シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
「モンゴル帝国を継承したロシア」−1

 現代シルクロード研究会の例会を報告しましょう

170727  野口 信彦

 7月22日に開いた研究会のテーマは、「モンゴル帝国を継承したロシア」でした。みなさんは、このような言葉を普通、聞いたことはないでしょう。中学・高校・大学の教科書にはない、ことだからです。少し長い文章ですが、お読みください。

 

 第二次大戦に連合軍の一員として勝利したソ連は、白人社会なかんずくこと欧米先進国の一員であろうとしています。ですから、“あの野蛮極まりないモンゴルの従属下にいた”などと歴史の真実は、誰にも知られたくなかった話です。ソ連の支配下にあったモンゴル共和国(現在のモンゴル国)では、チンギス・ハーンはご法度、歴史の教科書にも載せることができませんでしたし、銅像も建てられなかったのです。

 

 コトの発端はモンゴルのヨーロッパ遠征でした。

 

 1236年頃になって、ヨーロッパ遠征のモンゴル軍がヴォルガ河中流のブルガル人の国を征服します。1237年、遊牧騎馬民のキプチャクを討ち、ルーシの都市リャザンを包囲して、7日間で攻略しました。1238年2月、ウラディミール市を攻略したのち、数部隊に分かれてウラディミール・スズダリ地方を破壊、ノヴゴロドに向かう。しかし、ノヴゴロドを攻める前に南に転じ、秋にカフカスに攻め入る。キプチャク人の首領クタンは、4万家族を率いてハンガリーに避難する。

モンゴル帝国皇帝オゴデイ

 

 1240年、300年の間ルーシの首都だったキエフがモンゴル軍の前に陥落。ブルガル地方とルーシで殺したすべての男子の右耳を切り取ることが命じられ、27万の耳を得たといいます。1241年4月 5部隊3万のポーランド・チュートン騎士団連合軍がレグニッツア近郊のワールシュタット平原でモンゴル軍に敗れる。切られた右耳は大きな袋9個が一杯になったといいます。1242年3月 前年末のオゴディ・ハーンの他界の知らせが届き、帰還命令が出てモンゴル軍は引き揚げるが、総大将バトゥはヴォルガ河畔を本拠地とし、ルーシの地を支配し続けました。

『ワールシュタットの戦い』

 

 

 このような遠征行ののち、モンゴルが破竹の勢いでスラヴ地帯、東ヨーロッパを席巻して今のロシの地帯に入り込み、モンゴルのルーシ(ロシア)支配が完結したのです。

 

 当時の北及び東ヨーロッパでは、モスクワ大公がルーシ諸国の中ではもっともモンゴルに従順で、徴税や徴兵の走り使いを率先して優位な立場になっていきました。いわく、イヴァン(イワン)一世がモンゴルからモスクワ大公の位をさずかりました。1328年のことです。

図は1241年のレグニツァの戦い

 

 その後、紆余曲折があって、ロシア帝国はモンゴル帝国の継承国家として出発しました。ですから、モスクワの貴族たちにはタタール出身者が多かったのです。

 

 その後、14〜17世紀、モスクワは好条件を出してジョチ・ウルスの子孫の王族や貴族をモスクワへ移住することを勧誘、多くのタタール人がロシアに移住し、キリスト教徒に改宗していきました。

| 現代シルクロード研究会 | 10:59 | comments(0) | - |
研究会、再度のテーマの訂正です

再度の訂正です。「モンゴル帝国を継承したロシアと清朝」というテーマを予定していましたが、書き進めてみると、ロシアだけも膨大な量になりますので、今回はロシアだけをテーマにいたします。ご了承ください。

第11回 現代シルクロード研究会開催のお知らせ

 

  テーマ「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」 第5回

 

−モンゴル帝国を継承したロシア―                       

 

 「現代シルクロード研究会」は通算で11回目になります。モンゴル研究も5回目を迎えました。

今回は「元朝を継承したロシア」に修正します。

会員が対象ですが、ご希望の方はご一報ののちお越しください。

 

