シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
シルクロードの旅 余談

 

カラホトの仏舎利塔

 

 

衣・粧・出

 

 中国の女性がとてもきれいになりました。

 何がキレイになったかって、わたしは服飾関係は全くダメなのでよくわからないのですが、とにかくきれいになりました。

先日もご紹介した村祭りでシャーマン役を演じるというチベット人女性です

 

 それはチベット人女性のことです。何が変わったのかな〜〜って思ったのですが、化粧法でしょうか。でも、それだけではないはずです。“少数民族”としていわれのない抑圧の下で、それにくじけず、雄々しく戦っていることから来る内面の美しさだと思いました。

 これだけですと科学的な根拠がないのですが、それ以上のことはわかりません。

この上下2葉の写真は、村の祭りで出会った学生たちです。

お化粧っけのない顔ですが、健康美に輝いていました。

 

 そして漢人の女性についても触れないと不公平ですね。

 特に日本と変わらない、今はやりの服装です。なんというのか知らないのですが、シースルーのようなスカートを巧みに着こなしています。

 特に女性を狙っての私の写真は少ないのですが、あればご紹介します。

 そしておしなべてお化粧がきれいでしたね。

 肌がきれいになったのか、化粧法が良くなったのか、良い化粧品が出てきたのか知りませんが・・・

 強調したいことがあります。きれいになった女性の多くは子持ちの人か中年の女性が多いということです。

これはあまりというか、全く根拠のない話になりました。

 撮影というものは、対象を絞って写さないといいものは撮れないということがわかりました。

 

 そして「出」です。

 

 それはトイレのことです。

 中国の、というより外国人観光客が行くようなところのトイレは、「革命的」にきれいになりました。原因は北京オリンピックが画期でした。

 その当時、北京の都心以外でははあまり革命的な変化はなかったのですが、その後、全国的に次第に変化が見え始めました。

 

 昔、私が1965年当時、北京に留学した際はそれはそれは悲惨でした。

 北京の中心街の王府井(ワンフジン)の公衆トイレに入ったときでした。真っ暗な中にうごめく黒い頭。丸い穴に座っている男たちでした。座りながら、友達なのでしょうか世間話をしながら話しています。

 私たちの留学生宿舎でも、日本以外のアジア、アフリカなどからの留学生たちは,大きいほうでも扉を閉めません。もちろん、女性もだそうです。こればかりは慣れることがありませんでした。

 

 中国でというと、1949年の解放以前には、都市部以外にトイレはなかったようです。

 日本でも、私が子供のころの農村地帯では「大小便は家に帰ってからにしろ」と言われていたようです。

 貴重な肥料だ他からですね。

 以前のブログで、中国のこの種の惨状をお伝えしたことがあるのですが、これは不評でした。「隠し事はあまり表面に出さないで」と。ですから今回も撮影はしていません。

 

 コトのついでに事のことも書きましょう。

これはチベット人の家庭料理ですが、ラクダの肉です。おいしかったですよ 

これもラクダの肉です

 

“インスタ映え”とかなんとかで、よく料理をスマホ(写メというのかな?)で映す人がいますが、私はそういう撮影という行為と内容にあまり価値を見出さないので、しません。でも、思わず撮影したものをご紹介してみます。

 わたしもダイエットのために、最近は少食につとめているのですが、こちらではあまりのおいしさに、ついついたくさん食べてしまいました。

川魚はちょっと・・・

 

 

 帰国後、おそるおそる体重を図ってみると、驚くことに体重は減っていました。何か秘密があるのでしょうね。

 そうそう、雲南省の中国茶の国立研究所で専門家に聞いた話ですが、「ウーロン茶などは痩せるといわれていますが、そのようなことは全く根拠がありません」といわれました。あちらの専門家が言うのですから、間違いはないでしょう。

 

