シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
来年まで、チンギス・ハーンとお付き合いします

 毎朝、1時間以上かけて読む新聞類。

先週のある日、朝日を開くと真ん中のページに2ページ分の大広告がありました。思わず「オーッ!」と声をあげました。

 北方謙三の『チンギス紀 火眼(かがん)』発売の広告です。

 翌日、早速買いました。しかも、最初は2巻同時発売。

 

 これとは別に、白水社刊の『辺境中国』も注文してありました。

これはイギリス人のデイヴィッド・アイマーというジャーナリストが書いた、中国辺境の少数民族の現在を描いたもの。ヨーロッパの白人が、いまの中国しかも辺境の少数民族をどのように描いているかに関心がありましたので。

 

 そしてもう1冊は第一書房刊の『シルクロードと朝鮮半島の考古学』。2002年刊。

 朝鮮半島のシルクロード、古代文明が大陸からどのように伝えられ、日本へどのように伝えられたのかを研究するチームを立ち上げているのですが、いよいよ具体的な研究過程を考える時期が近づいているとの考えから、古代朝鮮研究にいっそいそしむ気持ちから購読しましたし、私の机の周りの書籍類も、その分野のもので固めているところです。

 もう1冊は、雄山閣2007年刊の『朝鮮の絹とシルクロード』。しかし、アマゾンから届いてみると、すでにこの本はわたしの書棚にありました。

  

 書店で「小説」を買うのは実に10数年ぶりです。退職の前は井上靖の『敦煌』など、宮城谷昌光の『重耳(ちょうじ)』をはじめとした一連の中国古代歴史小説や浅田次郎など、乱読三昧でした。

 しかし、年金生活に入って、本格的にシルクロード研究をするには書棚のかなりのスペースを占めている小説類が邪魔になりました。

 それらの小説類は段ボールに入れて地元の図書館にすべて寄付しました。今でも図書館の棚に私が寄付した本を見かけると複雑な気持ちになります。大切な本を養子に出すようなことをして、と。

 

 他にも処分する方法があります。我が家の道路際にシートを敷いて無料バザールです。

このバザールは数年に一度行ないます。書籍でない場合が多いのですが、古くなった革のバッグ類や旅行用のスーツケース、モンゴルやウイグルで買い求めた革の衣類など。みな評判で、1時間でなくなります。

 

 『チンギス紀』は、1年間くらい続くようです。

 肝心の研究のための読書に影響しないかという思いはあるのですが、私が今まで学んだモンゴルそしてチンギス・ハーンとどのような違いがあるのか、そして共通点がどこにあるのかを見極めたいという思いがあるからです。

 

 そのような小説などを読む環境づくりが大切です。

 きのう、パソコンのマウスを動かす面積がかなり小さくなっているので机の上だけ整理しました。横から見ると10センチくらいうずたかく積もっていました。

 

 書籍類の移動や書棚の整理、床のワックスがけなど、数か月前から「やらなければ・・・」と思いながら過ぎてきましたが、いよいよ決断の時です。

 でもこんなこと、決断する問題じゃないんですよね。やればいいだけのことなのです。

| シルクロード | 07:32 | comments(0) | - |
シルクロード満喫の一日 中央アジアとシベリアの音楽祭り  〜カザフ・クルグズ・ウズベク・トゥバ 音楽祭

 きのうの27日日曜日。東中野の「驢馬駱駝(ロマラクダ)」で標記の音楽祭に行ってきました。

 これは我がクラブの寺田亮平君がコーディネートの仕事をしているようで、SNSで盛んに「拡散して!」と叫んでいました。そのせいか、当日は満員で当日券はない、ということでした。

 私はその声に圧されて参加したようなものですが、主要な目的は、わがクラブの講師やイベントでの出演者を探すことでもありました。

 寺田亮平さんはコーディネーターであっても、立派に演奏していましたよ。

数年前から思うと格段に上達していました。

 

 この日の初見参の駒崎万集(Komazaki  Masyu)さん

 昨年10月にウズベキスタンから帰国したそうです。はじめはJICA(青年海外協力隊)の隊員として、3歳からはじめていたピアノを主に教えることを目的として2015年にウズベクに行きました。しかし、2年後にはドゥタールに巡り合って衝撃を受け、音大で鍛え抜かれた音楽(ピアノ)の才能を発揮して短時間のうちにマスターしたとプログラムに書いてありました。

この日の初見参の駒崎万集(Komazaki  Masyu)さん

寺田亮平&直川礼緒さんの2人も共演

 

 素人の私が聞いても、ピアノを奏でるような楽風と感覚で、まるで10年も続けてきたような演奏ぶりでした。日本や東京には長い間、ウズベク人による音楽家が不在でした。その穴は日本人では埋められないのですが、わずかな僥倖が見えてきた感がしました。

 

 

イランから来たばかりのシューレシュ・ラアナーイーさん

 

