シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
40年ぶりのキューバ旅日記 ―文豪ヘミングウエイを訪ねて―

 アメリカ人作家アーネスト・ヘミングウエイは1899年にシカゴで生まれて1961年に62歳で亡くなった。死去直前までの22年間はキューバで暮らした。

拠点としたのはハバナ郊外のサンフランシスコ・デ・パウラという丘の上の家。プールもある豪邸は「フィンカ・ビヒア(眺望楼)」と呼ばれていた。

ヘミングウエイの邸宅の一部

「老人と海」の舞台となったヨット「ビラール号」

ヘミングウエイの寝室のベッド。彼は身長が180センチ以上あったというから

このベッドでは小さかったかもしれない

 

 

 後半の1940年代には「使用人9人、猫52匹、犬16匹、鳩300羽、牛3頭、そして妻1人」と自称していた。妻が最後に登場するなんて失礼だろうが、このころの男こんな認識だったのだろう。いや「妻1人」という表現は彼なりのジョークだったのであろう。

眺望楼の庭

ヘミングウエイの胸像

陽気なスタッフ

いい顔してる!

 

彼は世界の各地を旅しながらここで執筆活動を続け、「誰がために鐘はなる」「海流のなかの島々」といった作品を発表していた。

 朝日が昇るころから7〜8時間を執筆にあて、昼から夜中までは自由な時間とし、定宿のホテル、アンボス・ムンドスのある旧市街でラム酒を2倍にしたフロ―ズン・ダイキリなどを飲んだという。わたしたちはそこへも行き、ダイキリを飲んだ。観光客そのまんまである。

ヘミングウエイが良く通ったバー&レストランでダイキリを

「ダイキリ」でいいのかどうか?違っているかもしれない

キューバのコーヒーは世界的にもおいしい。

お土産に持って帰ったら大好評だった。

その代わり「葉巻」はそうでもなかった。

なぜなら、いまは煙草を吸う人が少ないからである。

 

 この生活パターンは私と同じである。夜は外出がない限り、晩酌を飲んでから9時にはベッドに入る。目が覚めるのは朝2時か3時ころ。ブログやメールチェックなどはこの時間に書く(きょうは朝食後に書いているが)。

 そして外出がない限りは昼食も睡眠薬代わりにアルコールを口に入れ、午後目覚める。快適である。大相撲中継の時期は目覚めるとテレビの前に座るので、わたしの執筆タイムは昼までである。自称、「午前中だけ生きている男」。

 

 「老人と海」はキューバ第二の都市サンティアゴ・デ・キューバで書かれた。そのホテルも博物館ではなく、今でもそのままホテルだが、ヘミングウエイの部屋はそのまま保存されていた。 

 私は「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」などの映画は見た。だが小説は読んでいない。理由は、ほかに読むものがたくさんあったからである。

 

 

 ヘミングウエイはここキューバで多くの作品を書いた。ノーベル賞を受賞したその才能は世界屈指であったろう。しかし私は違う考えを持っている。

彼はあくまでも支配者アメリカの庇護の上に莫大な原稿料を得て裕福な生活を謳歌していたのである。私とは正反対である。スペインの人民戦線での戦いを描いた「誰がために鐘は鳴る」は映画を見る限りでは、ファシストに抵抗したスペイン人民を支援する世界各国の義勇軍兵士を描いた傑作といえようが、彼の作品の下地はどこにあったのだろう。小説を読んでいない私にはこれくらいしか言えない。

 今もあるアメリカ大使館。さて、アメリカというか

トランプはこれからどういう態度に出るか

| 旅日記 | 11:03 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―ハバナの老人クラブで―

 そろそろ旅も終わりに近づいた半日、カリブ海の海岸にある老人クラブに行った。

カリブの海は美しかった!

