シルクロード日誌

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ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―37  トルファン・ハミ地域の歴史

トルファン・ハミ地域の歴史

 

 東部天山山脈南麓に位置するオアシスであるトルファン・ハミ地域は、綿花、葡萄や穀物を産する地味豊饒な土地である。10世紀ころから名前が出るようになったこの地は、天山山脈南北および中央アジアから河西回廊に通じる道として遊牧民族と漢民族王朝との争奪の地となっていた。

以前、わたしの定宿だったホテルの舞姫

 

 この地域は、さまざまな文化の影響を受け、西域独自の様式が生まれた場所であり、しかも、亀茲(クチャ)国と同時に仏教芸術が栄えたシルクロードの要衝として、歴史上きわめて重要な役割を果たしてきた。

 

 2世紀ころ、インドからホータンに伝わって来た仏教文化は、タクラマカン沙漠を越え、6世紀ころにはトルファン地域に広がって、世界に注目された豊かな仏教美術・仏教文化を登場させた。

 

 この地ははじめ、車師(姑師)人の拠点となっていたようで、車師前国の王の朝廷がトルファン西方の交河城(ヤール・ホト)に置かれていた。彼らは天山北部の遊牧民であったが、その後、コーカソイド種の特徴を有し、その文化にはスキタイ・サカ(紀元前8世紀頃に現われた騎馬遊牧民)以前に存在していたといわれるサルマタイ系統が入っていることが明らかになったという。

このかわいらしい少女は、上の写真の舞姫の娘さん。

拙著『シルクロード万華鏡ーそれぞれのグレートジャーニー』の

表紙に使わせていただいた。

お母さんの踊りを一生懸命見ている娘の心が分かる写真だった。

いまから7年前くらいだったが、どのように成長しているか・・・・

 

 モンゴル高原に匈奴が現れると、その支配を受けたが、これに対して漢は軍を派遣して匈奴と争い、併せてトルファン東方の高昌塁に駐屯した。これを契機として魏晋南北朝期には車師人と漢人とが東西に対立したが、5世紀中ごろには車師国は高昌城に拠点を置いていた沮渠氏高昌によって滅ぼされ、トルファンが統一された。

 

 やがて6世紀はじめには、麹氏高昌国が成立し、640年に唐によって滅ぼされるまで、この地を統一した。その後、9世紀にはウイグルがモンゴル高原でのキルギスとの戦いに敗れて降ってきて、タリム盆地のトルコ系民族化が本格的となり、トルファン盆地は西ウイグル王国の領地となり、高昌城は冬の都(夏の都はビシュバリク)となる。

 

 13世紀に初頭にモンゴルが覇権を握ると西ウイグル王国はすすんで降ってチンギス一族に準じた。

 

 14世紀以降はモンゴルのチャガタイ・ウルスの支配下となり、16世紀初頭には、東トルキスタンにおいて最後までイスラームに抵抗し仏教を堅持していた。しかし、西域カシュガルやホータンにイスラームが入ってきてから、実に400年間にわたる熾烈な争いの末に西域全域が全民宗教となって、この地を統治した。

彼女は親友スルさんの会社の部下。ガイド経験絶無なのでヌルさんから指南役をお願いされた。、

蘭州から車でトルファン経由ウルムチまでの旅のガイドを私が指南させられたのである。しかも無償で!(冗談)

このとき27歳くらいだが、無邪気で可愛い娘だった。日本留学の経験がある。

※きょうはイメージ写真としました。明日からの写真にはご期待を!

 

 古都トルファンは、かつてはイディークトといわれ、ウイグル高昌国の中心地とされている。発音しにくいイディークトという意味は、前半は「偉大な・・・」になり、後半のクトは幸福を表わす。それ以上は表現できない(筆者注)。

トルファンからは19世紀末以来、都城・古墓・古墳・石窟遺跡などから、多くの出土文書・文物が発見されており、敦煌と並んで東洋学研究の貴重な資料の宝庫となっている。

 (この項、『シルクロードを知る事典』長澤和俊編 東京堂出版刊より引用)

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