シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
さあ〜て

 本当に、さあ〜て、です。

 気がつくと、年末に向けて講演と言うか、皆さんの前でお話する機会が増えていました。

 いま、それで部屋の整理をしています。いつも「あれが終わったらやろう」と、整理・掃除をしない理由にしているのですが、その理由もなくなりました。

 身のまわりをきれいにして、“後顧の憂いなく”書こうということです。

 

 10月14は「シルクロード講座」があります。うっかりしていて10月の講師を決めていなかったのですね。それで私が責任を取って、というわけです。

 テーマは「21世紀から見たシルクロード探検史」。是非。

 

 10月21に延期した現代シルクロード研究会のテーマは、「モンゴル帝国を継承した清朝」。12月には、ジュンガル帝国攻略とともに、これにモンゴルがベトナム、ミャンマー、インドネシア(ジャワ島)などを攻略した内容を加えたいと思っています。

 

 11月4日(土)は、毎年恒例の「シルクロードのつどい2017」です。

 会場は狛江駅すぐの「泉の森会館」。今年も「講演と音楽で贈るシルクロードの風」というテーマで実施します。

 イベントの後半の歌と踊りは、モンゴル舞踊研究会の女性たちの踊りと馬頭琴演奏者のウルゲンさん、イランの舞姫ナヒードさん。彼女の公演は先日、都立大学まで出かけて聞いてきました。すばらしい歌でした。翌日、彼女にメールしました。「狛江でもあのような歌を唄ってほしい」と。

  出演者たちはまだいます。アフガニスタンの音楽をご夫婦で演奏する「ちゃるぱあさ」、シベリア・トバ自治共和国に毎年行って音楽を勉強している寺田亮平さん。ご期待ください。そしてぜひ、狛江までお越しください。

そしてイベントの前半は私のおはなしで、テーマは「写真とおはなしで贈るシルクロード―その悠久のロマンと歴史の真実―」。

 大げさなテーマですが、今年2月に武蔵境で行なった講演会で、お話したいことの半分くらいしか語れなかったので、そのリベンジのつもりで同じテーマにしました。

その夜は、ワイフといつも一緒に遊ぶ女性の友だちと都立大駅前で11時過ぎまで飲みました(余計なことですが)。

 

  そして12月18は池袋で講演です。主催団体がいまだによく分からないのです。「アストライアの会」という名前ですが、何の会だか・・・・どなたかお判りですか?いまさら主催者に聞けないものですから・・・・主催者はわたしのことを良く知ってるような口ぶりだったのですが、よくわかりません。

 

 そんなことで、“さあ〜て”なのです。“どうしたもんかのう”というところです。

 それで部屋の整理と机まわりの整理をしています。しかし、1週間過ぎてもテーブルの手前の脇机だけしか片付けられません。やるからには徹底的にやりたいと思う一念だけです。

 きょう土曜日は、うちの奥さんが青梅の古刹で踊りの講演で出かけています。これから駅前まで行って「刺身定食」で一杯やりに行こうかと思っています。部屋の掃除ですか?明日は台風ですから、そこでやることにします。

 

  ポスターの写真は私の力ではここに移せないので、ホームページを見てください。

| シルクロード | 11:13 | comments(0) | - |
史君墓を見た!そして旅が終わった。

「西安市博物館」

 

 私は今までここには一度も来たことがなかった。昔の長安の都を観光するには1週間以上かかるとよく言われるが、まったくそうだということに気が付いた。西安市博物館には率直に言って私はあまり期待していなかった。それはほかの有名な博物館を希望していたのだが、そこが休館なのでしかたなく選んだところだったからだ。しかし、それは私がいかに浅学菲才であるかが暴露された一瞬だった。

 

唐三彩

 博物館で私が最初に喜んだのは「唐三彩」が見えたことだった。

唐三彩(とうさんさい)は唐代の鉛釉を施した陶器で、主として副葬用に制作された。いわゆる唐三彩は唐代の陶器の上の釉薬(ゆうやく)「の色を指し、後に唐代の彩陶(上絵を施した陶器)を総称する語として使われるようになった。唐代の陶器の釉薬の色は非常に多く、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫などがある。中でもクリーム色・緑・白の三色の組み合わせ、或いは緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせを主としていることから三彩と称されている。

