シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
40年ぶりのキューバ旅日記 ―ハバナの夜。キャバレー・トロピカーナでカリブの音楽を堪能−

  私はこれまで、日本でキャバレーとか、女性が座って男性にサービスをする店に入ったことがない。誘われたことはあるが、そのような気持ちにはならないし、その類の友人は極めて少ない。なぜなら、自分が好きな酒を飲むのに、「女性」の媚に金を払う気持ちにはなれない。仲間や家族と楽しく飲むほうがよほどうまい酒が飲めるからである。

 

それからもうひとつ、私は子どものころから音楽が好きであった。高校生くらいからはモダンジャズに強い関心を持った。そのうちに必然的にマンボ、サンバやレゲエなどの音楽も好きになっていった。私の車の中のI podには、このような音楽が満載である。

 

 ジャズの王様と言われた「サッチモ」こと「ルイ・アームストロング」は、こう言った。「ジャズには良いジャズと悪いジャズがある」と。

 人に勇気と元気を与え、生きる道を指し示し、迷いをなくすようなジャズは“良いジャズ”といえよう。そして、その反対が“悪いジャズ”といえる。

 そして、キューバはこの「良い音楽」でいっぱいだった。このキャバレー「トロピカーナ」は、激しく楽しい踊りと中南米音楽のすべてを満喫できるところであった。

 

 そのキューバの音楽はヨーロッパとアメリカ音楽の融合であった。コロンブスがこの島を「発見」したあと、スペイン、イギリス、フランス、オランダなど新旧のヨーロッパ帝国主義の進出を受けたことで、島ごとに異なる文化と言語が定着していった。

 また奴隷として連れてこられたアフリカの黒人が持ち込んだ風習や周囲の大陸文化も混ざり合い、カリブの小さな島々にはそれぞれ独自の音楽が発達した。

 

 なかでも当時から西洋との交易の中継地として栄えてきたキューバでは、スペイン語圏の文化と島を囲む各地の音楽が相互に影響しあうことで、豊かな音楽が生まれた。

 20世紀初頭にはすでにアバネーラ、ボレロ(クラシック音楽とは異なるキューバのギター音楽)、ソンなどが現地の音楽として流行したが、キューバ音楽の魅力を爆発的に世界に広めたのは。1930年代以降に欧米で起こった一大ラテン・ブームだった。

 

 ノリのいいリズムとビッグバンドによる切れのあるサウンドで演奏されたルンバやマンボ、チャチャチャといったキューバ生まれのダンス音楽が世界中を席巻し、そのなかからザビア・クガートやペレス・プラードといった世界的な大スターも生まれていった。その後、1959年に社会主義革命が成功するとキューバはアメリカ合衆国と関係を断ち、その後はより地元に密着したかたちで音楽を発展させてゆく。

 

 

 そのようななかで、アメリカのミュージシャン、ライ・クーダーが国交断絶の壁を乗り越えてキューバを訪れ、映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を制作。当地に暮らす老ミュージシャンたちの歌と演奏とともに、素晴らしく成熟した音楽文化をあらためて世界に広めた。

 キューバから生まれた最高のダンス音楽といえば、北米で大流行したサルサも忘れてはならない。北米で大流行した。

 

 私たち夫婦の旅仲間のある女性は、このサルサが好きで青山かどこかまで行ってレッスンをしている。

 しかし、サルサの発展については諸説ある。もともとキューバで発祥したダンス音楽であるルンバやマンボが、プエルト・リコを伝わって周囲の音楽と融合。1950年代以降、アメリカのニューヨークに移住したプエルト・リコ人によってジャズやロックの影響も取り入れられた発展したものだという、カリブ・ニューヨークの合作説が有力だという。

 

年配の方は覚えておいでだろうがトリニダード&トバゴで生まれたカリプソは黒人シンガー、ハリー・ベラフォンテの「バナナボート・ソング」が世界的に大流行した。私も子供のころ口にしていたことを覚えている。

