シルクロード日誌

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東トルキスタンの歴史概況と中国の民族政策 ―イスラームの国際的影響と21世紀ー

 法顕が西域に旅立ったのは、羅什が長安に入る2年前で、いわば羅什と法顕は入れ違いに中国を出入りした。だから法顕が涼州を通過したとき、いまだ羅什は滞在中だったはずだが、両者が出会ったという記録はない。

 

 法顕は平陽武陽(山西省)の生まれ。3歳で出家、20歳で受戒した学僧だが、本格的な戒律が中国に伝わっていないのを嘆き、同学の慧景らと語らってインドに向かった。一説には、このとき60歳をこえていたという。長澤和俊先生の説では64歳というから、大変な矍鑠(かくしゃく)ぶりである。

 

 法顕らが涼州の張掖についたころ、鳩摩羅什が出会ったと同じ戦乱に出会ったため、一行は1年近く足止めを食った。しかし軍閥段業の支援を得て敦煌にまでいたり、ここでも太守李浩の援助で善善(後蘭)に至る旅費を整えている。当時の天竺(インド)をめざす求法僧(ぐほうそう)らは、現地の有力者の援助を得なければ旅はできなかった。

白龍堆

 

 法顕らは北道を通らず、古道である西行路をたどったが、ここは白龍堆(はくりゅうたい)と呼ばれる大砂漠が広がっており、荒涼たる情景を呈した。『仏国記』(法顕伝)によると、「沙河中、悪鬼熱風多し。遇(あ)えば則(すなわ)ち皆死す。一も全(まった)き者なし。上に飛鳥なく下に走獣なし。遍望極目、度(わた)る処を求めんと浴(し)て則ち擬する所を知らず。只死人の枯骨を以って標識となすのみ」。

 

 と、名文の中にもその凄惨さを伝えている。法顕は楼蘭(ロプノール)から西行せず、北西に道をとってカラシャールに立ち寄った。そこから1ヶ月を要してホータンに到着している。なぜ迂回路に当たるカラシャールに立ち寄ったかは、法顕のインド行のひとつの謎だが、長澤先生は楼蘭国の勢威が衰え、ニヤ地方(楼蘭とホータンの中間)に達していなかったためだろうと推測されている。

 

仏教伝来要図

 

 ともかく、法顕はホータンに落ち着いて夏安居(げあんご)=僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること。夏籠もり。夏行 (げぎょう)=を行ない、徒歩20日間かかって、子合国(カルガリク)に至った。現在は中国領カラコルム山脈を抜けるのは、もっぱらカシュガルから南下して、タシュクルガンからクンジュラブ峠を超えるが、当時は、ヤルカンド(沙車)・カルガリクからタシュクルガンへ越す道があったようだ。法顕らはこのルートをたどり、タシュクルガン・パミールを越えてパキスタンのナガル・ギルギットへ出たものと推測される。

 

 法顕は老齢からのインド行にもかかわらず、前後14年を経て海路中国に帰ることができた。インド行の旅では玄奘三蔵の旅が有名であるが、その困難さという点では法顕の旅が数段上まわるのではないかといわれるほど想像を絶するものがあった。インダス河の上流域に出てからは断崖絶壁に桟道がつらなり、渡ること700回、吊り橋も連続し、目がくらみ足もすくむ難路であったという。

アショーカ王宮殿跡の法顕

 

 

 法顕・玄奘以外にも、中国からインドへ取経の旅に出た僧侶は180名近くが知られている。そのなかで、仏教史上にとどまらず、世界の地理学上また探検史上、不朽の人物として知られているのが玄奘である。

 

玄奘は洛陽の東、今の河南省堰師県の人で、俗姓を陳といい、名を褘(い)といい、西暦602年に生まれた。11歳のときに出家し、やがて多くの疑問を抱いて各地に師を求めたが、当時の仏教界は思想が分裂していたため、納得のいく解答が得られなかった。

そこで、仏教の発祥地であるインドに留学したうえ、経典を持ち帰って仏法を極めようと考えた。かくて貞観3年(629)玄奘は国禁を犯してインドへの取経の旅に出たのである。

 

玄奘は西域の隊商にまじり、河西回廊を経て玉門関に出、そのあとシルクロードの天山南路を巡り、途中、西域16ケ国を廻り、約4年かけてマガダ国のナーランダ寺院についた。

ここにほぼ5年間滞在したあと、インド全土を一巡して、貞観15年、多くの経典を携えて帰国の途につき、同19年正月、16年の長きにわたる旅を終えて長安に帰った。玄奘が持ち帰った仏典は657部にのぼり、これを運ぶには20数頭の馬を要したという。

 

1人で訳経するつもりだったが、時の皇帝太宗から厚いもてなしを受け、国が全面的に協力することになり、多数の助手を得て翻訳が行われることになった。以後、19年間にわたって、75部1335巻の仏典を訳出し、高宗の鱗徳元年(664)に逝去した。

 

 玄奘の記録では、高昌国に僧数1000人、エンキ国は10余ヶ寺と僧2000人、と書かれており、タリム盆地の都市国家のいずれにも仏教が隆盛していた様が分かる。キジル千仏洞、ベゼクリク千仏洞などの岩窟寺院は、いずれもインドの影響を受けながら、法顕から玄奘の時代にかけて開窟されたもので、敦煌や麦積山(ばくせきさん)・雲崗(うんこう)・龍門など中国内地の石窟の先駆けとなった。

 

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