シルクロード日誌

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中国共産党の「民族政策」とはなにか

 昨日の続きです。

イスラムの「ラマダン」の日。富めるものが貧者を救うという考えで、日没後は食事がふるまわれます。

ここはカシュガルのエイティガル寺院の横道の小さな広場。

「一緒に食べて行けよ」の声がかかります。

今はこんな光景も見ることができません。

 

 政府にとって少数民族を拘留する理由はいくらでも創りあげることができます。

 その理由の第一は、「少数民族」だということです。

 政府にすれば、少数民族はそもそも今の政府に忠実ではないから、という理由です。

“少数民族は、そもそも漢民族の中国共産党と政府を信頼していない”からということが、中国側の“気持ち”です。

 

  なぜ、そのような感情が表れるのでしょうか。少し長くなりますが、中国が、なぜ今、このような残虐で激しい少数民族弾圧を加えているのでしょうか。中国共産党の民族政策の変遷と辺境諸民族に関して探ってみましょう。

 10数年前、『季刊中国』に請われて執筆した「中国共産党の民族政策の変遷と辺境諸民族」をダイジェスト風に切り取ってご紹介していきます。

 

 一言で言えば、中国共産党の民族政策は、党のそのときの状況に合わせて帰られてきたということです。

中国共産党は、その辺疆諸民族の統治のために、結党後間もなく「民族の自決権」と「連邦国家構想」という民族政策をかかげました。

 主な理由は、ソビエト連邦(当時)やコミンテルンの政策を教条的に採用したためと、野党としての理念目標。宣伝スローガンだった側面がありました。

 

 しかし、中国共産党の民族政策は、革命闘争の過程で幾度も変更・変遷を遂げました。中国共産党は1949年に、権力を獲得したのち、すなわち新中国建国と前後して「民族区域自治政策」を打ち出し、なおかつ「民族識別」工作をも実行し、その後、分離・独立の運動が激しくなった現在でもいささかの動揺もみせません。その「民族区域自治政策」のモデルは内モンゴルの自治だった。

 

 一方、1933年に続いて抗日戦争末期の混乱期に1944年の新疆で起きた「東トルキスタン共和国政府」の樹立は、新疆諸民族と統治側の国民党政府はもとより、中国共産党にとっても驚天動地の出来事でした。1年半あまりで夭折・崩壊したこの「民族革命政府」の理念は、21世紀に入った今日においても、その精神と理念が辺疆諸民族に継承され、こんにちにおける分離独立運動として受け継がれています。

 

 ここでは、中国共産党における民族政策の変遷と、その政策がなぜ、最終的に「民族区域自治」政策に移行し、「民族識別」工作を行ったのか、そして「東トルキスタン共和国政府」が、どのような過程で樹立され、崩壊に至ったのかについてふれてみたいと思います。

そのエイティガル寺院も、今は軍警の休憩所がつくられています。

自転車で通りかかったウイグル人が、軍警に呼び止められました。

私服も含めて10人くらいが取り囲んでいます。

このあとウイグル人たちが、血相を変えて集まってきて、一触即発の状況。

私たち外国人は、このようなところにいてはまずいことになります。

すぐに移動しました。

 

※今日の写真は私の撮影したものです。

| シルクロードの光と影 | 10:18 | comments(0) | - |
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