シルクロード日誌

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内モンゴルでもっとも影響力を持った男ウランフ ―現代内モンゴルの創立者―
 私は北京でウランフと接する機会が何度かありました。人民大会堂での外国元首やスポーツのナショナルチームの歓迎晩さん会、あるいはメーデーと国慶節での天安門上での式典や、夜、行われる記念晩餐会などで何度か会ったことがあります。無論、挨拶を交わしたことはありませんが、握手は何度かありました。

 そして、66年の春頃には私がいつも出かけていた「前門飯店」で夕食の最中にトイレへ行ったとき、何人かの紅衛兵に腕をつかまれて入ってきたウランフとトイレで遭遇しました。その後知ったところでは、前門飯店に拘束されたまま、およそ2か月間にわたって、いわゆる造反派や紅衛兵による、無慈悲で仮借ない攻撃が連日続いていた最中だったようです。自殺するしかない状況で、実際、多くの幹部や教授・文化人らが自殺をしています。
 
 きょうからは『内モンゴルを知るための60章』(明石書店 ボルジギン・ブレインサイン編著)。
静岡大学教授の楊海英氏(内モンゴル生まれのモンゴル人、帰化したあとの日本名は大野旭(あきら)氏)、編著の『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(3)―打倒ウラーンフー(烏蘭夫)』を参考文献とします。
 わが「シルクロード講座」でもお話をしていただいたことがあり、その後、同書の贈呈がありました。発行は風響社。本の定価は22,000円。

 
 ウランフという名。日本人の方は一部を除いておそらく初めて見る名前でしょうから、きょうは、まず、ウランフの経歴から始めましょう。ここの部分は主としてウィキペディアを引用しました。
 
 1906年生まれ1988年北京で死去。モンゴル族。内モンゴル自治区において党と政府・軍の最高職を兼ね、中央の政治舞台において、周恩来を補佐する国民副総理、国家副主席を歴任。北京では「蒙古王」とも呼ばれたことがありました。軍の階級は上将。
 ウランフは内モンゴル自治区西部のトゥメト旗の農家出身。地元の小学校を出て、23年に北平(ベイピン、現在の北京)蒙蔵学校(モンゴル人とチベット人)へ入学。同年12月には中国社会主義青年団(現在の共産主義青年団)に参加。25年に中国共産党に入党。

 続いてモスクワ中山(ちゅうさん。孫文の別名)大学に留学し、帰国後、西蒙工作委員会書記などを歴任。日中戦争では日本軍に対して抵抗運動を指揮、
38年4月に中京綏遠工作委員会委員、翌月には国民革命軍新編第三師団政治部主任代理。
 41年4月、延安に行き、陝甘寧辺区政府民族事務委員会主任、延安民族学院教育長などを歴任。共産党内での少数民族問題を担当。その後、八路軍が支配していた張家口に移転して内モンゴル自治運動連合会を結成、中国共産党の内モンゴル支配の基礎を構築。

 さらに東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西モンゴル自治政府の東西モンゴル共産党工作委員会(1949年に中共中央内モンゴル分局に改称)書記に。 この頃に「赤い息子」を意味するウランフに改名。国共内戦期には、綏遠政府主席、中共晋察辺区中央局委員、中共内モンゴル工作委員会書記などを歴任。
 
その後、1953年には内モンゴル軍区と綏遠軍区が統合、新たに蒙綏軍区設置、同年8月29日にウランフが司令員兼政治委員に任命される。内蒙古軍区司令員(初代)兼政治委員、中共中央東北局委員を兼任、遼瀋戦役や北津戦役にも参加。
1949年の中華人民共和国建国後、内モンゴル自治政府は内モンゴル自治区となり、中央人民政府委員、中央民族事務委員会主任・党組織書記、華北行政委員会委員、中共中央華北局副書記など、内モンゴル大学や中央民族学院の初代学長も。
1952年7月5日に綏遠省人民政府主席に就任、綏遠省と内蒙古自治区の統合を進め、1953年にはたに蒙綏軍区が設置されると、8月29日にウランフが司令員兼政治委員。
 
※このように漢字の肩書や地域名などが次々に出てくると頭が痛くなりますね。    
 このあとから、彼の身辺が怪しくなってきます。文革前期には真っ先に批判の対象となりました。もう少し我慢してお読みください。

 
 1945年9月、政府機構が再編されると、9月29日にウランフは国務院副総理に任命。内モンゴル自治区党委員会第一書記、自治区人民委員会主席、内モンゴル軍区司令員兼政治委員、内モンゴル大学学長、党中央華北局第二書記、内モンゴル自治区政治協商会議主席などの職務も引き続き兼任。
 翌年9月、中国人民解放軍上将の階級と一級解放勲章を授与される。

 1956年9月の第8回党大会において中央委員に昇進し、同9月28日の第8期1中全会で中央政治局候補委員に。
 しかし、1966年に発動された文化大革命では内モンゴル人民革命党粛清事件に巻き込まれ、内モンゴル人民共和国で暫くの間代表を務めた経歴などから「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」と攻撃され、同年5月1日のメーデーに北京入りした際に逮捕・拘留されて失脚した。

 同年5月21日から7月27日、共産党華北局の前門飯店会議が開催され、ここでウランフは徹底的に批判・攻撃され、4回の「自己反省」を強制された。7月27日、華北局は「ウランフの誤った問題に関する報告」を提出し、8月16日にウランフは自治区党第一書記の職を解任されたのを始めとし、党・政府・軍のすべての職務を剥奪されて失脚した。周恩来の保護を受け、北京で軟禁生活を送ったが、ウランフはこの時期、名前を漢風の王 自力と変え、文革期の圧迫を凌ぐ。
 
 文革中の1973年、第10回党大会で中央委員に復帰。1975年1月、第4期全国人民代表大会常務副委員長に選出される。1977年5月には党中央統一戦線工作部部長に就任。同年8月の第11期1中全会において中央政治局委員に選出される。翌1978年、第5期全人代常務副委員長と第5期全国政治協商会議第一副主席に選出。

 1983年6月18日、第6期全人代第1回会議において中華人民共和国副主席に選出。1988年4月に退任後、第7期全人代常務副委員長に転出するが、その年の12月、北京で死去。
 
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