           記

日 時 2017年7月22日(土)12時〜3時まで

  (1時ではなく、12時に開会ですのでご注意ください)。

会 場 狛江市泉龍寺・仏教文庫会議室  電話 03−3480−3251

 

    201-0013 狛江市元和泉1−6−1  講師・野口 信彦
            小田急線狛江駅下車徒歩3分程度です。

受講費 500円(資料代)
 

狛江駅北口を背中にして左側を直進。突き当りが泉龍寺。

境内の右手奥にある建物が仏教文庫です。

 

  お問い合わせは野口まで 080−5483−6740

| 現代シルクロード研究会 | 11:20 | comments(0) | - |
第9回現代シルクロード研究会報告 テーマ −大元ウルスによる高麗・日本侵攻ー

※きょうは、4月22日に行なった「現代シルクロード研究会」での、私(野口信彦)の話を、日本シルクロード文化センター役員の大塚純子さんに報告していただきました。

 講師のわたしより正確ですばらしい報告です。お読みください=野口信彦

 

 

第9回現代シルクロード研究会報告

              

      ー大元ウルスによる高麗・日本侵攻ー

 

講師:野口信彦氏 2017422日:泉龍寺・仏教文庫・会議室(狛江)

出席者:6名                

報告者:大塚純子

 

 泉龍時の境内を囲む林は新芽の季節を迎え、爽やかな絶好の勉強日和となりました。

 

  • モンゴルの高麗侵攻

12世紀後半、高麗は武臣(軍人)政権と呼ばれる執権体制で、1196年に崔氏が政権を握った。1225年、高麗でモンゴル使節が殺害される事件があり、このときモンゴルのチンギス・ハーンは西夏に遠征中だった。チンギスの死後ハーンとなったオゴディは1231年に使節殺害事件を高麗に詰問し、降伏・臣従を促す国書を送った。これを機にモンゴルの高麗侵攻が始まり30年間に6回の侵攻を行い、60万人の高麗人を鴨緑江の北部に拉致し農奴としたという。

フビライ・ハーン(国立故宮博物院所蔵)

 

1231年 第一次高麗侵入。首都開京(かいけい)を包囲。講和となりモンゴルは高麗に対し、王族・高官の童男・童女500人の提供と大量の貢物を求めた。講和条件監視のため「ダルガチ」(統治官)72人を配置した。

1232年 高麗は(モンゴル軍は陸戦に長けるが海戦に不向きとみて)都を江華島に移し、「ダルガチ」全員を殺害した。モンゴル軍第二次高麗侵入。

     モンゴル軍は陸地からわずかに離れた江華島を制圧できず撤退。

弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』)

 

1235〜39年 モンゴル軍第三次高麗侵入。高麗全土を荒らしまわり略奪した。

      江華島政権は度重なるモンゴル軍の侵略に再び和議を望み、王室から

      人質を出すことになったが替え玉を差出し、他の要求も拒絶した。

 

1247〜48年 モンゴル軍第四次高麗侵入。高麗北部各地を略奪。

 

1253〜54年 モンゴル軍第五次高麗侵入。平安・黄海・江原・忠清道を荒らす。

 高麗国王に江華島「出陸」を要請するが拒絶。モンゴル軍はモンゴルに降伏した高麗の 将と共に国土を蹂躙したので、高麗高宗は「出陸」し半島本土へ帰還し、モンゴルは停 戦に応じた。しかし、高麗朝廷の上層部は島に残留したままであった。

 

1254〜59年 モンゴル軍第六次高麗侵入。初年には20万6,800人が捕えられた。殺された者は数えきれ      ず、「骸骨野を覆う」惨状を呈したという。

 

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)   

 

2.モンゴルの日本襲来前の情勢

 

 日本の鎌倉時代中期に当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって 2度にわたり日本侵攻が行われた。

 

