シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
神の恵み・カレーズ(地下水路)―38

 神の恵み・カレーズ(地下水路)

 

 トルファン・ハミには他の地域には見られない数千年の歴史を持つカレーズ(地下水路)がある。天山山脈の雪解け水をオアシスに導く渠であり、穀物、葡萄、綿花など多様な収穫を得る地下水源である。

カレーズの展示場所だが、中には実際のカレーズが流れている

 

 トルファンのカレーズ(地下水路)は、その昔、ペルシアに5000年ほど前から存在したといわれている。次第に西の北アフリカ、イベリア半島から西のトルキスタン(現在の中央アジア)にまで及び、東トルキスタン(西域、現在の新疆地域)にも達した。現在はトルファンからハミにまで及んでおり、両地域での総延長距離は5000km以上になるといわれている。5000kmを越えるといわれているので、ほぼ同じ距離である万里の長城と比べて、「地下の万里の長城」とも呼ばれている。近年はあまり掘られておらず、しかも地球温暖化の影響を受けて崩壊が進んでいるのが現状である。

これは展示用の人形だが、このようにして縦穴を掘り下げて

カレーズをつくる、というもの

こうやって下がっていって、横に掘り進める。

落ちてくる土砂をカレーズの外へだす作業もする

 

 カレーズは天山山脈の豊富な水を得るために、トルファン、ハミの人びとに伝えられた天からの恵みであろう。そのカレーズを造るには、2〜30mおきくらいに縦穴を掘り、縦穴を次々と掘り進め、水が流れる方向に傾斜を少しずつ下げながら横穴を掘り下っていく。その長さは数キロから100kmにも及ぶ長いものまである。トルファンやハミの人々にとっては、このカレーズがなければ生きていけなかったが、最近ではカレーズを掘らなくなったので、井戸から電機でくみ上げるようになって来た。当然、費用はかさんでくる。毎年カレーズを維持するために掘り返さなければならないのだが、今ではそのような危険を伴う仕事をする人が少なくなっているからである。

これがホンモノのカレーズです

 

 新中国以前、中国は半封建半植民地の状態にあり、小作農民は地主・富農の収奪に苦しめられていたが、トルファン・ハミ地域では、地主ならぬ「水主」がいたのである。現在は無論、水主は国有になっており、農民はそこから水を買っている。現在の国有のカレーズでは、農地や生活者のところまで水を各地に供給するために、蒸発を最小限に食い止め、安定的に供給することが最大の仕事となっている。

2011年、カレーズの展示場所にあった、騎馬遊牧民「高車」に関して、

「高車は我々ウイグル人の祖先である」と書かれている。

ラグ麺の店で麺を討つ店の人

| コメント | 06:57 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―37  トルファン・ハミ地域の歴史

トルファン・ハミ地域の歴史

 

 東部天山山脈南麓に位置するオアシスであるトルファン・ハミ地域は、綿花、葡萄や穀物を産する地味豊饒な土地である。10世紀ころから名前が出るようになったこの地は、天山山脈南北および中央アジアから河西回廊に通じる道として遊牧民族と漢民族王朝との争奪の地となっていた。

以前、わたしの定宿だったホテルの舞姫

 

 この地域は、さまざまな文化の影響を受け、西域独自の様式が生まれた場所であり、しかも、亀茲(クチャ)国と同時に仏教芸術が栄えたシルクロードの要衝として、歴史上きわめて重要な役割を果たしてきた。

 

 2世紀ころ、インドからホータンに伝わって来た仏教文化は、タクラマカン沙漠を越え、6世紀ころにはトルファン地域に広がって、世界に注目された豊かな仏教美術・仏教文化を登場させた。

 

 この地ははじめ、車師(姑師)人の拠点となっていたようで、車師前国の王の朝廷がトルファン西方の交河城(ヤール・ホト)に置かれていた。彼らは天山北部の遊牧民であったが、その後、コーカソイド種の特徴を有し、その文化にはスキタイ・サカ(紀元前8世紀頃に現われた騎馬遊牧民)以前に存在していたといわれるサルマタイ系統が入っていることが明らかになったという。

このかわいらしい少女は、上の写真の舞姫の娘さん。

拙著『シルクロード万華鏡ーそれぞれのグレートジャーニー』の

表紙に使わせていただいた。

お母さんの踊りを一生懸命見ている娘の心が分かる写真だった。

いまから7年前くらいだったが、どのように成長しているか・・・・

 

 モンゴル高原に匈奴が現れると、その支配を受けたが、これに対して漢は軍を派遣して匈奴と争い、併せてトルファン東方の高昌塁に駐屯した。これを契機として魏晋南北朝期には車師人と漢人とが東西に対立したが、5世紀中ごろには車師国は高昌城に拠点を置いていた沮渠氏高昌によって滅ぼされ、トルファンが統一された。

 

 やがて6世紀はじめには、麹氏高昌国が成立し、640年に唐によって滅ぼされるまで、この地を統一した。その後、9世紀にはウイグルがモンゴル高原でのキルギスとの戦いに敗れて降ってきて、タリム盆地のトルコ系民族化が本格的となり、トルファン盆地は西ウイグル王国の領地となり、高昌城は冬の都(夏の都はビシュバリク)となる。

 

 13世紀に初頭にモンゴルが覇権を握ると西ウイグル王国はすすんで降ってチンギス一族に準じた。

 

 14世紀以降はモンゴルのチャガタイ・ウルスの支配下となり、16世紀初頭には、東トルキスタンにおいて最後までイスラームに抵抗し仏教を堅持していた。しかし、西域カシュガルやホータンにイスラームが入ってきてから、実に400年間にわたる熾烈な争いの末に西域全域が全民宗教となって、この地を統治した。

彼女は親友スルさんの会社の部下。ガイド経験絶無なのでヌルさんから指南役をお願いされた。、

蘭州から車でトルファン経由ウルムチまでの旅のガイドを私が指南させられたのである。しかも無償で!(冗談)

このとき27歳くらいだが、無邪気で可愛い娘だった。日本留学の経験がある。

※きょうはイメージ写真としました。明日からの写真にはご期待を!

