シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
きのうは100回目のシルクロード講座でした

数日前からの大雪の予報。せっかくの100回記念なのに・・・と思いながら、当日はP・C・やプロジェクターなどを会場に運ぶので車で行かなければと思いながらも、帰りは雪道だと車が走れないから、どうしょうかなどとあれこれ思いながらカミさんと2人で車で行きました。

 

前日から、常連の仲間たち2〜3人から「風邪をひいてしまったので・・・」という電話。そして朝。テレビでは「大雪、大雪・・・」と叫んでいます。

これでは“狛江まで行きたくても帰りの電車が止まるかもしれないから”と外出を控えるのは当然です。

 

100回もお世話になった「みんなの広場」は、会場中央に少し大きめの四角いテーブルが4つあるのですが、いつもはそれを引き離して20人近くが座れるようにしているのです。しかしこの日はそのまま10人くらいが座れる状態しておきました。

 

結果は私を含めて7人の参加でした。そして雪はほとんど降りませんでした。

翌日の今日も、かなりの上天気です。

シルクロード講座は結果的には私以外6人の参加でした。

6人であろうと1000人であろうと準備する手間は同じです。

 

年末から、この100回記念の講座と13日にある武蔵野市教育委員会&「老壮シニア連合会」共催の講演会に呼ばれています。

レジュメ作成やパワーポイントの作成は、2つの講演を同時進行で準備しなくてはなりませんでした。昨年末からです。落ち着かない年越しでした。

 

100回といっても毎年8月と11月はシルクロード講座がありませんでした。

毎年10回ですからちょうど10年です。

たった10年といっても、もうだいぶ忘れているところがあります。

私が準備してプリントした第1回シルクロード講座は、2007年1月15日ですから、創立前のモノでした。

創立後の第1回シルクロード講座は、間違いなく2009年4月11日が第1回シルクロード講座でした。

なぜならその記録を用意してくれたのは周東事務局長だからです。間違いありません。

 

創立前に私と盟友グリさんとでスタートさせた「シルクロード講座」は、約2年続きました。毎月隔週2回ですから43回続きました。

2007年1月から09年3月まででした。

この時は私の生涯で、死ぬほど勉強しました。

そして同年4月11日の第1回シルクロード講座からきのうの100回まで続いたのです。

 

ずっと会場を提供してくださってきた「みんなの広場」のオーナーが、しみじみとした顔で言いました。「よく続いたね〜〜、すごいことですね〜〜」。

これが私にとっての最大の賛辞でした。

出席した6人の仲間の背後には、もっと多くのシルクロード愛好者・研究者がいると思います。そしてその方々も同じ考えだと思っています。

 

創立前から一貫して一緒に動いてくれている人がもう一人います。「これまでの出来事ばかりでなく、これからの展望とか、明るい未来のことも話す必要があるね」と言ってくれたカミさんにも感謝です。

ありがとうございました、みなさん。

| 日本シルクロード文化センターの活動 | 10:34 | comments(0) | - |
森安通信を転載します

今日は、大阪在住の著名なシルクロード研究者・森安孝夫先生の「森安通信」を転載します。野口

 

 

森安通信 読者各位

 

 私はこれまで「シルクロード」を「前近代においてユーラシアの東西南北を結んだ高級商品流通と文化交流の幹線道路網」と定義して,この術語は古代・中世史のみに使うべきで,近現代史に使うのは適当でないと主張してきました。なぜなら近代以後,世界の物流の中心は海洋に移ってしまい,内陸のシルクロードは世界物流のメインルートからはずれてしまったからです。近代になっても露清間の貿易量は増大しているから,近代になって陸のシルクロードが衰えたという見方は誤りであるという反論もありましたが,絶対量が増えたといっても地球規模の物流の中に占めるパーセンテージが激減してしまったことこそが問題なのですから,そんな反論は的外れでした。ところが2010年代になって中国の習近平政権が「一帯一路」構想をぶち上げた結果,状況が変わりつつあります。つまり大西洋ルートを欧米に,太平洋ルートを日米に抑えられていると感じる中国が,かつてのラクダや馬に代わる鉄道によって中国と中央アジア諸国と東欧と西欧を結びつけ,陸路による物流を大幅に復活させようとしているのです。その現状が,本日の朝日新聞の附録であるGlobe(朝日新聞グローブ)に「喝采と警戒のシルクロード」として特集されていました。もちろん習近平の一帯一路構想の裏には,巨大な援助を投入して中央ユーラシアの弱小国を債務漬けにしておいて,いずれは意のままにしようという中国の覇権主義が隠されているわけであり,今度の特集ではその影の部分(国内では新疆のウイグル民族を弾圧)にも言及があります。とはいえどちらかといえば,そのうち日本まで巻き込む巨大物流ルートが中央ユーラシアに再生されるという明るい方向で紹介されています。それは事実であり,日本の財界・産業界も今後は目を向けざるをえないことになるでしょう。

