シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
40年ぶりのキューバに行ってきましたァ.魯丱併堝盍儻

 長時間のハバナへの空の旅の翌日は、いよいよ市内観光。最初からキューバ革命の神髄へのアタックである。この日のハイライトをご紹介しよう。

  • 革命広場

   革命広場は、私が見たことのある北京の天安門前広場やハノイの革命広場よりも質素な感じのものだった。まさに40年前の真夏、ここでフィデル・カストロの演説を4時間立ちっぱなしで聞いたところである。カストロの演説はスペイン語だから、もちろんよくわからないが、ときに切なそうに訴え、聴衆の心に分け入ってくるような演説だったことを今でもよく覚えている。

 

 広場の周囲には説明を聞いたがよく覚えていない記念になる建物などがある。

 『地球の歩き方』によると、周囲には高さ18メートルのホセ・マルティの像、ラウル・カストロ議長(フィデルの弟。弟も兄と一緒に革命を戦った幹部である)のオフイスや共産党本部があるという。さらに内務省とその壁にはゲバラの顔、情報通信省、郵政省などもある。よく知らない人物の顔はカミーロ・シエンフエゴス(キューバ革命の重要な人物だそうだが、1959年に飛行機事故で亡くなったという人)もあった。

革命広場にあるチェ・ゲバラの絵

同じくカミーロ・シエンフエゴスの絵

 

  • モロ要塞

 モロ要塞は、1762年にイギリスが一時的にハバナを占領した際、ここモロ要塞を襲撃・占領したというもの。翌年、スペインはフロリダと引き換えにここを取り戻したそうだが、それからは二度とここを取られないように自衛力を高めたというもの。要塞の入り口には案の定というか定番なのだが、3〜4人のグループが演奏しており、おじさんが歌を歌っている。日本人が顔を見せると必ず演奏するのが「グアンタナメラ」。40年前も飽きるほど聞いた曲だが、いつ聞いても良い曲である。

モロ要塞での陽気な音楽屋たち

以下の3葉の写真は、いずれもモロ要塞

 

  • ゲバラの第一住宅

 革命前にアメリカの傀儡大統領だったバチスタの親類が住んでいたという建物。革命後にゲバラの住居となった。役職が上の順番からよい住宅が与えられるのだろう。どこでもそうだ。ゲバラの所持品やボリビアに潜入した際のカメラなどが陳列してあった。

ゲバラの住んだ住宅

ゲバラの住宅だった記念館の内部

同じ

  • 革命博物館
  • この博物館は革命までは大統領官邸として使われていたという。いろいろな記念物があったが、中でもカストロやゲバラたちがメキシコからキューバに密航してきた際に使用したヨット「グランマ号」まで陳列してあったのには驚いた。

グランマ号、かなりしゃれたヨットだった

 

「グランマ号」

195612月2、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨグランマ州, キューバ)へ上陸。(この二行はウィキペディアから引用)。

  • ハバナ旧市街
  • 私たちの一行には足の不自由な高齢の女性(といっても私鳥井1歳上だったが)がいたのだが、小雨の中、かなりの距離を歩かされた。文字通り「歩かされた」。添乗員はこの道20年だか30年というので、客扱いも慣れたものなのだが、”悪く慣れている”側面もあった。一人一人に気を使うということはあまりない。日程を卒なくこなす、というやり方が身につく。皆さんは口にこそ出さなかったが相当不満があたようだ。

   ついでに言うと、マリアという大学で日本語を教えているという女性がガイドについたが、彼女の日本語もひどいもので   あった。あとで聞くと、キューバには日本語をちゃんと使える人は4〜5人くらいしかいないとのこと。それじゃあ仕方   がないとは思ったものの、彼女は語彙も乏しく声も小さい。聞いていてもよくわからないので。時に「もっと大きな声で   話してください」という声がかかる。この添乗員とガイドで旅の興味と関心が半減した。

 

  • ほか

 この日の最後は、クラシックカーで1時間ほどドライブをしてホテルに帰るというもの。私が期待していたのは、ピカピカに色を塗りなおした車ではなく、座席から下を見ると道路が走っているように見える錆のついた車であった。だが、これを商売にしている人がかなりいるのでそれは仕方のないことだろう。

クラシックカーのドライバー

 

 ドライブ中に私が誤ってフロントガラスについていた小さな部品をもぎってしまった。お詫びに20兌換ペソをチップとして差し出した。それがキューバではいくらになるか考えもしなかったのだが、かなりの金額だったようで、車がついてからドライバーが車から降りてきて私に握手を求め、ハグをしてきた。彼は上海万博の時、数か月間上海に行ったそうで、帰国後になってから中国語を勉強し始めたという、私との会話は中国語になった。

