シルクロード日誌

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中国共産党における政治運動のいくつか―1
              「五・四運動」

22日までの11回にわたる連載は、新聞やインターネットの情報をも含めた各種のニュースを取り交ぜて書きました。

そして今日からは、中国共産党が1949年に国民党との死闘ののち、権力を確立してからの「政治運動」のいくつかをご紹介したいと思います。

 

わが国でも、これまで中国との関係が緊張すると出てくる政治用語やその内容は必ずしも正確に伝えられていないだろうという懸念のもとで、10年以上前に書いたものに手を加えてお送りします。

はじめに西暦2000年に書いた私の文革体験記からの抜粋です。

 

1919年5月4日、屈辱的なベルサイユ条約に怒りを発した北京の学生・市民らが天安門に集まって抗議した。


1919年の「五・四運動」

さてここで少し「五四」運動と円明園について触れてみよう。

今年2000年は、西欧列強や日本などの「八カ国連合軍」による中国侵略、いわゆる「義和団事件」(1900年)の百周年にあたる。「義和団の乱」から各国公館を「保護」するという口実でおこなわれた軍事行動の実態は、一方的な略奪と無差別殺戮だった。

 

相次ぐ天災に加え、太平天国の乱や農民の決起・反乱などで衰退していた清朝に追い討ちをかけたのが、西欧列強の植民地主義侵略だった。アヘン戦争での敗北によって賠償金の支払いと香港割譲を余儀なくされるなど、清朝は列強から次々と権益を奪われていった。

日清戦争で清朝の北洋艦隊を打破した日本も、「下関条約」(1895年)によって台湾を割譲させた。

 

列強からの屈辱にさらされた清朝では、民衆による排外運動―「義和団の乱」が発生。義和団が列強各国の公館を包囲する事件も起こり、これが新たな侵略の口実を与えた。これにたいして女帝・西太后は、陰に陽にこの「乱」を支持した。

五四運動の発端となった北京大学の学生たちのデモ行進

 

義和団とは、もともと山東省などの華北一帯に広がっていた白蓮教の秘密結社で、「義和拳」という拳法を修練する民衆組織だった。1898年に直隷威県(現在の河北省威県)で「助清滅洋」(清朝を助け、西洋を滅ぼす)の旗を掲げ、排外運動を開始した。

 

1900年4月、米英独仏の4カ国は、清朝に1カ月以内の義和団鎮圧を要求した。しかし、清朝を支配する西太后は義和団鎮圧に「失敗」した。そして、列強各国の軍隊は天津の疎開地から北京に向けて進軍を開始。

1900年8月13日、北京城下に達した8カ国連合軍の兵力は3万3千人に達していた。日本軍は、全兵力の約4割にあたる1万3千人の兵力を派遣していたという。

 

連合軍は同日深夜から攻城を開始。日本軍とロシア軍は、それぞれ朝陽門と東便門の撃破に成功し、脆弱な軍隊と前近代的な兵器の清朝軍は翌14日に早くも陥落してしまう。東便門付近の城楼の一角には、ロシア兵やアメリカ兵が「北京陥落」記念のために刻んだ「1900」「USA」などの文字が侵略の「証拠」として今でも残されている。

 

徹底的な敗北を喫した清朝は、参戦した8カ国を含む列強11カ国との新たな不平等条約「辛丑条約」(北京議定書=1901年9月7日)の締結に応ぜざるを得なかった。とくに、外国の軍隊が北京に駐留する特権を獲得したことは、日本軍国主義の中国に対する全面戦争推進の火蓋を切った「盧溝橋事変」(1937年)の遠因ともなった。

 

義和団運動は現在でもさまざまな見方があるが、腐敗・堕落した清朝のもと、農民や労働者を中心とする勢力が立ち上がって列強に抵抗したということは、新しい時代に向かおうとしていた当時の中国の流れを象徴していた。

 

その列強侵略軍は、円明園に入り込んで清朝の金銀財宝や書画骨董など、ありとあらゆる宝物を略奪し尽くし、園内の建築物に放火して廃墟と化した。その円明園は私たちの体育学院から歩いて10数分のところにある。私は何度もこの円明園に出かけた。まさに“荒城の月”がピッタリする廃墟であった。

 

99年の五・四運動の、なれの果て

「五四」運動とは1919のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される(ウィキペディア)から。

孫文は、この民衆の政治意識の高まりと学生の先鋭的な力を見て、「中華革命党」国民党を「中国国民党」に改称したのである。

 

5月4日、半封建半植民地の祖国の状態を憂えた北京の学生たちが軍と警察と衝突した事件に端を発した全国的な反帝反封建の大衆運動であった。これが中国の民主主義と帝国主義のくびきからの解放への狼煙(のろし)となり、1921年には中国共産党が上海で創立された。1999年はその「五四」運動の80周年にあたるところから、当局に動員された学生たちによる円明園のパフォーマンスとなったのである。

 

しかし、ほんらい「五四」は、80年前に3千人の学生が集まった北京の天安門前広場でなければならないのである。なぜ、円明園なのか。それは自明のように1989年の虐殺が行なわれた天安門前に学生たちを集めることはご法度になっているからである。おそらく当局は、なぜ円明園なのかという質問には、ここもまた「反帝反封建」のシンボルだからと応えるのだろう。

 

円明園には、乾隆帝がつくった長春園がある。東西約8百叩南北約百辰箸い細長い土地に、ヨーロッパの宮殿風石の建造物「西洋楼」やら、大がかりな噴水施設などを要する西洋庭園が完成したのが1760年だった。イエズス会士のジュゼッペ・カスティリオーネやミシェル・ブノアらが乾隆帝の命を受け、13年がかりでつくりあげたものである。

 

それから100年後の1860年、北京に侵攻したイギリス・フランスの連合軍が円明園になだれ込み、宮廷の珍宝類をすべて持ち出しただけでなく、すべてを打ち壊し焼き討ちにしたのである。この時北京に侵攻した日本を含む8カ国連合軍は、北京にいた婦女子に対して総がかりで「レイプ」=強姦をした。詩人のビクトル・ユゴーは、このレイプ事件を激しく非難し、「われわれは自分たちを文明化した人間だと称し、中国人を野蛮人だとしている。ところがどうだ、これが、文明が野蛮にたいしてしたことなのだ」といった。

 

中国には、廃墟となっている円明園ひとつをとっても、これだけの「歴史」があるのである。

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