シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
7月13日は、林俊雄先生の「遊牧国家とは何か?―匈奴を例として―」の講座です

少し早いですが、7月のシルクロード講座のご案内です。

 

下の表示は、日本シルクロード文化センター会員やシルクロード講座の常連の方がたに送っている内容です。

わが事務局長が毎月、作成してくれます。

私はこのうちのはがき大のものを利用して、主に会員でない友人たちに送っています。

PC技術が下手なもので、表示の中の写真部分を出すことができませんが、それは当日のお楽しみに・・・・

 

5月の講座で林先生のお話を伺ったのですが、この講座には過去最高ともいえるほどの多数の聴講者が参加されました。

これに味を占めたわけではありませんが、私自身が林先生のお話をいつも聞かせていただいてきたので、その喜びを皆さんと共有したいと思っただけです。

 

今回は初めてのことでしたが、林先生から事務局にアンケートが来て、騎馬遊牧民の歴史がいいか、考古学的なものがいいか、など三択を迫られました。

私たちのクラブは、主に歴史的なことを主に学んできましたから、全員が下記のような内容を選択しました。

また、多くの関心ある方がたのご参加を呼びかけます。

 

2019年6月18日 野口信彦

 

日本シルクロード文化センター主催
シルクロード講座のお誘い

シルクロードの歴史に興味をお持ちの方、シルクロードを旅したいと思っている方、
日本シルクロード文化センターでは、毎月1回シルクロード講座を開催しております。
ラクダに乗った隊商が沙漠を行き交うというイメージとはひと味違う、シルクロード諸民族の歴史、現代シルクロードの真実をともに学び、そこに住む人々の生活や文化を楽しみませんか。 どうぞお気軽にご参加ください。

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第104回:2019年7月13日(土)13:00〜16:00 みんなの広場

シルクロード講座

「遊牧国家とは何か?―匈奴を例として―

 

講師:林俊雄(創価大学名誉教授・東洋文庫研究員)  

第102回の講座が好評で、その場で7月にもう一度林先生に話していただく事になりました。

<要旨>
匈奴以降モンゴル高原に興った遊牧国家は、南の大国、中国と比べると経済力・人口の点で圧倒的に劣っていた。
それにもかかわらず、なぜそれらの遊牧国家は中国と互角に対抗し、ときには中国をしのぐほどにまで強大な勢力となったのか。
それらの最初に興った匈奴を例として、その国家体制、社会制度、軍事組織、経済構造、風俗習慣、宗教観念などを明らかにする。
使う資料は主として漢文史料(史記と漢書)だが、考古学資料も併用する。

   

 http://silkroad-j.lomo.jp/kouza/image/20190713-1.jpg
http://silkroad-j.lomo.jp/kouza/image/20190713-2.jpg

四重の土塁と壕で囲まれた匈奴時代のイヴォルガ集落址。 ロシア連邦ブリャーチア共和国の首都ウラン・ウデの中心から南西へ11km、セレンゲ川の旧河床の西岸にある。

後半は質問と交流の時間です。

 参加費:1,000
 場所:みんなの広場」(小田急線和泉多摩川駅徒歩5分)
 東京都狛江市東和泉2-20-12
えのき2番館 1F

地図はこちら

<問合せ・申込み> 野口まで 電話:03−3480−4478 携帯:080−5483−6740
E-mail:silkroad_japan(a)silkroad-j.lomo.jp

| 遊牧騎馬民族 | 10:31 | comments(0) | - |
きのう武蔵野市で「シルクロード」をお話ししました

 2〜3年前に旅行会社主催の新羅と百済の研究ツアーに行ったことがあります。

ソウルからはバスであちこち行きましたが、そのときご一緒したご夫婦が今、武蔵野市の「老壮シニア連合会」という市教育委員会と共催する市民講座の会長をしています。

武蔵野市ではかなりの数の講座を展開しており、日本でも有数の市民講座のようです。

その彼から2年前にシルクロードの講演をしてほしいといわれてお話したことがあります。

昨年末、彼から2度目のお誘いがありました。中央線武蔵境駅前のスイングホールという定員180名のホールです。

その会場は定員180名ですが、資料は190枚準備したそうです。

その資料が全部なくなったといっていました。

 