 でも中国のホテルでは、出される料理はおいしいのですが、厨房は驚くほど、汚くて、不衛生だということは覚えておいてください。

 ホテルの高い階の部屋から裏庭を見ると、泥だらけの中を長靴を履いて泥を蹴散らしながら高級料理を作っているのが普通ですから。

 

| シルクロード | 09:40 | comments(0) | - |
シルクロードの旅 余談

 おかげさまでブログの連載は大変好評でした。多くの方がたにお読みいただきました。ありがとうございました。

 ことのついでに、ある全国紙にカラホト(黒水城)の仏舎利塔の写真と短い旅日記を投稿しましたらすぐに掲載され、その日から2〜3日はメールや電話がたくさん入ってきました。

 

 それに調子づいているわけでもありませんが、旅の余談を書きます。

 というのは、実は9月8日(土)の第96回シルクロード講座で「古代日本へのシルクロード文明の流入と沖ノ島・宗像神社関連施設群の果たした役割」と題するお話をすることになっていました。

 

 自ら「やる」といった手前もあるのですが、あれこれ構想はあるのですが、準備は全く進んでいませんでした。旅のさなかにも、そのことが頭にありました。

 時期も迫ってきていたので、旅のブログを早く切り上げてそちらの準備に没入したかったので早めに切り上げたという次第でした。

 

 しかし、我が家から一歩も外にも出ないで準備した関係か、内容はともかく、おおよそのものはできました。でも、レジュメはまだで、パワーポイントだけです。

 それで、気分転換で旅の余談を書くことを思いついたのです。

車は一路、エチナへエチナへと進みます。見えるのは地平線だけです

 

  • “ところ変われば品代わる”

 銀川からエチナへは800kmあるといわれました。およそ11時間で到着の予定でした。

 それが銀川から高速道路(これは日本の高速道路とはイメージが違いますので、単なる有料道路というイメージです)を200kmくらい走ったところで車が止まりました。聞くと、前夜来の大雨で道路が崩れて通行禁止だというのです。したがって、遠回りして行くということでした。“道路が崩れてしまったのでは仕方がないナ”と思っていました。その200kmを戻ってから、新しい道路で行くことになりました。「料金所の職員も知らなかったのです」とガイドは言いますが、それを知って利用者に正しい情報を知らせるのが職員であり道路会社ではないのでしょうか?金を徴収することだけに一生懸命で、そのようなことは二の次なのですね。

「チランタイ」という料金所。ここではもう使用文字もモンゴル語になっています

 

 すると西寧ののこちゃんから電話が入りました。

ここで、なぜ遠い西寧のガイドから電話かというと、彼女は今回の私たちの旅のコーディネーターなのです。彼女が私たちの行程全てを見ていて、なにかあれば地元の旅行社やガイドと連絡を取ってくれて、私たちの便宜を図ってくれるのです。もう20年以上の付き合いになるわたしとのこちゃんとはそのような信頼関係ができているのです。43歳になる彼女はわたしの娘のような存在です(実の娘は45歳ですが)。彼女も時々間違えて「ね〜ね〜、お父さん」と言ってから恥ずかしがることがあります。

道路はどこまでもどこまでも続きます。途中の道路標識には「ハミ」や

「トルファン」の名前が出てきました

 

 

 ところが彼女から驚くべき話が持ち込まれました。「エチナまで800kmの予定が道路の関係で1,100kmになります。現地の旅行社は余計に走った分のガソリン代を野口さんたちに支払ってもらいたいといっています」ということでした。そんなバカな話はありません。それを知っているのこちゃんは「野口先生が“そんなことはおかしい”とおっしゃることはわかっています。ですから私が3分の2を払いますから、残りの3分の1をお願いできますか?」。そこまで言われるのなら仕方ありません。

次第に空も夕方になってきます

夕方の空は、まるで交響曲を流しているようです

なんとも美しい夕焼け空です。これを見れば、オーバーロード分を取るんだと

大騒ぎすることがアホのように思えます

 

 オーバーロードの分2,800元のうち1,000元を5人で200元ずつ負担することになりました。でも、この2,800元という根拠は何も知らされません。

 しかし、実際に走った距離は1,350kmでしたから、さらにオーバーした250km追加のガソリン代の請求が来るかと思ったのですが、それはなかったですね。要するに“多少理不尽なことでも自分たちが余計な金を払うのはイヤだ。だからそこにいる旅行者から取り立てればいいんだ”という安易な解決方法を考えたのでしょう。面白い国です。