 

 古都トルファンは、かつてはイディークトといわれ、ウイグル高昌国の中心地とされている。発音しにくいイディークトという意味は、前半は「偉大な・・・」になり、後半のクトは幸福を表わす。それ以上は表現できない(筆者注)。

トルファンからは19世紀末以来、都城・古墓・古墳・石窟遺跡などから、多くの出土文書・文物が発見されており、敦煌と並んで東洋学研究の貴重な資料の宝庫となっている。

 (この項、『シルクロードを知る事典』長澤和俊編 東京堂出版刊より引用)

| シルクロードの光と影 | 06:06 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―36 クチャのクズルガハ烽火台の伝説

 クズルガハ烽火台のサソリに噛まれた姫君

 

 クチャの街から西へ、カシュガルへ向かう幹線道路を行く。古代クチャ王国の宮城・亀茲故城を過ぎ、最先端のクチャ河を渡ると、車は幹線道路を離れ、一路北西へ向かう。ポプラ並木がうっそうと茂り、緑陰の下にできたトンネルのような道を進む。その木の間から、ウイグル族の家屋の鮮やかな白壁が見え隠れする。車で15分、街の中心から4〜5キロ走ったあたりで、オアシスの緑がなくなる。北は荒涼としたチョルタク山麓の丘陵地帯が連なり、南はタクラマカン沙漠に向けて渺々(びょうびょう)たるゴビがひろがる。誤解を受けないようにお話しておきたいが、ここでいう「ゴビ」とは、特定の砂漠の名前ではなく「砂礫(されき=小石や「つぶて」などのこと)沙漠」のことをいう。


 街から北西10キロ、ひときわ高い丘陵の上に、「クズルガハ土塔」と呼ばれる漢代の最西端の烽火台がある。


 漢の西域経営にとって、往事の亀茲国は最重要地域であった。前漢は鳥塁に西域都護府を置いたが、そこから亀茲国へ向けて、4、5キロの間隔で、烽火台が建設されたと言われる。このクズルガハ土塔は、土をつき固めてつくられており、高さ18メートルはあろう。北は天山に根拠をおいている匈奴を睨み、東はクチャのオアシスを見下ろす烽火台は、敵の襲来を知り警報を発する台としては、絶好の位置にある。地元にはこの土塔をめぐって、1つの伝説が残されている。

これが、クズルガハ烽火台 です


 むかし、クチャの国王には非常に美しい娘がいた。ある日、西方から来た1人の占い師に娘の将来を見てもらったところ、彼女には100日の災いがかかっていて、サソリに刺されて死ぬであろう、ということであった。そこで国王は、街から10キロも離れたクズルガハのこの地に塔のある宮殿を造り、姫をかくまった。毎日のように食事を運び99日が過ぎた。そして最後の日のことである。いつものように食事を届けさせたが、その日は、果物籠に娘の好きなりんごも入れた。ところが、その籠の中に1匹のサソリが潜んでいたのである。そうとも知らずに、りんごを取ろうとした姫は、サソリに刺され一命を落とす。嘆き悲しんだ国王は、土塔の下に身を投げ出し、「娘よ、とどまれ」と叫んだ。

 

伝説はクズルガハ土塔の名の由来を説明しており、沙漠の民にふさわしい言い伝えではあるが、この土塔は間違いなく漢代に造られた烽火台であって、娘をかくまうために建設されたものではない。漢代の烽火台は、チョルタク山系を南北に割って走る塩水渓谷の岩壁の上に建てられていた。塩水渓谷はその名の通り、川底が一面真っ白い塩分で覆われている。夏の増水期を除いて渓谷にほとんど水はない。河床の乾燥により、塩分が結晶して表出しているのであろう。

 

 そしてその後、中央アジア各地を歩くと、クルグズでも、タジキスタンでもどこでも同じような姫君伝説があることが分かった。美しい姫君がサソリに刺されて死ぬのだから、伝説にとってはこれほどおいしいはなしはない。そんなことをいってしまっては、身もふたもロマンもないが・・・・


 河岸はチョルタク山系の最深部にかけて、川底がそのまま隆起したような奇岩の連続である。その河床の真中を、ウルムチとカシュガルを結ぶ幹線道路ができる前の古い道が走っている

チョルタク山系の塩水渓谷


 塩水渓谷から500
メートル程入ったところに、クズルガハ千仏洞があった。クズルガハとは「赤い岩」というような意味である。南北に走る丘陵の東西の壁面に石窟の入口が開いており、現在46
の通し番号が記入されている。比較的保存のよいものが38窟ある。しかし、壁画が残っているものは、わずか11窟に過ぎない。最も古い窟の造営期は、3世紀から4世紀にかけてである。石窟には礼拝のためのチャイティーヤ窟と、僧侶の修行と生活の場のビィハーラ窟があるが、クズルガハ千仏洞の場合は、チャイティーヤ窟が多い。

| シルクロードの光と影 | 09:36 | comments(0) | - |
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