 

 ところで先月の23・24日,東京中野の帝京平成大学で,山内和也・帝京大学教授が率いる帝京大学文化財研究所が主宰し,二日連続で開催された国際シンポジウム「シルクロードを掘る──いま蘇る,いにしえの道」がありました。発表は日本・韓国・中国・キルギスからの参加者17名に及び,カラー写真満載の予稿集が配布され,同時通訳が付く本格的な国際研究会でした。山内和也教授は,かつて上野の国立文化財機構・東京文化財研究所に所属していた時期からキルギス共和国国立科学アカデミー歴史文化遺産研究所と協力し,チュー河盆地にある都市遺跡群調査に従事しながら,ユネスコ世界遺産委員会の委員としてシルクロードを世界遺産として登録するための活動をしており,帝京大学移籍後は引き続きキルギス共和国国立科学アカデミー歴史文化遺産研究所の協力のもと,チュー河盆地にある三つの最重要都市遺跡,すなわちアク=ベシムAk-Beshim(スイアブ,砕葉),クラスナヤ=レーチカKrasnaya Rechka(ナヴェカット,新城),ブラナBurana(ベラサグン,グズオルド)の一つであるアク=ベシムを重点的に発掘しているのです。そのような背景があるため,今回のシンポジウムにおける発表はキルギス・カザフスタン・ウズベキスタン・タジキスタンの旧ソ連領中央アジア諸国に分布する遺跡に関わるものが大半を占めていました。これまで私は中国の新疆ウイグル自治区・甘粛省・内モンゴル自治区とモンゴル国での現地調査には相当の回数と日数で参加(大部分は主宰)しており,東部天山地区を含む東トルキスタンからモンゴル高原の状況には親しんできましたが,旧ソ連領の中央アジアすなわち西部天山地区〜西トルキスタンの現地を踏査した経験はないので,今回たくさんのスライドや動画を見ることができたのは,まことに幸いでした。

 

 トルキスタンとはペルシア語で「トルコ人の土地・国」という意味ですが,歴史的実態としてはソグド語・コータン語・トカラ語などの印欧語族が原住民であった土地に東方から漢民族が浸出し,さらに北方から突厥・トゥルギシュ(突騎施)・カルルク(葛邏禄)・ウイグル(回鶻)・オグズなどのトルコ系遊牧民族が次々に支配者として臨んできた結果,全体として「トルコ語を話す人々の土地・国」へと変化したのです。西部天山の北麓でイシク湖に発するチュー河を擁するチュー河盆地(キルギス共和国),並びにその西南隣で西部天山に発するナリン河を擁するフェルガナ盆地(ウズベキスタン共和国)は農業にも牧畜にも適した農牧接壌地帯であり,古くから農耕都市民と騎馬遊牧民が共存していました。それゆえ現在,チュー河盆地にはアク=ベシム(スイアブ,砕葉)をはじめとする多数の都市遺跡が散在し,フェルガナ盆地にもミンテパMingtepa,ダルヴェルジンDalverzin,クヴァKuvaなどの遺跡が点在しているのです。とりわけアク=ベシム都市遺跡は西半分がスイアブ(砕葉)と呼ばれたソグド人の東方進出の橋頭堡の一つであり,東半分は漢人が唐代に築いた砕葉鎮城でありますから,イスラム化以前の中央ユーラシアにおいてソグド世界・トルコ世界・漢人世界が交叉する最重要拠点だったわけであり,その歴史的意義の重要性は計り知れません。今後もアク=ベシムで発掘を続ける帝京大学文化財研究所の活動はますます注目を浴びることになるでしょうが,発掘作業の進展と共に,突厥とりわけ西突厥,並びにトゥルギシュ(突騎施)がチュー河盆地を拠点にして,西のソグド本国や南のタリム盆地のオアシス都市国家を間接支配するに至った経緯についても,文献史料(漢籍・アラビア語など)に加えて遺物やコインなどに残された文字資料(ソグド語・漢文・ルーン文字トルコ語)も参照しながら考察を進めていく必要が生じてくるでしょう。中国の一帯一路政策が,こういう学問研究に大金を注ぎ込んでくれるなら文句はありません。なおチュー河盆地とフェルガナ盆地の遺跡には,ゾロアスター教・仏教・ネストリウス派キリスト教・マニ教などの寺院・教会・墓地遺址やさまざまな遺物や岩壁銘文なども残されているため,宗教の道としての側面を持つシルクロードの研究にとっても,有用な材料を提供してくれるはずです。

