シルクロード日誌

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漢代以前のシルクロード交流前史                      2009年2月 野口 信彦

 方向や森林・山地・日数が記述してあるので、場所が比定できそうなのだが、,離汽Ε蹈泪織ぐ奮阿脇颪靴ぁの山羊足人を白鳥庫吉は『山海経』「海内経」の釘霊之国蹄人にあたるとしてスキーを使用していた模様である。のイッセドネス人はロプノールあたりで、漢文文献にいう崑崙・遇氏・渠捜がそれであり、のアリマスポイ人は陰山北方から甘粛にあたり、匈奴の祖である、と白鳥庫吉はいっている。

 

 最終的にはの海へ到達することになるが、要点をいえば、─Ν〜の険峻な山脈がどこにあるかがカギである。これまでの説を大きく分けると、この山脈をウラル山脈とする説とアルタイ山脈にする説がある。の海は、後半を北へ向ける説では北極へ行き、東へ向く説では、渤海かバイカル湖である。

 

しかし、具体的な海ではなく大地をめぐるオケアノスの海、とヘロドトスは思っているようであるが、┐離▲襯ッパイオイ人がモンゴロイド風であり、アルタイ地方が黄金の産地でグリフィンデザインの遺物が多いことを思うと、この山地はアルタイ山脈周辺のことではないかということになる。スキタイからはずいぶんと遠い。

新疆ウイグル自治区の中のアルタイ地区の位置

ロシア領のアルタイ地方

北新疆のハナス湖

 

ヘロドトスは『歴史』の別の部分で、ペルシア軍が侵攻してきたとき、スキタイ周辺の諸民族が集まって迎え撃とうという軍議をもつ箇所にも出てくる民族名に、▲屮妊ノイ人.汽Ε蹈泪織た佑發△蝓⊆尊檗▲撻襯轡軍はスキタイ、サウロマタイ人の地、ブディノイ人の地、L疑佑涼蓮△反攻している。すると無人の地まで、スキタイからそう遠くないはずであろうとの理由からわりと近くへ持ってくる説もある。アルタイ山脈のパジリク古墳群発掘後は、パジリク古墳の主をヘロドトスのいう、κ娘錣離好タイ人に当てたり、この前の時代に東方からスキタイを追い、ペルシア王キュロスを討ったマッサゲタイ人をスキタイ人あるいは月氏人と同系とする説もあって定説はないが、このころすでにパジリク古墳群などに出土するように中国産絹も西へ出ていたことを思うと、ヘロドトスのこの話すべてが想像であるとはいえないと思える。

パジリク5号墳出土の壁面覆いに見られる「乗馬する男」

パジリク古墳出土の絨毯。

 

おわりに

 ここで取り上げたのは、いわゆるチュルク系民族の拡散やモンゴル以前のこと、いわゆる「張騫鑿空の攻」以前になる。

 印欧語=インド・ヨーロッパ語族や匈奴フンにかかわることはすでに200年以上の議論がある。

 

 わたしたちがシルクロードを学ぶとすると、張騫以降が普通で、仏教伝来とかササーン朝美術が奈良の正倉院に伝わった、あるいは敦煌・楼蘭、国際都市長安の繁栄、ソグド人の活動、チンギスハーンといった話であった。ふるい話では匈奴とスキタイといったところであった。

 

 中国は「確固とした排外的な中華思想」があるので、外からの影響を言いたがらない。中国から外への影響は強調しているが・・・・

 張騫以前を考えると、遠距離交易の証拠として、宝貝・ラピスラズリ・玉の道である。さらに馬・馬具があり馬車がある。

| シルクロード | 04:23 | comments(0) | - |
漢代以前のシルクロード交流前史  2009年2月 野口 信彦

 

ギリシアの歴史家ヘロドトスによる東方ルートの記録

 ヘロドトスは現在のトルコ北岸に生まれたギリシア人で、彼が子どものころに終わったペルシア戦争と呼ばれる、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ダレイオス(ダーラヤワゥ)1世とクセルクセス(フシャヤールシャン)1世によるギリシア侵攻(前499〜479年)について記す中で、ギリシア側とペルシア側諸勢力さらに周辺の諸国勢力の歴史地理や風俗軍事状況を記述した。

