シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ー66  ルクチュンのおばあさんの長〜〜い話

ルクチュンではズフラハンさん(84歳)というおばあさんに昔の話を伺うことができた。

ズブラハンさん(84歳、2004年当時)のおはなしは長かった。

だが、どこか気品のある人だった。

 

1920年代、「新疆王」と呼ばれた盛世才という政治家が新疆省を治めていた。彼は満州出身で日本に留学したが、帰国後、満州の実情を見て強固な反日主義に転じた。ルクチュンの王の名はスルタン・マモッサンで、王の子はマサイッガンとスキャンダ・アキム。ハミの王もここの王の子でマンスルガンと言った。当時、ルクチュンのハミからここルクチュンまでたくさんの人が住んでいたが、生活はとても貧しかった。

おばあさんとのお話は長かったので、サラマットも付き添いで来てくれた。

通訳はオスマン。

 

ある話の上手な夫婦がいた。夫はナイハン、妻はシムラーハンと言った。彼らには子供がたくさんいた。夫婦は一緒に王のところに行って面白い話をいっぱいして、たくさん食べ物などをもらった。ある人は、結婚したいけれどお金がなかったので、王のところに行って面白い話をいっぱいした。王は笑って食べ物やお金をたくさんくれた。

私は言葉が分からないけれど、一生懸命に聞いた。

すると、なんとなくわかるような気がしてきた。

 

面白い話ができない人が行くと「何をしにきたのか」と言われて追い返されたが、あとで食べ物を少しだけ送ってきた。王様には別のところにも領地があって、食べ物がたくさん取れたから、あげるものもたくさんあった。ここでは農民で自分が作ったものだけで食べていくには足りなかった。

 

王様は1ヵ月に1回くらい領地内の奥さんたちを集めて、生活のことや税金のことなど、どれくらい困っているかを聞いた。そして10キロくらいの小麦粉と1〜2キロの肉をくれた。

 

こんな昔話がわかる人はもうみんな死んでしまった。

 

私は昔、15歳の時、学校の教師と結婚した。3年後にできた子供は8ヵ月の時に死んだ。夫は子供が5歳の時に死んだ。父は私が8ヵ月の時に死んで、母は4歳の時に死んだ。だから祖父母の家で育った。そして1年後に再婚した。彼はアンドリ・ジンジャンという名前で、アフメッド・チューシュ政府で仕事をしていた共産党員だったが、結婚して8ヵ月で警察に捕まって、いまだに生死不明だ。いつも子供が、お父さんはどこにいるの?と聞くので、トルファンに仕事に行っていると答えていた。その子も4歳で死んだ。

 

3回目は25歳の時に5人の子供がいる人と結婚した。上は10歳で下は5歳だった。アホンも私のことを、よく頑張っているね、アッラーもほめているよ、と言ってくれた。3番目の夫は洋服を作っていて技術がよかったので、商売はうまくいった。その後、9人生まれて4人死んだ。10人は今もみな元気でいる。

 

新中国誕生や文革のころは、女は外に出ないで家の中にいたので何もわからない。子供が10人もいたからそれどころではなかった。

ルクチュンの遺跡だが・・・・

遺跡の真ん中を堂々と道路が横切っている

遺跡の横はタクラマカン砂漠。サラマットは私が「お父さん」だから、甘えてこんなポーズをとるが、

こちらはパニック状態だった。

 

80有余年の人生を淡々と語ってくれたが、その人生には語っても語り尽くせぬ深い悲しみと喜び、そして苦しみがあったことだろう。心から感謝のお礼と長寿を祈る言葉を述べてその家を辞した。しかし、お話の内容は王様が善政を施して食べ物などをくれたということの繰り返しだった。王からの搾取や税金の多寡などを聞くことはできなかった。

グリさんの妹がつとめる学校(日本の高校)の運動会。といっても、女生徒は普段着のまま校庭を走る。

男子生徒は、やはり普段着のまま学校の外を、トラックに載せた国旗と軍歌が叫ぶ中を「マラソン」だった。

校舎を背に学校の教師たち。私の左がサラマットのすぐ上のお姉さん。

2004年の11月のことだった。

| シルクロードの光と影 | 09:11 | comments(0) | - |
ー65  ルクチュン中学の副校長さんに伺ったルクチュンの歴史

 ヤスン・バスムさんはルクチュン中学校の若い副校長さん(32歳)で、ルクチュンの歴史について伺った。アルズグリさんの3番目の妹の同僚である。

10年ほど前のルクチュンの写真。教師のグループとのツアーで。

私のうしろの右にいる若い人がヤスン・バスム副校長。

この頃私は、新疆に日本語学校を造ろうと奔走していた。

 

 ルクチュンの歴史

 

 ルクチュンは西暦1400年から1500年頃がもっとも盛んだった

 蘇公塔(スレイマン塔)はトルファン中心部の東2kmにある。1778年に建立された最大の古塔で、ウイグル族の古代建築技術の結晶といわれている。

蘇公塔(スレイマン塔)。どういうことか私の写真集の中から、

ここの写真が完全に欠落していた(ウイキペディアを使用)。

 

 