様々な音楽がカリブの島々を取り巻いて演奏されていった。

 

ハバナの「キャバレー・トロピカーナ」は、私が抱いていた日本のキャバレーとは全く異質な、明るく楽しい音楽とダンスの楽園だった。

広い会場の中段に席を占めることができた私たちは、ラム酒のお迎えとともに存分に楽しむことができた。

きらびやかな男女の衣装、キューバのナンバーワンといってもいいほどの最高の歌とダンス、子供も一緒に楽しめるような楽しい雰囲気であった。

最後には一行の半分くらいの仲間が舞台に上がって一緒に踊りだしていた。

 

私の筆力ではこれ以上の表現を知らない。あとは写真で想像していただくしかない。

文書は『地球の歩き方』の松本良平氏の力をお借りした。

| 旅日記 | 05:19 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバ旅日記 ―キューバ革命を左右した戦いの地サンタ・クララ−

 サンタ・クララはトリニダードの北部にある内陸都市。

 そうそう、私たちはキューバの地理に詳しくないので、まず言葉で説明してみよう。日本の本州だけの地図を頭に置いていただきたい。そうするとサンタ・クララはちょうど静岡あたりになるだろうか。ハバナは島根県あたりだと思えばいい。

 インターネットで地図を出してみた。写真に「キューバ」というカタカナがあるが、この小文字の「ュ」の辺りがサンタ・クララに当たる。

サンタ・クララはキューバのど真ん中にある

 

 サンタ・クララは革命軍がバチスタ政権を倒すきっかけとなった街である。

 ここにはゲバラの霊廟がある。ゲバラは1967年にボリビア政府軍との戦闘で捕らえられ、翌日の10月9日に銃殺された。没後20年を記念して1987年にゲバラの胸像と、その戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて38の石を安置した霊廟が、革命戦争勝利の突破口となったここサンタ・クララに建てられた。

ゲバラ霊廟での全員集合写真です

キューバ共産党地区委員会前にある胸像

 

 1977年にボリビアでゲバラの遺骨が発見されると、カストロの手でこの霊廟に納められた。ゲバラの名言「常に勝利に向かって」の書かれた台座の上に、6メートルを超える巨大な胸像が立っている。記念碑の横に博物館があり、ゲバラが子どものころからの写真や身に着けていたものや記念品が展示されている。

たまには2人で・・・・

 

 この霊廟は厳重な管理に置かれており、カメラもバッグも持って入ってはいけない。今では、なぜそこまで厳重にするのか意味がないのだが、すぐには変えることができないのだろう。

 

 

 またこの近くには革命勝利の1年前の1958年12月29日、ゲバラが始動する革命軍はここでバチスタ政権の装甲車を襲撃し、大量の武器を奪い取った。これによって独裁者バチスタは亡命を決意し、革命勝利のきっかけとなったことで有名である。

 小雨の中、公園の中に襲撃された装甲列車がバラバラに置かれたままになっている。半ズボンとビーチサンダルで行った私は、気を付けてはいたのだが案の定、ツルリと滑って転んでしまった。2週間はかさぶたが取れなかった。

革命軍に襲撃されて革命戦争の勝敗を決したといわれる装甲列車。

ここでステンと転んだ

文章とは無関係ですが、街で捕まったこそ泥。後ろ手に手錠をはめられている。

警察官とは顔なじみのようで、まのなく手錠を外されて街へ消えていった。

| 旅日記 | 04:39 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました ―革命戦争の記念の地トリニダー−

 

 ハバナに着いてからずっと荒れ模様だった天候が、この日になってやっと太陽を見せてくれた。小雨、曇り空はもう飽き飽きしていた。これでなくてはキューバじゃない。早速半ズボンになって歩いた。

 