 

| 旅日記 | 06:37 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました

私が昔からキューバ革命に関心を持っていた理由は、カストロでありチェ・ゲバラでもあったのだが、それよりも誰よりもホセ・マルティに関心があったからだ。それでいて彼のことをよく勉強したわけでもない。理由は、シルクロード研究そのものから言えば、関係はあるのだが一般的には無関係の国、そして何よりも日本から10,000kmも離れており、飛行機で乗り継ぎを含めて20時間近くかかるということも原因している。

 

ホセ・マルティはキューバの著作家であり革命家である。

19世紀後半のキューバ独立革命に参加し、キューバ史における英雄としてだけでなく、ラテンアメリカにおける近代文学の先駆者としても名高い。

彼は19世紀で最もすぐれたキューバ人の一人であると同時に、南米に於ける近代文学の先駆者としても名高い。 ホセマルティの独立に向ける戦いは思想の戦いであり、それは祖国キューバを超えてラテンアメリカ全域の自由獲得に対する理念の下に行われた革命であった。そして、42年という短い生涯で、彼は文学から政治に至るまで、生きることへの信念を自らの才能に反映させ、現在もキューバ国民の精神的支柱となり、更にラテンアメリカの希望の光をともなったのである。

ハバナの国際空港も彼の名を冠している。「ホセ・マルティ国際空港」と。

 

このブログをお読みの皆さんには、キューバそのものをまずご紹介しないわけにはいかないだろう。

キューバの国は日本の本州の半分くらいの広さといえば理解が早いだろう。全長は1250km、幅は200km近くあり、何よりも米国のフロリダから150kmくらいに至近距離にあるということだ。そして周りには1600近くもの大小の島がある。

 

そのキューバはこれまでにも記したように、1492年にコロンブスがこの地に到達し、そしてスペインの侵略を受けて、3つの主要な部族が絶滅させられ、1511年にスペインに征服された。

19世紀半ばからは奴隷の労働による砂糖生産で世界最大の砂糖生産地になり、1868年には第一次独立戦争が始まった。

 

キューバが砂糖産業で力をつけ、混血のクレオール農園主を中心にスペインに対する反発が強まっていき、スペインに対する反発が強まっていった。

普通、独立戦争というと先住民や土着の部族が圧政に抗して立ち上がり、そして中間層やインテリゲンティアが革命に加わるということがパターンなのだろうが、3つの主要部族が絶滅させられた関係で、中間層からの決起というスタイルになった。

 

しかしこの1868年の第一次独立戦争はスペインが独立軍を圧倒して鎮圧されるという結果になった。

しかし1895年、ホセ・マルティの率いる第二次独立戦争が始まった。これに“キューバ解放”を旗印に掲げた米国が参戦して米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)がはじまり、ホセ・マルティは95年に戦死した。

1899年、ついにアメリカの軍事占領下で、キューバはスペインの圧政から解放されることになった。

ハバナ市の革命広場にある、ホセ・マルティ・メモリアル像

 

これが曲者だった。アメリカはフィリピンの占領でもどこでも「アメとムチの政策」を採ったからである。日本が連合軍の占領下に入ったが、実際はアメリカの統治下になった。ここでかの有名な「ケネディ・ライシャワー路線」が採用されたのである。

 

見るスポーツが導入され、ジャズが入り込み、ロックンロールが流行し、「3S政策(スピード・スリル・セックス)」が産業としても導入された。キューバも例外ではなかった。

1901年にはアメリカ軍政下にありながらキューバ共和国憲法が制定されもして1902年に一応の独立を見たのである。

| 旅日記 | 04:12 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました 難行苦行の空の旅

何か、旅日記がのっけからキューバでない歴史から始まってしまいましたが、これはれっきとした「海のシルクロード」を通って侵略してきたスペインの行い。シルクロードのおはなしなのです。南米ペルーもキューバも同じような侵略の憂き目にあっていたということです。

 

△鮟颪い討ら、あれこれ多端で続きを書けませんでした。

きのうは来日中のウイグル人指導者ラビア・カーディルさんの講演会に行ってみました。2005年だったかに釈放されて米国に追放されてから15回目の来日だそうです。近いうちにご報告します。

案の定“こんな運動ではだめだ”と思うことがありましたので明日、直接、個別に面談して意見を言うつもりです。

 

