シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
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第19回シルクロード講座&サロンが開かれました

2月12日(土)、狛江のみんなの広場で、恒例の第19回シルクロード講座&サロンが開かれ、前日からの雪模様でお天気が心配されましたが24名が参加しました。

講座


講座はサマルカンド国立外国語大学で教えておられる胡口靖夫さんによる「暮らして解いたナボイ劇場建設の謎 新証言のDVDを見る」。

講座1

胡口さんのレジュメをご紹介します。
1.「ナボイ劇場建設の謎(シルクロードに生まれた日本人伝説)」とは何か?
“タシケント市のナボイ劇場は、強制連行された日本人捕虜約450人の手によって建設され、1947年に完成した。(中略)1960年代の大地震の際、他の多くの公共建築物が倒壊したにもかかわらず、この劇場だけはビクともしなかったため、これを建設した日本人の働きぶりが、いつしか【伝説】となり、ウズベキスタンが日本に敬意をもつ大きな背景となった”(嶌 信彦「まえがき」『追憶 ナボイ劇場建設の記録―シルクロードに生まれた日本人伝説―』NPO日本ウズベキスタン協会、2004年発行、P5)。

2.私の批判の要点
‘鰻狆譴蓮▲熟∨第1級のロシア人建築家シューセフの設計により、1939年にウズベク人を中心とする労働力で着工。
■隠坑苅嫁、独ソ戦の戦況悪化により一時中断したが、1944年再開。
F本人捕虜が建設に参加した1945年11月上旬には、建物の基幹となる本体工事はほぼ完了していた。
て本人捕虜の作業は、ウズベク人の「親方」の指示で内・外装の仕上げ工事を担当した。
イ靴燭って1966年のタシケントの直下型大地震で倒壊しなかった「功績」は、シューセフの「設計力」とウズベク人たちの「技術力・労働力」によると考えるべきである。
(拙著『シルクロードの《青の都》に暮らす』同時代社、2009年刊、P22〜P46)

3.私の批判に対する日本人の反応
ゝ馮殀娠 嶌氏は黙殺、日本ウズベキスタン協会も同調(出版社に怪電話があった)。あるいは好意的?反対(日本社会の閉塞感?)。
応援(嶌氏の主張を明確に否定する新証言者があらわれたことなど)あるいは賛成(「S氏」とせず実名にすべきという人もいた)。

4.私の批判に対するウズベク人の反応
“紳弌∋神。

5.ウズベク側の「作為?」(劇場裏の顕彰記念プレート3枚のうちの1枚)
‘本人捕虜の建設参加は、「1945〜1946年」とし「1年間」短縮している。彼らの宿舎である「第4ラーゲリ(収容所)」が閉鎖されたのは1947年10月中旬。落成式は1947年11月7日の「革命記念日」。
▲リモフ大統領の指示で日本人捕虜を「日本国民」と表現している。
ウズベク語、日本語、英語、ロシア語で書かれているが、微妙にニュアンスが違い「日本人が喜ぶような」文章になっているという(日本のガイドブックや日本人観光客に誤解が生じている)。

6.嶌 信彦氏の主張の変化(上記の拙著や後述の新証言のDVDを謹呈させていただいた。それらからの無断引用の疑い?が濃厚。後述)
 “永田行夫さんは、旧ソ連の捕虜となり部隊兵と共に現在のウズベキスタン・タシケントへ送られました。ソ連側から下りた命令は、ほとんど基礎工事しかできていなかった建設途中のナヴォイ劇場を革命30周年にあたる1947年10月までに完成させることでした。(中略)永田さんは、それらの兵を土木、床張、足場大工、高所作業、鉄骨、左官、彫刻など約20の作業隊に分け、2年間かけ地元のウズベキスタン人と協力してナヴォイ劇場を完成させたのです。1966年のタシケント大地震の際にびくともせず倒壊しなかった。”(嶌 信彦「ナヴォイ劇場建設の日本側責任者 永田行夫さんがご逝去」『アッサラマレイクム/こんにちは』NPO日本ウズベキスタン協会広報誌、第46号、2010年6月発行、P3)。

 嶌氏の主張は、日本ウズベキスタン協会のホームページに掲載された「会長挨拶」以来、「1」で述べたことで一貫している。
.淵椒し狆譴老設途中であったこと。
∈邏汎睛討六転紊穏邏箸任△辰燭海函並竸牟度には無関係)。
C聾気離Ε坤戰人たちとの協力関係があったことなどについて書かれたものを見たことはない。
 逆に私の取材に対しては、永田さんなど日本人捕虜が2年間で基礎から全部作りあげたとさえ述べていた(上述の拙著参照)。

DVD上映

7.スライド上映 
 屮Ε坤戰スタンの悠久の歴史と文化」の現在編の1部。
◆屮Ε坤戰スタンの職人さんの仕事ぶり」

8 ナボイ劇場建設に従事した田畑正雄氏(89歳)の新証言DVD上映
新証言の要点
.織轡吋鵐箸肪紊い殖隠坑苅鞠11月上旬ころ?には「劇場の建物はほとんどでけていました」。
∈能蕕魯譽鵐工場に配属され、のちにナボイ劇場建設に参加。
B舁石を貼る「シードロフ親方」のもとで働いた。子供のいない親方の養子にならないかといわれた。
ぅΕ坤戰人が親切にしてくれたから無事に帰国できた。

田畑さんとは講演会に来られたのが縁で、取材させていただいたそうです。田畑さんはご高齢にも関わらず明晰で、記憶もしっかりしておられ、これまで他人に話した事は無いというとても興味深いお話でした。



サロン


サロン1サロンは胡口バルノさんの「ウズベキスタンの庶民の暮らし」。流暢な日本語と、たくさんのスライドで庶民の暮しを楽しく紹介して下さいました。

1.ウズベキスタンの祝祭日
興味深かったのは、
ナブルーズ(3月21日):春分の日に行われる「新しい日」という意味のお正月のようなお祭り。由来はイスラム教が入ってくる以前のゾロアスター教のもの。
教師の日(10月1日):教師の待遇は悪いけれど、その仕事の大切さをたたえる日

2.ウズベキスタンのバザール風景
食品バザール、雑貨バザール、ペットバザール、中古車バザールをスライドで。
米も豆も香辛料も乾燥果実もいろいろな種類があって、かなり古い型の家電やら、中古車やら、何でもバザールで手に入るようです。バザールはどこの国に行っても楽しみですね。
ちょっと驚いたのは、男性たちがたむろしている働き手のバザール。ちょっと人手が欲しい時にそこに行って交渉するのだそうです。

3.ウズベキスタンのパン(ノン)
ノンは主食なので、とってもたくさんの種類がありますね。

中央アジアや新疆ウイグル自治区で見かけるパン(ナン)は、皆似ていますね。バザールで食べた釜から出したてのおいしかったナンや、チャイハナのテーブルに山積みに出されるのを思い出しました。


4.ウズベキスタンの学校の制度と備品
ウズベキスタンの学校は全部公立の小中一貫校で、9年制の義務教育。授業料は無料。卒業後は、自分の希望で専門 学校か大学進学校へ進むそうです。

サロン2

<報告 周東三和子>

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