シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀―

 西域南道と北道の出発点として栄えていたトルファンは、9〜10世紀に匈奴の支配から免れたあとも、北方騎馬民族の柔然や突厥などの侵攻を跳ね返してきていた。しかし840年、モンゴル高原にあったウイグル王国がキルギス族によって滅ぼされると、ウイグル族はモンゴル高原を下り、天山山脈一帯にいくつかのグループに分かれて住むようになった。トルファンもその波に飲み込まれ、急速にウイグル化がすすんだ。10世紀にはイスラム国家のカラハン王朝がタリム盆地を占領し、それまで仏教徒だった住民たちは次々にイスラム教に改宗した。これ以後、現在にいたるまで、新疆ウイグル自治区の大部分がイスラム圏となっている。

トルフアン郊外の火炎山。私は新疆には40回くらい行きましたが、この火焔山は30回以上通ったでしょう

11年8月12日  高昌故城の入り口にある土産物売り場の娘たち。真ん中は彼女が小学生のころから知っている私のお友達で23歳、1歳の子どもが1人。右は16歳の妹。

こちらの農村では、16歳くらいが適齢期でしたが、いまでは「もっと遅くなってから結婚を」と政府は言ってます。

 

 イスラム化後のトルファンは、アッバク・ホッジャというイスラム教の聖職者が政治経済の実権をにぎり、タリム盆地の各国を巻き込んで勢力争いを繰り返した。

17世紀後半に中国を統一した満州族の清王朝は、新疆の混乱に乗じて遠征軍を起こし1720年にトルファンを占領し、1000年ぶりに清の直接支配下においた。しかし、その後も反乱が頻発し、戦略上重要であったトルファンは、たびたび戦乱に巻き込まれて荒廃した。

トルフアン賓館専属のダンサー

ママの踊りを見つめる少女です。あまりの可愛さに思わずパチリ。

彼女は私のトルフアンの「娘」。トルフアンの「ぶどう郷」で。

日本シルクロード文化センターを私と一緒に立ち上げた盟友のひとりアルズグリさんの妹です。

彼女は”トルフアンの舞姫”といわれた踊り手で、映画にも何度か出演しています。

1日、トルフアンをガイドしてくれました。

このポーズはウイグル人が親しい人と一緒に写真を撮る普通のポーズです。

あちらでは”初めて会うとお友達、2回目に会うと親友で、3回目に会うと家族になる”と言われています。

ですから彼女は私を「お父さん」と呼びます。

※ここまでの写真は私が撮影した写真です。

 

 20世紀になると、革命勢力・民族勢力が台頭し、独立運動が活発になった。1944年11月にはイリ地方に「東トルキスタン共和国」が成立し1年余のあとに中ソ両大国の干渉と陰謀によって崩壊した。その後、49年に人民解放軍がウルムチに入城すると、新疆は中国共産党の支配下に入り、55年10月1日に新疆ウイグル自治区がつくられ現在に至っている。

 

 現在の新疆ではウイグル、カザフ、回、キルギス、タジク、ウズベクなど10の民族がイスラム教を信仰し、モンゴル族は比率としては多くがチベット仏教を、オロス(ロシア)族はロシア正教を信仰しており、少数の漢族はキリスト教(景教)を信仰している。

 

 新疆を東トルキスタンというのであれば、国境の西側を西トルキスタンという

中央アジアのいくつかの定義。狭い順に
濃茶: ソ連の定義
+茶: 現代的な定義
+淡茶: UNESCOの定義

 

 ロシアの西トルキスタン征服とその歴史概況をみると、もともと西トルキスタンは16世紀以降に、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国が成立し、18世紀にはホーカンド・ハン国が成立した。19世紀に入ると、ロシアは積極的にこれらの3ハン国と交渉を繰り返し、1860年代には相次いで征服していく。

