シルクロード日誌

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朝鮮通信使ものがたり−5 「通信」とは、「信(よしみ)を通わす」

秀吉が16万もの大軍で朝鮮に出兵した際、徳川家康は肥前(今の熊本県)の名護屋城に出陣しましたが、兵を朝鮮には送りませんでした。そして政権を握ると、東アジアの平和なくして日本の平和はないと考え、朝鮮との国交回復に努力しました。その結果1607年、朝鮮国王から徳川将軍への使節が派遣されました。それが「朝鮮通信使」でした。

『九鬼大隅守舩柵之図』, 真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

 

後述しますが、秀吉の頃、世界最強の帝国主義国スペインの世界戦略がありました。中南米のインカ帝国をわずかな兵士で支配しました。そして次に狙ったのが、中国の明の支配です。そのためには強国日本の戦闘手段である武士が必要でした。その日本を利用して明を支配し、そののちに日本を支配しようとする戦略でした。

 

歴史に“もし”はないといわれますが、秀吉が朝鮮出兵を行わなければ、スペインは当然のことながら、明を植民地として、のちに朝鮮と日本をも狙ったことでしょう。

スペイン王フェリペ2世 1580年頃、

 

結果的に日本は朝鮮から撤退しました。

その後のスペインは、無敵艦隊の敗北などでイギリスやオランダなど新興の帝国主義国に押されて国力を低下させ、もうアジアにかまっていられなくなったのです。

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』

スペイン北西部フェロル港を出港する無敵艦隊

 

スペインの脅威が去り、朝鮮を手に入れる必要がなくなったようです。

わたしたちは、スペインという世界最強の大帝国に対して、これに臣従しなかった秀吉の気概を評価しても良いのではないでしょうか。

 

さらに、川越で入手した各種資料には“徳川家康は平和を求めた”とありますが、これには歴史の検証が必要だろうと思います。

ただし「鎖国政策」を採ったといっても、朝鮮や一部ヨーロッパとは長崎の出島を通しての交易があったので、教科書通りに受け止められないことは事実でしょう。

 

通信使は江戸時代に12回、毎回400500名の大使節団が来日し、国家間の外交にとどまらず、学問・芸術を通じた豊かな文化交流が実現しました。

通信使が通る沿道では、行列を一目見ようと人垣ができ、宿舎には文人たちが交流を求めて押しかけたといわれます。隣国との友好的な交流が200年近くも継続した歴史は世界的にも稀(まれ)だと言われています。

| 古代朝鮮の歴史 | 10:49 | comments(0) | - |
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