シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています―その平和的解決への道

 今年2018年の5月は、イスラエルが建国されたことによって、パレスチナ人約80万人が故郷を追われて難民となって70年の月です。

 パレスチナの人たちは、70年前の故郷喪失を「ナクバ(大災厄)」と呼び、毎年5月15日をナクバの日としてたたかいの決意を固めています。

 この多くの難民たちは、その後の生活が成り立たない中で、貧困と失業、教育施策のない中で、これ以上ないほどの苦難を強いられています。

 現在、ガザの人びとはイスラエルとの国境を超えることができません。通貨もイスラエルの紙幣、なにもかもがイスラエルの統治の下で生活をせざるを得ない状況です。

 彼らは3月末頃から難民の帰還を訴える行動を始めています。そしてイスラエルは、5月15日までに少なくとも107人を殺害し、国際的な非難を浴びています。

 イスラエルの建国記念日はこの5月14日でした。トランプ政権は、この日を選んで、在イスラエル大使館をエルサレムに移しました。これはパレスチナへの侮辱です。誇り高きパレスチナ人民は決してこれを許さないでしょう。

1916年のサイクス・ピコ協定により分割された中東

イスラエルの地図

 

 パレスチナ関連の略年表

 1948年 「イスラエル建国」でパレスチナ人が難民に

 1967年 第三次中東戦争で、イスラエルがヨルダン川西岸などを占領

 1993年 イスラエルとパレスチナが暫定自治合意

 2007年 イスラエルがガザの軍事封鎖を始める

 2012年 パレスチナが国連のオブザーバー国に

 2017年 米がエルサレムをイスラエルの首都と認定

 2018年 米が大使館をテルアビブからエルサレムに移転

 

 パレスチナとは

 パレスチナはイスラエル建国前のヨルダン川と地中海の間の地域に位置しています。

 パレスチナ人とは、その地に住んできた人びととその子孫です。主にアラビア語を母語とするアラブ人で、イスラム教徒とキリスト教徒が中心です。

 

 ユダヤ人について簡潔に述べなおします。

 

 ユダヤ人とは中世ではユダヤ教徒のことでした。こんにちでは定義が難しくなっており、イスラエル国内でもさまざまな議論があります。ロシア系、ドイツ系、アフリカ系など多様になっています。

 19世紀にはユダヤ人の国をつくろうというシオニスト運動がヨーロッパで始まり、ユダヤ人がパレスチナに移り始めました。ナチスの迫害から逃れようという事情もありました。

 パレスチナ人の人口は1948年に約140万人。うち約80万人が離散しました(パレスチナ当局5月14日の発表)。現在では、その子孫を含めて国連に登録するパレスチナ難民は約500万人余。ヨルダン、レバノン、シリア、ヨルダン川西岸、ガザなどで暮らしています。

 イスラエル建国後もイスラエルにいるパレスチナ人(アラブ人)は現在、約180万人。イスラエルの人口の約2割です。

 こんにちのパレスチナのヨルダン川西岸地区とガザ地区の人口は500万人近くです。

ガザ地区は地中海に沿って約40km弱。人口は約200万人で7割が難民です。イスラエル人が人とモノの出入りを厳しく制限しており、「屋根のない監獄」と呼ばれています。

西岸地区に築かれた分離壁

国連による「パレスチナ分割決議」 1947

 

 そして失業率は約44%。15〜24歳では約65%(14日発表)。

イスラエル軍の攻撃を受けるガザ地区郊外, 2009年1月

 

 この状況を根本から打開する方法は3つの原則しかないといえます。

  • イスラエルはすべての占領地から撤退すること。
  • パレスチナ人に独立国家樹立を含む自決権を保証すること。
  • パレスチナ、イスラエル双方が互いの存在を認めて共存を図ること(2国家解決)。

 

 イスラエルが強行しているパレスチナへの違法な入植地拡大を許さないことが大切です。日本政府に対してはパレスチナを国家として承認するべきであります。

 トランプ大統領による大使館移転問題では、国際世論はすでに、イスラエル・パレスチナ問題に関する国連の諸決議に反し、問題の公正な解決、中東の平和と安定に逆行する暴挙だとして厳しく非難されています。大使館移転を前後してパレスチナ人が行った抗議行動への発砲など、イスラエル側による残虐な弾圧に対しても即時中止が求められます

 

 