 

 昨年12月には,鉄の研究で世界的に有名な村上恭通教授を愛媛大学にお尋ねし,西アジアから中央ユーラシアを通って中国・朝鮮・日本まで伝播した鉄文化についていろいろとお話を伺いました。村上教授の御著書(『倭人と鉄の考古学』1998年,青木書店;『古代国家成立過程と鉄器生産』2007年,青木書店)を読んで一番驚いたのは,私も信じていた「弥生時代終末期までに鉄器の普及が全国におよび,生産力の拡大による安定した経済的基盤が古墳時代成立の前提となる」という従来の考え方が,完全に否定されたことです。弥生時代後期に農具が完全に鉄器化した地域は北部九州・中九州・山陰・西部瀬戸内のみで,それ以外ではまだまだ石器と併用しており,弥生時代は決して「初期鉄器」文化ではなく,いわば「原始鉄器」文化に過ぎなかったということです。

 

 愛媛大学のある松山市は,斉明7年(661年)に百済救援軍を率いていった斉明天皇の船団が停泊し,道後温泉で休息した後,いよいよ出航しようとした時に額田王(ぬかたのおおきみ)が「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」という有名な歌を詠んだ熟田津の港(現在の松山市西岸)があったところです。そこに出てくる地名を我々はふつう「にきたづ」と読んでいましたが,現地の松山では「にぎたつ」でした。村上教授によれば,関門海峡から瀬戸内海に船で入って来ると山口県側ではなく愛媛県側に自然に着くそうです。ですから逆に瀬戸内海から関門海峡を抜けて玄界灘に出るには,この熟田津の港が最適だったようです。一つ謎が解けたような気がしました。

 

      不具    2019年2月3日      森安孝夫

 

| シルクロード | 09:15 | comments(0) | - |
シルクロード講座が今月、100回を迎えます

早いもので「シルクロード講座」が今月9日の土曜日で100回を迎えます。

私たちのクラブ「日本シルクロード文化センター」が創立したのは2005年11月26日でした。

 

今振り返ってみますと、私が退任・退職したのは60歳を1年過ぎた2004年でした。退任後、数カ月は週3日働く契約がありました。しかし、後継者の事務局長候補のK君が池袋の西武デパートの課長職をなげうって退職するので、休暇を利用して世界第2の高峰K2(8671m)登山に行ってしまいました。

代わりに仕事をやる人がいません。給料は半分以下になり、仕事は今まで通り、出勤は半分に減ったのですから、激務・激務の大変なものでした。

 

その後、7月から8月にかけて新疆シルクロードへ1ケ月以上の1人旅に出ました。トルファン在住の友人・オスマン君に運転をお願いしてタクラマカン砂漠を一周する旅に出たのです。

 

帰国後の翌年2005年の11月26日には、友人たちの応援のもとで「シルクロード・クラブこまえ」を創立することができました。させました。これは私が“シルクロード狂い”になっていたのを知っていた先輩や友人たち(それにうちの奥さんと息子も)が応援してくれた賜物でした。

会の名称は翌年、現在の「日本シルクロード文化センター」に改称しました。

理由は、“狛江だけ相手にする団体ではない、世界を相手にするんだ”との気持ちからでした。

 