 

マラソン競技に名を残す「マラトンの戦い」のあった戦争である。当時のペルシアは中央アジアからエジプトにまでいたる、広大な領域を持った多民族国家であり、ギリシアも各都市国家がそれぞれの歴史と利害を有しており、両陣営とも複雑な地盤に成り立っていた。周辺も様ざまである、ヘロドトスはそのそれぞれの状況を順次説明している。

 

 当時はまだ大地が平面だと思われていたから、東方の日の出の地は、朝暑く夕寒く、西方の日の入りの地は、夕暑い。大地の北半はヨーロッパ(エウロパ)で、南半西はアフリカのリビア、南半東はアジア(ペルシア)であった。ヨーロッパはアジアについても東端のことは明瞭ではない。知識の東端は今の北インドであるが、これは要するにハカーマニシュ朝の東端であった。(岩波文庫『歴史』松平千秋訳を参照)。

シリアのボスラ遺跡 2010年4月 筆者撮影

シリアの首都ダマスカスで父親と歩いていた美しい少女。父親の承諾を得て撮影させ頂いた。

彼女たち親子は、いま、生きているのだろうか。

 

 ヘロドトスはそのなかで、ギリシア侵攻以前に、やはりペルシア人に侵攻されたスキタイ(スキュタイ)人のことを述べながら、その東方、今で言う中央ユーラシアへの、ステップルート(草原路)にあたる話を書いている。当時ではこれはアジアではなく、ヨーロッパの東北部になるが、スキタイ勢力の本拠地は黒海北岸、アゾフ海北岸、今のウクライナあたりで、スキタイの北界はタナイス川(今のドン河)。これを東へわたってからを順番に記すと、次のようになる。

  • サウロマタイ人の地。北へ15日間の距離にわたる。樹木はない。
  • ブディノイ人の地。森林地帯で、湖と沼沢もある。人口おおく、碧眼紅毛の遊牧民。
  • 北へ7日間行程の無人の地。
  • やや東(ヘロドトスによると北)に転じて、チュッサゲタイ人の地。タナイス河の源流。人口おおく、狩猟民である。
  • 接してイュルカイ人。これも狩猟民で馬と犬をつかう。森林地帯。
  • さらに東方に別種のスキタイ人。王族スキタイに背反した分派。ここまでは平坦な土地である。
  • 岩だらけの荒地。
  • アルギッパイオイ人。高い山脈の麓。男女ともはげ頭の聖なる平和民族。樹陰に住み、冬は白色のフェルトを掛ける。ここまではスキタイ人・ギリシア人も来たことがある。スキタイ人はここまで七重の通訳をつかう。
  • アルギッパイオイ人の東方はイッセドネス人。
  • イッセドネス人と河を挟んで、マッサゲタイ人(ヘロドトスによるとカスピ海東方=今のカザフスタン西部)で、スキタイ人と同族とする。
  • この先は不確実な話であるとヘロドトスにはことわっている。険峻な高い山脈中に山羊足人。
  • 山脈を越えると1年のうち半年間睡眠する別の民族。
  • 隻眼のアリマスポイ人と黄金を守護する別の民族。
  • ヒュペルポリオイ人(極北人)。ギリシアのデロス神殿まで供物を届けてくることがある。
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漢代以前のシルクロード交流前史  2009年2月 野口 信彦

 

匈奴と騎馬遊牧

 「游」(中国語で旅行のことを、「旅游」あるいは「游行」と書く)は、人間の移動生活(漢代の用語では“遷徙=せんし”)の意味である。牧畜とは群生の有蹄類(羊・山羊・牛、地域によってラクダ・ヤク・馬等)を設備なしで多数飼育して生活することである。

 

 設備がなくとも家畜類が逃げ出さないということは、そこに人間の飼育あるいは放牧という技術があるからであり、草原に羊を放牧しているからといって、遊牧民の遊牧というのは間違いになる。定住農耕民も羊やヤギなどを飼育し放牧するからである。

モンゴルの遊牧民と馬(2019年8月、筆者撮影)