 

 富士国際での“うたい文句”は「キューバの老革命家との交流」とあったが、とんでもない、地域の老人会である。しかし、交流は心温まるものであった。

 

 まず初めに68歳とか言っていた女性が代表者でご挨拶。

以前の日本人旅行者がおいて行ったもののようだ

キューバ側の代表

 

 そして健康体操などの紹介、数少ない男性陣からは歌があった。あれこれの紹介と交流のあと、日本側からも一応「代表者」があいさつ。代表も富士国際が「決めていて」くれた。そうではなく参加者同士で自主的に決めさせればいいのにと、その拙劣なやり方に失笑した。このころにはもうすでに参加者同士の交流も進んでいるので「仲間」になっているからである。

「健康体操」を披露してくれた

 

左は「ガイド見習い中」のヨルダン君

 

 交流が終わりに近づいたころ、日本側からの出し物が必要になっていた。このようなときほとんどの場合が「ふるさと」か、あるいは「さくらさくら」を歌うくらいで終わる、それも歌詞の「一番を二回」くらいで・・・・・

このようなとき、最年長の女性だかの提唱で「炭坑節」を歌いながら輪になって踊るというものであった。とくに最後の“さのよいよい!”の掛け声のところは大きな声で歌いながら踊るので、私の見た目では大好評であった。

炭坑節です

若い女性も楽しんでいました

おばさまたちも楽しんでいました

 

 このようなとき、どういうことか私は一緒に輪の中に入って楽しめない悪いクセがあった。終始、勝手にカメラマンとして動いていた。

 

誰かが「カストロとの思い出を一言」と要望したが異口同音に“イヤよ”とばかりに断られた。終わってからガイドのマリアさんに、なぜ断られたのかを聞いた。答えは「あの頃の苦しいことを思いだしたくないのですよ」と言われたが、もう一つ別の答えもあったのではないかと後になって疑いだした。

それは「カストロの共産主義に対する疑問」だったかもしれない。そうでないかもしれない。そしてそれはガイドとしての「矜持」だったのかも知れない。

会場での記念写真

男声独唱

これは富士国際が用意したプレゼントのようです。

 

 私や私たちは、この交流会がどのようなものかあまり知らされていなかった。

 日本側からの贈り物も富士国際が用意したものであった。そんな心のこもっていない、何を送ったのかもわからないやり方でなく、事前に参加者に連絡をし、一人一品なんらかを準備していくなどのやり方ができたはずである。この時期にキューバへ行こうとしている参加者は、そんなこともできない連中だとでも考えているのだろうか。そこまで頭が回らなかったのか、ずいぶんと粗雑なやり方である。

 

 

 交流が終わってから外の海岸に出て、みんなで記念写真を撮った。

 カリブの海は久しぶりの好天で輝いていた。

お別れ際にカリブ海を背景に・・・・・

私はこのような時、集まっている最中の写真が好きです。

まだそろっていません

| 旅日記 | 03:29 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―ハバナの夜。キャバレー・トロピカーナでカリブの音楽を堪能−

  私はこれまで、日本でキャバレーとか、女性が座って男性にサービスをする店に入ったことがない。誘われたことはあるが、そのような気持ちにはならないし、その類の友人は極めて少ない。なぜなら、自分が好きな酒を飲むのに、「女性」の媚に金を払う気持ちにはなれない。仲間や家族と楽しく飲むほうがよほどうまい酒が飲めるからである。

 

それからもうひとつ、私は子どものころから音楽が好きであった。高校生くらいからはモダンジャズに強い関心を持った。そのうちに必然的にマンボ、サンバやレゲエなどの音楽も好きになっていった。私の車の中のI podには、このような音楽が満載である。

 

 ジャズの王様と言われた「サッチモ」こと「ルイ・アームストロング」は、こう言った。「ジャズには良いジャズと悪いジャズがある」と。

 人に勇気と元気を与え、生きる道を指し示し、迷いをなくすようなジャズは“良いジャズ”といえよう。そして、その反対が“悪いジャズ”といえる。

 そして、キューバはこの「良い音楽」でいっぱいだった。このキャバレー「トロピカーナ」は、激しく楽しい踊りと中南米音楽のすべてを満喫できるところであった。

 

 そのキューバの音楽はヨーロッパとアメリカ音楽の融合であった。コロンブスがこの島を「発見」したあと、スペイン、イギリス、フランス、オランダなど新旧のヨーロッパ帝国主義の進出を受けたことで、島ごとに異なる文化と言語が定着していった。

