シルクロード日誌

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東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀―

   ここで、あとの項目で触れる予定のないチベット、内モンゴル民族の独立へのたたかいに触れておきたい。

 

1957年、チベットの分離独立の動きは人口の4分の1ともいわれる百数十万人のチベット民族が、中国人民解放軍によって虐殺された。そしてチベット民族の数倍の漢民族がチベット地域に流入している。自らの民族の生存をかけた運動は決してやまない。近いうちに、劇的な進展があるとも予測されるチベットである。

中国人に自己批判させられるチベット女性

 

 

そのチベット問題は、すでに現在のチベット自治区や旧チベット地域の範囲にとどまることが許されなくなってきている。むしろ、中国の民族問題が人権、民主主義とリンクしてこれまでにない性格を帯びてきており、それがたんなる民族回帰でなく、高度に政治的な問題に変容してきている。しかも、欧米各国が議会でチベット民族支援の決議を採択するなど著しく国際化しているのである。

 

 チベット文明はインド、中華と並んでアジアの三大文明のひとつと言われている政治的にも独立した国家であった。その歴史は中国と同じくらい古く、高地文明として栄えていた。近世になってからモンゴル人がチベットに入ったが、彼らは統治するのでなく、逆にラマ教に改宗した。清王朝の満州人もチベットに侵入したが、やはり統治せずにダライラマを尊重し、国師として仰いだ。歴代中国王朝の大半は外来民族の王朝であったからである。

降伏してポタラ宮前の広場を行くチベット人

 

中国の解放以前から、チベット人たちはすでに自分たちの政府を確立しており、貨幣も国旗も軍隊も持っていた。したがって、中国の「チベットは中国の神聖にして不可分の領土」とする主張には何の根拠もない。はじめてチベットを「統治」したのは元朝のモンゴル人と清朝の満州人で、このとき「漢族の中国」も同時に、モンゴルと満州族に征服されたことは歴史の事実である。

 

フビライ以降の元王朝は、ここに「宣慰司」、清王朝は「駐蔵大臣」を置いたが、直接統治はしていなかった。朝鮮やベトナムのような藩属関係というよりも、チベットはやや上の「法皇領(寺領)」とみなされ、ラマ僧は王朝の「国師」とされていた。

中国が主張するように、チベットが「不可分の領土」なら、外蒙古にたいしてだけでなく、朝鮮やベトナム、ミャンマーにまで、同じような主張ができることになる。

 

1912年、清王朝崩壊、中華民国樹立と同時に、チベットも独立を宣言した。しかし中華民国との領土争いの中で次第に中国軍に侵入され、ついには中国の領土に編入されてしまった。

 

1949年の中華人民共和国樹立後、人民解放軍は「農奴の解放」をスローガンにチベットに侵入した。50年11月、チベット政府は国連に提訴して中国軍の侵略を非難し、独立を訴えた。だがこの時期、折あしく朝鮮戦争が始まっており(1950年6月)、国連はそれどころではなく、結局、チベットの独立問題は論議されないで過ぎて行ったのである。

朝鮮戦争

 

翌年、中国政府とチベット政府が北京で17か条の平和協定を結んだ。このとき協定内容に同意が得られず、チベット代表は「ダライラマ法王の印璽と内閣及び国民議会の承認がないと捺印できない」と調印を断わった。すると、周恩来は法王の印璽を偽造して強制的にチベット代表団に調印させたといわれており、これは当時、国際的なスキャンダルとなった。

 

 

以来、中国はチベットを間接的に支配することになった。だが、人民解放軍の支配によるチベットにとっては「漢民族の支配」であった。それに対して1957年にはチベットの東部と南部、59年には首都ラサを中心とした反乱が起きた。これが中国軍に鎮圧されると、ダライラマ14世はインドのダラムサラに亡命した。それ以後、中国はチベットを軍事占領し植民地政策をすすめてきた。中国のチベット侵攻後、また文化大革命による虐殺と破壊によって、人口の6分の1にあたる120万人以上ものチベット人が命を奪われた。

 

一方で、800万人を超える大量の漢人が入植して、チベット内のチベット人を“少数民族”にしてしまった。そして8000以上もあった寺院の9割を破壊し、中学以上の学校教育ではチベット語の使用を禁じ、中国語教育を強制して、チベットの伝統文化を破壊した。そのうえ、大規模な森林伐採、地下資源の採掘、野生生物の乱獲、核廃棄物の投棄など、チベットの自然・環境破壊をすすめている。

 

ダライ・ラマ14世は1987年9月に米国議会人権小委員会で中国政府にたいする5項目提案を行なった。その内容は、

1.チベット内での人民解放軍の撤退・軍事施設の撤去

2.チベットへの漢族移住政策の放棄・流入漢族の帰還

3.チベット人の基本的人権と民主的自由の尊重

4.チベットの自然・環境保護、核関連施設の撤去

5.チベットと中国の両国間問題に関する真摯な交渉の開始

の5項目であった。

 

 中国政府はこの提案を、“祖国分裂活動である”として強く非難したが、これと時期を同じくして西ドイツ(当時)議会と欧州議会でもチベットの人権侵害に関する緊急動議が可決され、また米国議会でもチベットの人権侵害に関する法案が採択されるなど、チベット問題が欧米各国の議会を中心に「国際化」していった。

 

 88年6月、ダライ・ラマ14世は、欧州議会で「ストラスブール提案」を発表し、中国政府と共同して民主的なチベット人独自の自治政府を創設することなどを提案し、独立の断念とも解釈できるような大幅な譲歩をみせたが、一ヵ月後に中国政府はチベットに「1国2制度」を適用しないことを打ち出し、ダライ・ラマ14世自身も91年にこの提案を撤回した。さらに94年3月には従来の対中穏健路線を「失敗」であったとダライ・ラマ14世は認めた。

ダライラマ14世

 

 このようなチベット人民の独立へのあくなき要求と闘争が、絶え間なく進められている現状からみるならば、中国がチベット高原を占有していることは、経済面、国際面においても、ほとんど採算が合わないことなのである。それでも絶対にチベット高原を放棄しないのは、隣の大国インドとの戦争に備え、中国の西部地域の領土を守るにはこの一帯は絶対必要なのだと考えているからである。わたしも何度か車で通ったことのある「中尼友好道路(中国・ネパール友好道路)」はネパールへの援助として中国側が建設を援助したが、“一朝事あらば”チベット国境からネパール・カトマンドゥを戦車が一気呵成に席巻してインドへの攻撃に利用する戦略道路なのである。

| イスラーム関連 | 06:55 | comments(0) | - |
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