 1864年〜66年にはアウリエ・アタ(ジャムブル)、タシュケント、ホ−ジェント(レニナバード)を占領し、タシュケントを首都としてトルキスタン総督府を開き、フオン・カウフマンを初代総督とした。

コンスタンティン・ペトロヴィッチ・フォン・カウフマン将軍の肖像1818-1882、1866

カウフマン像(1913年)

 

 1865年5月、カウフマンはブハラ、ヒヴァの連合軍を破り、サマルカンドを占領。ここでブハラ王は反抗を諦め、ロシアと講和した。

 1868年、ロシアと通商条約を結んだが、1875年、ホーカンド・ハン国は、ハンにたいする反乱が起こり、カウフマンは強力な遠征軍を送り、これを征服した。

 1877年以来、さらに南方のトルクメン族にはロシアの侵略が繰り返され、1880年〜81年、スコベレフ将軍はトルクメンの征服に成功した。

 1883年、ロシア軍はテージェン、85年にはメルヴを占領し、ここに西トルキスタンの全土はロシアの掌中に帰した。ロシアの西トルキスタン支配は、ホーカンド・ハン国、カザーフによるシルクロードの中継交易を一変させた。シルクロードの本質は、中継交易による東西の遠隔地国際貿易であったが、ロシアがこの地域を直接支配したことによって、シルクロードの西半は大きくその模様を異にしていった。

 

 西トルキスタンの社会主義化とその後の民主化の動きについては、帝政ロシアは19世紀末には3ハン国の征服を終わり、パミール方面で清朝と対立したが、1895年、清の譲歩によってほぼ現在のような国境が定まり、1898年、トルキスタン省が成立した。

 帝政ロシアの西トルキスタン支配は、他の帝国主義列強の植民地経営と同じく、領土拡大の野心のほか、この地方を安い綿花などの原料の供給地とし、ロシア本国産の綿布、雑貨の独占的な輸出市場にしようとするものであった。

 反面、地方行政、生産組織などを変更せず、特権階級は農民からの搾取にはしり、官吏はヨーロッパ・ロシアの2〜2・5倍の税を取りたて、教育は行わず、文盲はかえって増えた。

 

 最大の問題は、征服後、軍人や官吏、商人、農民、コサックなど多くのロシア人が侵入してきて、ウズベク人の土地を奪い勝手にふるまったことである。彼らはこの地方の農民を困窮させ手工業者を没落させた。そのため、しばしばウズベク人の反乱が起こったが、そのたびにロシア軍によって残酷に弾圧された。

 1860年頃から石炭や石油の発掘が始まり、1888年位はトランス・カスピ鉄道がサマルカンドまで延長された。その結果、徐々に近代農業が生まれ、新しい労働階級が現れたが、その大部分はこの地方に流れ込んできたロシア人であった。

ブハラのカラーン・ミナレット

ウズベキスタンの首都タシケントにあるアミール・ティムール広場

 

 1917年、ロシア革命が起こると、ウズベク族は反革命独立運動を起こした。しかしソヴイエト政権がこれを鎮圧すると、民族主義による先住民の自治が認められた。

 1920年にはロシアの保護国であったブハラ、ヒヴァ両ハン国が廃止された。そしてこれに代わってホラズム、ブハラの民族自治共和国が成立した。さらに1924年、トルキスタン、ブハラ、ホラズムが共同してウズベク自治共和国が生まれ、ほかにトルクメン、タジクなどの自治共和国が認められ、同1929年、いずれも共和国となった。

 これらはいずれもソ連の崩壊後、それぞれウズベキスタン共和国、同キルギス共和国、タジキスタン共和国そしてカザフスタン共和国となった。

 

 

 

 

 参考文献

『周縁からの中国』民族問題と国家 毛利和子著 東京大学出版会刊

長澤和俊氏の著書多数から

『最新教科書 現代中国』柏書房刊

雑誌『「世界』9月号 特集「イスラーム わが隣人たち」

各地新聞記事

| イスラーム関連 | 10:14 | comments(0) | - |
東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀―

