シルクロード日誌

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シルクロードを東へ――75   130718  サマルカンドの歴史遺産
 先週だけで熱中症が1万人を超えたと報道された。私の子供のころはまわりにそんな人はいなかったと思う。それとも報道されなかったのかな?
 いずれにしても、私たちの体は確実に、飽食の果ての虚弱体質になっているようだ。
 私も例にもれないが、これは加齢のせいだと思っている。それで、せめてもと思い、暑い日中に多摩川や野川を歩いている。きのうは前々日に続いて京王線の飛田給駅まで歩いた。
 チベット・カイラスが日ごとに遠くなっているようで、気もそぞろの毎日である。     


    ブルータイルが見事なシャーヒ・ズィンダ廟群

 私がサマルカンド国立外国語大学で3週間ほどの短期でしたが、歴史を教えたことがありました。そこの学生たちと何度かシャーヒ・ズィンダに行きました。私の最も好きなところがこの廟群でした。言ってみればお墓なのですが、なんとも素敵なところでした。

シャ―ヒズィンダ廟

 

 アフラシャブの丘の上の南麓にあるサマルカンド随一の聖地です。チムールゆかりの人びとの霊廟が一直線に建ち並んでいます。奇妙な“死者の通り”です。

霊廟の街並みの多様さ、美しさでも中央アジアに並ぶものがないといわれていますが、私自身もサマルカンドは2回目の訪問ですが、ここは初めてですし、これほどの美しさのあるところも初めてでした。

 

 シャーヒ・ズィンダとは、“生ける王”という意味で、7世紀のアラブの侵略時に生まれた伝説が元になっています。それによると、布教のためサマルカンドにやってきた預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバースは、ここで礼拝をしている最中にゾロアスター教徒に襲われ、首をはねられてしまいました。ところが彼は動じることなく礼拝を終え、自分の首を抱えると深い井戸の中へ入っていき、彼はそこで永遠の生命を得て、イスラームが危機に陥っているとき、救いに現われるのだといいます。

廟へ巡礼に来たおばあさん。

 

ここを2度訪れると、メッカに一度行ったことになるともいわれている、ありがたい街角です。

 

レギスタン広場

 レギスタンは「砂地」の意味になります。

広場は、14世紀には商業地だったのですが、15世紀前半、チムール帝国第4代君主のウルグ・ベクがモスクやメドレセなどを建てたといわれています。

レギスタン広場の右手はシェルドル・メドレセ


 以前はここに運河が流れていました。広場は

チムール時代に商売人と職人の中心地となり、ウルグ・ベク時代は宗教的な中心地となりました。その時代には巨大なドームのあるメドレセと修道院が建設されていました。

同じ

 

 広場には、3つのメドレセが残っており、西側に建つのが1420年建造のウルグ・ベク・メドレセで、東側は1636年建造のシールダール・メドレセです。この建物の正面には、偶像崇拝を禁じているイスラームの教えに反し、人の顔や獅子が描かれています。北側には、1660年建造のティラーカーリー・メドレセが建っています。

 

ビビ・ハヌム・モスク、メドレセ廟

メドレセは神学校のことですが、もともとビビ・ハヌム・モスクの門と競うほどの大きさがあったので、チムールの命令によって小さく改装されたといいます。同じ場所にコの字型に3つの大きな建造物が建っています。

サマルカンドの空に突き抜けるようにそびえたつビビ・ハヌム・モスク。


ビビ・ハヌム・モスクはチムールの妻、サラーイ・ムルク・ハヌムの別名からこの名がつきました。1399年、インド遠征から帰還したチムールが建設しましたが、西アジア遠征後の1404年、出来栄えに満足できずに造り直し、05年に完成したといいます。

南北109メートル、東西167メートルの中央アジア最大のモスクですが、短期間で工事したために充分な工事がやられず、1897年の地震で大打撃を受けて廃墟と化しました。1970年代から修復作業がなされ、現在では巨大な青いドームがよみがえっています。そのほか大理石の説教壇や回廊跡なども見られますが、ユネスコの協力で修復が続いています。

レギスタン広場で補修作業。

 

金に覆われた建築物ティラコーリ神学校

ティラコーリ・メドレセは1660年に建てられた神学校です。広場から見て正面にあたるこのメドレセは、他の2つとはかなり異なった外観で、広場の安定した調和に一役買っています。

中庭に入って左手、青のドームの下に礼拝所があり、その荘厳さから“ティラコーリ”(金箔した)という意味になります。当時はすでに、ビビ・ハニムが廃墟となっていたために、サマルカンドの主要な礼拝所となっていたようです。

メドレセの修復作業には3kgの金が使われたといわれていますが、まさに息を呑む美しさでした。壁面は星と植物、アラビア文字をモチーフにした鮮やかな模様で飾られ、まばゆくばかりに輝いています。その技巧もすばらしく、たとえば、ドーム型に丸みを帯びて見える天井は実は平面で、細かい遠近法で描かれた結果です。

現在、礼拝所横にはソ連時代の修復の様子が展示されており、学生が使っていた部屋にはお土産屋さんが入っていました。

 

チムールの墓グル・エミール廟

1404年に完成したチムールと子孫の霊廟で1941年、地下の墓室からチムールやウルグ・ベクの遺骸が発見されました。

チムールは中国への遠征の途中に急死したため、ここグリ・エミールに埋葬されました。グリ・エミール廟には、ほかにも3人のチムールの子孫の墓があります。チムール一族の墓は美しく壮麗なドームの中にあり、大理石の墓石で葬られていました。

チムールの墓のあるグル・エミール廟の墓。遺体はこの墓石の下に埋められ、頭をメッカの方向に傾けて安置される。頭がメッカの方向ではない。

グル・エミール廟。


ソ連支配の時代には、ここを倉庫にしてクルアーンを読めないようにしたといいます。

サマルカンドは14世紀に再建され、チムールの新しい帝国のシンボルとしました。チムールはサマルカンドを首都とし、大規模な建設事業を開始しました。巨大な入り口、高く聳(そび)える青いドーム、洗練されたマジョリカ風の装飾などの新しい建築構造は、中央アジアだけでなく中央ユーラシアの首都としての威容を誇っていました。

| シルクロード | 04:34 | comments(0) | - |
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