徳川実記』とは首謀者の名前が微妙に異なるのだが、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、そのまわりに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したという点は同じである。しかし、なぜ、戦後の教科書やマスコミなどの解説に、そのことをしっかり伝えないのだろうか。

島原の乱の起こる数年前から、天候異変や台風などにより農作物の不作が続き、農民たちが重い年貢の取立てに困窮していたことや、キリシタンに対する厳しい迫害があったことは史実である。だから、農民たちが年貢の減免を求めて蹶起したというのが国民の常識になってしまっているのだが、この説が作り話である事は当時の史料を読めば明らかなようである。

神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に、当時の記録をもとに「一揆勢」の行動が紹介されているので紹介したい。

「…大矢野村で、大庄屋の小左衛門が百姓ら四、五十人を引き連れて栖本の代官のところに押しかけたことが天草での蜂起の発端であったが、代官のもとに押しかけた百姓たちは、自分達はキリシタンに立ち返る*
と宣言したのみで、年貢を減免せよとは言っていない。…この事件についての別の証言では代官自身にキリシタンになるよう迫った、というから、これが百姓側の主要な訴えであったことは確かだと思われる。とすると、年貢の苛酷な取立てに憤った百姓の言い分としては、いかにも奇妙な感は免れない。いったい農民たちは代官に年貢を減免させたいのだろうか、それてもキリシタンに改宗させたいのだろうか。


 また一揆勢は他の村々や周囲の人々にキリシタンになるように迫り、それに従わない村に対しては攻撃を加えた。天草御領村の住民たちに対して一揆は、キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったという。(『御書奉書写言上扣』)


通常の百姓一揆では一揆に加わらない村々に制裁を加えたことが知られているが、一揆に加わることとキリシタンに改宗することは別である。一揆勢が迫ったのは改宗であり、下手をすれば『異教徒』の村を敵に回しかねないことである。なぜ、このように、一揆勢力は改宗にこだわったのか。苛酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰を結束軸として立ち上がったという筋書きは、如何にもそれらしくは見えるものの、一揆勢の行動はこれでは説明できないだろう。」(『宗教で読む戦国時代』p.178-179)
*立ち返る:キリスト教を棄教した者が再び信者に戻ること

「まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)…

 寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。また島原の町の水頭にある寺で火事があったとの報に、城内から侍三人が現場へ駆けつけたところ、火事ではなく寺の住持の首を切り三本の竹を組んだ上に指物にして載せて一揆が城へ向かう所であったという(『松竹吉右衛門筆記』)」(同上書 p.179-180)

このような寺社への放火は島原だけでなく天草大矢野島でも行われているのだが、こういう記録を読むとキリシタン連中が立ち上がったのは、重税に抗議したという政治的なものでは全くなく、極めて宗教的色彩の強いものであったと考えるしかない。

寺社に火をつけたメンバーの証言も残されている。
「一揆の副将であったが幕府方に内通したために原城落城の後に生きのびた山田右衛門作の証言では、にわかに立ち帰った村の主だった者たちが、人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、『他宗の出家、キリシタンにならないもの』を残らず切り殺して蜂起したのが乱の発端だったという(『山田右衛門作口書写』)。代官林兵左衛門を殺害したのち、佐志喜作右衛門、山善左衛門二人の名前で出された村々への廻状が『耶蘇天誅記』に収められているが、そこでは林兵左衛門が『デウス様』へ敵対したから殺害したことを述べ、早く村々の代官はじめ『ゼンチョ(異教徒)』を一人残らず殺害すべきことが指示されている


 寺社の放火、破壊、僧侶・神官の殺害が等しく『異教徒』を撲滅する行為の一環であったことがうかがえるが、これらの行為が島原藩や、天草地方を統治する唐津藩の苛酷な年貢徴収に対する抗議活動や反対運動と見なすことができないことは言うまでもない。」(同上書 p.180-181)