 トリニダーもやはり世界文化遺産の街。1988年に登録された。このキューバ南部の植民都市トリニダーは早くからスペインによって開発されていった。勘違いしてはいけない。それは先住民のためにではなく、自分たちが暮らしやすく住みやすくなるように、そして支配・搾取・略奪しやすいためにというためだ。したがって、ここは奴隷と砂糖貿易の中心地として栄えた。

街にはいまでも馬車が闊歩している

路地裏のスーパー

売り子の女性たち。撮影の許可を求めると気軽に応えてくれた。

路地裏を走り回っていた少女たち

 

 大航海時代にヨーロッパに広がった紅茶やコーヒーに砂糖を入れることがはやり、砂糖の生産は労働力となる奴隷貿易とともに、一大産業になっていったのである。

 

 郊外のロス・インへニオス渓谷はサトウキビ畑が広がる地で、今も奴隷たちが働いていた砂糖工場の跡がある。

広いサトウキビ畑が残っている

 

 19世紀に奴隷制度が廃止され砂糖相場は暴落、続く戦乱で町は衰退したが、街並みは植民地時代の雰囲気をそのまま残している。農園主ニコラス・ブルネット・ムニョスの壮麗な屋敷を再活用したロマンティコ博物館やイスナガ夫人の邸宅を利用した歴史博物館には当時の家具調度品や生活用品が展示され、農園主たちのぜいたくな暮らしぶりがうかがえる。

ここから下3葉は、いずれも農園主、いや奴隷主だったものの邸宅跡

 

 一方で、ロス・インへニオス渓谷には、砂糖王イスナガが建てた高さ45メートルの「奴隷監視塔」が残り、当時の奴隷たちのつらい労働状況を今に伝えている。ラム酒にハチミツ、ライム、水を混ぜたカクテル「カンチャンチャラ」はこの街の名物である。

「奴隷監視塔」。うちのカミさんは、高いところが好きだから登って行った。

| 旅日記 | 04:07 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました ―世界遺産 シエンフエーゴスへ−

 親しい友人から「キューバ日記を楽しみにしている」との手紙が来た。“これは力を入れて書かねば”と思うが、本当はほかに課題山積。A4で7ページの他人の講演をまとめなければならない。

 「現代シルクロード研究会」のテーマ「東トルキスタン共和国の成立と崩壊」のレジュメとP.P.も準備しなければならない。その1週間後には、5月に行くイランの歴史と世界遺産の紹介原稿を書かなければならない。いやいや・・・

 

 キューバの旅のこの日は、4時間、240kmのバスの旅になった。車好きの私はほとんどが自分の運転が多いのだが、客としてバスに乗るときは風景を眺めるのが忙しくてほとんど寝ることはない。うちのかみさんは95%は寝ている。そのくせ声をかけると“ちゃんと起きてるわよ!”と毒づく。

 そうそう、言いたかったことは、私も初めての体験だが、今回に限ってはバスが走り始めると寝た。実によく寝た。時差の関係で眠くなるのだろう。カミさんいわく「老齢化現象よ」!

バスの窓から

 

 そしてこの街は2005年に世界文化遺産に登録された。その理由はこの街の造りが“フランス風”だからという。もともとヨーロッパから始まった「世界遺産登録」は、まず、“ヨーロッパありき”からスタートした。

 

 そういえば、「ギネス」もそうだし、あれこれ何もかもヨーロッパ発信である。わたしはこれを「ヨーロッパ中心志向」といっている。そうそうきのう小平が銀を取った「オリンピック」もそうだった。

 

 わたしはこのことを否定的にだけ言っているのではない。人類の先進的な文明を登録しているのだからこれを否定はしない。でも世界遺産登録が最も多い国はイタリアだが、どういうことか第2位は中国になっている。

 だが我が国の自治体がそろって「我が県も世界遺産登録を!」と競っていい始めると、もうこれは世界基準ではなくなる。単なる“客寄せ”になってしまう。

これはオペラ劇場

 

