シルクロード日誌

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40年ぶりのキューバに行ってきました 

知っているようであまり知らないキューバを少しだけ勉強しましょう。

キューバ共和国。カリブ海の西にあるこの国は「タイノ族」という先住民の言葉である「クバナカン」が由来だといわれている。

先住民はこのタイノ族やシボネイ族とカリブ族がいたが、スペインの侵略によって絶滅させられた。帝国主義侵略者の本質は、いかに甘い言葉を吐こうともその本質は変わらない。

 

少々長くなるが、私が 2009年に南米ペルーにいって執筆した小論文の一部を抜粋してご紹介したい。キューバにつながる当時のスペインの侵略のありさまが良く理解できると思う。

 

スペインのペルー侵略とその終焉まで

 

1532年11月16日、征服者=コンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、わずか160名の部隊でインカ帝国を征服した。それは「南米に黄金帝国がある」といううわさを聞いての侵略行為であり、ピサロ一行は黄金を略奪すべく、インカ皇帝アタワルパを計略によって捕らえ、多くの先住民を虐殺している。

虐殺や奴隷として「売却」し、ヨーロッパから持ち込んだ伝染病などによって1千万人の人口が70万人に激減したことも事実であろう。いかにすさまじい略奪と強制労働があったかがこれだけでも理解できる。

クスコの皇帝ワスカル。

 

では当時のヨーロッパ・スペインの状況をみてみよう。スペインやポルトガルが領土を持っていたイベリア半島は、8世紀以降、イスラム勢力による進出を受けていた。そのためヨーロッパ諸国は、半島を再びキリスト教国家に取り戻そうと、「再征服=レコンキスタ」と呼ばれる運動を展開する。そしてスペインは1492年、イスラム教勢力最後の砦であった半島南部の都市グラナダを攻略し、領土回復を実現する。だが彼らの仕事はそれだけでは終わらなかった。彼らのレコンキスタは、その後、スペイン王室がスポンサーとなったコロンブスの探検隊が発見した新大陸の征服事業を、レコンキスタの延長戦と位置づけ、未開の大陸をキリスト教化するという大目標を掲げたのである。

 

キリスト教化するという大目標の前提は、現生人類発生以前にあったクロマニヨン人の子孫は白色人種であり、あの文明のない劣ったネアンデルタール人の子孫は黒人や黄色人種である。だから彼らに文明を与えるのが白人の役割なのだという「大義名分」をもって、奴隷として使役に酷使し、虐殺してもかまわないという「白人優先思想」に陥っているのであった。残念ながらその意識は、21世紀の現在に至っても濃厚に残っているのである。

第9代インカパチャクテク。

 

スペインは当初、中米の島嶼で砂金などを採掘していたが、先住民が彼らのもたらした伝染病や過酷な労働で人口が激減したために、カリブの島々を徹底的に蹂躙し、荒廃させてしまう。だが、1511年に征服したキューバ島の西岸により広大な陸地があることに気づいたコンキスタドールたちは新天地ユカタン半島に上陸し、新大陸アメリカ本土に侵略と略奪の手を伸ばしたのである。その中米とペルーへの侵略者たちが南北アメリカ大陸の最初の侵略者だったのである。

 

あらんかぎりの略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの活動が飽和状態に陥ったころ、スペイン本国では、彼らの活動はレコンキスタ本来の思想と違うという論議が高まった。1542年、国王カルロス1世は「インディアス新法」を、そして1573年には同2世によって「発見入植新法令」という法律が制定されるとスペイン人による新大陸での活動は「征服」ではなく、植民地としての「支配」とみなされ、コンキスタドールの時代は完全に終わりを告げたのである。

しかし、これは支配をする側の論理である。征服と支配とにどれほどの違いがあるのか。征服のやり方を変えただけではないのか。

 

その後のペルーとスペインにはそれなりの大きな出来事が頻発する。が、それを書くのは私のテーマではないので、逐条的に書き連ねるだけにとどめる。

1565年には、スペインのアジア進出以降、中国を征服すべしという構想が持ち上がった。67年には4千から6千の兵力を派遣しての征服プロジェクトを提起している。そして1571年にはスペインはフィリピンを征服し、植民都市マニラの建設に着手したのである。

最後のインカ、トゥパク・アマルー。

1572年の彼の処刑によってインカ帝国は完全に滅亡したが、

現在もペルー人の精神の中に自らの歴史として残り続けている。

 

 

1573年には、アジアとアメリカの富の交換が魅力的と移ったため、中国文明が生み出した712巻の絹織物、22,300の陶磁器がはじめてヌエバ・エスパーニャにもたらされ、メキシコ市のスペイン婦人の度肝を抜いたという。

1580年にはポルトガルを併合。同時にポルトガル領インドをも手に入れた。これによって、メキシコのアカプルコから東南アジアを結ぶ太平洋航路を横断する道が拓かれると、フィリピン諸島を媒介として日本も含めたアジア世界が射程に入ったのである。さらにポルトガルを併合したことによって、ポルトガル領アジア世界も包摂され、まさに世界帝国という空間が広がったのである。しかし、1588年、スペインは虎の子の無敵艦隊をイギリス艦隊との海戦によって失い、制海権を失った。

 

1600年代に入ると、インドにおいてオランダ、イギリスなどが勃興し、北米ではイギリスが圧倒的な力を示し、スペイン本土においては宗教による争いがおき、ペルーにおいては反乱・大反乱が頻発するようになった。

面白いことにペルーの首都リマにおける人口調査では、中国人38名、日本人20名が居住していることが確認されたが、名前は洗礼名しか残っておらず、日本の文化的痕跡は何も残っていなかったという。

さらにポルトガルの独立反乱、オランダの独立承認、1700年代に入るとスペイン王位継承戦争が勃発し、その結果、スペイン王朝はプスブルグ家からブルボン家へと交代した。

 

77年にはアメリカ独立戦争が起き、80年にはアンデスの大反乱が始まり、89年にはフランス革命が勃発、1808年にはナポレオンによってスペイン国王父子が退位させられるという事件も起き、アメリカ合衆国はスペインからフロリダを購入、そして1821年にはペルー・ボリビア連合軍による独立戦争によってペルーが独立を宣言するに至ったのである。

北米の研究者ハイラム・ビンガムがユカイの谷のはるか下流にマチュピチュを発見するのは20世紀になった1911年のことであり、ここではナスカの地上絵なども含めてペルーの世界遺産の紹介などは割愛する。

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