 

 この唐三彩は以前から各地で眼にしていたが、やはり違う!すばらしいものだった。

 

史君墓

これが史君墓です

 

 調べたが日本語の書籍に史君墓を説明するものは見当たらなかった。

史君墓の「説明書き」を撮影したので、それを直訳してみたい。

この写真だけがインターネットです

 

「史君墓は北周の時代(557〜581年)現在の西安市の東で2003年6月に発掘された。この石類には文字が記載されており、墓の主の姓は史、北周の涼州(現在の河西回廊の武威周辺にあった)の薩保(一種のキャラバン隊を率いるグループ)の指導者であった。石の棺は580年に造られ、墓室の中央は長さが246センチ、幅155センチ、高さ158センチである。彼の名前は、封和突といい29歳だった。墓の底は・・・・・・以下略」。

中国のインターネットとは若干違うが仕方がない。

 

長安の城壁

 城壁へ行った。ここの観光で今回の河西回廊・チベットの旅が終わりである。

城壁は何度目かであるが、加藤老が100段近くの石段を上がるのに時間を費やした。加藤さんはゆっくりゆっくり階段を上って登り切った。やっと上がったがガイドがいない。かれは先に上った元気な3人だけを案内してずっと先を歩いている。私は彼をしかりつけた。「君は9人のツアーのうち3人だけをガイドすればいいと思っているのかっ!」と。

これは7枚の通りではありません。西門の上の城壁です

木の陰で見にくいですが、ここから遥か西域へ出発します

実に広い

これが西門の城壁です

 

 それは置いといても、やはり城壁は大きい。

西安の城壁は東西南北にあるが、現在の特徴としては、

北門は、遊牧民が来る。

東門は、交易の人が来る。

南門は、つり橋などがあるので外国人が来る。

西門は、日本人が来る、とガイドは説明していた。

 

 翌日は4時半に起きて朝早い飛行機で上海へ、そして羽田へ。

これで河西回廊・青海チベットの旅は終わりである。

疲れた。今回は私の「年齢」の笠張りを特に感じた旅であった。

とりあえずの旅の報告はこれで終わりです。

 

 以前にこのブログで連載した河西回廊の説明と併せてご覧いただければ理解が深まると思いますが、そんなヒマな方はおられないと思います。

いずれ、何らかの形でまとめてご報告したいと思います。

長い間、ありがとうございました。

                   野口

| シルクロード | 11:01 | comments(0) | - |
兵馬俑―2

 第1の方形陣営は弩兵陣営で曲形陣営の先端に位置し、230以上の弓弩手を持っている。その内甲冑を着た160余の重装備の跪射兵(きしゃへい)は陣営の中心に列に並び、その外側に170余りの戦闘服を着た軽装立射手が周りを囲んでいる。こうして敵に挑む時この二種の姿勢で射撃でき『百発不休止』、矢が雨の如く降り、敵に一歩も近寄らせない。

かなり身分の高かった兵士だという説明がある

 

 第2の小陣営は曲形陣営の右側で64台の戦車から成り、全ての戦車に1人の御者と2人の甲冑兵で構成され、歩兵は含まず、行進のスピードが速く、突破能力に優れていた為、当時の戦場では敵のド肝を抜いた軽戦車軍である。

 

 第3の小陣営は曲形陣営の中部にあり、戦車、歩兵、騎兵の混合編制でそれは19台の戦車を主戦力とし、260余の歩兵を補助とし、8騎の騎兵隊が後方を防衛し、特殊な役割を持っている。

 

 最後の第4陣営は曲形陣営の左側の騎馬兵陣営である。108の主要騎馬隊と6台の戦車で編制されている。この騎馬兵は強固な肉体を持ち、頭に皮の帽子をかぶり、皮の靴を履き、短い甲冑を付け、片手に弓を、片手に手綱を持ち、あか抜けして、戦馬も強くがっしりとしている。このような騎兵がいったん戦場に投入されると、電光の如くすばやく、風のように動き、雷の如く強く対決するであろうといわれている。

 

3号坑は【凹】字型をしていて発掘されたつの兵馬俑坑の中で一番小さい。兵俑66体、馬俑4体、戦車1台と兵馬俑の数も少ないが三つの兵馬俑坑の中で一番重要な役目をしていた。それはこの3号坑が全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部)であったためだ。