 トルファンの郡王スレイマンが、父のイミン・ホジャが祖国統一のために果たした功績をたたえて造ったものである。高昌故城は1470年に滅びたが、当時、ルクチュンの王はコルラ、トルファン、ハミまでも治めていた。その首都がルクチュンであった。現在は、高く美しく聳えるミナレット(尖塔)は危険なので上ることはできない。

 

 1630年から1934年まで10人の王がいた。1900年代になってから盛世才の国民党が来ても王は存在していた。

 1932年、ハミのホッジニアス・ハジが清朝と戦争をした。その後、ルクチュンにも来て、最後はソ連領まで行った

盛 世才(せい せいさい)は、中華民国の時代の新疆省の政治家であり、軍人だった。

1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治した。

その独裁的な治世から、「新疆王」とも呼ばれた。

(写真・文ともウイキペディア利用)

 

 

 解放後、1949年から90年までの人民公社時代の生活はよくなかった。

 

 ※この時期は、あの文化大革命の時期だったが、彼は、そのことには一言も触れられないでいた。

 

 改革開放は1978年に発動され、82年に政府が農地を解放して農民に分け与えられた。税金の制度などが整備されて90年頃から生活がよくなった。

 

 吐谷溝が仏教の聖地だったことを私は知っている。街ではそれを言ったら殴られるだろう。しかし、正しい歴史を理解できる人はわかる。ここにはカシュガルやホータンより400年遅れてイスラームが来た。1300年代には80%が、1400年代になってからは100%がイスラームになった。

 

 昔、ルクチュンはハミに所属していた。現在はトルファンに入っている。1978年からトクスン、ピシャンもトルファンに加わった。だが当時は隣の街と比べて貧しかった。

 

 私は7〜8年前、歴史を学んだが、次第に学ぶ機会がなくなってきた。歴史に関する良い本があるが、それを読むことは政府から禁じられているからである。

 

 ※蘇公塔(そこうとう、スレイマン塔)は新疆のトルファンにあるモスクのミナレットで、1778年に建てられた同国最大のミナレットである。トルファンのウイグル人の郡王のスレイマン2世が父オーミン・ホッジャ(額敏和卓)のために建てたもので、構造物の高さ35メートル、底部の直径は11メートル、頂上の直径は3.8メートルで、壁面は日干し煉瓦で様々な模様を施している。

 

| シルクロードの光と影 | 09:31 | comments(0) | - |
―64 ピシャンで回族のアホンに面会

 さあ、では回族の人そのものに直接、話を聞いてみよう。

ピシャンとルクチュンの間

 

 

 トルファン市のピシャン県は中国で10本の指に入るほど面積の大きな県である。公務員の給料も2004年の1月1日から大幅に上がって、トルファン市より20%くらい高くなったそうだ。その理由は、近くに石油が出て、その利益の2%が県に還元されることになったからだそうである。

 

 回族村の「大きいモスク」の東大寺に行き、初めてアホンに直接、話を聞くことができた。ピシャンのドンバザという集落である。ドンバザとは“バザールの後ろ”という意味だそうだ。

この訪問は2004年のことである。回族のアホンと。

 

 

 ホビジンという回族人のアホンはこの土地の生まれで、クルアーンやイスラームの勉強を12年間続けて資格をとったそうである。

 仕事はどのように?と聞いたが、おそらく通訳のオスマンが間違えて、アホンに仕事以外に何か職業についているのかと聞いたのだろう。「1日5回の礼拝だけで、ほかに仕事なんかできるわけがない」と言われてしまった。そんなこと聞いてないのに、オスマンのサホー(トルファン地方の方言で軽い意味のアホウという言葉)!

これは04年のカシュガルでの撮影だが、写真左がオスマンである。

 

 この地域の集落の戸数は約500戸。人口は2000〜3000人くらいだろう。普通の礼拝は100人くらいだが、コルバン祭りなどの時には1500人くらい集まるとのこと。モスクはこのような人たちのお布施でまかなわれているのだろう。

ピシャン県文信局と下に書いてある。東大寺は回族のモスク(清真寺)

 

 

 このモスクは100年くらいの歴史がある。自治区級の重点文物に指定されている。1994年にモスクの改修をしたが、政府からは30万元の支出があり、その他はみな自己資金で修理をしたそうだ。彼も一応、毎月300元の給料をもらっているそうだが、実際の収入はその何十倍もあるだろう。このモスクにも結婚式だとか葬式だとかで多くの人が来る。一番貧乏な人でも最低150元は出すのだから。給料が300元だというが、それほど安いわけがない。これは、オスマンのウソなのか誤訳なのかのどちらかだろう。

アルバイトなどしていないアホン

 

※「アホンとは、新疆では元来、イスラームの指導者を指したが、のちには年長の男性に対する敬称ともなった。回族においては、清朝以降、一般には清真寺(モスク)などでイスラーム教学を習得し、審査に合格して宗武者の資格・呼称を得たものをさす」(『中央ユーラシア事典』より)。

わたしは、このルートのここの光景が忘れられないくらい美しいものと感じている

| シルクロードの光と影 | 05:55 | comments(0) | - |
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