 

 生活生態のひとつの表れとして、農耕に頼らず牧畜に頼り、移動生活をするタイプが遊牧(游牧)である。

騎馬遊牧の騎馬とは、この牧畜を、騎馬を管理手段として行うことである。

騎馬遊牧の発生自体が現在ではあまりよくわかってはいないが、ハカーマニシュ朝などの古代帝国が定住農牧地帯に興隆したときに、やや遅れながらも、草原の遊牧地帯も軍事化・広域政権化してきたのである。ヘロドトスの伝えるキンメル人やスキタイはその先駆となる。

スキタイの騎兵

スキュティア遠征におけるダレイオス1世の進路。

スキタイの各種族の分布地図

 

 定住農牧地帯の歴史が新石器時代から古代帝国まですんなりと理解できるのに、遊牧地帯における大統合については、文字がなかったということもあってよく分かっていない。

 匈奴とその周辺の諸民族は冒頓単于(ぼくとつぜんう)という英雄によって統合される(前209年)が、それはちょうど中国側で始皇帝後(前210年死去)から、漢の高祖の動乱時代にあたった。“単于”は匈奴皇帝の漢字表記で、後世の可汗に相当する。冒頓単于による大統合は、始皇帝による北方への締めつけのせいであるともいう。したがって、すでに始皇帝が極めて警戒すべき相手として匈奴を脅威に思っていたことも事実であろう。

冒頓単于

 

 

 東西交渉史――張騫とコロンブス

 人類史においてコロンブスがはじめて新大陸に到達したわけではないが、当時のヨーロッパは、自分たちのことだけが「世界」だったのであり、最初の「発見」となったのである。コロンブスは先人がすでに新大陸に到達していたことは知らずに、新大陸(近くの島嶼部分)に到達したであろうし、ヨーロッパ、当時のヨーロッパはヨーロッパそのものが「世界」だったが、その世界に大きな影響を与えた人としては、やはりコロンブスになる、ということと同じである。

コロンブス像

コロンブスの航路

 

 そのコロンブスには、東方にジパングという黄金の国があると聞いて西へ西へとめざした山師のような人物像が見えてくる。アフリカ最南端の喜望峰を発見して、インド航路を発見したポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマも同様である。

ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年ころ〜1524年)

 

 コロンブスが新大陸を「発見」した関係で、スペインはのちに中南米やペルーを植民地とし、ペルー1千万人の先住民人口を、(殺戮やペルーに持ち込んだ様々な病疫・梅毒それに奴隷としてヨーロッパや各地に売り飛ばすなど)70万人にまで激減させた。やがてスペインは17世紀には金が豊富に採掘できるフィリピンまでをも植民地として、スペイン一国で“太陽の沈まない国”となったのである。これこそが、ある種の「海のシルクロード」ではあるまいか。

 

第9代インカパチャクテク

インカ道

 

最後のインカ、トゥパク・アマルー。1572年の彼の処刑によってインカ帝国は完全に滅亡したが、現在もペルー人の精神の中に自らの歴史として残り続けている。

 

 

張騫もコロンブスと同様に、それ以前にも多くの無名の人びとが天山南・北路などのいわゆる「シルクロード」を往来していたから歩くことができたのである。そういう点では張騫の従者で奴隷の身であった甘父の果たした役割を過小評価することはできない。帰国後、侯爵に列せられた。

 

 東西交渉史についていえば、張騫がはるばる大苑国にたどりついたら、漢のことはすでに向こうがとっくに知っていて、貿易を求めており、なぜか漢の産物もあったのである。帰国して調査したら、それらを輸出しているらしい蜀(現在の四川省近辺)の密貿易商人もいたというのだから、張騫が初めて中央アジアに関係した漢人というわけではなかったのである。国家公務員というか外交官としては中国王朝で初めて西域に往った人という言い方が適切であり、そして遠征の結果として社会的文化的影響と価値が大きかったということである。

| シルクロード | 03:48 | comments(0) | - |
漢代以前のシルクロード交流前史  2009年2月 野口 信彦

  “張騫鑿空(ちょうけんさっくう)の攻”以前にもあった“シルクロード”交流

大月氏へと赴く張騫使節団

 