中東問題の連載は、これで終わります。野口

調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファート議長。

中央は仲介したビル・クリントン米大統領

 

| 中東問題、テロ | 10:09 | comments(0) | - |
中東戦争とその背景

 1947年、第二次世界大戦後、イギリスは、パレスチナ問題を国連に任せると宣言。国連総会は、パレスチナをアラブ人とユダヤ人の2つの国に分割し、エルサレムと周辺を国際監視下に置くという処置を採択しました。これは戦中、ドイツのホロコーストに対する同情がユダヤ人に集まった結果であり、この国連採択にアラブサイドは反発していました。

 

1948年5月14日にイギリス委託統治が終了しましたが、両勢力の戦争が起こり、イスラエルはパレスチナの75%を自国領土として、1949年夏に休戦が成立しました。これが世にいう第一次中東戦争です。

 このため、パレスチナに住んでいた多数のアラブ人たちは、難民として、レバノン・シリア・ヨルダンの3ケ国、ガザ・ヨルダン川西岸の難民キャンプ、クウェート、サウジアラビアなどのアラブ諸国や米国など各地に離散しました。

 

イスラエルとアラブ諸国。
濃い緑がイスラエルと直接交戦したことのある国。

 

1956年、スエズ動乱(第二次中東戦争)、1967年に第三次中東戦争などが起こりました。この戦争は、最終的にはアメリカの多額の軍事援助と武器援助を受けていたイスラエル側が勝利しています。

第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日〜5日)

 

 1964年になると、パレスチナ解放機構PLOが結成されました。これとは、別に1950年末にイスラエルへゲリラ攻撃をすることを目的とした「ファタハ」ができています。

1967年の第三次中東戦争後、PLO内で批判が起き、パレスチナ・ゲリラ「ファハタ」の指導者アラファトがPLOの議長に選出されることになります。ここで、ゲリラ組織を中心としてPLOを運営することになりました。

イスラエルは第三次中東戦争の勝利により、上図の肌色の部分を占領した。

アラブ側はこの戦争の復讐を誓い、第四次中東戦争の要因の一つとなった。

 

1970年代には、「領土と平和との交換」原則が国連安保理決議となり、西岸・ガザでのパレスチナ国家樹立という現実的な目標を追求することになります。

 1987年、ガザでの交通事故をきっかけとして、「インティファーダ」と呼ばれるパレスチナ住民の反イスラエル蜂起が始まりました。これにより、イスラエルがパレスチナ住民を支配している実態が国際社会に知れ渡ることになりました。このことから、イスラエル国内で、パレスチナの独立を認める政党と、あくまでも占領地を保持する右翼政党ができてきます。「労働党」と「リクルード」の2大政党がそれぞれの代表です。

第四次中東戦争

「涙の谷」手前の対戦車壕で撃破・遺棄されたシリア軍のT-55、T-62戦車と

BTR-152装甲兵員輸送車。

 

ナファク基地手前で(停戦ライン上の「拠点116」とする文献も存在する)

撃破されたシリア軍のT-55戦車。

 

 1990年になると、冷戦終結で、PLOも、いつまでも強硬な手段を取っているとアラブ穏健派からの援助を貰えないことになり、それをトリガーとして柔軟な姿勢に変更することになります。

これにより、1993年「暫定自治に関する原則宣言」にPLOとイスラエルが仮調印することになります。

 

このパレスチナ自治政府は、東エルサレムを首都として独立しようとしているのですが、同時にその地は、ユダヤ人にとっても聖地であり、かつキリスト教においても聖地という地です。この地の争奪という宗教戦争が背景になっているため、容易な妥協が両陣営できないことになっているのです。これが問題の核心となっているのです。

| 中東問題、テロ | 10:49 | comments(0) | - |
紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています−5

 イスラエルはエジプトに本拠を置くプトレマイオス家によって、前320年から前202年まで支配され、シリアや小アジアを統治するセレウコス家の傘下に入りました。

 多神教の代表格、ギリシアの宗教と一神教のユダヤ教は水と油の関係です。互いの立場を尊重すれば、争いを避けられたのですが、支配者・権力者の視野は狭量になりがちで、ヘレニズム化を強引に進めるセレウコス家によって、ヘブライに対して容赦ない弾圧が加えられるようになりました。

 

 なかでも、アンティオコス4世エピファネス(在位前175〜前164年)は、エルサレムの神殿にギリシア風の祭壇を築き、反抗したヘブライ人たちを虐殺するなど、徹底して弾圧しました。たまらず前168年、ヘブライ人たちはマッカビー5兄弟を核にして反乱をおこしました。

 