 

その講演会が昨日ありました。テーマは「遊牧騎馬民が世界の歴史を変えた」。今までお話してきたテーマですので楽観していました。スキタイ、匈奴とモンゴルを中心にしての内容です。

これはスキタイの写真ですね

 

昨年末から準備を始めたのですが、パワーポイントがどうもしっくりきません。13日の3〜4日前になってハッと思いつきました。手慣れた内容だということで安心していて、初めからパワーポイントの作成に入ったことが問題だということがわかりました。考えてみれば当たり前のことです。

それからレジュメづくりです。幸い、7〜8年前に執筆していた文書があったので、それをもとにしました。

 

しかし、すでにある写真を入れ替えて作成し直すのは至難の業。レジュメの簡易版をつくりなおして備えましたが・・・

 

当日はうちの奥さんにも来てもらいました。年を取ってきたので(私が、ですよ)、とっさの言葉が出ない場合があります。土地や人の名前が出ない場合があります。皆さんもそうでしょう?そのときは最前列に座っている彼女が言ってくれるのです。で、助かりますが、幸いなことに今回はそのような場面はありませんでした。

開会前にうち奥さんと・・・

 

終わってみれば、何のことはない講演でしたが、準備は万全にしなければなりません。先日も書いたように、受講者が3人でも千人でも準備と手間は同じことです。

次の講演は3月4日に日比谷のある大手旅行会社でシルクロードツアーを大々的にやるので、お話しをということでした。その会社の担当者に「なぜ、私のことが分かったの?」と聞くと「ホームページからです」と言いました。

ネットの活用は大事です。

| 遊牧騎馬民族 | 12:23 | comments(0) | - |
カルムイクについて、オイラトについて
 歌と音楽の部は盛況のうちに終わりました。
 ここで、100人の参加者のうち半数近くの方が帰られます。そのあとで、会場を整理して記念レセプションです。そのレセプションの司会はカルムイクのビリグトヤさんです。通称ビッグトヤ。きょうは“記念の集い”から少し離れて、カルムイクをご紹介しましょう。

赤い印がカルムイク共和国


ロシア連邦カルムイク共和国の周辺地図
 
 カルムイク(Kalmyk)は西モンゴル種族のひとつで、広義にはオイラトの別称と言われています。狭義にはヴォルガ川下流に住みついたオイラトの支族でもあるトルグート族などのことを言います。
 
 彼らはもともと天山山脈の北からアルタイ山脈の南にかけての北新疆のジュンガリア地方で遊牧をしていたのですが、部族間の内紛を避けて西に大移動し、1630年にヴォルガ川に達したといわれています。ヨーロッパで唯一の仏教徒が住みついたことになります。 
 ロシアは初め騎馬と弓射の巧みな戦力として利用したのですが、やがて近隣の諸部族が入植してきて、またロシアにより正教への改宗が強制されて摩擦が高まるともに、再び故郷のジュンガリアへ帰ろうと考えました。

草原で茶会に興じるカルムイク人

ロシア連邦カルムイク共和国にあるチベット仏教寺院
 
 1771年1月、3万3千の全家族、総計13万人は、家畜ともども一斉に出発を期しましたが、ヴォルガ川が十分に凍結していなかったために、右岸、ヨーロッパ部の1万1千家族は渡河できずに、そのままその地に取り残されてしまいました。
 カルムイクという語がチュルク語の《居残る》という動詞から発しているという説は、俗説であるとしても、このような背景をよく説明しているといえます。

カルムイクの仏教寺院

同寺院の中にある英雄の絵画
 
 彼らは移住の際にチベット仏教をも携え、ヨーロッパ唯一の仏教徒であり、苦難の歴史を反映した《ジュンガル》という英雄叙事詩を持っています。また、1648年に僧のザヤ・パンディクの考案したトド《はっきりした》文字を使用していました。トド文字の名の由来は、モンゴル文字に改良を加えた結果、固有の音韻体系をいっそう明瞭に写すことができるところにありました。
 
