シルクロード日誌

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わが友・田部井淳子が死んだ!

 

2016年10月23日 野口 信彦

 

 夕べのニュースで田部井淳子さんの死を知った。

 ガンであることは知っていたが、衝撃であった。

 

 田部井淳子さんは「女子登攀クラブ」の一員として1975年、エベレストへ行き、雪崩事故の関係で登攀隊員になり登頂を成し遂げた。その「田部井淳子」は、一躍世界中から注目を浴びるようになった。

エベレスト登頂の瞬間の田部井淳子さん。

(女子登攀クラブ提供)

 

 その彼女がガンで亡くなった。77歳である。あと10年は生きていてほしかった。ガンであることを知ってはいたが、「死」とは無関係だと思い込んでいた。

 

 9月11日には尊敬していた加藤九祚さんがウズベキスタンの発掘作業先で大往生を遂げた。8月24日にタシケントの空港でお会いしたばかりだった。

 また先には、日本勤労者山岳連盟創立者の伊藤正一さんが死んだ。黒部の山賊とも仲良く、北アルプスの三俣山荘や水晶小屋を経営していた。政府の山小屋撤去命令に抗して、労山は長年、「守る会」を組織して戦った。伊藤正一さんは、イギリスの貴族から始まった近代登山が、日本では一部のエリート層だけのものであってはならないとして、「日本勤労者山岳会」を1960年に立ち上げた。

 

 次々と身近な人が、私たちと幽明境を異にしていく。たまらない気持ちである。

 

 私が田部井さんと初めて、親しくお付き合いするようになったのは1990年の「HATJ」(日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト)を立ち上げる2年くらい前の準備段階からであった

 毎週水曜日の夜、原宿の、いま、もっとも賑わっている小さな“なんとか通り”にあった神崎忠男氏(現会長)の自宅だった。そして私に姉のように接してくれていたのが、田部井淳子さんであった。気安く人なつこい田部井さんとはとても気が合った。

 

 私は日本勤労者山岳連盟=略称・労山を代表して準備会議に参加していた。この団体は私たち労山と日本山岳協会、日本山岳会、日本ヒマラヤ協会との山岳4団体でつくりあげることになっていたからである。無論、対等平等の満場一致制であった。

 

 当初、田部井さんは労山の団体名を誤解して「日本労働者山岳同盟」と呼んだ。まるで、山岳パルチザンかゲリラ組織のような印象があったのだろうか。「違うよ田部井さん、労山ができた当初は、国民の大部分は勤労者だからそういう名称になったんだよ」と説明したが、どこまで理解してくれたか疑問ではある。

 

 朝日の記事では、長野県の信州大学山岳部を出た近藤幸雄が、田部井さんに関する詳しい記事を多くの紙面を割いて書いてくれた。感謝したい。田部井さんのご主人も同じ大学だった。

きょう10月23日の朝日新聞

 

 日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラストの立ち上げは、田部井さんの母校、昭和女子大の人見絹江記念講堂で国際シンポジウムとして開いた。この国際シンポジウムの準備では、皇太子出席問題※でひと悶着があったが、エベレスト初登頂者のヒラリー、超人メスナー、仏・シャモニーの市長も務めたボニントンら華々しい顔ぶれの出席で大成功をおさめた。

 

※国際シンポジウムに日本山岳会の一部役員が、無断で“ヒラリーさんに会いたがっている皇太子さんに出席していただく”と発表したので問題にしたのである。私は「皇太子さんが出席することに反対なのではない。物事は満場一致で決めるという約束にもかかわらず、この会議に無断で進めたことが問題なのだ。皇太子さんが日本山岳会の一会員として参加するのは何ら問題がないが」と主張した。結局この主張が通ったが、日本山岳会など既存登山界にはそのような陰で動く勢力がまだ数多くいたのである。しかし、それに批判的な若い役員が存在しているのも事実である。

 

 ヒマラヤの自然保護だけでなく、日本でも実践しようと第1回清掃登山が丹沢で行われた。このときもずっと田部井さんと一緒だった。懐かしい思い出は、まだまだある。

 

 その後私は、1996年の夏、かねての念願であったチベットのカイラスへの山登りに行った。日本山岳会の根深誠氏らと一緒だった。だが、残念ながら、連日10回以上にも及ぶスタック(車が川にはまって身動きできなくなる状態)の連続で、食料と燃料が尽きて敗退した。四川省の成都から入った私たちの帰路はネパールだった。

 

チベットの聖なる場所に掲げられるタルチョ

シーシャ・パンマのベースキャンプ(5000メートル)で

1週間ほど停滞した

車がスタックすると、巡礼途中のチベットの人たちが、

氷河が解けた冷たい水の中に入って救助してくれる。

ヒューマニズムという精神で・・・

チベット高原を走ると、毎日毎日、このようなスタックが続く

座席に座っていて、おへそまで水が上がってくると、

屋根に脱出しなければならない

 

拙著『幻想のカイラス−不思議の国チベット・ランクル紀行』(東研出版、98年8月発行)に、以下の文言があった。

 ネパールと中国・チベットの国境である「ニエラム」で休憩をしていると、見たような女性登山者がいる。「田部井淳子さんじゃありませんか?」。怪訝(けげん)な顔をしていた彼女は、ややあってから「どなた様ですか?」、「野口ですよ!労山の野口」。「あ〜あ野口さん。日本でなかなか会えないのに、こんなところで会えるなんて。でも、チベット人みたいね、真っ黒になって」。私の顔が日焼けして真っ黒で見分けがつかなかったようだ。

 彼女はこれから登りに行くといっていたが、帰国後、登頂に成功したあいさつの絵ハガキが来た。文中から引用した。

 

 まだまだ思い出は尽きない。10月29日の講演の原稿書きやレジュメづくりなどで超多忙なのだが、きょうばかりは田部井淳子を悼むことを書かなければならないと感じた。無念である。

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