 

| シルクロード | 11:26 | comments(0) | - |
旅の8日目、エチナ博物館からカラホトへ

 この日の朝はゆっくり。正午にホテルを出る。まず、エチナ博物館へ、

エチナ博物館ですが、この写真は先日、掲載しましたね。であれば、間違いです。

 

 この博物館は「カラホト=黒水城」から発掘された様々な展示があるので非常に貴重なところです。

 ただし、せっかくの博物館なのに、パンフが受付の無料で配布する簡素なものしかありません。“博物館の展示を見て判断しろ”と言わんばかりです。

 惜しむらくは、この博物館は見るに値するものが数多く展示されています。館内はフラッシュをたかなければ撮影が許可されていますので、たくさん撮りました。そのいくつかをご覧ください。

コズロフが発掘した当時の写真です

貴重な発掘品です

 

 

ここまでの写真は私の撮影したものです

 

 その後、居延海へ。

 ここも私の調査不足でした。調査不足ということは、私がここをリクエストしていなかったということです。それを現地の旅行社が一方的にここを選定したわけです。そこに注意を巡らせられなかったわたしの落ち度でした。

ガイドに、居延海について説明を求めても無言。わからないのでしょう。私が「ここには何があるの?」と聞くと、答えはただ一言、「木」。だけでした。

胡楊、紅葉の頃の写真です(ここ以下の3枚はネットから借用)

 

 

 わずかに分かったことは、ここは「胡楊の樹」がたくさん茂っているところだということです。私は胡楊の樹は何度も見ているのですが、ここはあまり見るところがないのか、30分で見終えるということで自由参加にしました。

 

 胡楊の樹は俗に“生きて千年、倒れて千年、枯れて千年”と言われます。

 帰国後、ネットで見ても、どこを見ても居延海は出ていません。わずかに中国語の説明があるだけです。きっと新しく造成された観光地なのでしょう。それを自治体の観光当局や業者たちが寄ってたかって観光客誘致のための「努力をした結果」なのでしょう。

 

 さぁ〜て、やっと今回の旅の最大の目的地であるカラホトです。

 

 以前は、故城のすぐ近くにしょぼくれた受付があって、そこで入場券を買ってすぐに入場できたのですが、今は違います。背の高い城壁用の造りの壁が長く続いていて、そこから車でかなり走りました。10分くらい走ったところが黒水城です。これが日本であったなら、「そんな広い土地なんかないよ」となるのですが、そんな心配はいりません。とにかく広いのですから。

料金所から、このような光景の砂漠をかなり走って黒水城まで行きます

この3枚の写真は私の撮影ですが、いつまでこのままの姿がみられるのか

シルクロードよ永遠なれ!

以前、仏舎利塔のある故城の内庭には、何もなかったのですが、

いまは木道が敷かれ、監視カメラを見ながらの怒声が鳴り響いています。

 

 いよいよ、かつての感動に浸ろうかと思ったのですが、かつての仏舎利塔のある場内には監視カメラのアンテナがそこかしこに立ち並んでいます。さらに、監視カメラを見ているだろうと思える、だみ声の中年の男が大きなボリュームでアナウンス。「あれをするな、これをするな」と怒鳴り散らしています。まるで年末のアメ横の呼び込みのように叫んでいます。何だろうこの状況は!!

 

 40度をはるかに超える暑さ、以前のあの心地よい涼風は流れてこなかった。

 そして、中国当局は、私たちの前からシルクロードを遠いかなたに追いやってしまった、と。

 シルクロードはどこへ行ってしまったのだろう・・・・・・・

 悲しい、苦い思い出とともにこの旅は終わりました。

 

 カラホトのご報告がこんな終わり方になってしまいましたが、この実際の姿をお見せして、考えを深めたいと思いました。

 長い間、ありがとうございました。

 

| シルクロード | 02:48 | comments(0) | - |
シルクロードと宮沢賢治

 大変失礼しました。きのう掲載したブログは、本来、今日のブログのあとに掲載する予定でした。夜中の2時すぎに作業したものですから、寝ぼけて、1日、取り違えました。ここに改めて掲載します。