 1度目を文永の役(1,274年)、2度目を弘安の役(12181年)という。

(蒙古襲来の呼称:鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異国合戦などと表記していた。「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した「大日本史」が最初の用例であるという。明治時代にはこれが一般的呼称となった。元・高麗側の文献では、日本侵攻を「征東(東征)」「日本之役」「日本を制す」等と表記される)

伝・北条時宗(北条定宗像とも)満願寺所蔵

 

 日本侵攻以前の極東の状況

○1231年に始まるモンゴルの高麗侵攻と高麗の降伏の後、高麗への武力政策が懐柔へと変更したのは、南宋攻略の一環であったという説がある。

○樺太にはアイヌが住み、北方のツングース民族と交流があった。交流を介してアイヌは大陸の中華王朝とも関係をもっていた。

 1264年にギリヤーク系民族のギレミが、アイヌ族のクイの侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国は征東に先んじる初めての渡海出兵でクイを攻撃した。この渡海侵攻は征服目的ではなく、アイヌの侵入を排除するもので、数度にわたる元軍の渡海侵攻によりアイヌはカラフトから駆逐された。

○マルコポーロの「東方見聞録」では、日本が大洋上の島国で、限りなく金を所有する豊かな国であると紹介されており、高麗人から日本に隋・唐時代から中華との関わりをもった国であると聞いたクビライは日本に興味を抱き、日本に度々招諭の使節を出した。一方、この元都招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は十分な海軍をもっていなかったため、海上ルート確保の一助とするためもあったのではないかという。

フビライの日本への使節派遣は1266年、1268年、1269年に2回、1271年、1272年に及んだ。1272年に日本は初めて12人の日本使節を高句麗経由で元の首都・大都に派遣している。

 

○高麗は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費負担をおそれて、航海が危険であること、侵攻が長期におよび死傷者が多数出ても、兵員・物資の補充がきかないなど訴えたが、フビライの方針は変わらなかった。

フビライは日本征服の意思を表明し、高麗に戦艦1,000艘の造船、10,000名の軍兵調達を命じ、軍備が整えば南宋あるいは日本を征討すべくモンゴル帝国の官吏を高麗に派遣して攻略ルートを調査させた。

  

○1272年(文永9年)北條時宗は異国警護版役を設置。鎮西奉行2名を中心に筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸警護の番役の指揮に当らせた。

 

3.モンゴルの日本襲来 

 5年にわたる襄陽・樊城の戦いで元に敗れた南宋は国力失い、高麗におけるクーデターも制したモ ンゴル(元)帝国は、対日本軍事作戦に専念することが可能になった。1271年、北條時宗は鎮西に 所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くよう命じ、頑丈な石積みの防塁を各地に構築するなどモンゴル 襲来に備えた。

 

  ○文永の役1974年10月3日〜21日/今の暦の11月26日 (軍勢は講師資料)

   総司令官: 征東都元帥・忻都(ヒンドウ)(モンゴル二世)  

   副司令官:征東都福元帥・洪茶丘(高麗二世)

 

  ●モンゴル軍は屯田軍・女直(ジュシェン)軍・水軍からなる元の征東軍15000人

  ●高麗軍8000人、6700人の高麗人水手(かこ)が漕ぐ高麗が建造した戦艦300艘、大小の兵船900艘

   10月5日、元軍は対馬小茂田浜に襲来。対馬守護代・宗資国が事情を質したところ元軍の舟から   散々に矢を放って来、8艘の大型船より千人程の元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構   え、矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し奮戦したものの、宗資   国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。

 

 ○弘安の役1281年5月3日〜閏7月1日/今の暦の8月23日)(軍勢は講師資料)

  総司令官:征東都元帥・忻都(ヒンドウ)(モンゴル二世)  

  副司令官:征東都福元帥・洪茶丘(高麗二世)

     

