シルクロード日誌

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きのう、ドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』を見ました。
 珍しく熱を入れてこの番組を見ました。NHKプレミアム(BS3)です。

この番組が東日本大震災で被災した岩手県への応援歌だということも、翌朝である今(12日午前4時)、インターネットを見て知りました。

 

蝦夷(えみし)のことは以前から関心がありましたが、私の力不足と時間の余裕がないため、中途半端に終わっていました。

結論的に感想を述べると、侵略する側の大和朝廷の言葉と現在の中国政府の言い方とが、なんと共通していることかと思いました。ウリふたつです。

 「アテルイ」主演の大沢たかお。


以下に、主要人物である、アテルイとその周辺人物のことなどを、恥ずかしながら、ウィキペディアを中心に紹介します。私には資料・史料類がなく、現実に90年代から伝承にもとづいた各種の創作が始まったようです。漢族の史料が無数にある中で、支配される側のチベットやウイグルなどの歴史的史料が少ないのと共通しています。

 

実は今日12日、「シルクロード講座」があります。題して「旅で見たチベットの現状と未来」です。

この数日間、集中して準備をしてきましたが、従来の枠からなかなか出ることができず、力不足を感じていましたが、この番組を見て改めて触発されるものを感じた次第です。

 京都・清水寺にあるアテルイと母禮(モレ)の顕彰碑


わたしはこの番組を見ながら心の中で感じました。

支配者・為政者はどこまでも貪欲に領域を広げようとするし、支配される側のことなど、いささかの痛痒も感じていないということです。

きのうまで自分たちが切り拓いた土地で、家族や同郷のものたちと幸せに働き生活していたものが、理不尽な理由によって侵略され、殺され、支配されて行くサマを具体的に見せられた気持ちがしました。

番組制作の意図や背景は様々あるでしょうが、私にはそう感じられました。

 

天皇から武士の最高位に与えられた「征夷大将軍」という役職は、ここから始まったのです。

「征夷」は、東夷を征討するという意味です。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いました。

 

日本海側から進む軍を、征狄将軍鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西(鎮西将軍)といいました。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされています。差別・蔑視思想です

漢における中華思想に対して、日本におけるこの思想を「小中華思想」といいます。

 

以下、インターネットからの引用です。

 

アテルイ? -延暦21813802917))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。

 

史料にみるアテルイ

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781天応元年)524の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

 

巣伏の戦い

この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。

 

この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

 

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏

その後に編成された大伴弟麻呂坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802(延暦21年)、胆沢城を築いた。

 

日本紀略』には、同年の415の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い710平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、813河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。

「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市植山を宇山とする説は消えた。

 


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