 マッカビー兄弟たちは次つぎに戦死していったのですが、士気は衰えず、前141年にはついに独立を達成しました。マッカビー王朝(ハスモーン王朝)がスタートしました。

 しかし、前64年にはローマのポンペイウスによってエルサレムが占領されると、それ以降、この地方はローマの支配下に入ります。ローマに隷属したヘロデ王が、皇帝アウグストゥスに代わって、この地を治めていた頃に誕生したのが、のちに神の教えを広めるキリストだったのです。

キリスト降誕の情景を再現するイタリアのプレゼピオ

 

 ヘロデ王が死ぬとユダヤの地は完全にローマの直轄地となってしまいます。ユダヤの人びとはローマから独立し、再び栄華を取り戻すために「メシア(救世主)」の到来を待ち望みました。

 しかし、イエスが説いたのは、ユダヤ人の厳しい律法によらない隣人愛でした。イエスの教えは多くのユダヤ人に受け入れられましたが、ユダヤ教を批判する言動から祭司の怒りを買い、西暦30年頃にローマ提督によって反逆者だけに処される最も重い刑罰の磔(はりつけ)にかけられました。

 

 その後、キリスト教は激しい弾圧を受け、多くの殉教者を出しますが、西暦313年にコンスタンティヌス帝によってローマに公認されると、急速に広がっていきました。

コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵)

 

 一方のヘブライ人は、後70年に発生した反乱の際にエルサレムの街と神殿を完全に破壊され、世界各地に離散、以後、長い放浪を余儀なくされました。

| 中東問題、テロ | 11:07 | comments(0) | - |
−4 バビロン捕囚とユダヤ教の誕生

 バビロン捕囚

 アッシリアを滅ぼした新バビロニア王国では、ネブトカドネザル2世(在位前604〜前562)が即位すると、エジプトのネコ2世のシリア・パレスチナ遠征軍に当たってこれを阻むなど、領土拡大に熱心に取り組みました。前597年にはパレスチナにあったユダ王国を攻め、エルサレムに入城するとユダ王ヨアキンと配下の有力者をバビロンに連れ帰りました。

 これが第1回の「バビロン捕囚」です。

 

 その後、ゼデキヤをユダ王として国を治めさせましたが、反逆の気配が見えたため再びネブトカドネザル2世はエルサレムを占領し、ゼデキヤと多数の人びとをバビロンに連行します。

 これが第2の「バビロン捕囚」で、ユダ王国は滅亡し、バビロニアの属州になったのです。

 

 もっとも、改宗までは強制しなかったので、ヘブライ人は神ヤハウェへの信仰を捨てなくて済んだのです。捕囚されたヘブライ人は、律法のうち特に割礼と安息日にアイディンティティを求めました。

 割礼を施し、安息日に休むことで、周囲の人間たちとは異なる「選ばれた民」であることを終始、意識するようになったのでした。

 

宗教としてのユダヤ教の誕生 

 やがて事態を打開する救世主となる人物が登場します。

 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世(在位前559〜前529)が新バビロニアを征服し、それぞれの民族固有の生活と宗教を尊重し、捕囚されたヘブライ人たちも父祖の地へと帰還させたのでした。

 

 しかもキュロス2世は、ネブカドネザル2世が没収した備品などを返還し、神殿を再建する費用をペルシアが負担することを命じた詔書も発布したのです。詔書には「天の神、主は地上の国のすべてを私に下さり、主の宮(神殿)をユダのエルサレムに建てることを私に命じられた」と書かれています。

 

 考えてみれば、驚くほどの善政を敷いたといえるでしょう。アッシリア帝国以来、長年、残虐な支配者に脅かされてきたアッシリアの世界の人びとにとって、慈悲深いキュロス2世は解放者として歓迎されたのでした。

 

 エルサレムに帰還したヘブライ人たちは神殿の復興に全力をそそぎました。前520年には大司祭ヨシュアとユダ総督ゼルバベルが中心となって再建工事に着手、前515年に完成を見ました。ソロモンが建設した第1神殿に対して第2神殿と呼ばれました。

 

 さらに前445年にユダ総督として着任したネヘミヤと、ペルシア王によって「天の神の律法の書記」を命じられたエズラによって、社会改革が進められました。エズラは神殿の祭儀のマニュアル化を行ったほか、祭司職の体系化、律法を学ぶ学校の創設、シナゴーグ(集会所)での礼拝の制度化を進め、ユダヤ教の基盤を確立していきました。宗教としてのユダヤ教の誕生といっていいでしょう。

M. Gottlieb画、シナゴーグで祈るユダヤ人(1878年)

 

 前332年にはアレクサンドロス大王の東征によって、エルサレムは陥落、ギリシアの支配下に入りました。大王が亡くなると、将軍たちが後継を争い、エジプトはプトレマイオス、アナトリアはアンティオコス、バビロニアはセレコウスが領有することになりました。