ハバナへの空の旅はかなり大変でした。カナダのトロントまで10,689km。夜のフライトですから、何もすることがありません。というよりできません。飛行時間はおよそ12時間。おまけに座席は通路と通路の間。私はいつもは座席の目の前の画面で飛行機の軌跡を見ることが好きなのですが、今回ばかりは長時間なので映画も見ました。でも、普段使い慣れていないせいか、座席の画面を映画を見るように転換することは至難の業。通路を歩く制服の女性(CA)に教えてもらいました。

 

カナダのトロント・ピアソン国際空港で救われました。だが乗り換え時間はわずか2時間。あわただしく入国手続きと出国手続きをしてハバナ行きの小さな飛行機に。

ハバナへ行く機内で、サンドイッチとビールを所望したのですが、後でわかったことですが、すべて有料で販売品は「カード」で買うんですね。LCCと同じシステムなのです。退屈でしたので、「サンドイッチとビールを」というとCAは「カード、カード」と繰り返します。私も何度も注文すると、あきらめておいていきました。別に値切ったわけではありません。

 

懐かしのハバナの空港では、40年前のように、いきなりサンバの音楽とダンスのお出迎えではありませんでした。スーツケースの出てくるのが遅い。でもこれが普通、日本が異常なほど早いのです。

 

ホテルに入ってから、軽くシャワーをしてから持参のワンカップと羽田で買っておいた「鯖(さば)寿司」で夕食。うまかった〜〜〜!!!

 

翌朝、ワイフとホテルの前を歩きました。すぐ左は海。かなり曇っていて、ときおり小雨が降ってくるという天候。以前と変わったのは、以前はオンボロだったアメリカが、革命後に置いて行った車が、ピカピカに衣装替えして観光用に使っているのです。

すぐそこはカリブ海

 

ここはトロントの空港のようです

ホテルのロビーは、いつもごった返しています

もっとオンボロの車を期待していたのですが、観光用にきれいにしてしまっていたのが残念

でも、燃費は悪そうですね

 

 

| 旅日記 | 05:17 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました 

知っているようであまり知らないキューバを少しだけ勉強しましょう。

キューバ共和国。カリブ海の西にあるこの国は「タイノ族」という先住民の言葉である「クバナカン」が由来だといわれている。

先住民はこのタイノ族やシボネイ族とカリブ族がいたが、スペインの侵略によって絶滅させられた。帝国主義侵略者の本質は、いかに甘い言葉を吐こうともその本質は変わらない。

 

少々長くなるが、私が 2009年に南米ペルーにいって執筆した小論文の一部を抜粋してご紹介したい。キューバにつながる当時のスペインの侵略のありさまが良く理解できると思う。

 

スペインのペルー侵略とその終焉まで

 

1532年11月16日、征服者=コンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、わずか160名の部隊でインカ帝国を征服した。それは「南米に黄金帝国がある」といううわさを聞いての侵略行為であり、ピサロ一行は黄金を略奪すべく、インカ皇帝アタワルパを計略によって捕らえ、多くの先住民を虐殺している。

虐殺や奴隷として「売却」し、ヨーロッパから持ち込んだ伝染病などによって1千万人の人口が70万人に激減したことも事実であろう。いかにすさまじい略奪と強制労働があったかがこれだけでも理解できる。

クスコの皇帝ワスカル。

 

では当時のヨーロッパ・スペインの状況をみてみよう。スペインやポルトガルが領土を持っていたイベリア半島は、8世紀以降、イスラム勢力による進出を受けていた。そのためヨーロッパ諸国は、半島を再びキリスト教国家に取り戻そうと、「再征服=レコンキスタ」と呼ばれる運動を展開する。そしてスペインは1492年、イスラム教勢力最後の砦であった半島南部の都市グラナダを攻略し、領土回復を実現する。だが彼らの仕事はそれだけでは終わらなかった。彼らのレコンキスタは、その後、スペイン王室がスポンサーとなったコロンブスの探検隊が発見した新大陸の征服事業を、レコンキスタの延長戦と位置づけ、未開の大陸をキリスト教化するという大目標を掲げたのである。

 

キリスト教化するという大目標の前提は、現生人類発生以前にあったクロマニヨン人の子孫は白色人種であり、あの文明のない劣ったネアンデルタール人の子孫は黒人や黄色人種である。だから彼らに文明を与えるのが白人の役割なのだという「大義名分」をもって、奴隷として使役に酷使し、虐殺してもかまわないという「白人優先思想」に陥っているのであった。残念ながらその意識は、21世紀の現在に至っても濃厚に残っているのである。