 張騫の事業の背景

 張騫の名はいわゆるシルクロードを開拓した人物として、高校の教科書にも掲載されている。『史記』、「大苑列伝」・「衛将軍驃騎列伝」付記と『漢書』「張騫李広利伝」にあり、基本的研究は桑原隲蔵の「張騫の遠征」と榎一雄の「張騫の鑿空」であろう。初めての人は小谷伸男の『大月氏』をみるとよい。

 

 張騫は紀元前138年(139年説もある)に匈奴に対抗するために、はるか西方のかなたに存在していた大月氏(だいげっし)と連携して匈奴を挟み撃ちにしたいとして武帝によって派遣されたが、すぐに匈奴につかまってしまった。だが脱出して現在のアフガニスタン南部にいた大月氏との軍事同盟の交渉をした。交渉は成功しなかったが、中央アジア各地をめぐり、情報を得て、帰途、再び匈奴につかまったが、再び脱出して、前126年、長安に帰り着いた。出発時は100人だったが帰国時は2人だけだった(ほかに匈奴によって与えられた妻と子がいた)。『史記』はこれを張騫鑿空の攻と呼んでいる。

室町時代の人 前島宗祐「張騫図」メトロポリタン美術館蔵

 

 

鑿空とは「孔を穿ける」という意味で、「西方にはじめていって、道をこじあけた」ということになる。

 張騫が中央アジア滞在中に書いたものによると(原文は「大苑列伝」より)、彼の地ではすでに漢のことを知っていたようである。張騫が大苑(現在のウズベキスタン東部、クルグズスタン西部)へ着いたところ、

 

  大苑聞、漢之曉財、欲通、見張、喜

 ― 大苑は漢の豊かなことを聞いていて、貿易を望んでいたものの、できなかった、そこへ張騫が来たので喜んだ。

とある。月氏へつくと、

 (大月氏)又自以遠漢

 ― 大月氏は漢が遠方であることを理由に、(同盟を結ばなかった)。

 また、大夏(現在のアフガニスタン北部)の市場で邛(きょう)の竹杖と蜀の布をみる。

 (張騫)在大夏時、見邛竹杖・蜀布

 

 その竹杖と布は商人が身毒(現在の北インド)という象に乗る国から仕入れてくることをきく。また、大苑・大夏・安息みな漢の財物を貴しとしていることも聞いている。

 

 「大夏は漢から西南へ1万2千里、身毒は大夏から東南へ数千里であり、しかもそこに蜀のものがある、とすれば、身毒は蜀からそう遠くはない。漢から東南へ出れば、(蜀も邛も現在の四川省)身毒を経て大夏へ達するルートがある」とある。

 すでに張騫以前の古代から、大夏・漢・身毒の三角形が誕生していたのである。

 一方で漢の武帝は、同時期に家臣を南越(現在の広東からベトナム近辺)へ遣いを出している。こちらにも張騫の事績と同じ活動があったことを記憶しておく必要があろう。張騫だけではなかったのである。

紀元前1世紀の西域諸国。現在のウズベキスタンのフェルガナ地方にあたる

 

張騫は別の言い方をすれば密偵=スパイであった。

日本ではスパイというと、“人格が欠損した、いかがわしく怪しい人物”という見方が定着しているが、日本の西方では、「スパイは勇気のある、国を思う英雄」という見方があることも理解しておく必要がある。私も友人のウイグル人数人から「野口さんはスパイのよう」といわれて激怒したことがあった。よく話してみると前述のようなことが分かったのである。

 

 張騫の事績の背景としては、前第1千年紀は人類が始めて巨大国家・広域政権をつくり、それが並立した時代で、西方のまずアッシリアあたりが先駆ということになるが、ハカーマニシュ朝ペルシア、それを征したアレクサンドロス大王の政権、ローマ、大月氏〜クシャン朝、アルケサス(安息)ペルシア、東アジアにおいては七雄から始皇帝、漢といった大連合が各地域で起こった。これを古代帝国という。

武帝 劉徹 前漢 第7代皇帝 前141年3月9日 - 前87年3月29日

 