 カルムイク自治共和国と強制移住
 
 ソビエト時代に入って、1920年、すでにカルムイク自治州となり、35年に自治共和国に昇格しましたが、第二次世界大戦中の42年、ヴォルガ沿いの一帯がドイツ軍の支配下に入ったとき、カルムイク人の一部はソビエト政権の支配から脱する機会を期待してドイツ軍に協力しました。
 
 このため、チェチェン、イングーシ、クリミア・タタールなど同じ選択をした諸民族とともに、ドイツ軍撤退後、厳しい懲罰を受けました。これが世に言う“ソ連民族強制移住”です。
4312月末、10万人以上のカルムイク人は貨車に乗せられて中央アジア、シベリアなどにばらまかれ、自治共和国は解体されました。
 
 スターリン批判後の57年にこの措置は撤回され、約8万人のカルムイク人が帰還しました。さらにソ連邦解体後はロシア連邦内での共和国となり、国名もカルムイク‐ハリムグ・タングチ共和国を経て94年からカルムイク共和国と改められました。
 しかし、同国人口30万人のうちカルムイク人は半数に達しない少数派であり、弾圧されていた仏教の再興に精神的なよりどころが求められています。  田中克彦
 引用文献(『中央ユーラシアを知る事典』平凡社 2005年刊)。
 
 カルマク
 
 カルマクは、中央ユーラシアのチュルク諸語において、モンゴル系のオイラトをさす言葉です。オイラトは、中央ユーラシアにおいて大きな勢力を持つ遊牧集団のひとつで、15〜18世紀にかけて中央アジア各地を幾度にもわたって攻撃し、その住民に甚大な被害を与えたり、部族の構成や分布に大きな変化をもたらしたりしました。

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。
ケレイトがカルムイクの祖先だといわれているが・・・・・
 
 中央アジアの諸勢力とカルマクとの構想は長く続き、この地域に大きな混乱を招きました。カルマクにはトルグート部のように、その勢力がヴォルガ川流域にも及ぶものもありました。また、ジュンガル部は中央アジア各地に積極的に進攻し、とくに1723年に始まるカザフへの大々的な攻撃は“はだしの逃走”を意味する《アクタバン・シュブルンドゥ》という言葉で表現され、この言葉とともにカザフの人びとの辛苦が後世にまで口承で伝えられています。

15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。モンゴルが韃靼という
言い方には抵抗があるが・・・誰が書いたのだろうか
 
 中央アジアの歴史を後世にまで伝える“英雄叙事詩”には様ざまな敵の集団が現れますが、その多くがカルマクであることからも、いかにカルマクの存在が中央アジアの歴史に暗い影を落としたかが分かります。
 
 ヴォルガ川流域のトルグート(旧ケレイト)は18世紀後半にジュンガル盆地に戻りましたが、一部はそのままヴォルガ流域に残りました。彼らの子孫が現在、北カフカスに居住するカルムイク人で、中央アジアの諸言語では彼らもカルマクと呼ばれます。 坂井弘記
 引用文献(『中央ユーラシアを知る事典』平凡社 2005年刊)。
 
エセン・ハーン時の最大版図のオイラト 
 
 さて、世の中ではカルムイクはモンゴル系ではないという意見があります。
 そのほかにも様々な意見があります。私が引用した『中央ユーラシアを知る事典』は、間違っているという意見もあります。これはこれで、悩ましいところです。

記念レセプションの司会のトヤさんと

 
 
| 遊牧騎馬民族 | 06:15 | comments(0) | - |
遊牧民とは。チベットの高みからー2
チベットが諸宗派の対立から抜け出して「チベット仏教圏」を形成するには、外部からの影響もあった。13世紀後半、モンゴル帝国とユーラシア大陸全体に新しい時代をもたらしたフビライであった。彼の影響力がチベットに第二の夜明けをもたらしたといえる。彼の影響力いうよりも、それまでの遊牧民の長い歴史がそうさせたのだろう。

フビライハン肖像画(国立故宮博物院所蔵)
 
カルマ派、ディグン派、ツェル派、パクモドウ派などが乱立する中、サキャ派の若き指導者パクパは、フビライの「国師」、ついで「帝師」とされた。チベット仏教はフビライ帝室の宗教となったのである。
現在の中国は、「元朝以来、中国の版図であった」とチベット支配の根拠としているが、別の言い方をすれば、これは檀家さんとお寺さんの関係なのである。近代政治における「版図」や「侵略の結果」やそのたぐいのものとは異質なものなのである。