当時の島原・天草のキリシタン達は、「異教徒」や「異教施設」は世の中から排除すべき存在であると考え、そのために異教徒を殺すことも寺社を破壊することも正しいと考えたようなのだが、「一神教」というものは純粋化すればするほど異教徒に対して排撃的となり、神の名を借りて過激な行動を正当化することがよくある。
このことはキリスト教だけが問題なのでなくて、イスラム教においても同様なことが起きている。

島原の乱においては、このような過激なキリシタンが大量の武器を手にしたから厄介なことになったのだが、この戦いがどう進行し、幕府は如何にして鎮圧したのだろうか。
そのことを記述するとまた長くなってしまうので、次回に続きを書くことにしたい。

 

※ずいぶんと長い文章でしたが、読み終わりましたでしょうか。

さあ、これを読んで、皆さんがどのような感想を持つか・・・・・・

By 野口

| シルクロード | 05:41 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−7  宣教師たちの犯罪

・スペインの「無敵艦隊」

・戦闘指揮に慣れたスペイン・ポルトガルの将校団

・日常的に戦闘訓練を行っている日本の武士。

この三者をまとめれば明の攻略も夢ではない、と思ったのでしょう。

 

天正遣欧少年使節団がローマに行ったのはご存知だと思います。孫引きですが、徳富蘇峰の本に書いてあったという人の話を聞きました。

大砲や鉄砲や弾薬を大量に欲していた各大名たちの要請にこたえて、その代償に若い女を求めていたヨーロッパは、宣教師たちやスペイン・ポルトガルなどを通して、多くの日本の女たちを、この天正遣欧少年使節団が乗船した船の底に詰め込んでいたとのことです。

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。

タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵

徳富蘇峰(1863〜1957年)

蘇峰學人書齋

 

このかどわかされた女性たちの人数は5000名ともいわれますが、まさか! ゼロを1つ取ったとしても500人。2つとっても50人。ともかく、各大名が自分の領地から強制的に差し出したのでしょう。ひどい話です。

彼女たちはインドやアフリカでも売られて、ヨーロッパにも連れていかれたようですが、その後のことは誰も何もわかっていません。

 

スペインの兵士や水兵たちは思うままに女たちを凌辱していたとのおぞましい姿を帰国後、少年たちが報告しているという話もあります。真偽のほどは分かりませんが、ない話ではないでしょう。どなたか徳富蘇峰の膨大な著書を調べてみてくださいませんか?私にはその術はありません。

 

さらに「島原の乱」では、「踏み絵」や張りつけなど、当時のキリシタンに加えられた弾圧のひどさばかりが言われてます。徳川幕府の弾圧に抗してキリシタンたちが決起して、この乱を起こした悲劇ということになっています。

 

しかし、宣教師たちが、母国スペインの地球戦略を踏まえた行動としてみれば、島原の乱も、スペインのこの戦略の一環としてみると、まったく違った結論になるのではないでしょうか?

いたずらにスペインなど外国勢力を日本に引き入れて、外国の植民地にしようとしたことにたいする判断と、それをもくろんだ九州・四国の大名たちや許さないという判断をしたのでしょう。

 

純粋にキリストを信じて反乱を起こした農民たちは別でしょうが、職を失ってアテもなくなって食い詰めた元武士たちは“必ずローマかスペインから救援部隊が来ると信じて”カネと仕事を求めて抵抗をしたのだと思います。何もかも悲劇と美談で包まれている“島原の乱”も、そのような舞台装置があったと思うと、戦慄すべきことだとは思いませんか?

それとも、これまで通りの教科書を信じますか?

 

秀吉がなぜ、褒賞を与える保障もない朝鮮への出兵を強行したのでしょうか。

スペインがなぜ、手がかりもあまりない明を攻撃しようとしたのでしょうか?

すべてを、なにもかも悲劇の話、にするのでなく、また、“ヨーロッパは良いことをして、秀吉や家康は悪者だ”という図式をうのみにしていいのでしょうか?

 

朝鮮からヨーロッパへ話が飛びましたが、そんなことをも考えてしまいした。

 

宣教師フランシスコ・ザビエル

籠城して戦った原城址

天草四郎時貞

 

 

 

| シルクロード | 05:33 | comments(0) | - |
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