第9代インカパチャクテク。

 

スペインは当初、中米の島嶼で砂金などを採掘していたが、先住民が彼らのもたらした伝染病や過酷な労働で人口が激減したために、カリブの島々を徹底的に蹂躙し、荒廃させてしまう。だが、1511年に征服したキューバ島の西岸により広大な陸地があることに気づいたコンキスタドールたちは新天地ユカタン半島に上陸し、新大陸アメリカ本土に侵略と略奪の手を伸ばしたのである。その中米とペルーへの侵略者たちが南北アメリカ大陸の最初の侵略者だったのである。

 

あらんかぎりの略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの活動が飽和状態に陥ったころ、スペイン本国では、彼らの活動はレコンキスタ本来の思想と違うという論議が高まった。1542年、国王カルロス1世は「インディアス新法」を、そして1573年には同2世によって「発見入植新法令」という法律が制定されるとスペイン人による新大陸での活動は「征服」ではなく、植民地としての「支配」とみなされ、コンキスタドールの時代は完全に終わりを告げたのである。

しかし、これは支配をする側の論理である。征服と支配とにどれほどの違いがあるのか。征服のやり方を変えただけではないのか。

 

その後のペルーとスペインにはそれなりの大きな出来事が頻発する。が、それを書くのは私のテーマではないので、逐条的に書き連ねるだけにとどめる。

1565年には、スペインのアジア進出以降、中国を征服すべしという構想が持ち上がった。67年には4千から6千の兵力を派遣しての征服プロジェクトを提起している。そして1571年にはスペインはフィリピンを征服し、植民都市マニラの建設に着手したのである。

最後のインカ、トゥパク・アマルー。

1572年の彼の処刑によってインカ帝国は完全に滅亡したが、

現在もペルー人の精神の中に自らの歴史として残り続けている。

 

 

1573年には、アジアとアメリカの富の交換が魅力的と移ったため、中国文明が生み出した712巻の絹織物、22,300の陶磁器がはじめてヌエバ・エスパーニャにもたらされ、メキシコ市のスペイン婦人の度肝を抜いたという。

1580年にはポルトガルを併合。同時にポルトガル領インドをも手に入れた。これによって、メキシコのアカプルコから東南アジアを結ぶ太平洋航路を横断する道が拓かれると、フィリピン諸島を媒介として日本も含めたアジア世界が射程に入ったのである。さらにポルトガルを併合したことによって、ポルトガル領アジア世界も包摂され、まさに世界帝国という空間が広がったのである。しかし、1588年、スペインは虎の子の無敵艦隊をイギリス艦隊との海戦によって失い、制海権を失った。

 

1600年代に入ると、インドにおいてオランダ、イギリスなどが勃興し、北米ではイギリスが圧倒的な力を示し、スペイン本土においては宗教による争いがおき、ペルーにおいては反乱・大反乱が頻発するようになった。

面白いことにペルーの首都リマにおける人口調査では、中国人38名、日本人20名が居住していることが確認されたが、名前は洗礼名しか残っておらず、日本の文化的痕跡は何も残っていなかったという。

さらにポルトガルの独立反乱、オランダの独立承認、1700年代に入るとスペイン王位継承戦争が勃発し、その結果、スペイン王朝はプスブルグ家からブルボン家へと交代した。

 

77年にはアメリカ独立戦争が起き、80年にはアンデスの大反乱が始まり、89年にはフランス革命が勃発、1808年にはナポレオンによってスペイン国王父子が退位させられるという事件も起き、アメリカ合衆国はスペインからフロリダを購入、そして1821年にはペルー・ボリビア連合軍による独立戦争によってペルーが独立を宣言するに至ったのである。

北米の研究者ハイラム・ビンガムがユカイの谷のはるか下流にマチュピチュを発見するのは20世紀になった1911年のことであり、ここではナスカの地上絵なども含めてペルーの世界遺産の紹介などは割愛する。

| 旅日記 | 03:16 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました 

 年が改まってからの24日から、長年の希望の地であったカリブ海のキューバに行ってきた。

 考えてみると前回行ったキューバはたしか1978年のこと。40年ぶりである。

 それはキューバで開催された「第12回世界青年学生祭典」に参加するためであった。別名、「世界平和友好祭」。

これがキューバ島。

 

 ウィキペディアで1978年のころを調べてみた。昭和53年のことである。

 身近なことでは池袋のサンシャインビルが60階建てとしてオープンし、地下鉄千代田線が開通し、原宿では竹の子族が踊り狂っていたころである。

 わたしの関心のある分野では、植村直己が日本人初の北極点到達を成し遂げ、日中平和友好条約が結ばれ、キャンディーズが解散した時でもある。

水谷さんご夫妻です

 

