シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
朝鮮通信使ものがたり−10 いよいよスタートした交流

いま大相撲界は、日馬富士の「暴力問題」で、揺れに揺れていますが、当事者からの声がなく、“オレもオレも”の声で本当のことが分からなくなっています。いずれ明らかになるでしょう。この際、マスコミに警告しておきます。「軽々しく発言すると、みっともないことになる」と。

 

だいぶ、まわり道をしました。本道に戻りましょう。

ここからは、『日本と朝鮮 2000年』(下)(NHK「日本と朝鮮 2000年」プロジェクト 編著)を参考にしています。

 

漢城(ソウル)に対馬藩からの使者

 

豊臣秀吉による朝鮮侵略は、朝鮮半島に大きな傷跡を残しました。

1592年から7年。のべ29万人の大軍を朝鮮半島に派遣しての暴虐でした。

朝鮮王朝は、秀吉が死去して日本軍が撤退したあとも、再侵略を強く警戒していました。

日本軍撤兵の翌年1599年、対馬藩から使者が訪れて「和を結びたい」と伝えられました。王宮では「本当か?」「再侵略の動きはないのか」と、日本側の真意が分からないまま、議論が紛糾しました。

 

そこで王朝は、公式ではない形で使節を派遣し、日本の国情を偵察させることにしました。朝鮮王朝は僧侶の政(ユ・ジョン)=松雲大師に白羽の矢を立てたのです。

 

僧侶の政は家康と秀忠に対面

 

かつての僧侶の政は、僧侶の兵を率いて日本軍と戦った経験がありました。

日本軍の再侵略の有無、それを探ることを主な任務として1604年、「探賊使」として日本へ向かいました。

 

わたしも行ったことのある対馬は、漁業を中心にして、交易もしている海の民が多い島です。政は対馬の藩主である宗義智(そう・よしとし)から情報を得ようとしました。

 

対馬藩の薦めで京都の伏見まで赴いた政は、そこで家康に面談します。

家康は朝鮮と「和を結びたい」と述べています。

対馬藩に残っている『朝鮮通交大紀』では、「私は朝鮮出兵には関係していない。朝鮮と私には何の恨みもない。私は朝鮮と和を通じることを望んでいる」と言っています。

まあ、かなりご都合主義的な話ですがね。

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年

羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。

江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。神戸市立博物館収蔵、池長孟コレクション。

 

| シルクロード | 09:36 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−9  「しばやんの日々」から

島原の乱の最初にキリシタンは、なぜ、寺社を放火し、僧侶を殺害したか

 

偶然ですが、「しばやんの日々」というブログを発見しました。

このブログへの掲載についてご本人の許可を得たいのですが、どのように連絡を取れば分かりません。

私が探していた徳富蘇峰の文献引用についても書いてありましたので、無断で掲載させていただきます。

少々長い文章ですが、関心のある方はお読みくださいー野口。

 

前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。
この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心な
キリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広隆の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重正の領土となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。


そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日本史』で確かめてみると、こう記されている。


「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.160-161)


この文章を普通に読めば、島原・天草地方のキリシタン弾圧がひどかっただけでなく、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったものと理解するしかない。学生時代にはこのような記述を何も考えずに鵜呑みにしていたのだが、よくよく考えるといくつも疑問が湧いてくる。

このブログで何度か事例を記してきたとおり、禁教政策はこの地域だけではなく各地で行われていたし、信仰の篤い多くの
キリシタンは、迫害を受けた場合に抵抗もせずに殉教の道を選んでいる。なぜ島原・天草のキリシタンは、他の地域のように殉教の道を選ばずに、幕府と戦うことを選択したのだろうか。
また3万7千人とも言われる反乱勢が12万以上の幕府軍と4ヶ月間も戦っているのだが、これだけ長期戦になったのは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に、当時平戸にいたオランダ商館長クーケバッケルがバタビヤ総督に宛てた書状が引用されている。これを読むと、島原藩の領主松倉重政がどのような政治を行ない、島原の乱を主導したメンバーがどういう連中であったかが見えてくる。

「…有馬の君主[
有馬直純]
は、陛下[将軍]の命にて、他国へ移封せられたが、彼は僅かに若干の臣下を伴い行(ゆ)いた。これに反して新たに有馬に封ぜられたる新領主[松倉重政]は、ほとんど悉(ことごと)くその旧家臣を率いてきた。これがために先領主の旧家臣らは、その歳入を奪われ、非常に困窮して、何れも百姓となった。この百姓は、ただ名のみで、その実は、武器の使用に熟練した兵士であった