 また奴隷として連れてこられたアフリカの黒人が持ち込んだ風習や周囲の大陸文化も混ざり合い、カリブの小さな島々にはそれぞれ独自の音楽が発達した。

 

 なかでも当時から西洋との交易の中継地として栄えてきたキューバでは、スペイン語圏の文化と島を囲む各地の音楽が相互に影響しあうことで、豊かな音楽が生まれた。

 20世紀初頭にはすでにアバネーラ、ボレロ(クラシック音楽とは異なるキューバのギター音楽)、ソンなどが現地の音楽として流行したが、キューバ音楽の魅力を爆発的に世界に広めたのは。1930年代以降に欧米で起こった一大ラテン・ブームだった。

 

 ノリのいいリズムとビッグバンドによる切れのあるサウンドで演奏されたルンバやマンボ、チャチャチャといったキューバ生まれのダンス音楽が世界中を席巻し、そのなかからザビア・クガートやペレス・プラードといった世界的な大スターも生まれていった。その後、1959年に社会主義革命が成功するとキューバはアメリカ合衆国と関係を断ち、その後はより地元に密着したかたちで音楽を発展させてゆく。

 

 

 そのようななかで、アメリカのミュージシャン、ライ・クーダーが国交断絶の壁を乗り越えてキューバを訪れ、映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を制作。当地に暮らす老ミュージシャンたちの歌と演奏とともに、素晴らしく成熟した音楽文化をあらためて世界に広めた。

 キューバから生まれた最高のダンス音楽といえば、北米で大流行したサルサも忘れてはならない。北米で大流行した。

 

 私たち夫婦の旅仲間のある女性は、このサルサが好きで青山かどこかまで行ってレッスンをしている。

 しかし、サルサの発展については諸説ある。もともとキューバで発祥したダンス音楽であるルンバやマンボが、プエルト・リコを伝わって周囲の音楽と融合。1950年代以降、アメリカのニューヨークに移住したプエルト・リコ人によってジャズやロックの影響も取り入れられた発展したものだという、カリブ・ニューヨークの合作説が有力だという。

 

年配の方は覚えておいでだろうがトリニダード&トバゴで生まれたカリプソは黒人シンガー、ハリー・ベラフォンテの「バナナボート・ソング」が世界的に大流行した。私も子供のころ口にしていたことを覚えている。

様々な音楽がカリブの島々を取り巻いて演奏されていった。

 

ハバナの「キャバレー・トロピカーナ」は、私が抱いていた日本のキャバレーとは全く異質な、明るく楽しい音楽とダンスの楽園だった。

広い会場の中段に席を占めることができた私たちは、ラム酒のお迎えとともに存分に楽しむことができた。

きらびやかな男女の衣装、キューバのナンバーワンといってもいいほどの最高の歌とダンス、子供も一緒に楽しめるような楽しい雰囲気であった。

最後には一行の半分くらいの仲間が舞台に上がって一緒に踊りだしていた。

 

私の筆力ではこれ以上の表現を知らない。あとは写真で想像していただくしかない。

文書は『地球の歩き方』の松本良平氏の力をお借りした。

| 旅日記 | 05:19 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―キューバ革命を左右した戦いの地サンタ・クララ−

 サンタ・クララはトリニダードの北部にある内陸都市。

 そうそう、私たちはキューバの地理に詳しくないので、まず言葉で説明してみよう。日本の本州だけの地図を頭に置いていただきたい。そうするとサンタ・クララはちょうど静岡あたりになるだろうか。ハバナは島根県あたりだと思えばいい。

 インターネットで地図を出してみた。写真に「キューバ」というカタカナがあるが、この小文字の「ュ」の辺りがサンタ・クララに当たる。

サンタ・クララはキューバのど真ん中にある

 

