シルクロード日誌

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陸上帝国から海上帝国へ、ユーラシア交通網の完成−2
   

 クビライの日本侵攻は失敗に終わりました。しかしこのモンゴルによる侵攻によって、日本人の精神生活と社会的・政治的側面に衝撃的な影響を与えたのです。

それは、日本に文化的精神的な統一の必要性を説くとともに、国家運営を、

武士を中心とした国へと変身させていくという作用をもたらしたのでした。

 

一方、モンゴルは日本侵攻をあきらめて、今度はビルマ、ベトナム北部の安南、ラオスなどで勝利をおさめました。

さらにベトナム中部のチャンバやインドのマラルバをはじめ、東南アジアのいくつかの王国の支配者が自発的に投降しました。

 

モンゴルは統一中国の樹立に成功したほかに、周辺のいくつかの国にも統一を迫りました。

紛争に明け暮れる朝鮮半島諸国に統一国家をつくるよう迫り、モンゴルの直接統治を受けていない東南アジアでも、その影響力によってこんにちのベトナムとタイの源(みなもと)となる新国家が誕生しました。

 

それまで、現在のタイ、ラオス、ベトナム、カンボジア地域は、文化面ではインドの支配下にあり、ヒンドゥー教を奉じるインドの建築様式・信仰・神話が受け入れられていました。そのためにモンゴルとの混交文化を生むにいたったのでした。

 

インドネシア方面への侵攻では1289年、クビライはジャワに使節を送り、服従を要求しましたがはねつけられました。

そこでクビライは、日本への侵攻と同じように大艦隊を編成して、1292年に1000隻、2万の兵士と1年分の備蓄物資を満載して、翌1293年、ジャワに到着しました。

初めは楽々と勝利していきましたが、最後には待ち伏せ攻撃を受け、生き残った軍勢は屈辱のうちに撤退したのです。

 

クビライは、モンゴルの陸上戦略を適用することはできなかったのですが、これらの海軍の創設と海戦の経験は、シルクロードを通じて後代のスペイン、ポルトガルやイギリス、フランス、オランダに、大艦隊を基盤とする新しい帝国をつくるさきがけとなったのです。

 

しかし、日本とジャワで敗北したことによって、モンゴルの東の国境が定まりました。以降は台湾やフィリピンにも手を出さなくなったのです。

同様にクビライの統治が始まった1260年に、エジプトのマムルーク朝に敗れたことで、南西の境界線が引かれ、20年前にポーランドとハンガリーを自発的に放棄したことが北西の境界を確定したのです。

 

かくて1242年から1293年の間に、モンゴル帝国は最大限に拡張し、4つの戦いがモンゴル世界の境界線を画すことになったのです。

それがポーランド、エジプト、ジャワ、日本です。

 

これら4つの地点を結ぶ版図の内側は徹底的な征服を受け、従来とははっきり異なる種類の統治という根本的な順応を強いられましたが、その一方で、1世紀という前例のない期間、平和を享受し、商業・技術・知識の面で空前の爆発的発展を遂げることになったのです。

 

さあ、これでモンゴル編はひとまず終わりです。

明日から2日間は、ウズベキスタンのサマルカンドへ行った、胡口靖夫さんが書きます。そのあとはまた私の番ですが、わたしは、16日からウズベキスタンへ行き、サマルカンドで胡口さんと合流してから、今度は2人で2度もキャンセルになったフェルガナへ向かいます。フェルガナとその周辺のオアシスの遺跡などを回るつもりです。

 

帰国後も、8月19日から9月3日まで、モンゴル〜西夏自治区〜内モンゴル〜河西回廊の旅が待っています。

その間の本欄をどうしようかといま、思い悩んでいます。

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