 新来の領主は、彼らの旧禄を奪ったにとどまらず、さらに彼らおよび従来よりの純農民に課税し、彼らの負担し得ざる程の米穀の高を徴した。而してもし上納し得ぬ者あれば、日本人の蓑(みの)と称するものを着せ、これを首と体とに捲き締め、縄(なわ)もて両手を背後にしかと縛(しば)り、しかる後この着物に火をつけた。かくて彼らは火傷するばかりでなく、中には焼死する者もあった。この悲劇を蓑踊りと称した。

 この執念深き領主は、また婦女を赤裸にして、両足を縛りて、さかしなに吊るし、その他種々の仕方もて、彼女らを侮辱した。


 しかも人民はかろうじてこれに耐え忍んだだが、その嗣子にして江戸に住する領主[松倉重治]に至りては、さらにその上に重税を課したから、むしろ坐して餓死を待たんよりも、自殺するに若(し)かずと、まず自らの妻子を手刃するにいたった。


 長崎港の南方、有馬領の対岸に位し、退潮の時は、徒歩にても渡り得べき島がある。これが天草島だ。ここの農民もまた、その領主に虐げられた。彼らの領主[寺澤堅高]は、平戸の北方15哩(マイル)の唐津にありて、恒に誅求を事とした。而して彼らは有馬の農民と、互いに相呼応して、一揆を爆発せしめた」。

このように、島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことをオランダ人が記録していることは重要なポイントである。

外国人の記録だけではなくわが国にも史料があるようだ。たとえば『天草征伐記』には、一揆の中心メンバーの名前が記されているという。徳富蘇峰の同上書にその史料が紹介されている。

天草甚兵衛、同 玄札、大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、芦塚忠右衛門、赤星内膳、この六人一所に集まり、暫らく物語した。大矢野作左衛門曰く、さてさて口惜しきことよ。このままにて餓死に及ぶとは。時に天草玄札曰く、この島(天草島)の領主寺澤志摩守(廣高)は善人であったが、今の兵庫頭(堅高)は、法令苛(きび)しく、無法に百姓に課役をかけ、福分の百姓も悉く貧しくなり、恨み骨髄に徹している。今この時に於いて、一揆を起こし、運を開くか、左なくば、潔く討死しては如何と。芦塚忠右衛門曰く、尤も妙だ。この島は種子島に近く、島中の鉄砲五六百梃もあらん。百姓共も修練して鹿猿を打つ猟師なれば、武士たりとて、これには及ぶべくもあらず。かつこの島民は本来切支丹なれば、この宗門に託して、不思議を現わし、一味徒党を以て、一揆を企つべしと。これにて評定一決した。」

徳川幕府の正史である『徳川実記』にも首謀者の名前が明記されているようだ。
徳富蘇峰の解説によると、「徳川実記には、小西行長の遺臣にして、朝鮮役に軍功のありたる大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、山善右衛門、森宗意の5人が、主謀者となり、大矢野村庄屋益田甚兵衛の子四郎(後に時貞)といえる、16歳の少年を擁して愚民を煽動した」とある。

『天草征伐記』と『徳川実記』とは首謀者の名前が微妙に異なるのだが、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、そのまわりに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したという点は同じである。しかし、なぜ、戦後の教科書やマスコミなどの解説に、そのことをしっかり伝えないのだろうか。

島原の乱の起こる数年前から、天候異変や台風などにより農作物の不作が続き、農民たちが重い年貢の取立てに困窮していたことや、キリシタンに対する厳しい迫害があったことは史実である。だから、農民たちが年貢の減免を求めて蹶起したというのが国民の常識になってしまっているのだが、この説が作り話である事は当時の史料を読めば明らかなようである。

神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に、当時の記録をもとに「一揆勢」の行動が紹介されているので紹介したい。

「…大矢野村で、大庄屋の小左衛門が百姓ら四、五十人を引き連れて栖本の代官のところに押しかけたことが天草での蜂起の発端であったが、代官のもとに押しかけた百姓たちは、自分達はキリシタンに立ち返る*
と宣言したのみで、年貢を減免せよとは言っていない。…この事件についての別の証言では代官自身にキリシタンになるよう迫った、というから、これが百姓側の主要な訴えであったことは確かだと思われる。とすると、年貢の苛酷な取立てに憤った百姓の言い分としては、いかにも奇妙な感は免れない。いったい農民たちは代官に年貢を減免させたいのだろうか、それてもキリシタンに改宗させたいのだろうか。