 長距離ドライブ途中の青空トイレを眺めていたK爺の「おしっこ独白」から、この欄が生まれました。

 

 シルクロードと宮沢賢治

 この時は、車は太陽を追って走るので、なかなか太陽が沈みません。いつまでもいつまでも太陽を追いかけて車は走ります。しかも、夕焼け空はたとえようもなく美しくわたしたちと一緒に走ってくれます。だいたい8時過ぎに太陽はついにその乱舞に終止符を打ちました。

 すると今度は星空の出番です。K爺は以前から“一度は天の川を見てみたい“と言っていました。それが、出たのです!天の川が!

賢治

 

 次の文章は、先日、7月末にこの欄に掲載したばかりですが、内モンゴルの夜空の天の川を見たばかりですので、再掲載します。ただし天の川の写真はありません。

 実は宮沢賢治の作品には、西域・シルクロードを謳ったものが多いのです。

 

 詩「奏鳴四一九」では、

 「これは吹雪が映したる/硼砂(ほうさ)嵐Rap.Nor(ロプノール。湖)の幻燈でございます/まばゆい流砂の蜃気楼でございます」と謳っています。

 

 地上の「シルクロード」に対して、天空には「天の川」いわゆる銀河があります。賢治には「シルクロード」を素材にした作品がかなりあり、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」から「シルクロード」を想い起こすことができます。童話『雁の童子』もあります。このように「銀河鉄道とシルクロード」は、たえざるハーモニーを私たちに醸し出してくれます。

 シルクロードここにあり!だと思いました。

  AMAZON から

 

 越境するイーハトーブ

 イーハトーブは東北地方に限定されず、故郷の海岸や延々と続く丘や山々を超えていきます。そして大洋の島々にまで伸び広がり、砂漠と大陸を横断し、東方と西方にまたがった理想郷へと昇華していきました。

さらに『銀河鉄道の夜』で描かれた透明な軌道を走り、はるか天空まで昇りつめ、「永久の未完成これ完成である」(『農民芸術概論綱要』)の彼方へ、永遠へと向かうのです。

イーハトーブは賢治の心の中にある理想郷だ。賢治が生まれた岩手の風土がそのモチーフになっている

 

 賢治はすさまじい精神力でイーハトーブの世界を描き続けることで、生命を燃え尽くしました。そして今、私たちは作品の中に描かれたイーハトーブによって、賢治が追い求めた夢とは何かを知るのです。

 

 「天山山脈」は、「春と修羅」において、

砕ける雲の眼路をかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげらふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ

 

 宮沢賢治と中国

 環境問題への意識がまだ普及していなかった100年ほど前、宮沢賢治はその概念を創出して昇華させ、さらに作品の主題として取り入れました。そしてそれを「イーハトーブ」と自ら呼びました。

 

 賢治のこのような、時代を先取りした意識の源は、有史以来の中華思想に深く関係しています。春秋戦国時代の「老荘思想」では人間と環境に対する関係性も説かれました。万物が混成していると主張する斉物論(せいぶつろん)は、人間と自然界における多様な生命が相互に作用して融合するという生成観を表しています。賢治はこうした老荘をはじめとする東方の賢者の知恵を融合させていたのです。

 

 賢治はその身を岩手県の郷里に置きながら、心は西域、天竺への漫遊に何度も旅立たせました。それは共に北緯40度前後に位置する岩手県とシルクロードを結ぶ心の通路であり、イーハトーブの夢を描く空間であったのです。日常生活もたびたび西域とシンクロし、時には「悟空」『春と修羅 第二集』)を呼び出して同行させたり、時には父親への手紙の中に「一躍十万八千里」(1918年2月23日)と旅の心境を表したりしてもいます。

 