秦の兵馬俑坑は秦軍の縮小図であり、戦車や騎馬隊の千里にもおよぶ勝利の行進は又、固く守られた指揮中枢をも備えている。それは2200年前の古代帝国軍を今の世に甦らせている。

兵馬俑から始皇帝陵辺りまでを俯瞰した概略図


 秦の兵馬俑は当時の強大な秦大軍隊を再現しているだけでなく、軍陣の編列、兵器配列、及び戦略思想等を型象的な実物資料として呈している

 

3号坑は、始皇帝を、あるいは始皇帝の墓を守る儀礼兵と作戦司令官のために作られた俑と兵馬の人形であるだが、兵士の前に司令官はいない。司令官は始皇帝だから後ろから命令を下しているのだという。3号坑は2種類ある。弓兵と戦車である。戦車というのは馬に引かせた馬車に兵士が乗って闘いの先頭を走り、敵を打ち砕く役割を持っている。それを戦車という。戦闘は、主に歩兵、弩(ど)兵と射兵が戦う。

当時の馬はかなり小さく、兵士より背の低い馬が多かったようだ。だから漢の時代になって武帝は西域に強く大きく、持久力のある汗血馬を求めたのである。

同じ種類の概略図

 

 3号坑では土に埋められて姿を現していないモノが多々ある。空気に触れると原色が損なわれるということだが、“まだ始皇帝の魂が残っている”とみなされていることもあるようだ。

この俑は、まだ完全に地中から出てない

 

 この兵馬俑は当時の秦の製造技術の高さを目の当たりに見ることができるよく知られている話だが、兵馬俑の兵士の顔は同じものがふたつとなくすべて違う顔をしていだが、なぜ墓でなく兵馬俑だったのだろうか。それは秦の時代にはまだ「墓」というものがなかったからである。墓ができたのは漢の時代になってからである。

今回はあまり慣れたガイドではなかったが、「イヤホンガイド」があったことと、旅慣れた8人の同行者と一緒だったので、じっくり観察できたことが幸いだった。

 

| シルクロード | 11:37 | comments(0) | - |
銅車馬−2

話が前後して申し訳ありません。おとといの続きの銅車馬です。

人込みでにぎわう兵馬俑博物館の入り口

 

銅車馬は秦始皇帝が巡行する際に使用された車馬(馬車と馬)を銅で製作したもので、発掘された2台の大型彩絵銅車馬は、それぞれ2つの車輪と1つのカジ棒、4頭の引き馬、一体の御官俑で構成され、2台で1組とし、前の方を立車(便宜上1号車)といい、後ろの方を安車(2号車)という。この2つの銅車馬の長さは2.253.17、高さは1で大きさは実物の2分の1で作成されている。

これは銅車馬発掘当時の写真

 

 

前の立車の車体は横長の長方形で長さ48.5m、幅は74。車箱は三面を覆われ後ろは乗り降りのため開いている。車の上には円形の傘があり傘の下には位の高い御官俑が立っている。その他、車の内外には精巧な青銅製の弩(いしゆみ)、金属製の鏃(やじり)、盾などの兵器が配置されている。

これは兵士の弩(いしゆみ)の引き金に当たる部分

これは(たぶん)銅車馬のシャーシー(台車)だろうと思います

 

 

後ろの安車は車箱が前後に分かれ、前室は御者の乗る所で位の高い官俑が一体置かれている。後室は主人に供される座で比較的大きく、長さ88贈蹇幅78。四方を囲んであり、後部は戸になっていて、屋根はアーチ型楕円の車蓋となっている。始皇帝はこの安車に乗り何度も巡行した。始皇帝の巡行はその重要度及び行程などにより大駕、中駕、小駕の三つに規定し、重要な巡行は大駕で属車を81台、中駕は36台、小駕は9台としている。

車馬の御者

 

 

銅車馬は盛んな彩絵の装飾がされていて、金銀の装飾部品は4千にも昇る大量の金銀を使用している。2号車を例にとると、金部品737件、銀部品983件と、車馬は宝物の如く異彩に包まれ金銀の光の中に主人の尊い身分を示している。