 また一揆勢は他の村々や周囲の人々にキリシタンになるように迫り、それに従わない村に対しては攻撃を加えた。天草御領村の住民たちに対して一揆は、キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったという。(『御書奉書写言上扣』)


通常の百姓一揆では一揆に加わらない村々に制裁を加えたことが知られているが、一揆に加わることとキリシタンに改宗することは別である。一揆勢が迫ったのは改宗であり、下手をすれば『異教徒』の村を敵に回しかねないことである。なぜ、このように、一揆勢力は改宗にこだわったのか。苛酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰を結束軸として立ち上がったという筋書きは、如何にもそれらしくは見えるものの、一揆勢の行動はこれでは説明できないだろう。」(『宗教で読む戦国時代』p.178-179)
*立ち返る:キリスト教を棄教した者が再び信者に戻ること

「まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)…

 寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。また島原の町の水頭にある寺で火事があったとの報に、城内から侍三人が現場へ駆けつけたところ、火事ではなく寺の住持の首を切り三本の竹を組んだ上に指物にして載せて一揆が城へ向かう所であったという(『松竹吉右衛門筆記』)」(同上書 p.179-180)

このような寺社への放火は島原だけでなく天草大矢野島でも行われているのだが、こういう記録を読むとキリシタン連中が立ち上がったのは、重税に抗議したという政治的なものでは全くなく、極めて宗教的色彩の強いものであったと考えるしかない。

寺社に火をつけたメンバーの証言も残されている。
「一揆の副将であったが幕府方に内通したために原城落城の後に生きのびた山田右衛門作の証言では、にわかに立ち帰った村の主だった者たちが、人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、『他宗の出家、キリシタンにならないもの』を残らず切り殺して蜂起したのが乱の発端だったという(『山田右衛門作口書写』)。代官林兵左衛門を殺害したのち、佐志喜作右衛門、山善左衛門二人の名前で出された村々への廻状が『耶蘇天誅記』に収められているが、そこでは林兵左衛門が『デウス様』へ敵対したから殺害したことを述べ、早く村々の代官はじめ『ゼンチョ(異教徒)』を一人残らず殺害すべきことが指示されている


 寺社の放火、破壊、僧侶・神官の殺害が等しく『異教徒』を撲滅する行為の一環であったことがうかがえるが、これらの行為が島原藩や、天草地方を統治する唐津藩の苛酷な年貢徴収に対する抗議活動や反対運動と見なすことができないことは言うまでもない。」(同上書 p.180-181)

当時の島原・天草のキリシタン達は、「異教徒」や「異教施設」は世の中から排除すべき存在であると考え、そのために異教徒を殺すことも寺社を破壊することも正しいと考えたようなのだが、「一神教」というものは純粋化すればするほど異教徒に対して排撃的となり、神の名を借りて過激な行動を正当化することがよくある。
このことはキリスト教だけが問題なのでなくて、イスラム教においても同様なことが起きている。

島原の乱においては、このような過激なキリシタンが大量の武器を手にしたから厄介なことになったのだが、この戦いがどう進行し、幕府は如何にして鎮圧したのだろうか。
そのことを記述するとまた長くなってしまうので、次回に続きを書くことにしたい。

 

※ずいぶんと長い文章でしたが、読み終わりましたでしょうか。

さあ、これを読んで、皆さんがどのような感想を持つか・・・・・・

By 野口

| シルクロード | 05:41 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−7  宣教師たちの犯罪

・スペインの「無敵艦隊」

・戦闘指揮に慣れたスペイン・ポルトガルの将校団

・日常的に戦闘訓練を行っている日本の武士。

この三者をまとめれば明の攻略も夢ではない、と思ったのでしょう。

 

天正遣欧少年使節団がローマに行ったのはご存知だと思います。孫引きですが、徳富蘇峰の本に書いてあったという人の話を聞きました。

大砲や鉄砲や弾薬を大量に欲していた各大名たちの要請にこたえて、その代償に若い女を求めていたヨーロッパは、宣教師たちやスペイン・ポルトガルなどを通して、多くの日本の女たちを、この天正遣欧少年使節団が乗船した船の底に詰め込んでいたとのことです。

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。

タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵

徳富蘇峰(1863〜1957年)

蘇峰學人書齋

 

このかどわかされた女性たちの人数は5000名ともいわれますが、まさか! ゼロを1つ取ったとしても500人。2つとっても50人。ともかく、各大名が自分の領地から強制的に差し出したのでしょう。ひどい話です。