クビライの狩猟図(劉貫道『元世祖出猟図軸』より、国立故宮博物院蔵)
 
いまの中国の首都北京は、フビライの帝都「大都」の直接の後身である。故宮や北海公園の近くにある巨大なチベット式の仏塔「白塔」(モンゴル時代の大聖寿万安寺、のちの妙王寺)は、フビライ時代につくられた。当時の大都には、こうしたインド・チベット風の高層建築が林立していたという。
 
チベットはモンゴル時代に輝いていた。そして、その記憶がなくならないうちに、16世紀、内モンゴルのトメト部のアルタン・カンは、青海で「第三代ダライ・ラマ」(先代の第一代、第二代はあとからさかのぼって数えられた)と有名な会見をした。モンゴルとチベット仏教との、二度目の邂逅である。
 
アルタンはみずからをフビライになぞらえ「第三代ダライ・ラマ」をパクパになぞらえた。ダライ・ラマが、モンゴルの政治権力を通じて、内陸アジア世界の宗教権威となる道が、ここに開かれたのである。
 
なお、このチベット高原の南縁にヒマラヤがそびえる。個々の地層からアンモナイトの化石が見つかる。15回前後行ったネパールでは、このお土産が大好評である。日本の友人たちに依頼される。ダルバール広場には、数多くの土産屋の店があり、数千、数万のアンモナイトの化石を売っている。そのうちいくつが本物かわからない。わからないままに買って帰ってお土産を渡すと例外なく喜んでくれる。彼もわたしも誰も本物かどうか知らないのだから、いいことなのであろう。
 
そのカトマンズが崩壊した。人口の数割が被災者になっている。ヒマラヤに入っていた多くの登山者が被災し、遭難し、死んだ。今できることは募金活動くらいだ。行かれない。滑走路が一本しかないトリプバン空港は大混雑だそうだ。のんびりしている人たちだから、このような大災害にどう立ち向かえるか、そのほうが心配だ。
 
ランタン国立公園のラクワで新たに雪崩が起きて、登山者250人が行方不明と封土王された。ランタンリルンには単独で登りに行ったことがある。あの美しい渓谷も無残に崩壊しているだろう。すぐには行かれないところになってしまったので、わたしは東日本大震災よりも精神的に動揺している。ネパールは、私たち登山者の第二の心のふるさとだから。

ランタンリルン

左がランタンリルン

 【ネパール大地震】白煙あげ登山者を襲う雪崩 地震直後のエベレスト
 
★しばらくの間、ネパール救援活動と、たまりにたまっている諸執筆課題をこなすために、しばらくブログ定期掲載を中止します。時間の余裕と心の余裕が出た際には書きますが、お許しください。
5月12日からは、ロシアのサンクトペテルブルグに行って、エルミタージュに5連泊で入り込みます。シベリア、モンゴル、中国、新疆や中央アジア各地から奪い取っていった歴史遺産の実物を参観し、撮影するためです。4〜5年来の願望でした。ですからシルクロード関連のところだけ入ります。ではまた。


ネパール・カトマンズの国際空港に集まった旅行客ら=26日(ロイター=共同)


【ネパール大地震】死者数4000人超に 「72時間」迫る中、懸命の捜索続く


27日、ネパール・バクタプルで倒壊した家屋から
がれきを運び出すネパール軍兵士(ゲッティ=共同)


もう一度この写真で、すこしだけホッとしてください。

 
| 遊牧騎馬民族 | 12:15 | comments(0) | - |
遊牧民とはー5 チベットの高みをこえて
チベットの高みをこえて

月と星のマークが新疆ウイグル自治区。
チベットはその南(下)

パミールの南東には、巨大なチベット高原がある。

チベット高原は、その過去や現在がなかなか知られていない。その原因は容易に人が踏み込めないところだからだろう。かくいう私も、チベットには過去、4〜5回行っており、その都度、高度障害をたやすく克服してきたが、一昨年には、手痛いしっぺ返しをくらって敗退した。