イスラム教東漸の歴史

 

 西域のオアシスの住人が民族的にはインド・イラン系であることは今世紀初頭に発見された文書で明らかになっている。タリム盆地にはインドから中央アジアを経て仏教が伝わり一大仏教圏が形成された。仏教が東トルキスタン(ほぼ現在の新疆)に入った最初の場所はパキスタン国境に近いタシュクルガン(石頭城)だったといわれている。その後、仏教は中国化され朝鮮半島を経由して(諸説ある)6世紀半ばすぎに日本に渡来した。

国宝・東大寺の大仏

仏教のシルクロード伝播

 

 7世紀、アラビア半島の一角に生まれたイスラム教は、アッラーを唯一の神とする一神教であった。イスラム教を国教として採り入れたアッバース王朝の拡大とともに、イスラームは瞬く間に中近東に広がり、やがてアフリカから中央アジア全域に拡大、14世紀にトルファンに入って漢土へ向かった。

イスラム教

一生に一度は聖地・メッカへ巡礼に行くことが夢。メッカに行った人は「ハジ」あるいは「アジ」という尊称を与えられる。

 

 14世紀ごろ、この地にイスラム教が入ってきて以来、400年。トルファン盆地を最後として現在の新疆ウイグル自治区は全域がイスラム化した。あの西域各地の旧仏教王国のおもかげは、イスラームの“偶像否定”の関係で、かすかに石窟や故城の壁画などに残っているだけである。

カシュガルの香妃廟。修復もされないで外壁などがはげ落ちている。

※筆者2004年撮影。

 

 タリム盆地のイスラム化は、やはりカラハン朝の進出をきっかけとする。11世紀、まず南疆のカシュガル一帯がイスラム化されたが、ついで一大仏教王国であったホータンでイスラム勢力との熾烈な争いが展開された。しかし、この争いもイスラーム側の勝利に終わり、タリム盆地のオアシス勢力は急速にイスラム化されていく。この波に抵抗したのがトルファン一帯のトルコ人である。周辺がイスラム化されるなか、15世紀はじめまでは仏教を信仰していたことが記録に残されている。しかしイスラムを信奉するモグーリスタン汗国(モンゴル系イスラム教徒の国)の支配下に入ると、ウイグル族の多くが住むこの一帯もついにイスラム化し、タリム盆地のイスラム化がここに完成したのである。

| イスラーム関連 | 09:35 | comments(0) | - |
東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀ー

 法顕が西域に旅立ったのは、羅什が長安に入る2年前で、いわば羅什と法顕は入れ違いに中国を出入りした。だから法顕が涼州を通過したとき、いまだ羅什は滞在中だったはずだが、両者が出会ったという記録はない。

 

 法顕は平陽武陽(山西省)の生まれ。3歳で出家、20歳で受戒した学僧だが、本格的な戒律が中国に伝わっていないのを嘆き、同学の慧景らと語らってインドに向かった。一説には、このとき60歳をこえていたという。長澤和俊先生の説では64歳というから、大変な矍鑠(かくしゃく)ぶりである。

 

 法顕らが涼州の張掖についたころ、鳩摩羅什が出会ったと同じ戦乱に出会ったため、一行は1年近く足止めを食った。しかし軍閥段業の支援を得て敦煌にまでいたり、ここでも太守李浩の援助で善善(後蘭)に至る旅費を整えている。当時の天竺(インド)をめざす求法僧(ぐほうそう)らは、現地の有力者の援助を得なければ旅はできなかった。

白龍堆

 

 法顕らは北道を通らず、古道である西行路をたどったが、ここは白龍堆(はくりゅうたい)と呼ばれる大砂漠が広がっており、荒涼たる情景を呈した。『仏国記』(法顕伝)によると、「沙河中、悪鬼熱風多し。遇(あ)えば則(すなわ)ち皆死す。一も全(まった)き者なし。上に飛鳥なく下に走獣なし。遍望極目、度(わた)る処を求めんと浴(し)て則ち擬する所を知らず。只死人の枯骨を以って標識となすのみ」。

