シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
<<  ―東トルキスタン共和国の成立と崩壊― 9月1日 野口 信彦 | main | ―東トルキスタン共和国の成立と崩壊― >>
―東トルキスタン共和国の成立と崩壊―

2.戦前、ソ連と日本が重視した新疆

 

 日本からはるかに離れている新疆で、なぜ反帝=反日だったのか。

 外務省の資料によると、日本が新疆に最初に目をつけたのは、明治時代後期であった。この時期、日本から新疆に入ったのは、日本のロシア駐在公使・西徳二郎、大谷光瑞・橘瑞超が率いる大谷探検隊、上海東亜書院二期生・波多野養作・林出賢次郎・桜井好幸、参謀本部の将校・日野強(ひの つとむ)と上原多市であった。

 

大谷探検隊は多少、仏教の普及という文化的な目的を有していたが、そのほかはすべて軍事戦略上の情報収集が目的であり、いわゆる軍事スパイであった。なお、“大谷探検隊はスパイとは無縁であった”との指摘が一部にあるが、大谷光瑞自身が皇室(皇后)の縁戚関係にある多額納税者の貴族院議員だったことから、参謀本部の軍事的な情報収集と全く無縁であるとはいえない。

大谷光瑞

中国・内モンゴルを行く大谷探検隊のキャラバン

 

 情報収集の主な目的は、ソ連勢力の新疆への拡張にたいする内偵であった。ロシアは新疆をその勢力範囲に入れて、さらに東へ進めば満蒙で日本勢力と直接、接触・衝突することが不可避になり、満蒙における日本の「特殊権益」と「特殊地位」が脅かされることは間違いない状況にあった。その懸念が、日本が新疆におけるロシア勢力の進出と発展に神経をとがらす原因だった。

 

 昭和期に入ってから軍国主義体制を強めた日本政府は、「満蒙は、日本の生命線である」とし、軍の一部には、新疆を日本の勢力範囲に収めようとする企図もあった。

 

 日本にとって、ソ連勢力が新疆を含む中国の西北部に入ってくることは、たんに満蒙へ脅威を与えるだけではなかった。それはまた、もし日中間の全面戦争が勃発した場合には、中国がこの地域を通じて、外国、とくにソ連からの援助を受けて長期抗戦ができるようになることを意味するからであった。

 

実際に、蒋介石夫人の宋美齢女史は1940年に「3年間の抗戦において、中国がソ連からいただいた物資援助は、実は米英方面からきた総数を数倍にも上まわった」と証言している。

1937年7月から38年夏までの1年間だけでも、ソ連・カザフスタンの首都アルマアタ〜北新疆のイリ〜ウルムチ〜ハミ〜甘粛省の蘭州ルートで、約6千トンに及ぶソ連からの援助物資(武器、弾薬、薬品、ガソリンなど)運搬された。

蒋介石夫人の宋美齢(1943年当時)

 

このように、戦争初期においてソ連が中国の抗日戦争を積極的に支援していたため、中国人の「反日」感情は「親ソ」感情と容易に結びついていった。

盛世才政権の「反帝」とは、当時、盛世才政権にとっては、米英が敵ではなく、反帝すなわち反日の意味だったのであった。

 

 親ソの盛世才は、1935年6月、政権を安定させるためにソ連に要員の派遣を要請し、コミンテルンは中国人要員十数名を新疆へ派遣した。「25人の共産国家(コミンテルン)要員」は、みな新疆の政界・マスコミ・教育界で要職を得た。彼らは「新疆民衆反帝連合会」と兼職しており、「反帝会」が現地住民を動員・統制する性格を持っており、盛世才との二重権力の一方の側を担っていた。

「反帝会」の設立、人事などはすべて、新疆駐在のソ連総領事・アブレソフの指示により、中国出身の秘書長と組織部長によって運営された。

 

ソ連は盛世才支持を決めるまで、新疆のさまざまな勢力と接触していた。結果、ソ連はイデオロギーに基づくのではなく、国益にもとづいて、つねに二つの手を打つこと―漢民族出身者の政権である新疆省支援を通じて親ソ的な政治体制を育成すること、現地住民の民族運動への鼓舞・支援を通して親ソ的な社会的政治勢力を育成すること―によって、新疆をその勢力範囲に入れようとしていた。

| シルクロードの光と影 | 08:48 | comments(0) | - |
コメント
コメントする









CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
PROFILE