 しかし、それよりも何よりも最大の衝撃がありました。

 たまたま日本へ公演で来日中のペルシア音楽の若き巨匠、シューレシュ・ラアナーイーさんの演奏でした。
 ここからは寺田亮平君の言葉です=来日ツアー中で、たまたま27日がオフだったそうで、遊びに来るかも、という話になり、それなら是非ご出演を、という運びになりました。ただ出演者とプログラムを組んだ後に決まった話なので、これだけ凄い演奏家の方にゲストで出ていただいて大変恐縮ですが、そんなに長い時間ソロで演奏していただけるわけではありませんので、じっくり見たい方は6/3のサラヴァ東京の公演に是非足をお運びください。


人間的にも非常に温和で控えめな人のようでした

通訳を介さなくともわかりやすい英語でした

 

 この言葉は見て知っていたのですが、私にとってイランの音楽はナヒードさんしか知りませんでした。

 演奏は火を吐くような演奏で全く驚きました。音楽の専門家でもない私でも、いろいろな国の音楽家の演奏は限りなくたくさん聞いてきた私でさえもため息の出るような演奏でした。

先述の駒崎万集(Komazaki Mashu)さんも、演奏が終わって楽屋へ戻って着替えるところなのでしょうが、舞台のそで(会場内)の壁に立ったまま、微動だにしないで聞き入っていた姿が印象的でした。

 

 演奏がスタートする1時間近く前に会場に行った私のもう一つの目的は、会場内で販売するウズベクの「プロフ」や「サモサ」や「ナン」を食べ、家へ持ち帰ることでした。

 まず、生ビールを片手にサモサにかぶりつきました。本当は、これは、窯の中にはりつけて焼いたものを、熱々のうちに食べるのが、最もおいしい食べ方なのです。

ご存じ、お馴染みのカリマンさん。この日は素敵なキルギスの帽子をかぶっていました

 この日は芸大の学生も教え子も一緒に出演していました。

 

 お土産は「プロフ」。焼きそばの入れ物のようなものに2つ買い求めました。夕飯はワイフと食べましたが、1つのパックでさえも食べきれないくらいものでした。

 久しぶりに中央アジアとシルクロードを満喫した一日でした。

| シルクロード | 11:48 | comments(0) | - |
紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています―その平和的解決への道

 今年2018年の5月は、イスラエルが建国されたことによって、パレスチナ人約80万人が故郷を追われて難民となって70年の月です。

 パレスチナの人たちは、70年前の故郷喪失を「ナクバ(大災厄)」と呼び、毎年5月15日をナクバの日としてたたかいの決意を固めています。

 この多くの難民たちは、その後の生活が成り立たない中で、貧困と失業、教育施策のない中で、これ以上ないほどの苦難を強いられています。

 現在、ガザの人びとはイスラエルとの国境を超えることができません。通貨もイスラエルの紙幣、なにもかもがイスラエルの統治の下で生活をせざるを得ない状況です。

 彼らは3月末頃から難民の帰還を訴える行動を始めています。そしてイスラエルは、5月15日までに少なくとも107人を殺害し、国際的な非難を浴びています。

 イスラエルの建国記念日はこの5月14日でした。トランプ政権は、この日を選んで、在イスラエル大使館をエルサレムに移しました。これはパレスチナへの侮辱です。誇り高きパレスチナ人民は決してこれを許さないでしょう。

1916年のサイクス・ピコ協定により分割された中東

イスラエルの地図

 

 パレスチナ関連の略年表

 1948年 「イスラエル建国」でパレスチナ人が難民に

 1967年 第三次中東戦争で、イスラエルがヨルダン川西岸などを占領

 1993年 イスラエルとパレスチナが暫定自治合意

 2007年 イスラエルがガザの軍事封鎖を始める

 2012年 パレスチナが国連のオブザーバー国に

 2017年 米がエルサレムをイスラエルの首都と認定

 2018年 米が大使館をテルアビブからエルサレムに移転

 

 パレスチナとは

 パレスチナはイスラエル建国前のヨルダン川と地中海の間の地域に位置しています。

 パレスチナ人とは、その地に住んできた人びととその子孫です。主にアラビア語を母語とするアラブ人で、イスラム教徒とキリスト教徒が中心です。

 

 ユダヤ人について簡潔に述べなおします。

 

 ユダヤ人とは中世ではユダヤ教徒のことでした。こんにちでは定義が難しくなっており、イスラエル国内でもさまざまな議論があります。ロシア系、ドイツ系、アフリカ系など多様になっています。

 19世紀にはユダヤ人の国をつくろうというシオニスト運動がヨーロッパで始まり、ユダヤ人がパレスチナに移り始めました。ナチスの迫害から逃れようという事情もありました。

 パレスチナ人の人口は1948年に約140万人。うち約80万人が離散しました(パレスチナ当局5月14日の発表)。現在では、その子孫を含めて国連に登録するパレスチナ難民は約500万人余。ヨルダン、レバノン、シリア、ヨルダン川西岸、ガザなどで暮らしています。

 イスラエル建国後もイスラエルにいるパレスチナ人(アラブ人)は現在、約180万人。イスラエルの人口の約2割です。

 こんにちのパレスチナのヨルダン川西岸地区とガザ地区の人口は500万人近くです。

ガザ地区は地中海に沿って約40km弱。人口は約200万人で7割が難民です。イスラエル人が人とモノの出入りを厳しく制限しており、「屋根のない監獄」と呼ばれています。