 なぜ、キャンディーズが身近なことかといえば、ワイフが教員としての務めていた学校の教え子に「蘭ちゃん」夫婦の子どもがいて、彼らとうちの奥さんが、学園祭で踊りだか芝居だかをするために、練習と打ち合わせのために我が家にも来たことがあるからだ。お互いに「豊さん」「蘭さん」などと呼び合い、尊敬しあっている素敵な夫婦だった。最近、一人娘の趣里ちゃんが頑張っているようだ。

 

ハバナで開催された世界祭典はソ連主導型の国際的なイベントだった。往復はソ連の航空会社で、コムソモールから「往復ともモスクワでゆっくり過ごしていってください。全員をご招待します」という干渉と誘惑をはねのけてだった。

 

私は新日本体育連盟(旧称・現在の新日本スポーツ連盟)代表団の事務局長として参加した。総勢で15名だったが、世界からは12,000名が参加していたと思う。日本からは150名くらいだっただろうかよく覚えていない。いまほど写真や記録をとる生活習慣がなかったからだろうか。

 

 今回の旅は、最近おなじみになっている「富士国際旅行社」のツアーで「ゲバラ・カストロとともに闘った高齢者たちと交流」と銘打った「キューバ 歴史と文化の8日間」。だからと言って参加者は高齢者ばかりではない。父と娘、3人家族に娘がいた。2人の「娘」とも30代半ば。だが私は上から2番目の年齢だった。

 テーマがテーマだけに、“社会主義キューバ”に関心のあるメンツがそろった。すでに羽田で時間待ちをしているときに偶然とはいえ「奇遇」があった。

 

 時間待ちをしているとき、隣に座った60歳代の女性と話していると、私も知っているある女性との接点が明らかになった。

はじめに述べた40年前のキューバ行の際、同行の仲間に通称「チャミ」という若い女性がいた。チームのアイドル的存在で彼女はバスケットをやっていた。その彼女が帰国してから何度か私に悩みごと相談の電話をくれた。結婚問題やあれこれのことだった。その女性と極めて近い付き合いのある方だった。

 

「彼女はいまでも美人で(40年前は美人というよりも“元気な女の子”という印象だった)、彼女の娘さんも“日本人離れした超美人(隣に座った女性の方の表現)”だ」という。それでいて愛知県のある市の議員(所属は共産党)をしているという彼女は、他党からも人気のある議員さんだということを聞いた。

 

 まだ奇遇があった。

 いま、私がスポーツ分野であれこれ仕事をしているが、ほとんど毎日のように連絡を取り合い、週に1度か2度は会議で同席する50年近いつきあいの仲間がいる。

 その彼と依然同じ部署で仕事をしていた男性が娘さんと参加していた。

 

 しかも彼は大のポナペ好き。ポナペというのは南洋諸島のミクロネシア共和国にある島だが、実はそこはわが奥方の実際上の出身地。

 少しだけポナペをご紹介しよう。

 

 ポンペイ島(ポンペイ島、Pohnpei)は西太平洋カロリン諸島にある島。ミクロネシア連邦ポンペイ州に属し、同連邦の首都パリキール (Palikir) の所在地である。かつてはポナペ島と呼称された。ポンペイとはポンペイ語で「石積み (pehi) の上に (pohn) 」という意味。ポーンペイ島とも呼ばれる。

よくわからないでしょうけれど、ミクロネシア共和国です。

 

 

 ポナペへは、成田・羽田からグアム島へとび、そこからトラック島へ北上し、小さな飛行機に乗り換えてポナペ国際空港に着く。滑走路が短いので普通の飛行機では離発着ができないのだ。「空港ビル」はまるで夏の海水浴の「海の家」のようなものだった。

いつのころの空港ビルかわかりませんが、これはかなり最近の建物のようです

 

我が家の一家も含めて義母の一家眷属の大集団でポナペ島へ行った。

ワイフの母親が戦前からのプロレタリア作家だったのだが、そのポナペ島(いまはポンペイ島という)がドイツの信託統治領だったころ(第一次世界大戦までのころ)島民の反乱事件があった。それを母親が『ジョカージの反乱』という小説にまとめるための取材旅行だったのだ。

意外や意外という出会いがキューバへの旅のはじまりから展開して、面白そうな旅になる予感がしはじめていた。

| 旅日記 | 09:57 | comments(0) | - |
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