彼女たちはインドやアフリカでも売られて、ヨーロッパにも連れていかれたようですが、その後のことは誰も何もわかっていません。

 

スペインの兵士や水兵たちは思うままに女たちを凌辱していたとのおぞましい姿を帰国後、少年たちが報告しているという話もあります。真偽のほどは分かりませんが、ない話ではないでしょう。どなたか徳富蘇峰の膨大な著書を調べてみてくださいませんか?私にはその術はありません。

 

さらに「島原の乱」では、「踏み絵」や張りつけなど、当時のキリシタンに加えられた弾圧のひどさばかりが言われてます。徳川幕府の弾圧に抗してキリシタンたちが決起して、この乱を起こした悲劇ということになっています。

 

しかし、宣教師たちが、母国スペインの地球戦略を踏まえた行動としてみれば、島原の乱も、スペインのこの戦略の一環としてみると、まったく違った結論になるのではないでしょうか?

いたずらにスペインなど外国勢力を日本に引き入れて、外国の植民地にしようとしたことにたいする判断と、それをもくろんだ九州・四国の大名たちや許さないという判断をしたのでしょう。

 

純粋にキリストを信じて反乱を起こした農民たちは別でしょうが、職を失ってアテもなくなって食い詰めた元武士たちは“必ずローマかスペインから救援部隊が来ると信じて”カネと仕事を求めて抵抗をしたのだと思います。何もかも悲劇と美談で包まれている“島原の乱”も、そのような舞台装置があったと思うと、戦慄すべきことだとは思いませんか?

それとも、これまで通りの教科書を信じますか?

 

秀吉がなぜ、褒賞を与える保障もない朝鮮への出兵を強行したのでしょうか。

スペインがなぜ、手がかりもあまりない明を攻撃しようとしたのでしょうか?

すべてを、なにもかも悲劇の話、にするのでなく、また、“ヨーロッパは良いことをして、秀吉や家康は悪者だ”という図式をうのみにしていいのでしょうか?

 

朝鮮からヨーロッパへ話が飛びましたが、そんなことをも考えてしまいした。

 

宣教師フランシスコ・ザビエル

籠城して戦った原城址

天草四郎時貞

 

 

 

| シルクロード | 05:33 | comments(0) | - |
さあ〜て

 本当に、さあ〜て、です。

 気がつくと、年末に向けて講演と言うか、皆さんの前でお話する機会が増えていました。

 いま、それで部屋の整理をしています。いつも「あれが終わったらやろう」と、整理・掃除をしない理由にしているのですが、その理由もなくなりました。

 身のまわりをきれいにして、“後顧の憂いなく”書こうということです。

 

 10月14は「シルクロード講座」があります。うっかりしていて10月の講師を決めていなかったのですね。それで私が責任を取って、というわけです。

 テーマは「21世紀から見たシルクロード探検史」。是非。

 

 10月21に延期した現代シルクロード研究会のテーマは、「モンゴル帝国を継承した清朝」。12月には、ジュンガル帝国攻略とともに、これにモンゴルがベトナム、ミャンマー、インドネシア(ジャワ島)などを攻略した内容を加えたいと思っています。

 

 11月4日(土)は、毎年恒例の「シルクロードのつどい2017」です。

 会場は狛江駅すぐの「泉の森会館」。今年も「講演と音楽で贈るシルクロードの風」というテーマで実施します。

 イベントの後半の歌と踊りは、モンゴル舞踊研究会の女性たちの踊りと馬頭琴演奏者のウルゲンさん、イランの舞姫ナヒードさん。彼女の公演は先日、都立大学まで出かけて聞いてきました。すばらしい歌でした。翌日、彼女にメールしました。「狛江でもあのような歌を唄ってほしい」と。

  出演者たちはまだいます。アフガニスタンの音楽をご夫婦で演奏する「ちゃるぱあさ」、シベリア・トバ自治共和国に毎年行って音楽を勉強している寺田亮平さん。ご期待ください。そしてぜひ、狛江までお越しください。

そしてイベントの前半は私のおはなしで、テーマは「写真とおはなしで贈るシルクロード―その悠久のロマンと歴史の真実―」。

 大げさなテーマですが、今年2月に武蔵境で行なった講演会で、お話したいことの半分くらいしか語れなかったので、そのリベンジのつもりで同じテーマにしました。

その夜は、ワイフといつも一緒に遊ぶ女性の友だちと都立大駅前で11時過ぎまで飲みました(余計なことですが)。

 