エルサレム攻囲戦 (1099年)

| 中東問題、テロ | 09:29 | comments(0) | - |
ー3  ヘブライ人の放浪 ユダヤ教国家の誕生とバビロンの捕囚

紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています−3

 

きょうからは、2010年4月にブログ欄に掲載した文章を、多少、筆を加えてご紹介します。野口。 

 

  ヘブライ人の放浪 ユダヤ教国家の誕生とバビロンの捕囚

バビロンの捕囚の絵

 

 オリエントは一神教が誕生した地でもあります。

 私たちの日本での日常生活のなかでは、キリスト教の信仰を持っている方以外は、ふつう、『旧約聖書』をあまり読む機会がありません。でも、中東の出来事と歴史を知る上では、これが必要なのです。シリアやヨルダンに行ってみて実感しました。

 

 新バビロニアのネブカトネザル2世によって、エルサレムからバビロンに連行されたヘブライ人たちは、アイディンティティの確立に全力を尽くしました。

 やがてペルシア帝国のキュロス2世によって解放され、エルサレムに帰国した彼らは、体系化された律法、祭祀儀礼、行動様式を築き、「ユダヤ教」をつくりあげました。

 

 神と契約を結び、与えられた約束の地

 オリエントの地は後世に圧倒的な影響を及ぼし続ける「一神教」が生まれた地でもありました。一神教とはユダヤ教、キリスト教、イスラームの3宗教をいいます。

 

 「紀元前2000年頃といえば今から約4000年も前に、世界の宗教史上に決定的な一つの起点がおかれた。それはメソポタミア地方である。このヨーロッパにもアフリカにもまた大きな意味でのアジアにも属していない三大陸の接点にこの非妥協的な一にして超越的な人格神の思想の根となるべきものが誕生した。その神は人間に似ていて、自己に感謝し、奉仕する信仰をもつ人間と契約を結ぶのである」(『ユダヤの民と宗教』A.ジークフリード)。

 

 『旧約聖書』に記された一神教共通の祖であるアブラハムは、メソポタミアのウルの出身とされています。神とアブラハムの間で「パレスチナ=約束の地」と契約が結ばれたことが、ヘブライ人の放浪生活の出発点とされているのです。

 

 紀元前13世紀頃、ヘブライ人の民族的指導者であるモーセが、エジプトの奴隷として使役され苦しむ民を神の命に従い、脱出させました。

 40年の苦難の末にモーセはカナン(パレスチナ)の入り口までたどり着きますが、神によってカナンに入ることを許されず、この地で終焉を迎えました。

 

 その後、ヘブライ人を約束の地・カナンまで導いたのが、モーセの後継者のヨシュアでした。士師(さばきつかさ)たちの共同支配の時期を経て、前1100年頃、サムエルがイスラエル王国を建国します。そして、サウル王、ダビデ王、その子ソロモン王のときに全盛期を迎えました。

 

 シリアやヨルダンは、まさにこのモーセやダビデが歩いた地でした。

 モーセがなぜ、エルサレムの地に入れなかったかということは、ヘブライの難民が水を求めて、モーセが神に水を乞う願いをした際、神から「杖を1回だけ地に突け」といわれたのに、欲張って2回突いたことが原因だったといわれています。

 その言い伝えは、私にはうろ覚えでしたので、これは『旧約聖書』を学ばなければ真の理解は得られないと心底から悟ったのでした。

 

 ソロモン王が死ぬと、ヤラベアムを父に戴く北のイスラエル王国(首都サマリア)と、ソロモンの後継者レハベアムを王とする南のユダ王国(首都エルサレム)に分裂します。

古代のイスラエル王国とユダヤ王国

 

 イスラエル王国はクーデターが相次ぎ、国力が衰退し、前721年、アッシリア王サルゴン2世の攻撃を受け、滅亡しました。

 続いてアッシリアはユダ王国にも迫ったのですが、このときはバビロニアが隙をうかがっていたため、アッシリア軍はあわてて引き上げていったのでした。

 

 前7世紀後半にはヨシヤ王(在位前647〜前609年)が、異教徒を排除し祭儀と司祭制度の中央集権化を進めて国力を充実させました。これを申命記改革と言います。

 しかしその王も、シリア・パレスチナの覇権回復をめざすエジプトのネコ2世(ネカウ2世、、ネクタネボともいわれる)の侵攻の際に、メギドで戦死してしまいます。

| 中東問題、テロ | 11:05 | comments(0) | - |
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