シルクロード日誌

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内モンゴル物語りーグンサンノブル王(貢王)の近代化志向とその挫折
 これから、引き続き内モンゴルの様ざまな歴史や群像を『内モンゴルを知る60章』その他の資料を参考にしながら書いていきます。しかし、ここで書くことは必ずしも私の考えに合致しているわけではありません。うなずけるところもあるし、うなずけないところもあります。文末に私見を添えたいと思いますが、私自身が内モンゴル初心者です。考えの至らないところもありますので、そこは皆さんとそれぞれで考えていくことにしましょう。
 
 グンサンノブル王(貢王)は清末期の政治家でモンゴル族の王族の一員でした。号は夔庵(きあん)。清末民初には内モンゴルの教育・産業振興に大きな貢献をなした人だといわれています。そしてチンギス・ハーンの血統ということは、それは永遠に貴族としての称号と名誉にまもられていたことが約束されているといえましたが、貢王はその功臣ジェルメの末裔だといわれています。グンサンノブル王(貢王)は、日本でもよく知られている川島芳子(本名・金壁輝)の実父にあたる愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき。粛親王)の妹善坤(ぜんこん)の夫でもあります。

グンサンノブル王(貢王)
 
 余談ですが、川島芳子の姪を母に持つ女性と、私は北京の大学で同級生でした。たどたどしい日本語で話しかけてきたことを覚えています。満州族王族の末裔であった彼女は、文革では「反動派、日本のスパイ」とありもせぬ濡れ衣を着せられ、筆舌に尽くしがたい苦難を背負って生きて来て、現在は日本に滞在しています。

満洲国陸軍大将の軍服を着用した芳子

川島芳子が日本に留学するまで過ごした旅順の邸宅
(粛親王府跡)

昭和初期の川島芳子

川島浪速

川島浪速(左)と粛親王
 
 貢王はモンゴル語・漢語・満州語・チベット語の各言語や書、詩にも通じていました。1899年、ハラチンの扎薩克郡王を世襲し、ゾスト盟盟務幇弁となり、1903年には大阪で開かれた内国勧業博覧会を見学するために来日。その際に下田歌子と会い、女子教育の重要性を認識し、ハラチン旗に内モンゴルで最初の近代女子学校である毓正(いくせい)女子学堂の建設を決意し、日本人の女性教師を招聘しました。その後、毓正女学堂には河原操子、鳥居きみ子(鳥居龍蔵夫人)などの日本人教師が赴任し、近代女子教育を行いました。

下田歌子

 貢王は上記の毓正女子学堂(1902年)の他、モンゴル族にとって初めてとなる官立学校の崇正学堂(1903年)、図書館(1902年)、1903年には軍事学校の守正武学堂を創立しています。さらに留学生の派遣、内モンゴル初の新聞である『嬰報(えいほう)』の創刊、郵便・電報・桑畑・近代工場の整備などにも取り組んだとあります。1911年10月の辛亥革命勃発に際しては、清朝擁護の立場をとって皇帝退位に反対し、川島浪速らの斡旋で横浜正金銀行から借款を得て武器の購入と挙兵準備を行いましたが、皇帝退位と袁世凱による北京政府の成立を見ると、北京政府擁護の立場に転じました。

1912年3月10日、宣統帝の退位とともに袁世凱は中華民国臨時大総統に就任した

上・下いずれも袁世凱

袁世凱(清国内閣総理大臣時代)

 “機を見るに敏”と言うところでしょうが、貴族の出身ですし、当時の事情では世界の動きなどから自分の身の処し方などを判断することは大変困難だったと思えます。このような毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばするところがグンサンノブル王(貢王)らしいのではないかと思えます。これがのちの評価で「蒙奸」と呼ばれるもととなりました。しかし、この「蒙奸」というレッテルも現在の中国共産党の評価ですから、悩ましいところです。

 1912年3月には、ボグド・ハーン政権に帰服しますが、のちにこれに失望して同年9月には北京政府の蒙蔵事務局総裁に任ぜられ、10月には共和制擁護の功績により、郡王から親王に加封されたとあります。翌年12月には政治会議議員となり、1914年5月、蒙蔵事務局を改組した蒙蔵院で引き続き総裁をつとめます。このとき、正白旗満州都統も兼ねています。1922年4月、いったん蒙蔵院総裁を退いたのですが、翌年の1923年2月には復帰し、以後、北京政府崩壊まで同職にあったとあります。また1925年には、善後会議会員、国憲起草委員会委員を歴任し、後にゾスト盟盟長となっています。1931年1月13日、北平特別市(のちの北京市)の官邸で死去。

 話は前後しますが、1840年のアヘン戦争での清朝政府の大敗北以来、衰退の道をたどる一途だった清朝は内憂外患に陥っていました。それは1900年、イギリス、フランスなど八カ国の連合軍が義和団の乱に乗じて北京を占領したことから始まるようです。その結果、清朝は列強と北京議定書を交わし、膨大な賠償金、北京駐在権などを与えることになりました。

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵


道光帝

林則徐

 1901年1月、西安に亡命していた慈禧(じき)太后が「変法上論」を公表して新政が始まりました。それから1911年の辛亥革命勃発と清朝の崩壊までの10年間、清朝政府は政治、経済などあらゆる分野において全国的な改革を実施していくことになりました。貢王が新政を提唱し、学を興し、郵便を開通させるなどの改革も主として、このような大きな背景のもとに実施されたものです。

 あ〜〜、だいぶ堅苦しい文章になっています。申し訳ありません。漢語を使うと、黙っていても難しい感じになります。これからはできるだけ平易に書きますので・・・・・
 
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