 

 と、名文の中にもその凄惨さを伝えている。法顕は楼蘭(ロプノール)から西行せず、北西に道をとってカラシャールに立ち寄った。そこから1ヶ月を要してホータンに到着している。なぜ迂回路に当たるカラシャールに立ち寄ったかは、法顕のインド行のひとつの謎だが、長澤先生は楼蘭国の勢威が衰え、ニヤ地方(楼蘭とホータンの中間)に達していなかったためだろうと推測されている。

 

仏教伝来要図

 

 ともかく、法顕はホータンに落ち着いて夏安居(げあんご)=僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること。夏籠もり。夏行 (げぎょう)=を行ない、徒歩20日間かかって、子合国(カルガリク)に至った。現在は中国領カラコルム山脈を抜けるのは、もっぱらカシュガルから南下して、タシュクルガンからクンジュラブ峠を超えるが、当時は、ヤルカンド(沙車)・カルガリクからタシュクルガンへ越す道があったようだ。法顕らはこのルートをたどり、タシュクルガン・パミールを越えてパキスタンのナガル・ギルギットへ出たものと推測される。

 

 法顕は老齢からのインド行にもかかわらず、前後14年を経て海路中国に帰ることができた。インド行の旅では玄奘三蔵の旅が有名であるが、その困難さという点では法顕の旅が数段上まわるのではないかといわれるほど想像を絶するものがあった。インダス河の上流域に出てからは断崖絶壁に桟道がつらなり、渡ること700回、吊り橋も連続し、目がくらみ足もすくむ難路であったという。

アショーカ王宮殿跡の法顕

 

 

 法顕・玄奘以外にも、中国からインドへ取経の旅に出た僧侶は180名近くが知られている。そのなかで、仏教史上にとどまらず、世界の地理学上また探検史上、不朽の人物として知られているのが玄奘である。

 

玄奘は洛陽の東、今の河南省堰師県の人で、俗姓を陳といい、名を褘(い)といい、西暦602年に生まれた。11歳のときに出家し、やがて多くの疑問を抱いて各地に師を求めたが、当時の仏教界は思想が分裂していたため、納得のいく解答が得られなかった。

そこで、仏教の発祥地であるインドに留学したうえ、経典を持ち帰って仏法を極めようと考えた。かくて貞観3年(629)玄奘は国禁を犯してインドへの取経の旅に出たのである。

 

玄奘は西域の隊商にまじり、河西回廊を経て玉門関に出、そのあとシルクロードの天山南路を巡り、途中、西域16ケ国を廻り、約4年かけてマガダ国のナーランダ寺院についた。

ここにほぼ5年間滞在したあと、インド全土を一巡して、貞観15年、多くの経典を携えて帰国の途につき、同19年正月、16年の長きにわたる旅を終えて長安に帰った。玄奘が持ち帰った仏典は657部にのぼり、これを運ぶには20数頭の馬を要したという。

 

1人で訳経するつもりだったが、時の皇帝太宗から厚いもてなしを受け、国が全面的に協力することになり、多数の助手を得て翻訳が行われることになった。以後、19年間にわたって、75部1335巻の仏典を訳出し、高宗の鱗徳元年(664)に逝去した。

 

 玄奘の記録では、高昌国に僧数1000人、エンキ国は10余ヶ寺と僧2000人、と書かれており、タリム盆地の都市国家のいずれにも仏教が隆盛していた様が分かる。キジル千仏洞、ベゼクリク千仏洞などの岩窟寺院は、いずれもインドの影響を受けながら、法顕から玄奘の時代にかけて開窟されたもので、敦煌や麦積山(ばくせきさん)・雲崗(うんこう)・龍門など中国内地の石窟の先駆けとなった。