 ●侍衛軍4000人を含む元軍15000人、高麗軍10000人、17000人の高麗水手、900艘の船、元・高麗軍を  主力とした東路軍40,000〜57,000人・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とする江南軍100,000人及び江  南軍水手(人数不詳)・軍船3,500艘の艦隊は史上類を観ない世界史上最大の規模の艦隊であっ   た。この戦いでは、出航時から江南軍が遅れ、東路軍との合流にも齟齬が生じ、日本軍の防戦は激  しく、防備がすでに整っていて攻めあぐね、疫病が船団に流行り、挙句に台風に見舞われるという  状態であった。

 

  この戦で元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も相当数が破棄された。

  元軍のうち帰還した者は「元史」の中でも全軍の1〜4割、人数にしておよそ14,000人〜63,000人。  「高麗史」によると高麗兵および東路軍水夫の帰還者は27,000人のうち19,000人であった。日本に  とっても物質的に得たものは何も無く、不十分な恩賞に御家人達は不満を抱き、戦費で窮迫し、鎌  倉幕府滅亡の遠因の一つとなった。                                                                    以上

| 現代シルクロード研究会 | 09:48 | comments(0) | - |
遊牧騎馬民の誕生 3月25日の第8回現代シルクロード研究会に出席して=佐伯政良

きょうのブログは、表題にあるように1カ月前の3月25日に行なった、第8回現代シルクロード研究会の

「第2回 世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史 −チンギス・ハーン前後の騎馬遊牧民−に参加しての会員による感想文です。彼は、パソコンを使わない考えの方なので、原稿を役員に送ってパソコン入力を依頼しましたが、現役ゆえにパソコンに向かう時間が取れないまま、今日にいたりました。ご報告が遅れましたことをお詫びします=代表・野口信彦

 

遊牧騎馬民の誕生

 

201742日 佐伯正良

 

 BC4000年ごろ、ウクライナ草原で野生種の馬が初めて家畜化されました。BC1000年ごろ 馬にまたがり草原で家畜を追う騎馬遊牧が黒海沿岸のウクライナ草原でキンメリア人によって始められました。キンメリア人はBC8世紀末に東方から来たスキタイ人に追われて小アジアに移動してドニエストル川からドン川にかけて住んでいました。

 

 現在の中国北方のモンゴル高原と草原地帯にはBC4世紀ごろから東胡・月氏・匈奴の3つの遊牧勢力があり。秦の時代にも中国に侵入して脅威となっていました。その中で匈奴は最初に遊牧帝国を築きBC3世紀ごろ、冒頓単于の治世の時が最も強大な勢力となり、モンゴル高原・中央アジアを支配する大帝国になりました。黄河文明に始まる中国は農耕民族としての歴史を歩んだ国であり、北方の遊牧騎馬民とは生存方法が根本的に異なり、互いに攻めたり攻められたりする関係にありました。

 

 また北方の遊牧騎馬民は強く賢明なリーダーがあらわれると強大な勢力となり、中国にとって脅威となり、時として一時的とはいえ支配されたり滅ぼされる恐れさえありました。それゆえ中国は北方騎馬遊牧民を知り、その動向には常に気を配り、彼らからの侵入から国家規模の財力・人力をもって国を守りました。

 

 遊牧騎馬民の国家は馬という強力な武力を持っているものの、リーダーが死んだり内部で武将同士の反目があると分裂したり衰退がはじまります。後漢の時代、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に服属し、北匈奴は他部族に圧迫され、西方に移動しクルグズ草原にとどまり、周辺の遊牧諸部族を従え、一時は中央アジア全域を統治したともいわれています。その後、北匈奴はローマ内の西ゴート族をはじめとするゲルマン諸部族を攻めました。北匈奴はヨーロッパではフン族と呼ばれ、その襲撃から逃れた西ゴート族はライン川を越えて西ローマ帝国に侵入しました。後年、西ローマ帝国は滅び、ヨーロッパは古代から中世へとその歴史を促進させました。

 

 一方、漢に服属した南匈奴は長城を超えて、南の領内に移住、後漢や三国時代の魏や西晋王朝に与し、4世紀にはいると五胡十六国時代のきっかけを作り、その後は五胡の一つとして諸国を建てました。

