シルクロード日誌

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内モンゴル物語りー2 グンサンノブル王(貢王)の近代化志向とその挫折
 1901年、貢王は中国本土から軍事教官を招聘し、ハラチン右旗の青年たちを募集して新式の軍隊を編成しました。1902年には王府において「崇正学堂」を創設。日本の政治・経済・文化・教育などの現状を視察し、福島安正の紹介で当時、陸軍大尉であった伊藤柳太郎を崇正学堂の教官として招聘する約束が結ばれました。1909年、貢王は陸軍貴冑(きちゅう)学堂に入り、北京に駐在するようになりますが、1910年、貢王は資政院議員に指名され、清朝が崩壊するまでモンゴル王族の有力者の一人として清末の政治舞台で活躍しました。

川島浪速と同郷・松本市出身の陸軍大将 福島 安正
 
 しかし、このような認識はあくまで貢王のような数少ない王族たちの個人的願望であって、実現する可能性をほとんど欠いていました。清朝政府はモンゴルに対する新政に関し、短期的な経済利益を齎(もたら)せる移民開墾以外の事業に関心はなかったのですから。
 
 貢王の管轄下にあったハラチン右翼旗の状況からみても、清朝半ばから内地の漢族移民の増加により、モンゴル人が農耕下されていくなか、当地のモンゴル人社会もその文化、習慣、経済生活などいろいろな面で伝統的遊牧を営むモンゴル人地域とだいぶ違っていました。しかも、清朝以来内モンゴルが相互従属関係のない数多くの旗に分けられていた状態のなか、貢王の影響力はモンゴル全域に及ぶことは不可能に近かったのです。
 
 その上、20世紀はじめの列強による国際紛争のなか、東部内モンゴルを含む中国東北部での特殊権益を争った日露戦争で日本側が勝利し、日露の間で何回かにわたって密約が締結され、内モンゴル東部地域が日本の勢力範囲に入っていったからです。 このように、モンゴル全体の運命も大国によって翻弄されていく厳しい状況のなか、貢王の行った改革も教育の面でより多くの人材を養成した成績を除けば、別の改革措置は財政等と色々な困難に陥り、清朝の崩壊によって、失敗に終わったのです。

辛亥革命 古代より続いた君主制が廃止され、アジアで初めてとなる
共和制国家である中華民国が樹立された


康有為  
康有為を中心とする改革派は、日本の明治維新を
モデルとして立憲君主制を維持しながら政治・
社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い、
1895年(光緒21年)、光緒帝の支持を獲得、
1898年(光緒25年)に戊戌変法が実行に移された。
しかし、急進的な改革は保守派の反発を招き、
この 改革はわずか103日で失敗、
改革派は海外亡命を余儀なくされた。

 
 辛亥革命のとき、外モンゴルは清朝から独立を果たしたのですが、内モンゴルは中華民国の支配下に残されていました。当時、貢王は日本人川島浪速(なにわ)らの計画した「第一次満蒙独立運動」にも関わっていましたが、それが失敗したのち、1912年9月に北京政府蒙蔵事務局総裁に任じられました。1914年5月、蒙蔵事務局を改組した蒙蔵院で引き続き総裁をつとめ、およそ16年間在任しました。

※辛亥革命期から日本が満州,蒙古を中国の主権を無視し,勢力圏とすることをはかった運動。軍部が中心となり,この地における日本の特殊権益を確保することを目的として行われた。 1912年、参謀本部は満州に清朝を復活させようとして満州独立運動を進め,また蒙古のカラチン族などを援助して独立の挙兵を計画した
 
 これを見ると、一貫して貢王が中華民国の要職についていたように見えるかもしれませんが、そもそも“民国政府の監視下に置かれていた”というのが歴史の真実により近いかもしれません。在任中、北京に蒙蔵学校を創設し、モンゴル族の人材養成に力を入れていたほか、正白旗満州都統、善後会議会員、国憲起草委員会委員などを歴任しました。1931年1月13日に病没。享年59歳でした
 
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