シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
<< 31 クチャ・アクス・カラシャハール地域 | main | ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―33 音楽の都クチャ >>
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―32  クマラジュー

クマーラジーヴァ(鳩摩羅什=クマラジュー)

 

クチャを語る上で西域渡来の名僧クマーラジーヴァのことを忘れることはできない。

11年8月9日  クチャのキジル千仏洞にまたやってきました。

この像が、クマーラジーヴァです。

 

 クチャ(亀茲)は、4世紀ごろから大乗仏教が花開いた西域諸国、西域南道中部、タリム盆地の北縁に位置しているオアシスの1つであり、十六国の時期、亀茲の有名な仏教大師、中国古代三大仏教経典翻訳家として世界に知られているクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の生まれた場所でもある。

 これがスバシ故城の本堂。象の頭部分に似ていませんか?

 

クマーラジーヴァの父クマーラヤーナはインドの小国の宰相でありながら、出家して西域の亀茲国にやって来た。そして亀茲国王に推されて国師となり、王の妹ジーヴァを妻にしてクマーラジーヴァが生まれた。クマーラジーヴァ(名前を意訳すると「童寿」となる)は7歳で出家、9歳で北インドに留学して小乗仏教を学び、その後、カシュガルでは王子スーリヤソーマについて大乗仏教を究めて、サンスクリットの法華経を授けられた。そして、中国への布教を母から託されるようになる。

おそらく玄奘三蔵も、この道を通ったことでしょう

 

その頃、中国では前秦の符堅( ふけん ) (338〜385年)が力をつけ始めていた。仏教に篤い信仰心を持つ氐(てい)族の符堅は、西域にクマーラジーヴァという高僧がいることを聞きつける。そこで、西域の征圧に向かわせた将軍の呂光に、クマーラジーヴァを連れて来ることも併せて命じていた。しかし、呂光が西域を平定し、クマーラジーヴァを伴って帰国する段になって、中国内部で政変が起こり、前秦そのものが滅亡してしまった。仕方なく自立した呂光の後涼に留まっていたクマーラジーヴァであったが、ようやく後秦の姚興()(ようこう 366〜416年)に招かれて長安の地へと辿りついた。

 後漢時代の烽火台

 

401年、後秦王姚興は後涼を討ち、クマーラジーヴァを迎えて国師とした。クマーラジーヴァは本格的に仏典の翻訳と構築に取り組んだ。訳した経典は、『中論』『百論』『十二門』『大智土度論』『法華経』『阿弥陀経』『唯摩経』『梵網経』と多岐にわたり、その数35部297巻との説もあり、中国仏教の中で非常に大きな役割を果たすこととなった。中国への布教という大きな目標を持った彼は、そのために時の権力者であった符堅・呂光・姚興らに巧みに接近するという面も持っていた。そのためには仏教僧侶のタブーである妻帯を迫られ、妓女をあてがわれても断らなかったという。別の説では、呂光がクチャ王の娘を無理強いして娶らせたという説もあるが、ともあれ、このことは彼の最大の汚点となってしまった。


しかし、それでもなお彼が中国仏教の発展に与えた影響は、それを補って余りあるものであったことは間違いない。入寂(にゅうじゃく)()し、荼毘( だび ) に付されたその身には、舌だけが燃え残っていたという。布教に生きた彼の執念を感じる逸話である。

クチャの本堂には僧が5000人もいたという

 

私が担当している新聞社の講座(2005年当時)にもクチャのクマーラジーヴァ・ファンが多い。おそらくNHKテレビの「新シルクロード」放映の際のクマーラジーヴァの(ヤラセではあったが)歩く姿を見て、ロマンを感じたのだろう。ある漫画家の女性は、ツアーに便乗して06年10月、クチャまで行って壁画を描き、挙句の果てにクチャにアパートを借りて住み込見たいと言い出した。将来、壁画から漫画を描いて個展を開きたいといっている。わたしと同じような、無茶で向こう見ずなDNAを引き継いでいるようで楽しみである。

| シルクロードの光と影 | 06:13 | comments(0) | - |
コメント
コメントする









CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
PROFILE