シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
さあ〜アンコール・ワット観光、だが、その前にー13

5月7日

いつも部屋は、こんな具合です。

ホテルのフロント

 

 旅の途中で、日本の旅行社に連絡してホテルを抑えてもらっていた。きょうはアンコール・ワットの観光である。ここばかりはガイドがいないと何にもわからないのでガイドをお願いしてあった。きょうは「セデナ」というガイドが来る予定であった。だが時間になってもガイドが来ない。ガイドのセデナの電話番号はあらかじめ知っていたので、フロントから電話をしてもらった。すると彼は「聞いていません」という。すると入れ替わりにホテルに日本人が走りこんできた。

ロビーから玄関を見る

 

 彼は日本人経営の旅行会社シェムリアップ支社の日本人社員であった。「申し訳ありません。野口さまが見えることは知っていたのですが、ガイドと車の手配を忘れていました」。「じゃあ、君は私がここへ来てアンコール・ワットを刊行するというのに、何をするのかぜんぜん考えなかったのかい?」「完全に忘れていました。申し訳ありません」という。「観光を案内する会社が、基本的なことをやらなかったんだね。それがプロの仕事か!」と一喝。そして彼に、「家族はいるの?日本へはどれくらい帰ってないの?」とやさしく声を掛けた。脅かしておいて、優しい声を掛けるのは、あまり性格の良い人はしない。

掃除の女性

 

オトシマエ

 だが私もそれだけで終わらせるような男ではない。仕事をミスした会社に黙っていない。次のような条件を提案した。

  • きょうアンコール・ワットへ行くが、明日のアンコール・トムの観光にも車とガイドを提供すること。
  • 9日にこのホテルをチェックアウトするが、午後2時半まで部屋で大相撲をテレビを見ていたい。その分の料金も保証すること(シェムリアップの午後2時半は、日本の相撲中継の終わる午後6時だから)。
  • 9日にラオスまで空路でいくが、空港まで私を車で送ること。

 を、提案した。結果は、すべてOKだった。私はなんとあこぎな人間なのだろうと、かすかな反省を感じていた。

 

 彼は合わせて「きょうのドリンクは私どもが支払わせていただきます」というので、「じゃあ、これからビールを10本飲むからね」と冗談を言うと、それも本気に受けとめて「はい、それもけっこうです」という。

 ついでに、「明日は博物館もご案内いたしましょうか」とまで言ってくれた。私はとんだ乱暴者のようである。

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慟哭の村 キリング・フィールドの沈黙ー9

民主カンプチア時代のポルポトによる大虐殺があった場所のひとつ、キリング・フィールドへ行く。市内から南西へ12km。トゥール・スレン博物館に拘置された人びとがここに運ばれ、1975年から1978年にかけて、ポル・ポト派によ

 り約2万人の人びとが虐殺された現場である。

 

 ガイドがいないので困っていたが、幸いなことに日本語音声のガイドがあったので助かった。ナレーションの日本語が「ここはほかの博物館と違って、皆さんを楽しい思いにさせることができません」と言う。まわりのあちこちにある小さな木の札には「沈黙を」とある。入場者はほとんどすべてが欧米の外国人。それまでほとんど街中で見かけることがなかった欧米の外国人である。その中にはチラホラ日本人も見える。そしてほとんどが沈黙のままである。イヤホンガイドを聞いているからだが・・・

 

 

あちこちに虐殺されて遺骨が発掘された跡がある

 

 私はポルポトがいかに残虐な大虐殺を行なったかを知っている。

 カンボジアの全国各地139ヶ所にわたって、この種のキリング・フィールドがあることも知っていた。

 だが、実際に敷地の中央に1988年に建てられたガラスの塔の内部に、9000近くの頭蓋骨や肋骨などの人骨があることは知らなかった。その人骨の山を見たときの衝撃は忘れることができない。いまでもこの全国各地のキリング・フィールドを含めた全土には、まだ掘り出されていない遺体が無数にあるという。

中央にある記念塔。このガラスのなかに無数のしゃれこうべが陳列されている

 

 

カンボジア暗黒の時代

 

 1975年4月1日。クメール共和国がクメール・ルージュに敗れて、その日のうちにロン・ノルはハワイへ亡命。12日、アメリカ大使もヘリコプターでタイへ脱出した。

 

 4月17日、クメール・ルージュが首都プノンペンに入場した。その後、新しい支配者は「B52の爆撃を避けるため」というデマを理由にして、都市住民を強制的に農村へ移住させた。これには例外はなかった。住民は妊婦も病人も炎天下を歩かされて、多くの死者が出た。

ポルポトの軍は、トラックに乗ってやってきた。

強制退去によって200万人いた首都プノンペンはゴーストタウンと化した.