 悪口雑言はこれくらいにしてシエンフエーゴスをご紹介しよう。 この街は1819年に貿易都市として建設された古都である。フランスからの移民が多く、だからフランス風の建物が多いからだろう。1957年のキューバ革命で革命軍によって解放された。

 

 この街の中心となる場所は「ホセ・マルティ広場」。

 広場の周囲には、いわゆるフランス風の建物が並んでいる。

 あまり人影も多くない広場には、あちこちに「サンバ野郎」たちが歌っている。どういうことか女性は少ない。そして必ず小さなDVDを売っている。これは日本ではうまくいけばPCで聞くことができる。うまくいかなければ?「聞けない」。曲は例外なく「グアンタナメラ」。

この建物も世界遺産かと思いましたが、学校でした。

教育重視の国策が良く理解できたのです。

キューバでは全国どこでもこの色の制服です。

それにしても、子供はどこでも元気です。

「写真撮っていい?」と聞くと、平気でポーズをとってくれました。

この子は”女の子”から内面は”女性”へと脱皮しつつある年齢なのでしょう。

我が孫娘も近いうちにそうなるのでしょうか?

海の近くでは豚の丸焼きです。

カリブ海です

 面倒だからウィキペディアをコピーしてしまおう。

グァンタナメラ Guantanamera

「グァンタナモの娘」を意味する世界的に有名なキューバ音楽

『グァンタナメラ Guantanamera』は、世界的に有名なキューバ音楽。1929年初演。

タイトルの「Guantanamera」は、「グァンタナモの娘」を意味する。「グアンタナモ Guantánamo」はキューバ南東部の都市。米軍基地がおかれている。写真はグアンタナモの街並み。

 

アレホ・カルペンティエルの著書『キューバの音楽』によると、「グァンタナメラ」のルーツは作者不詳の8音節4行詩の農民歌謡(民謡)で、ホセイート・フェルナンデスの歌声により1920年代に広まったとされている。

ホセイート・フェルナンデス(Joseíto Fernández/1908-1979)またはホセ・フェルナンデス・ディアス(José Fernández Diaz)は、20世紀のキューバ音楽を代表するシンガーソングライター。

ホセ・マルティの詩集が歌詞に

歌詞については、キューバの文学者・革命家ホセ・マルティ(José Julián Martí Pérez/1853-1895)の詩集「Versos sencillos 簡潔な詩(素朴な詩)」に基づくヴァージョンが世界的に有名。

このホセ・マルティ詩集を1950年代に歌詞として転用したのは、キューバの音楽グループ「オリヘネス」のメンバー、フリアン・オルボン(Julián Orbón/1925-1991)。

アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーのレパートリーに

 

エッセンシャル・ピート・シーガー

オルボンの弟子エクトル・アングロは、1960年代のアメリカ留学中、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガー(Pete Seeger)と知り合いになった。

ピート・シーガーはアングロを通じ、「ホセ・マルティ詩集」版の歌詞で歌う『グァンタナメラ』をレパートリーに加えた。

このピート・シーガーによる歌唱により、「ホセ・マルティ」版の『グァンタナメラ』は世界的に知られることとなった。

| 旅日記 | 05:54 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきましたァ.魯丱併堝盍儻

 長時間のハバナへの空の旅の翌日は、いよいよ市内観光。最初からキューバ革命の神髄へのアタックである。この日のハイライトをご紹介しよう。

  • 革命広場

   革命広場は、私が見たことのある北京の天安門前広場やハノイの革命広場よりも質素な感じのものだった。まさに40年前の真夏、ここでフィデル・カストロの演説を4時間立ちっぱなしで聞いたところである。カストロの演説はスペイン語だから、もちろんよくわからないが、ときに切なそうに訴え、聴衆の心に分け入ってくるような演説だったことを今でもよく覚えている。

 