 

| イスラーム関連 | 02:17 | comments(0) | - |
東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀―

モンゴルにおける闘い

 

 モンゴルは2200年の歴史を誇る国である。チンギスハンが1206年に建国してからでも約800年の歴史を持つ国である。

チンギス・ハーン

 

 1911年には中国に辛亥革命が起こり、中華民国と同時にモンゴルも独立を宣言したが、まもなく初代中華民国総統の袁世凱の軍に攻め込まれ、漢・蒙の両軍は漠北の沙漠で激突を繰り返した。漢・蒙の激突はそれからも消えなかった。

辛亥革命

 

 モンゴル人民共和国の成立は1924年である。1992年の第12回大会人民フラル第2回議会で国名を「モンゴル国」に改称した。

 内蒙古においては、文革期の1966年には「内蒙古人民革命党」という“分離主義集団”が摘発されて5万人のモンゴル人が処刑・殺害され、40万人が逮捕されるなど血の粛清が行なわれた。それ以外にもモンゴル人の統一国家をはかったいくつかのグループが弾圧されたことがある。中国共産党は文革終了後、「内蒙古人民革命党事件」は、陳伯達のでっち上げであり、冤罪であるとして、そのほとんどの名誉を回復した。

 

 ロシア・シベリアにもモンゴル人による「ブリヤート自治共和国」がある。中国は、これに内蒙古自治区を加えた3つの国家がひとつになる運動を警戒している。

ブリヤート自治共和国

内モンゴル自治区

 

 1995年12月、内蒙古自治区の区都フフホトでモンゴル民族のデモが発生した。掲げられた主張は明確にされていないが、「形骸化された民族自治」にたいする異議申し立てであったとも伝えられている。この際、数百人のモンゴル族で構成される「内蒙古民主連盟」の主席ら数人が政府転覆罪、国家分裂罪、反革命集団組織扇動罪などの罪状で公安当局に逮捕された(「朝日新聞」96年2月3日付ほか)。

 

いずれにせよ中国における民族政策は、民族自治の世論の盛り上がりと国連を中心とした調停の方向で平和的に解決することが客観的には求められている。

 

仏教の東漸

 

漢の武帝は、西域との交通路確保のため、武威・張掖・酒泉・敦煌の河西4郡をおいた。河西は黄河西方の意味。南側は祁連山脈、北はバタインジャラン砂漠に挟まれて細くなっているので、河西回廊という。現在の甘粛省域が相当する。さらに武帝はカラシャールと尉犂(イリ)に屯田兵を置いて西域経営をめざしたが、ハミの車師王国が匈奴と漢の間にあって絶えず動揺していたため漢の西域支配は一進一退が続いた。

 

 後漢王朝と西域の関係は「三通三絶」と史書にあるように、不安定な関係が続いた。しかし有名な将軍班超が苦心して西域を支配した。彼は西暦74年、河西から出撃して車師を攻撃し、80年にはカシュガルまで進んだ。

 

 漢代には都の貴族の間に“胡風”(イラン系風俗)を模倣するのが流行したが、明帝(在位57〜75年)の代に楚王劉英が「浮屠(ふと=仏)を祀り、伊甫(優婆=うば)塞・桑門(沙門)に供養した」という記録があり、これが中国に仏教が公伝した初見とされる。ただ、タリム盆地諸遺跡からは3世紀以前の仏典や仏教遺物は出土していないという。

アフガニスタンのカンダハルでは、ギリシア語訳のアショーカ魔崖碑文が発見されており、月氏が移住したころのバクトリアに仏教が普及していたことは確実で、紀元前後には仏教はパミールを越えて西域に流入していたことが推測されている。

 

 後漢の興起と平行して、大月氏(だいげっし)の故郷に大帝国を築いたクシャナ王朝に、仏教保護者として名高いカニシカ王(在位120〜162年)が現れ、仏教僧がやつぎばやに中国に派遣された。安世高・支謙・康僧鎧などの名が伝わっている(安はパルチア人、支は大月氏、康はソグド人をさす)。