 西域の古城である「高昌(こうしょう・トルファン郊外)」の遺跡の写真が宮沢賢治記念館に飾られており、「沙車(さしゃ=現在の南疆ヤルカンド(莎車)」や「亀茲(きじ)=現在のクチャ」(『小岩井農場』)などの地名もたびたび自身の作品に登場させています。彼は『西遊記』に示されている地図に沿って創作の筆を進め、西域の砂漠や上海の夜景を記しました。さらに古琴の演奏を楽しむなどして、シルクロードに通じる中国に翔(かけ)る思いを綿々と記述したのです。

 

 賢治と中国の関係はわたしたちに多くの示唆を与えてくれます。

(この文章は、王敏(ワンミン)の文章とワイフの所属していた「賢治の学校」から拝借したものを引用しています)。

| シルクロード | 03:23 | comments(0) | - |
カラホト(黒水城)を発見した探検家・コズロフ

 8日 この日は正午にホテルを出発してエチナへ。この日からは連泊です。

 ここらへんで少し長い休息をとらないと疲れがたまる一方になります。

 朝8時まで寝ました。初めての洗濯。シャワーを浴びる足元に洗濯物を置いて、洗剤を振りまき、頭や体を洗いながら足踏み。あとはこれをゆすげばOKです。

 忙しいときは、Tシャツなどは着終わったら丁寧にたたんでおいて重ねておき、次の機会にそっと下から出して着ればOK。日本と違って乾燥しているので汗臭くないから大丈夫なのです。

 

 午後、カラホトへ

 カラホトに関して記すなら、まずシルクロード探検者としてカラホトを最初に発見した、プルジェワリスキーの弟子コズロフを紹介しなければなりません。

 コズロフ(1863−1935年没)1863年、スモレンスク県生まれ。

小学校を卒業し、家計が苦しいため同県のスロボダ村にあるブドウ酒醸造工場で働く。1881年、17歳の時、スロボダ村に転居してきたプルジェワリスキーに出会う。彼の屋敷に書生として住み込む。プルジェワリスキーの助言により、実業学校に入学、卒業後モスクワの歩兵連隊に入隊。

スヴェン・ヘディンと並ぶシルクロード探検家・プルジェワリスキー

筆者が2015年、ロシアのサンクトペテルブルクで撮影

 

 

 1884年、プルジェワリスキーの第4回、1888年の第五回中央アジア遠征隊員に加えられる。

 その後、ペフツォフ隊、ロボロフスキー隊に参加。

 1896年、97年スヴェン・ヘディンとロプ・ノール論争。

スヴェン・ヘディン(1865〜1952年没)スウェーデン生まれ

 

 

★チベットの東南地方(カム)及び四川省への遠征(1899-1901)遠征隊隊長として指揮を執る。

 アルタイスカヤ―コブト―モンゴル・アルタイ―ゴビ砂漠―クク・ノール―長江上流まで。ラサを目指すが失敗する。

 記録―「モンゴリアとカム」

 1904年、イギリスのヤングハズバンドがラサ制圧。これでコズロフはモンゴルに遠征するという方向に転換する。

フランシス・ヤングハズバンド、イギリスの探検家(1663〜1942年没)

 

 

 ★モンゴルとアムドへの遠征(1907-1909)

 遠征隊隊長として指揮を執る。エッチン・ゴル(エチナ河)東部で西夏国の古城ハラ・ホト(黒水城)を探し当てる。

 記録―「モンゴリアとアムドと死の町ハラ・ホト」

 1917年ロシア革命

コズロフがカラホトを発見した際の仏舎利塔の写真

2018年8月、同じ場所で野口が撮影

探検時の光景

 

★モンゴル遠征(1923-1926)

 ウルガ(現、ウランバートル)東方のヘンテイ山麓のノイン・ウラで匈奴の200余りの古墳を発見。さらにハラ・ホトまで足をのばし、西夏国の経典、仏画など持ち帰る。

 1935年、72歳で逝去

ロシア王立地理学協会は「グレートゲーム」におけるロシア側の密偵組織でもある

ほとんど全員が軍人であった

 

※写真は野口の名前入り以外はネットから借用。

 

| シルクロード | 01:14 | comments(0) | - |
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