  そして12月18は池袋で講演です。主催団体がいまだによく分からないのです。「アストライアの会」という名前ですが、何の会だか・・・・どなたかお判りですか?いまさら主催者に聞けないものですから・・・・主催者はわたしのことを良く知ってるような口ぶりだったのですが、よくわかりません。

 

 そんなことで、“さあ〜て”なのです。“どうしたもんかのう”というところです。

 それで部屋の整理と机まわりの整理をしています。しかし、1週間過ぎてもテーブルの手前の脇机だけしか片付けられません。やるからには徹底的にやりたいと思う一念だけです。

 きょう土曜日は、うちの奥さんが青梅の古刹で踊りの講演で出かけています。これから駅前まで行って「刺身定食」で一杯やりに行こうかと思っています。部屋の掃除ですか?明日は台風ですから、そこでやることにします。

 

  ポスターの写真は私の力ではここに移せないので、ホームページを見てください。

| シルクロード | 11:13 | comments(0) | - |
史君墓を見た!そして旅が終わった。

「西安市博物館」

 

 私は今までここには一度も来たことがなかった。昔の長安の都を観光するには1週間以上かかるとよく言われるが、まったくそうだということに気が付いた。西安市博物館には率直に言って私はあまり期待していなかった。それはほかの有名な博物館を希望していたのだが、そこが休館なのでしかたなく選んだところだったからだ。しかし、それは私がいかに浅学菲才であるかが暴露された一瞬だった。

 

唐三彩

 博物館で私が最初に喜んだのは「唐三彩」が見えたことだった。

唐三彩(とうさんさい)は唐代の鉛釉を施した陶器で、主として副葬用に制作された。いわゆる唐三彩は唐代の陶器の上の釉薬(ゆうやく)「の色を指し、後に唐代の彩陶(上絵を施した陶器)を総称する語として使われるようになった。唐代の陶器の釉薬の色は非常に多く、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫などがある。中でもクリーム色・緑・白の三色の組み合わせ、或いは緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせを主としていることから三彩と称されている。

 

 この唐三彩は以前から各地で眼にしていたが、やはり違う!すばらしいものだった。

 

史君墓

これが史君墓です

 

 調べたが日本語の書籍に史君墓を説明するものは見当たらなかった。

史君墓の「説明書き」を撮影したので、それを直訳してみたい。

この写真だけがインターネットです

 

「史君墓は北周の時代(557〜581年)現在の西安市の東で2003年6月に発掘された。この石類には文字が記載されており、墓の主の姓は史、北周の涼州(現在の河西回廊の武威周辺にあった)の薩保(一種のキャラバン隊を率いるグループ)の指導者であった。石の棺は580年に造られ、墓室の中央は長さが246センチ、幅155センチ、高さ158センチである。彼の名前は、封和突といい29歳だった。墓の底は・・・・・・以下略」。

中国のインターネットとは若干違うが仕方がない。

 

長安の城壁

 城壁へ行った。ここの観光で今回の河西回廊・チベットの旅が終わりである。

城壁は何度目かであるが、加藤老が100段近くの石段を上がるのに時間を費やした。加藤さんはゆっくりゆっくり階段を上って登り切った。やっと上がったがガイドがいない。かれは先に上った元気な3人だけを案内してずっと先を歩いている。私は彼をしかりつけた。「君は9人のツアーのうち3人だけをガイドすればいいと思っているのかっ!」と。

これは7枚の通りではありません。西門の上の城壁です

木の陰で見にくいですが、ここから遥か西域へ出発します

実に広い

これが西門の城壁です

 

 それは置いといても、やはり城壁は大きい。

西安の城壁は東西南北にあるが、現在の特徴としては、

北門は、遊牧民が来る。

東門は、交易の人が来る。

南門は、つり橋などがあるので外国人が来る。

西門は、日本人が来る、とガイドは説明していた。

 

 翌日は4時半に起きて朝早い飛行機で上海へ、そして羽田へ。

これで河西回廊・青海チベットの旅は終わりである。

疲れた。今回は私の「年齢」の笠張りを特に感じた旅であった。

とりあえずの旅の報告はこれで終わりです。

 

 以前にこのブログで連載した河西回廊の説明と併せてご覧いただければ理解が深まると思いますが、そんなヒマな方はおられないと思います。

いずれ、何らかの形でまとめてご報告したいと思います。

長い間、ありがとうございました。

                   野口

| シルクロード | 11:01 | comments(0) | - |
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