 サンタ・クララは革命軍がバチスタ政権を倒すきっかけとなった街である。

 ここにはゲバラの霊廟がある。ゲバラは1967年にボリビア政府軍との戦闘で捕らえられ、翌日の10月9日に銃殺された。没後20年を記念して1987年にゲバラの胸像と、その戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて38の石を安置した霊廟が、革命戦争勝利の突破口となったここサンタ・クララに建てられた。

ゲバラ霊廟での全員集合写真です

キューバ共産党地区委員会前にある胸像

 

 1977年にボリビアでゲバラの遺骨が発見されると、カストロの手でこの霊廟に納められた。ゲバラの名言「常に勝利に向かって」の書かれた台座の上に、6メートルを超える巨大な胸像が立っている。記念碑の横に博物館があり、ゲバラが子どものころからの写真や身に着けていたものや記念品が展示されている。

たまには2人で・・・・

 

 この霊廟は厳重な管理に置かれており、カメラもバッグも持って入ってはいけない。今では、なぜそこまで厳重にするのか意味がないのだが、すぐには変えることができないのだろう。

 

 

 またこの近くには革命勝利の1年前の1958年12月29日、ゲバラが始動する革命軍はここでバチスタ政権の装甲車を襲撃し、大量の武器を奪い取った。これによって独裁者バチスタは亡命を決意し、革命勝利のきっかけとなったことで有名である。

 小雨の中、公園の中に襲撃された装甲列車がバラバラに置かれたままになっている。半ズボンとビーチサンダルで行った私は、気を付けてはいたのだが案の定、ツルリと滑って転んでしまった。2週間はかさぶたが取れなかった。

革命軍に襲撃されて革命戦争の勝敗を決したといわれる装甲列車。

ここでステンと転んだ

文章とは無関係ですが、街で捕まったこそ泥。後ろ手に手錠をはめられている。

警察官とは顔なじみのようで、まのなく手錠を外されて街へ消えていった。

| 旅日記 | 04:39 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました ―革命戦争の記念の地トリニダー−

 

 ハバナに着いてからずっと荒れ模様だった天候が、この日になってやっと太陽を見せてくれた。小雨、曇り空はもう飽き飽きしていた。これでなくてはキューバじゃない。早速半ズボンになって歩いた。

 

 トリニダーもやはり世界文化遺産の街。1988年に登録された。このキューバ南部の植民都市トリニダーは早くからスペインによって開発されていった。勘違いしてはいけない。それは先住民のためにではなく、自分たちが暮らしやすく住みやすくなるように、そして支配・搾取・略奪しやすいためにというためだ。したがって、ここは奴隷と砂糖貿易の中心地として栄えた。

街にはいまでも馬車が闊歩している

路地裏のスーパー

売り子の女性たち。撮影の許可を求めると気軽に応えてくれた。

路地裏を走り回っていた少女たち

 

 大航海時代にヨーロッパに広がった紅茶やコーヒーに砂糖を入れることがはやり、砂糖の生産は労働力となる奴隷貿易とともに、一大産業になっていったのである。

 

 郊外のロス・インへニオス渓谷はサトウキビ畑が広がる地で、今も奴隷たちが働いていた砂糖工場の跡がある。

広いサトウキビ畑が残っている

 

 19世紀に奴隷制度が廃止され砂糖相場は暴落、続く戦乱で町は衰退したが、街並みは植民地時代の雰囲気をそのまま残している。農園主ニコラス・ブルネット・ムニョスの壮麗な屋敷を再活用したロマンティコ博物館やイスナガ夫人の邸宅を利用した歴史博物館には当時の家具調度品や生活用品が展示され、農園主たちのぜいたくな暮らしぶりがうかがえる。

ここから下3葉は、いずれも農園主、いや奴隷主だったものの邸宅跡

 

 一方で、ロス・インへニオス渓谷には、砂糖王イスナガが建てた高さ45メートルの「奴隷監視塔」が残り、当時の奴隷たちのつらい労働状況を今に伝えている。ラム酒にハチミツ、ライム、水を混ぜたカクテル「カンチャンチャラ」はこの街の名物である。

「奴隷監視塔」。うちのカミさんは、高いところが好きだから登って行った。

| 旅日記 | 04:07 | comments(0) | - |
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