この創立のイベントは大変な騒ぎになりました。

いつも利用している「泉の森会館」は消防法の関係で定員が80人だったのですが、そこにナント!100人を超える方がたが来てしまいました。

受付の女性はいつもよくお話しする方なのですが、さすがにこの時は「野口さん、これでは消防署から怒られます。何とかしてください!」。「来てしまうんだから、何ともならない」という押し問答で終わりました。

 

実は9日の「シルクロード講座」では、そのころからの記録と回顧を準備しているのですが、10年少々しかたっていないのに記憶があいまいなのです。

正規のシルクロード講座をスタートさせる前に2年間近くに渡って、中国語とウイグル語の講座と「シルクロード講座」の双方をかなりの期間にわたって開いていたのです。が、それが創立前なのか創立後なのかがあいまいなのです。

 

でも、そのときは我が人生で最も勉強した時期でした。受講者は4〜5人だったのですが、受講者が5人でも千人でも準備する手間は同じです。

それらの歴史・経過を9日には詳しくご紹介します。

 

しかしシルクロード講座は100回を記念することができます。

こんなことで自慢しても仕方がないのですが、私が知っている範囲で、シルクロード関連団体で10数年も続いているところは少ないのではないでしょうか。

あってもあまり世に出ていません。広報が少ないということは、それだけであまり評価されません。

 

「継続は力なり」という言葉があります。でも、もう一つの言葉も大切です。

「知は力なり」

| シルクロード講座のお知らせ | 10:52 | comments(0) | - |
きのう、大事なことを書き忘れました。

稀勢の里が弱い弱いといっても、弱くなった原因の一つは、けがでした。

2年前の初場所で初優勝して72代横綱に昇進。その次の場所でした。13日目の日馬富士戦で左胸を強打して負傷し、救急車で病院に運ばれましたが、奇跡の逆転優勝。その後からの11場所では優勝争いに絡むことはありませんでした。

 

身体と体をぶつけあって戦う相撲ですからケガは付き物です。

じゃあ、どうすればいいのかという対策が主催者側にはありません。

親方の多くは「稽古が足りないからケガをするんだ」というばかりの非科学さ。

 

いま大切なことは、「力士の公傷制度」です。ケガをしたら協会が責任をもって治す。

ケガで休む。これを保障することは経営者側としての当たり前の最低の義務です。休場しても格下げにしないで今までの地位を保証することです。

会社員が仕事でけがをしても「労災制度」があるように、相撲も労災だと位置付けることが協会には必要です。

 

もう一つは、これは皆さんからは賛成を得にくいのですが、本場所が多すぎます。巡業も多すぎます。

けがを治す時間と余裕がありません。治ったケガを癒す時間もありません。

一場所を10日くらいに短縮して、年4場所くらいに減らすことが必要です。

大相撲のテレビ中継となるとソファに寝そべって、絶対に動かない私ですから、相撲を見る機会が減ることは気乗りしないのですが、力士の相撲寿命を考えれば仕方がないと思います。

 

長い歴史を保ってきた大相撲ですから、それくらいの大改革をしないと、21世紀の奥深いところまで、いや、22,23世紀までずっと続けて行かれないかもしれません。それを確認することも私にはできませんが・・・

いま、相撲界は改革が必要です、小手先の改革ではなくて、です。

 

角界はいま大変動の時期に来てしまいました。

稀勢の里が引退し、鶴竜老い、白鵬も曲がり角に来ています。2020東京五輪までもたないかもしれません。

 

大関陣はもっと悲惨です。豪栄道と高安は今場所初日で私が予測したように、栃の心も含めて見事にそろって黒星を喫しました。結果も見てのとおりです。

 

それにひきかえ大関昇進を逃したものの、最有力の貴景勝と今回の玉鷲。

休場したものの復帰して勝ち越した御嶽海、それに続くのは北勝富士、阿武咲・大栄翔・炎鵬・劉電や阿炎などなど・・・

 

嵐、でさえ来年末に解散を宣言しました。

時代は確実に変化を示しています。

これを受けて立つ協会側は、力士よりも早く改革をすすめなければなりません。

それに加えて大切なことは相撲フアンの自己変革です。

外国出身の力士も含めて、大相撲に加わってきた若者たちを温かく迎えてあげてください。

迎える側が変わらなければ何も変わらなくなります。

お願いします。

 

| 大相撲を論ず | 09:32 | comments(0) | - |
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