シルクロード日誌

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デ・ワン(徳王)ー2  独立の夢と挫折
 「内モンゴル物語」は、1週間のご無沙汰でした。世の中の動きや身のまわりの動きと無関係にモノを書いたり、生活することはなかなかできないものです。
 この間にも色々ありました。毎月の例会の「シルクロード講座」。
 これには8月のキルギスツアーの参加者の3分の2の10名もの仲間が参加してくださいました。一人ひとりに電話でご案内しました。


12月12日に開いた「シルクロード講座」

 これに先立つ午前には、来月1月におこなう「日本シルクロード文化センター」の総会に向けての準備の会議の準備。
 
 翌日の日曜日は、前日欠席したスポーツ連盟の全国理事会。ここでは10年前まで私が在職していた山岳連盟が、スポーツ連盟から脱退したいという問題が論議され、口角泡を飛ばして(古い言い方ですね)議論しました。久しぶりに、しゃべりつかれました。
 今週に入ってからも毎日でかけなければならない用事が続いています。きょうからは2日続いての忘年会。
さぁ〜、それでは・・・・・・
 
        デ・ワン(徳王)―2
 1919年、18歳になったデ・ワンは、ジャサグとして正式に旗の政務をつとめはじめた。同年2月、シベリアのナタで、ブリヤート人、ネイチ ・トイン・ホトクトを含む内モンゴル人が参加し、すべてのモンゴル人を統一したモンゴル国の樹立を目標とする会議が行われ、いわゆる「大モンゴル国建設運動」が繰り広げられました。

デ・ワン(徳王)
 
  この運動は短い期間で終わってしまいましたが、運動が及ぼした影響は大きなものがありました。他方、1921年、外モンゴルでは人民政府が樹立され、1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。内モンゴル人民族主義者は自立の道を探求すると同時に、外モンゴルとの一体化を熱烈に望んでいたことはいうまでもありません。

  コミンテルン、モンゴル人民革命党の指導の下に組織された内モンゴル人民革命党は連邦制の「国家」(内モンゴル自治共和国、1925年)や、内モンゴル革命人民共和国(1928年)を樹立する主張を提出し、全モンゴル人の統一と独立を構想していました。同党は1927年に分裂しましたが、その指導者サインバヤル、アルタンオチル、マンダルト、モロンガーらは、のちにいずれも徳王政権に加わりました。
 
 中華民国政府の内モンゴルでの省設置や移民入植の推進などによって、モンゴル人の利益や地位、生存する環境などが大きく侵害されるなかで、また「満州国」の誕生からも刺激を受け、1930年代の初めに、デ・ワンが指導する内モンゴル自治運動がうまれました。その結果として1934年4月にウランチャブ盟のバト・ハールガ・イン・スム(百霊廟=びゃくれいびょう)でモンゴル地方自治政務委員会が組織されました。

モンゴル連合自治政府の成立大会

内モンゴル自治運動連合会の成立大会。
スターリンや毛沢東の 肖像が・・・

モンゴル地方自治政務委員会の王族たち
 
 これは満州国領に入っていない内モンゴル西部地域を統一する機構でしたが、モンゴル人の「政府」ではないため、デ・ワンはけっしてこれに満足していませんでした。同時に漢人の省と県も併存しており、モンゴル人の税負担、内モンゴルの分割状態は、実際上は何も変わらなかったからです。
 
 中国政府は公正を保障できず、内モンゴル人の要求した自治政府の成立を認めず、漢人地方官僚の言葉しか聞かなかったため、デ・ワンたちのモンゴル人民族主義者は独自の道を進むほかありませんでした。日本の大陸進出が必然になっていることを認識したデ・ワンは、日本の力に頼る道を選びました。

デムチュクドンロブ(徳王・左)、李守信(中)及び日本軍軍人
 
 このことをどう見るか、ですね。
 ほとんどの日本人は「日本の侵略者の力に頼る売国的なやり方」とみるでしょう。私もこれまではそのような見方をしていました。それを別な見方で見たときには、まだ、中国共産党の影響力がどれほど及んでいたかは分かりませんが、デ・ワン(徳王)の位置からでは、目につく範囲の、あるいは、せめてまわりの内モンゴル分野だけでも何とかしたいという考え方から抜け出すのは困難だったろうと思えます。それが彼の最善の策であったろうし、それが彼の限界だったのだと思います。これは私の「台湾研究」から得た教訓です。

 
 1936年5月、デ・ワン(徳王)を最高指導者とするモンゴル軍政府がジャブサル(徳化市)で成立しました。デ・ワンはモンゴル人の統一した国家の樹立という志を持っており、同政府の「組織大綱」では、将来、モンゴルの独立国家の樹立を明言しています。
 
 日本軍の支援を得て、あわただしく組織されたモンゴル軍政府の軍隊は内モンゴル西部地域の中国国民党軍を攻撃しましたが惨敗に終わり、傳作義(ふさくぎ)は一夜にして「抗日の英雄」となっていました。
 盧溝橋事件のあと、態勢を立て直したモンゴル軍は再び中国国民党軍を攻撃し、1937年10
月にフフホトを占領し、中国政府軍は次第に内モンゴル西部地域から追い出されていきます。

 
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