シルクロード日誌

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 ―東トルキスタン共和国の成立と崩壊― 9月1日 野口 信彦

この原稿は、2009年から2010年にかけて日中友好協会の『研究誌 季刊中国』に「シルクロード―中国・西域の歴史と少数民族」として掲載された原稿です。当時と今では、新疆の状況は大いに変わっていますが、ここではあえて、原稿に若干の表現上の修正を加えただけでお送りします。

   

 ・・・ここでは、チベットと同様に現代中国の民族問題の桎梏となっている、新疆ウイグル自治区における分離独立運動の思想的・理念的原点として1944年の「東トルキスタン共和国」の成立と崩壊の過程を、日本の中国侵略とソ連の新疆進出との関連も含めて、王柯の名著『東トルキスタン共和国の研究』(東京大学出版会刊)にもとづいて伝えていきたい。

 

ほとんどの新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」という。中国当局はその言い方に神経をとがらし、その言葉を口にしたものを逮捕する。

トルキスタンとは、同じトルコ語系で共通の言語・文化・宗教・歴史を有している国・地域・民族のことをいう。具体的には、中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス3カ国を西トルキスタンといい、中国の西域・新疆ウイグル自治区を東トルキスタンという。

1933年、南疆のカシュガルを中心に起きた「東トルキスタン・イスラム共和国」革命の時、はじめて「東トルキスタン」という地名が使われてウイグル語に浸透していった。

 

一、東トルキスタン共和国前史

 

1.短命だった1933年の「東トルキスタン・イスラーム共和国」

 

1933年11月12日、新疆南部のカシュガルにおいて東トルキスタン民族独立運動の幕開けとなった象徴的な出来事が「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立だった。

東トルキスタンの諸民族が中国からの分離独立を志向している主な目標は、新疆におけるムスリムの民族国家の建設であり、その最初の現れが「東トルキスタン・イスラーム共和国」の成立だったのである。

この運動の端緒は、31年3月の「ハミ蜂起」だった。蜂起の原因は当時の新疆省主席の金樹仁による権力の拡大を狙った「改土帰留」だった。

 

「改土帰留」とは、かつて清朝に任命されたハミ地方(ウイグル語でコムル)のウイグル人の王を廃止し、王府に属する農民の特権を奪ったことによる。これによって王府の農民たちはそれまでの特権を喪失した。

一方、ウイグル民族の下層農民にとっては、駐屯軍による略奪・圧迫や漢人入植者の増加などを原因とする極端な生活環境の悪化をもたらしたことなど、二つの原因がウイグル人の蜂起をうながしたのである。

1933年から1942年10月まで新疆の盛世才政権が公式に掲げた旗

 

 

この共和国は宗教色があまりにも強く、共和国指導部内の対立などを原因として、わずか半年で崩壊した。

この革命の失敗の原因は、共和国大統領のホジャ・ニヤズが新疆省政府と妥協し、総理のサウド・ダームッラと司法部長を拘禁して政府に引き渡したことであった。この共和国が事実上崩壊したのは、政府軍がまだカシュガルに到着する前のことであった。

 

 その11年後におきた第二次民族独立運動は、11年前の共和国より規模が大きく、期間も長く、新疆全域はもとより中国内外に与えた影響はきわめて大きかった。

政府首脳 国章の前に座る, 1933年

 

 1933年4月12日に新疆省の都ウルムチで政変が起こり、盛世才が新疆の最高指導者になった。盛世才は「反帝、親ソ、民族平等、清廉、和平、建設」の六大政策をかかげ、当初は進歩的な政策をとった。この中で、反帝・親ソが鮮明なイデオロギー色をおびているのにたいして、ほかの政策はきわめて一般的なスローガンになっていた。

盛世才(1892~1970年)

 

1930年代はちょうど中国が日本帝国主義の侵略を受けている時期であったため、「反帝」は反日と同義語であった。

 

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