 

その内側は、今でいう広域・多民族国家となり、外側は、周辺地域に強く影響を与えた。さらに巨大国家は互いに接し、ぶつかり合う。その流れは草原ステップにも及び、「匈奴」と中国からいわれる大統合がなされた。これは「匈奴」という固有の部族だけの名称ではなく、征服・統治した部族・集団を統合し拡大していったものを遊牧騎馬民族の「匈奴」と称したのである。匈奴の中心部はモンゴル高原にある。

 

 その匈奴と漢が隣り合っていたことが、結果的に張騫を生み出す原因となった。このころは新石器時代の原始農村が青銅器時代の都市を経て拡大してきて、史上初めて古代帝国が誕生したのである。人びとの行動範囲は広くなり、新知識・新体験が急増し、文字も普及する。われわれが読む歴史の「古典」などがこのころから東西一斉に始まり、現代のわれわれにつながる時代が始まった感があるのは、そのような背景による。

| シルクロード | 05:37 | comments(0) | - |
漢代以前のシルクロード交流前史 2009年2月 野口 信彦 

 古代帝国へ                          

石器時代から考えると、第1の画期は金属時代に入る段階であろう。

第2の画期はその後の時代、古代帝国成立段階である。

吹雪の中のネアンデルタール人/著名な古生物画家チャールズ・ナイト(英語版)の手になる、最終氷期とネアンデルタール人の生態環境復元画。1911年発表。

 

 古代帝国成立とは、ハカーマニシュ朝(アケメネス)=ペルシア、ローマや漢など人類最初の政治的大統合の時代で、一政権が広域かつ多民族国家になり、国境・辺境はより遠くなり、生活圏・経済圏が拡大し、多くの人が遠距離移動をするようになり、国内外ともより遠方への知識や関係が増し、おそらくその結果、人類の思想も深化してくる。

 大歴史家のヘロドトスなどの活躍がこのころからはじまるのは、文字記録が普及し始めたからである。

ヘロドトスの胸像

ヘロドトスの著書

 

 ハカーマニシュ朝・ペルシアが広範囲の地域から物資をペルセポリスに集めることができたのは、広域とはいえ同一政権内であり、本来は異域から集めていたのが征服活動の結果、ひとつになったからである。

 ラピスラズリの路も距離こそ中央アジアからエジプトまでと遠いものの、最終的にはハカーマニシュ朝とアレクサンドロスの版図になり、地理的な知識は増した。それでもモンゴル時代以前はまだよく分からなかった遠方世界が互いに残っていたのである。

ラピス・ラズリの原石

 

 前史であっても孤立した社会ではなかった

外部との交流の結果、物資や思想が歴史を変える要素になることは、日本史上でも、稲作・漢字・仏教・種子島の鉄砲などの例がある。結局、一地域内で完結する閉ざされた歴史はない、ということなのである。

 

 各地域は互いに連携しているのだから、どこが世界の中心ということはない。また、いつの時代でも先進地というところもないし、単純に通過ということもない。それぞれの地域は独自性を持っているし、他地域を通過するときは、そこから大なり小なりの影響を受ける。

 

 ヨーロッパが世界中へ、正しくは東へ進出するにつれ、インド・ヨーロッパ語族拡散問題や匈奴フン族同族説が議論された。

 また、文明の起源については、エジプト一元論や中国起源説も出たが、確定的ではなかった。だが、中国の李済は具体的な研究として、早くから中国の殷墟・インダスのモヘンジョダロ・メソポタミア・エジプトの遺物を取り上げ、それらの類似点を指摘していた。特殊な形の土器、からみあった龍(蛇)のデザイン、などである。各地の共通したデザインをみると、その中に次のようなものがある。

 

  • 鳥獣2頭が向かい合うデザイン
  • その2頭間に人(あるいは神)が立つものと、いないものの別があり、
  • 人(神)がいる場合は、両手に頭頚部を制するものと、尾部を把握するものがあり、
  • その脚下に獣(これも1頭と2頭とある)があるもの・ないもの、がある。
| シルクロード | 06:48 | comments(0) | - |
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