西岸地区に築かれた分離壁

国連による「パレスチナ分割決議」 1947

 

 そして失業率は約44%。15〜24歳では約65%(14日発表)。

イスラエル軍の攻撃を受けるガザ地区郊外, 2009年1月

 

 この状況を根本から打開する方法は3つの原則しかないといえます。

  • イスラエルはすべての占領地から撤退すること。
  • パレスチナ人に独立国家樹立を含む自決権を保証すること。
  • パレスチナ、イスラエル双方が互いの存在を認めて共存を図ること(2国家解決)。

 

 イスラエルが強行しているパレスチナへの違法な入植地拡大を許さないことが大切です。日本政府に対してはパレスチナを国家として承認するべきであります。

 トランプ大統領による大使館移転問題では、国際世論はすでに、イスラエル・パレスチナ問題に関する国連の諸決議に反し、問題の公正な解決、中東の平和と安定に逆行する暴挙だとして厳しく非難されています。大使館移転を前後してパレスチナ人が行った抗議行動への発砲など、イスラエル側による残虐な弾圧に対しても即時中止が求められます

 

 

中東問題の連載は、これで終わります。野口

調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファート議長。

中央は仲介したビル・クリントン米大統領

 

| 中東問題、テロ | 10:09 | comments(0) | - |
中東戦争とその背景

 1947年、第二次世界大戦後、イギリスは、パレスチナ問題を国連に任せると宣言。国連総会は、パレスチナをアラブ人とユダヤ人の2つの国に分割し、エルサレムと周辺を国際監視下に置くという処置を採択しました。これは戦中、ドイツのホロコーストに対する同情がユダヤ人に集まった結果であり、この国連採択にアラブサイドは反発していました。

 

1948年5月14日にイギリス委託統治が終了しましたが、両勢力の戦争が起こり、イスラエルはパレスチナの75%を自国領土として、1949年夏に休戦が成立しました。これが世にいう第一次中東戦争です。

 このため、パレスチナに住んでいた多数のアラブ人たちは、難民として、レバノン・シリア・ヨルダンの3ケ国、ガザ・ヨルダン川西岸の難民キャンプ、クウェート、サウジアラビアなどのアラブ諸国や米国など各地に離散しました。

 

イスラエルとアラブ諸国。
濃い緑がイスラエルと直接交戦したことのある国。

 

1956年、スエズ動乱(第二次中東戦争)、1967年に第三次中東戦争などが起こりました。この戦争は、最終的にはアメリカの多額の軍事援助と武器援助を受けていたイスラエル側が勝利しています。

第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日〜5日)

 

 1964年になると、パレスチナ解放機構PLOが結成されました。これとは、別に1950年末にイスラエルへゲリラ攻撃をすることを目的とした「ファタハ」ができています。

1967年の第三次中東戦争後、PLO内で批判が起き、パレスチナ・ゲリラ「ファハタ」の指導者アラファトがPLOの議長に選出されることになります。ここで、ゲリラ組織を中心としてPLOを運営することになりました。

イスラエルは第三次中東戦争の勝利により、上図の肌色の部分を占領した。

アラブ側はこの戦争の復讐を誓い、第四次中東戦争の要因の一つとなった。

 

1970年代には、「領土と平和との交換」原則が国連安保理決議となり、西岸・ガザでのパレスチナ国家樹立という現実的な目標を追求することになります。

 1987年、ガザでの交通事故をきっかけとして、「インティファーダ」と呼ばれるパレスチナ住民の反イスラエル蜂起が始まりました。これにより、イスラエルがパレスチナ住民を支配している実態が国際社会に知れ渡ることになりました。このことから、イスラエル国内で、パレスチナの独立を認める政党と、あくまでも占領地を保持する右翼政党ができてきます。「労働党」と「リクルード」の2大政党がそれぞれの代表です。

第四次中東戦争

「涙の谷」手前の対戦車壕で撃破・遺棄されたシリア軍のT-55、T-62戦車と

BTR-152装甲兵員輸送車。

 

ナファク基地手前で(停戦ライン上の「拠点116」とする文献も存在する)

撃破されたシリア軍のT-55戦車。

 

 1990年になると、冷戦終結で、PLOも、いつまでも強硬な手段を取っているとアラブ穏健派からの援助を貰えないことになり、それをトリガーとして柔軟な姿勢に変更することになります。

これにより、1993年「暫定自治に関する原則宣言」にPLOとイスラエルが仮調印することになります。

 

このパレスチナ自治政府は、東エルサレムを首都として独立しようとしているのですが、同時にその地は、ユダヤ人にとっても聖地であり、かつキリスト教においても聖地という地です。この地の争奪という宗教戦争が背景になっているため、容易な妥協が両陣営できないことになっているのです。これが問題の核心となっているのです。

| 中東問題、テロ | 10:49 | comments(0) | - |
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
PROFILE