 広場の周囲には説明を聞いたがよく覚えていない記念になる建物などがある。

 『地球の歩き方』によると、周囲には高さ18メートルのホセ・マルティの像、ラウル・カストロ議長(フィデルの弟。弟も兄と一緒に革命を戦った幹部である)のオフイスや共産党本部があるという。さらに内務省とその壁にはゲバラの顔、情報通信省、郵政省などもある。よく知らない人物の顔はカミーロ・シエンフエゴス(キューバ革命の重要な人物だそうだが、1959年に飛行機事故で亡くなったという人)もあった。

革命広場にあるチェ・ゲバラの絵

同じくカミーロ・シエンフエゴスの絵

 

  • モロ要塞

 モロ要塞は、1762年にイギリスが一時的にハバナを占領した際、ここモロ要塞を襲撃・占領したというもの。翌年、スペインはフロリダと引き換えにここを取り戻したそうだが、それからは二度とここを取られないように自衛力を高めたというもの。要塞の入り口には案の定というか定番なのだが、3〜4人のグループが演奏しており、おじさんが歌を歌っている。日本人が顔を見せると必ず演奏するのが「グアンタナメラ」。40年前も飽きるほど聞いた曲だが、いつ聞いても良い曲である。

モロ要塞での陽気な音楽屋たち

以下の3葉の写真は、いずれもモロ要塞

 

  • ゲバラの第一住宅

 革命前にアメリカの傀儡大統領だったバチスタの親類が住んでいたという建物。革命後にゲバラの住居となった。役職が上の順番からよい住宅が与えられるのだろう。どこでもそうだ。ゲバラの所持品やボリビアに潜入した際のカメラなどが陳列してあった。

ゲバラの住んだ住宅

ゲバラの住宅だった記念館の内部

同じ

  • 革命博物館
  • この博物館は革命までは大統領官邸として使われていたという。いろいろな記念物があったが、中でもカストロやゲバラたちがメキシコからキューバに密航してきた際に使用したヨット「グランマ号」まで陳列してあったのには驚いた。

グランマ号、かなりしゃれたヨットだった

 

「グランマ号」

195612月2、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨグランマ州, キューバ)へ上陸。(この二行はウィキペディアから引用)。

  • ハバナ旧市街
  • 私たちの一行には足の不自由な高齢の女性(といっても私鳥井1歳上だったが)がいたのだが、小雨の中、かなりの距離を歩かされた。文字通り「歩かされた」。添乗員はこの道20年だか30年というので、客扱いも慣れたものなのだが、”悪く慣れている”側面もあった。一人一人に気を使うということはあまりない。日程を卒なくこなす、というやり方が身につく。皆さんは口にこそ出さなかったが相当不満があたようだ。

   ついでに言うと、マリアという大学で日本語を教えているという女性がガイドについたが、彼女の日本語もひどいもので   あった。あとで聞くと、キューバには日本語をちゃんと使える人は4〜5人くらいしかいないとのこと。それじゃあ仕方   がないとは思ったものの、彼女は語彙も乏しく声も小さい。聞いていてもよくわからないので。時に「もっと大きな声で   話してください」という声がかかる。この添乗員とガイドで旅の興味と関心が半減した。

 

  • ほか

 この日の最後は、クラシックカーで1時間ほどドライブをしてホテルに帰るというもの。私が期待していたのは、ピカピカに色を塗りなおした車ではなく、座席から下を見ると道路が走っているように見える錆のついた車であった。だが、これを商売にしている人がかなりいるのでそれは仕方のないことだろう。

クラシックカーのドライバー

 

 ドライブ中に私が誤ってフロントガラスについていた小さな部品をもぎってしまった。お詫びに20兌換ペソをチップとして差し出した。それがキューバではいくらになるか考えもしなかったのだが、かなりの金額だったようで、車がついてからドライバーが車から降りてきて私に握手を求め、ハグをしてきた。彼は上海万博の時、数か月間上海に行ったそうで、帰国後になってから中国語を勉強し始めたという、私との会話は中国語になった。

 

| 旅日記 | 06:37 | comments(0) | - |
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