これは結局、なんだかわかりませんでした

 

 

銅馬車は何度見ても圧巻である。始皇帝とこの俑や銅馬車を造った人びとは兵士や芸術家だろうが、彼らの芸術的な迫力が伝わってくるようである。

 

この銅馬車は発見当時、粉々になっており8年間かけて修復したという。大変な苦労だったろう。先頭は護衛車で始皇帝は後ろの馬車に乗っていた。

 

| シルクロード | 09:21 | comments(0) | - |
大混雑の中の銅車馬

自動小銃で迎えられた西安(実際は咸陽)の空港では、3時間遅れの機をガイドが待っていてくれた。しかし、湖のガイドは声が小さい。これは西安から離れて上海へ向かう時まで、この声の小ささに悩まされた。

 

ともあれ、城壁の中、西安ではというより、中国では都市をすべて城壁で囲む。城壁の中が都市なのである。そこで飲茶の店へ。夜も遅いのでおかゆは正解だった。そして冷たいビール。西寧ではムスリムが多いので、アルコールを置かない店が多かった。

 

しかし、バスの中で長安の都の歴史やあれこれを説明するガイドの説明が、かなりおかしい。しかし理解できる。世界であるいは日本で私たちが学んできた歴史があるが、そのなかでも突出して多いのが中華思想にもとづいた歴史観。すべての物事がこの“中華思想”というオブラートに包まれているので、そのすべてに違和感があるのである。

 

午前1時に寝て、朝6時にはモーニングコール。7時朝食、8時出発。目が覚めたのは4時すぎだから睡眠5時間弱である。

きょうは1日で兵馬俑・大雁塔・シルクロードへ向かう西の城壁、そして西安市博物館を一挙に見学するという強行日程である。そして外はかなり強い雨。天気予報はきのうもきょうも晴れ。

朝のうちの篠つく雨も兵馬俑に着いたときには猛暑。そして人・人・人

 

 

兵馬俑に着いていよいよ見学だが、85歳の加藤さんは車いすを頼んでそれで見学。元農民が押す車いすは250元。もともとこの地域は農地だったのだが、兵馬俑が発見されて農民は土地も農業も失った。要するに兵馬俑で生業(なりわい)を失った元農民への失業対策だったのである。

 

加藤老はご機嫌である。だが、降りしきる雨。彼はうちのカミさんがプレゼントした「草鞋(わらじ)」をことのほか愛用していた。バスから降りてこのわらじで出ようとするから、みんなが「雨ですから・・・足が濡れるから・・・」と言うが、ガンとして聞かない。「いいんです。わたしはこのわらじで行くんです!!!」と。私にとってこの頑固さが、この旅ではだいぶ助けられていたのである。詳細は避ける。

加藤老はワイフの送ったわらじでゴキゲン。

 

きのう30日も拙宅へ加藤さんを夕飯に招いた。うちのカミさんとの3人の食事だったが、旅の思い出話で2時間ほどは爆笑に次ぐ爆笑であった。こんなボケていないおじいさんが私は好きだ。ぼけていてもお年寄りは可愛い。といいながら、私も年寄りだったことに気がついた。

 

はじめは兵馬俑の「銅車馬」。これは誰でも「銅馬車」と言い間違えるが、正しくは「銅車馬」である。ガイドでさえ間違えている。

 

この銅車馬は1980年に地下7メートルから発見された。現在の兵馬俑のある所のすぐ近くである。はじめは金と銀の塊の房(ふさ)だったという。さらに発掘を進めると、2台の銅車、8頭の銅馬と2体の御者の俑が発見されたという。

とにかく大混雑でこの撮影がギリギリだった。

 

2000年以上の時を経て破壊されていたが、2号銅車馬は1年後に、1号銅車馬は7年後に一般公開された。

これらの銅車馬は4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられている。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立っている。傘には夔龍紋あるいは夔鳳紋が描かれている。

人におされてカメラも動く、御者も動く

少しはまともな写真になった。

 

2号銅車馬は、安車または轀輬車といい、正座した御者1体が手綱を引いた。車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれている。おそらく始皇帝はこの2号車に乗っていたのだろう。

| シルクロード | 09:52 | comments(0) | - |
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