チベット(青蔵)鉄道

厚い凍土層を貫いて鉄骨で基礎を固める技術はアメリカから導入した。
 
そのとき、高度障害で息も絶え絶えの私に向かって、チベット鉄道が配置している漢人の医者が、私が外国人で中国語がわからないと思ったのか、「こいつはもうダメだ」といったのである。倒れてベッドに寝かされていた私は、“オレが死んだら葬式はどうするんだろう。女房は高度に弱いから息子が来るのかな〜?”などと思っていたものである。
 
20年ほど前だったか、秘境カイラスへ行った時の写真を何枚かお見せしよう。
凍土から湧き出る水によって臨時の川が出来上がり、私たちのランクルやトラックが毎日、何度もスタックした。そこへトラックに乗って巡礼にやってくるチベット人たちが、みな車から降りて、氷河から流れ出た身を切るように冷たい川の中に入ってきて、ランクルやトラックを引き上げてくれるのである。
ヒューマニズムの誠を見た感がしたものである。

タルチョのはためくシーシャパンマのふもとで1週間を過ごした。


チベットの巡礼たちは冷たい川の中に入り込んで
私たちのトラックを救援してくれた。
 
それはともかく、チベット高原中央部のチャンタン高原を突破したのは、ツェワンラブダンが率いるジュンガルの鉄騎団だけだったとは、わかる気がする。
 
チベット高原の優れた点はたくさんある。空気は薄く、湿度は全くないに等しい。太陽光線の直射を遮るものはほとんどない。そのうえ地球上で地表最高所に近いところだから、日光は狂わんばかりに燦乱する。人びとの肌は、年齢を重ねるにつれて、日焼けと雪焼けで焦げたように黒ずみ、深いしわを刻む。
辺り四方、50km位は見通せる風景の下で、それぞれ前後左右が春夏秋冬の天気を現してくれている。
 
チベットには、かつて「王国」があった。はじめは政治権力による「王国」である。「帝国」だったという人もいる。唐王朝のころ、ソンツェンガムポという王が出て、急速に強力となった。「安史の乱」の混乱期、唐朝と武力闘争をして長安を一時、占領したこともあり、続いて会盟を結んだ。

吐蕃(チベット)王国のソンツェンガムポ王(629〜650)

ソンツェン・ガンポと文成公主、チツン
 
それが「唐蛮会盟碑」である。長安と青海とチベットの国境にある日月山のものはなくなったが、ラサのジョカン寺には現存している。日月山は文成公主がチベットへ嫁に行く中華最後の土地ということもあって。今では観光地となっている。

唐蛮会盟碑
 
東面はチベット語により両国による会盟締結の経緯が、西面は漢文とチベット語で会盟の内容として国境の確定、使節往来の際の迎接の手順、犯罪者の引き渡し、両国が紛争時に武力を用いない内容等が、南面は漢文とチベット語で会盟に参加した唐朝専使一覧が、北面は漢文とチベット語で会盟に参加した吐蕃の使節一覧が記されている。

塀に囲まれたラサにある唐蕃会盟碑

条約では国号が「大唐」と「大蕃」、君主名が「文武孝徳皇帝」と「聖神贊普」というように両国での正式名を使い、文言で上下をつけないよう配慮されている。さらに二国の関係を「蕃漢二国」と対等に表記し、両国の年号まで併記するなど、可能なかぎり唐と吐蕃を並び立たせる表現を採用しているのが特徴である。唐はチベットを正式な外国とみなしていたのである。
これに対し約1100年後の十七か条協定では最初からチベット政府側を「西蔵地方政府」として扱い、チベットを中国の一部とみなしていた。
 
その後は、中央アジアにも進出した。敦煌を支配した時期もある。しかし、それは長続きしなかった。貴族が割拠するチベットは、次第に宗教が優越する世界となった。宗教権威による「王国」への道をたどり始めた。チベットの宗教はアムド(青海地方)からモンゴル高原に入り、内陸アジア世界の東半に巨大な「チベット仏教圏」を出現させる。ダライラマの権威は、せまい意味での「西蔵」どころではなく、北アジアから中央アジアの東半にわたる広大な地域で支持された。16世紀以降のことである。
 
| 遊牧騎馬民族 | 09:43 | comments(0) | - |
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