 

 ゲルマン民族大移動の原因となったフン族と、2世紀末に中央アジアから西進した北匈奴との同一性には諸説がありますが、フン族がトルコ系の言語の遊牧騎馬民であったことはほぼ間違いないようです。また、漢語の発音では「匈奴」が「フンヌ」に近い発音であったこと、五胡十六国時代のソグド語文章で匈奴のことを「フン」と表記していることから、フンと匈奴の名称には著しい類似性があったといえます。

 

 433年、フンの王アッティラはパンのニア平原(現在のハンガリー)に拠点を置き、ガリア(現在の北フランス)に侵攻してカタラウヌムにて西ローマ帝国・ゲルマン諸部族と対決、会戦となり勝敗を決しないまま退却(451年)。翌年には北イタリアに侵攻しミラノなどを占領しますが、結局ローマへの進行は断念し、パンノニアに退却してほどなく、アッティラは急死します(453年)。彼の死後、後継者争いによってフン帝国は崩壊し、小部族に分裂してウクライナ草原方面へと退却していきました。

 

[終わりに]

 叙事詩「ニーベルンゲンの歌」は5世紀ごろのゲルマン民族を題材にし、12世紀のドイツで作られました。前編では超人的な英雄ジークフリートとブルグント族の王女クリームヒルトとの出会いに始まりジークフリートの暗殺まで、後編はクリームヒルトがフン族の力を借りてジークフリートの復讐を果たすという血なまぐさい物語です。読んでみるとゲルマン民族の視点で書かれており、フン族の王エッツェルは、モデルになったといわれるアッティラとは程遠い印象を感じました。(物語の中でエッツェルは異教徒として描かれています)。ゲルマン中心主義=西欧優性主義思想はこの時代からあったのでしょうか。

 

 匈奴・フン族などの遊牧騎馬民が人類史に影響を与えたことは歴史的事実であり、その重要さは計り知れないものがあります。私は世界史・人類史の中に遊牧騎馬民の匈奴・フンのように自らを語ろうとしない無言の働きがたくさんあることを感じます。そして中世ヨーロッパに多大な影響を及ぼしたフン族が、我々日本人の話す言語に近いトルコ系の言語の民族だったらしいことに興味を感じています。聞くところによればトルコ人は日本人が大好きだとのこと。私も勇敢で優しいトルコ人が大好きです。これからの勉強に期待します。

| 現代シルクロード研究会 | 09:57 | comments(0) | - |
第9回 現代シルクロード研究会のお知らせ

お知らせが遅くなりました。

 

今日、下記の研究会があります。

急ではありますが、お越しください。

会場は3月の会場と違いますので、ご注意を!

狛江駅前の泉龍寺・仏教文庫です。

標題とは別に「もうひとつの蒙古襲来」=元による樺太侵攻についても触れていきたいと思っています。

ご期待ください。

野口

 

第9回 現代シルクロード研究会開催のお知らせ

  テーマ「世界史の基礎を創ったモンゴルの歴史」 第3回

−大元ウルスによる高麗・日本侵攻−

講師・野口 信彦                       

 モンゴル研究も3回目を迎えました。現代シルクロード研究会は通算で9回目になります。今回は元による高麗への攻撃と、有名な元寇の役=モンゴルの日本襲来をテーマにしたいと思います。

 どうぞお越しください。

日 時 2017年4月22日(土)午後1時〜4時まで

会 場 狛江市泉龍寺・仏教文庫会議室  電話 03−3480−3251

郵便番号201-0013 狛江市元和泉1−6−1
            小田急線狛江駅下車徒歩3分程度です。

受講費 500円(資料代)
狛江駅北口を背中にして左側を直進。突き当りが泉龍寺。

境内の右手奥にある建物が仏教文庫です。

 

| 現代シルクロード研究会 | 08:56 | comments(0) | - |
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