クシャーナ朝

 

 インド僧を父に、亀茲(クチャ)国王の妹を母に生まれた鳩摩羅什(くまらじゅう)は、カシミールやカシュガルで仏典を学び、大乗仏教を西域に宣布した。彼の名声は中国にもとどろき、前秦王苻堅は鳩摩羅什を招くため、382年亀茲を攻略した。

  

クチャ千仏洞にある鳩摩羅什の像

※ここから下3枚の写真は、筆者が2001年に撮影したものです。

 

 

 拉致された鳩摩羅什は384年、涼州(武威)に至ったが、このころ苻堅は淝水の戦いで南朝の東晋に大敗し、前秦は混乱状態となって滅亡した。羅什はやむなく十数年涼州にとどまったが、後秦王姚興(ようこう)が405年、国師として羅什を長安に招き、彼はここで仏典の漢訳に従事し、実り多い晩年を送った。

| イスラーム関連 | 10:10 | comments(0) | - |
東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀―

   ここで、あとの項目で触れる予定のないチベット、内モンゴル民族の独立へのたたかいに触れておきたい。

 

1957年、チベットの分離独立の動きは人口の4分の1ともいわれる百数十万人のチベット民族が、中国人民解放軍によって虐殺された。そしてチベット民族の数倍の漢民族がチベット地域に流入している。自らの民族の生存をかけた運動は決してやまない。近いうちに、劇的な進展があるとも予測されるチベットである。

中国人に自己批判させられるチベット女性

 

 

そのチベット問題は、すでに現在のチベット自治区や旧チベット地域の範囲にとどまることが許されなくなってきている。むしろ、中国の民族問題が人権、民主主義とリンクしてこれまでにない性格を帯びてきており、それがたんなる民族回帰でなく、高度に政治的な問題に変容してきている。しかも、欧米各国が議会でチベット民族支援の決議を採択するなど著しく国際化しているのである。

 

 チベット文明はインド、中華と並んでアジアの三大文明のひとつと言われている政治的にも独立した国家であった。その歴史は中国と同じくらい古く、高地文明として栄えていた。近世になってからモンゴル人がチベットに入ったが、彼らは統治するのでなく、逆にラマ教に改宗した。清王朝の満州人もチベットに侵入したが、やはり統治せずにダライラマを尊重し、国師として仰いだ。歴代中国王朝の大半は外来民族の王朝であったからである。

降伏してポタラ宮前の広場を行くチベット人

 

中国の解放以前から、チベット人たちはすでに自分たちの政府を確立しており、貨幣も国旗も軍隊も持っていた。したがって、中国の「チベットは中国の神聖にして不可分の領土」とする主張には何の根拠もない。はじめてチベットを「統治」したのは元朝のモンゴル人と清朝の満州人で、このとき「漢族の中国」も同時に、モンゴルと満州族に征服されたことは歴史の事実である。

 

フビライ以降の元王朝は、ここに「宣慰司」、清王朝は「駐蔵大臣」を置いたが、直接統治はしていなかった。朝鮮やベトナムのような藩属関係というよりも、チベットはやや上の「法皇領(寺領)」とみなされ、ラマ僧は王朝の「国師」とされていた。

中国が主張するように、チベットが「不可分の領土」なら、外蒙古にたいしてだけでなく、朝鮮やベトナム、ミャンマーにまで、同じような主張ができることになる。

 

1912年、清王朝崩壊、中華民国樹立と同時に、チベットも独立を宣言した。しかし中華民国との領土争いの中で次第に中国軍に侵入され、ついには中国の領土に編入されてしまった。

 

