シルクロード日誌

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史上初の“シルクローダー”張騫(ちょうけん)
 次は数年前に私が行ったシルクロード講座でのメモだが、それに少し書き加えた。

 

漢の成立は紀元前202年、漢と楚との戦いが下(がいか)における項羽の敗北で決着がつき、漢帝国の礎が築かれ、劉邦は紀元前200年、統一中国の支配者となった。

 

武帝(劉徹)の在位は紀元前141年から前87年である。漢の武帝は汗血馬を手に入れようとして、使者を大宛国に派遣したが拒まれた。激怒した武帝は二度にわたり大宛国を攻め、紀元前101年、ようやく50頭ほどの汗血馬を得ることができた。武帝は凱旋した遠征軍に伴われ献上された汗血馬を一目見て感激した。


汗血馬の像=2009年夏、青海で撮影。

 

また、武帝はたまたま匈奴の捕虜から「大月氏は匈奴に破れ、王の頭蓋骨を酒杯にされたため、匈奴を深く怨んでいる」との情報を得た。大月氏と同盟を結んで匈奴を討つことを考え、西域への使者兼情報収集役を募集した。この大役に応募したのが張騫(前167?〜114年)であった。

 

「張騫鑿空の攻(ちょうけんさっくうのこう)」(張騫が初めて中国から西方世界への孔をあけた、つまり道を通した)。言いかえれば中国史上初めて、天山山脈とパミール高原以西へ旅行した人として記述されている。

 

一般にシルクロードは張騫人物によって開かれた、とも言われている。この交通路の開拓によって、中国と西方諸国との接近がはじまり、以後、双方の使節や商人の往来が頻繁となった。

 

張騫は侍従という低い身分だったが、紀元前139年、百人あまりの従者と案内役の奴隷・甘父(かんぽ)とともに長安を旅立った。張騫は一路西の河西回廊を進んでいった。しかし張騫一行はすぐに匈奴の兵に捕えられてしまった。匈奴の単于は張騫を殺さずに、10年余りを匈奴と共に砂漠と草原を移動して過ごした。その間に妻も与えられ、子どもまでなした。

この門を通るといよいよフエルガナだという門。
2010年夏撮影。


 

艱難辛苦を乗り越えてたどり着いた大月氏は、すでに平和な日々を送っており、今さら強大な武力を持つ匈奴と戦う意思は、すでになかった。長安に帰って武帝に張騫がもたらした情報に、大月氏のいる西方の大苑(現在のフェルガーナ地方)には「一日で万里を走り、血の汗を流す汗血馬がいる」とあった。張騫の二度にわたる西域旅行は、武帝の数ある対外活動の中でも最大の歴史的意義をもつ事業であったのである。

これがかつてのフェルガナのコーカンド・ハン国の城跡。
2010年夏撮影。

 

甘父(かんぽ)のちの堂邑父

 

甘父は張騫の従者であり、奴隷の出身といわれ、漢人の堂邑氏の奴隷となっていた。前139年ころ、張騫に従って中央アジアに出発。往路・復路とも匈奴に捕らえられたが、降伏せず漢の節を守り通した。前126年ころ、匈奴の単于位をめぐる内紛の間隙をついて、張騫とともに逃亡して帰国。中央アジア地方の貴重な情報をもたらした。漢はこの功を認め、奴隷の身分から解放するとともに堂邑の姓を与え、特に設けた奉使君に任じた。

 

と、ここまではシルクロード通であれば、だれでもが知っていることである。

 張騫と奴隷の甘父、その100人の従者がいたとはいえ、はるばる現在のウズベキスタン&タジキスタンのフェルガナ地域まで行き、さらに帰国することができたのは、その土地に住んでいた先住民、現在のウイグル人や各地のトルコ系住民が案内しなければ成し遂げることはできなかったということを忘れてはならない。歴史は華やかなスポットライトを浴びたものだけを映し出すことが多いが、その裏方=スタッの存在を忘れがちである。

 

 もうひとつ、奴隷の甘父はおそらく匈奴か西域の民族であったろうが、民族の誇りを貫くことをせず、甘んじて漢のために働いたということに、違和感を感じているが、それは酷というものだろうか。

漢の立場からだけで、「節を守った」として出世したことに、である。

2000年前のことだから、事実はもっと複雑であったろうが、ここにも光を当ててみたい。

 

文明の西漸=タラスの戦いと紙

私とキルギス人のガイド・ジャニベク君のうしろが、
かつてのタラスの古戦場。2009年撮影。

 

751年、唐の玄宗皇帝の天宝10年、高句麗出身の高仙芝将軍に率いられた唐軍は、西域救援に乗り出してきたアッバース朝とユーラシア大陸の覇権をかけてタラス川河畔で激突して惨敗を喫した。この両超大国の戦いは、大局的にはそれぞれの国にさしたる影響を与えなかったが、しかし現在では、文化史的な側面により大きな意義を持っている。

 

それは紙の製法がこの戦いを機に中国から西方に伝わったというあまりにも有名な話である。この「紙」の伝来はイスラーム世界の商業経済を支えた為替・小切手という先進的な取引形態もまた、紙の使用によって可能となったのである。

 

ここで私の関心を引いたことは、高句麗出身の高仙芝将軍のことである。

朝鮮半島から中国東北部そしてロシアの沿海州にあった高句麗から来た将軍とは、いったいどのような経過があり、どのようなルートをたどってきたのだろうかということである。ご存じの方はどなたかお教え願いたい。

 

わたしは2009年、中央アジア各地を旅した時に、「タラスの戦い」のあったタラスに行った。現在の住民は無論、当時の住民とは別種類の人たちだろうが、それでも歴史的な役割を果たした地域であることに関心を示す人は誰もいないという。

 

サマルカンドでは日本のJICA派遣の若い女性が、いわゆる「サマルカンド・ペーパー」の製造技術の指導に当たっていた。わたしもそこで当時のやりかたでつくっている「紙」を買い求めてきた。紙の作り方を見ていると、以前、ホータンで見た造り方と全く同じだった。

これが古代の紙の製法で作った「サマルカンド・ペーパー」
2011年5月、サマルカンドで撮影。


JICA派遣の紙の製法技術の指導に当たっている、
日本人のSさん。 2011年5月、サマルカンドで撮影。


その「紙」が西方に伝わったのは、タラスの戦いから400年後であったというから、歴史は悠遠で面白い。

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