1949年の中華人民共和国樹立後、人民解放軍は「農奴の解放」をスローガンにチベットに侵入した。50年11月、チベット政府は国連に提訴して中国軍の侵略を非難し、独立を訴えた。だがこの時期、折あしく朝鮮戦争が始まっており(1950年6月)、国連はそれどころではなく、結局、チベットの独立問題は論議されないで過ぎて行ったのである。

朝鮮戦争

 

翌年、中国政府とチベット政府が北京で17か条の平和協定を結んだ。このとき協定内容に同意が得られず、チベット代表は「ダライラマ法王の印璽と内閣及び国民議会の承認がないと捺印できない」と調印を断わった。すると、周恩来は法王の印璽を偽造して強制的にチベット代表団に調印させたといわれており、これは当時、国際的なスキャンダルとなった。

 

 

以来、中国はチベットを間接的に支配することになった。だが、人民解放軍の支配によるチベットにとっては「漢民族の支配」であった。それに対して1957年にはチベットの東部と南部、59年には首都ラサを中心とした反乱が起きた。これが中国軍に鎮圧されると、ダライラマ14世はインドのダラムサラに亡命した。それ以後、中国はチベットを軍事占領し植民地政策をすすめてきた。中国のチベット侵攻後、また文化大革命による虐殺と破壊によって、人口の6分の1にあたる120万人以上ものチベット人が命を奪われた。

 

一方で、800万人を超える大量の漢人が入植して、チベット内のチベット人を“少数民族”にしてしまった。そして8000以上もあった寺院の9割を破壊し、中学以上の学校教育ではチベット語の使用を禁じ、中国語教育を強制して、チベットの伝統文化を破壊した。そのうえ、大規模な森林伐採、地下資源の採掘、野生生物の乱獲、核廃棄物の投棄など、チベットの自然・環境破壊をすすめている。

 

ダライ・ラマ14世は1987年9月に米国議会人権小委員会で中国政府にたいする5項目提案を行なった。その内容は、

1.チベット内での人民解放軍の撤退・軍事施設の撤去

2.チベットへの漢族移住政策の放棄・流入漢族の帰還

3.チベット人の基本的人権と民主的自由の尊重

4.チベットの自然・環境保護、核関連施設の撤去

5.チベットと中国の両国間問題に関する真摯な交渉の開始

の5項目であった。

 

 中国政府はこの提案を、“祖国分裂活動である”として強く非難したが、これと時期を同じくして西ドイツ(当時)議会と欧州議会でもチベットの人権侵害に関する緊急動議が可決され、また米国議会でもチベットの人権侵害に関する法案が採択されるなど、チベット問題が欧米各国の議会を中心に「国際化」していった。

 

 88年6月、ダライ・ラマ14世は、欧州議会で「ストラスブール提案」を発表し、中国政府と共同して民主的なチベット人独自の自治政府を創設することなどを提案し、独立の断念とも解釈できるような大幅な譲歩をみせたが、一ヵ月後に中国政府はチベットに「1国2制度」を適用しないことを打ち出し、ダライ・ラマ14世自身も91年にこの提案を撤回した。さらに94年3月には従来の対中穏健路線を「失敗」であったとダライ・ラマ14世は認めた。

ダライラマ14世

 

 このようなチベット人民の独立へのあくなき要求と闘争が、絶え間なく進められている現状からみるならば、中国がチベット高原を占有していることは、経済面、国際面においても、ほとんど採算が合わないことなのである。それでも絶対にチベット高原を放棄しないのは、隣の大国インドとの戦争に備え、中国の西部地域の領土を守るにはこの一帯は絶対必要なのだと考えているからである。わたしも何度か車で通ったことのある「中尼友好道路(中国・ネパール友好道路)」はネパールへの援助として中国側が建設を援助したが、“一朝事あらば”チベット国境からネパール・カトマンドゥを戦車が一気呵成に席巻してインドへの攻撃に利用する戦略道路なのである。

| イスラーム関連 | 06:55 | comments(0) | - |
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
PROFILE