(インターネットから)

 

 

 7月1日、「民主カンボジア憲法」を公布して、国名を「民主カンプチア」に改称した。その新しい支配者となったクメール・ルージュは、貨幣制度の廃止、都市住民を農村へ入植させて強制労働などという、極端な「原始共産」的な政策を実行した。

虐殺は「無造作」に行なわれた。銃弾は高くつくので、

農機具で撲殺されたという

 

 

 大虐殺の対象は旧政権関係者、都市の富裕層や知識人、学生、外国へ留学した経験のある者、クメール・ルージュ内の親ベトナム派などは例外なく虐殺された。“反乱の疑いのあるもの”と認定されると、政治犯収容所(現在のトゥースレン虐殺博物館)などに収容され、その人たちも例外なく虐殺された。

 

まだ掘り起こされていないのだろうか。

 

 1975年から79年のポルポト時代の4年間は、中国の毛沢東の思想を教条的に反映して「農本主義」的な政策が採られたが、このような政策がうまくいくはずもない。結果、そのような非効率・非合理主義によって大干ばつをもたらした。出生率の低下、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などが主な原因とする。その数は、いまだに正確な数は把握できていないが300万人を超えていると思われる。200万人説もある。いずれも資料のほとんどが焼失されているため正確な数字がわからない。1960年代に行なわれた国勢調査の人口と最近の人口調査で、比率としておおよそのパーセントがわかるということを聞いた。

ここにあった小屋にある農機具で殺された

 

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世界地図と「股のぞき」

 拙宅の1階のトイレに大きな世界地図があります。大きいので、太平洋で二つに切って左右の壁に貼ってあります。一方、2階の私の部屋にも同じ大きさの世界地図が貼ってあります。これは2つに切ってありません。でも、私の部屋の地図は逆さまに貼ってあります。なぜでしょうか?間違えて貼ったのではありません。

 

 世界地図を逆さまに見ると、世界が変わって見えるのです。そうすると、例えば、日本海を見ると、かなり丸く見えるのです。しかも対岸が短い距離に見えます。それだけで、“大昔は、この海を様ざまなところから船で出かけて交流・交易があったんだよ”といわれると、“なるほど”と思えてしまいます。皆さんにも是非お勧めしたいと思います。

どうです?日本海が小さく、丸く見えるでしょう?

世界が変わって見えると思います。

 

 たまたま世界地図を作製しているところが、いまのような日本を中心とした地図をつくったのでしょう。これが外国ヘ行くと、当然のことながら、自分の国を中心につくっています。それだけでも、地球を見る感覚、気持ちが変わってきます。なぜ、このことを書いたのかというと、下記の新聞記事を読んだからです。

「股のぞき」です。今年のイグ・ノーベル賞に選ばれました。

 

 きょうの朝日新聞の記事を、そのままコピーしました。お読み下さい。

 

 「股のぞき」効果とは…

 世の中を笑わせ、考えさせた研究や業績に贈られる今年のイグ・ノーベル賞の発表が22日、米ハーバード大であった。前かがみになって股の間から後ろ方向にものを見ると、実際より小さく見える「股のぞき効果」を実験で示した東山篤規(あつき)・立命館大教授(65)と足立浩平・大阪大教授(57)が「知覚賞」を受賞した。日本人の受賞は10年連続。

東山篤規(あつき)・立命館教授(65)

 

 ハーバード大の劇場で開かれた授賞式に臨んだ東山教授は、股のぞきを披露しながら「股のぞきをすると、小さく、縮む。覚えて帰ってください。小さく、縮む……」などと研究内容を紹介した。

 

 股のぞきをして景色を見ると、天地が逆さまになり、直立した姿勢で見た時より平らで奥行きが少ない印象を受ける。日本三景の一つ京都府の「天橋立」では、「股のぞき」をして景色を楽しむ風習があるなど、日本では昔から効果が知られてきた。

 

 実験心理学が専門の東山教授が主に研究を行い、足立教授が統計分析に協力。2006年に専門誌に論文を発表した。

 計90人に股のぞきなどをしてもらい、離れた位置に置いた目印(三角形の板)の見かけの大きさや距離を当ててもらう実験を繰り返した。その結果、股のぞきをすると、直立して見るより目印が小さく、遠くの目印が手前にあるように感じる錯視の効果が確認できた。股のぞき効果は、目印が大きく遠くにあるほど目立ち、45メートル離れた地点に置いた高さ1メートルの目印は高さ60センチ前後に感じるという。

東山教授が始めると、会場の人たちもやりはじめた。

 

 さらに錯視が起きる原因に、前かがみの姿勢が深く関係していることも示した。プリズムを使って上下左右が逆に見えるようにした「逆さ眼鏡」をかけて股のぞきをすると、見える景色は直立した姿勢と同じになる。ところが、その場合も、逆さ眼鏡をかけずに股のぞきをした時と同じような錯視が起きていた。姿勢などの体感が視覚に直接影響する証拠の一つという。

 東山教授は「実験に協力してもらおうと声をかけると、男性は『ようそんなことやっとるな』という顔をするし、女性には『恥ずかしいのでやりたくない』と言われる。初めて聞いたときにくすっと笑ってしまうテーマだったのが、評価された理由でしょう」と話している。

 

 主催者のマーク・エイブラハムズさんは「(東山教授の研究は)今年最も面白い研究の一つ。候補者リストにはまだたくさん日本人の名前がある。日本は来年以降も受賞を期待できる」と話した。

 

 今年のほかの主な受賞研究は次の通り。白馬がアブに刺されにくい理由とトンボが黒い墓石に引きつけられる理由(物理学賞、ハンガリーなど)▽自動車の排ガス問題を検査時に自動的に解消する方法(化学賞、ドイツフォルクスワーゲン社)▽体の左側がかゆいとき、鏡を見て右側をかくとかゆみが治まる発見(医学賞、ドイツ)▽1千人のうそつきにうそをつく頻度を尋ね、答えが信じられるかどうか特定(心理学賞、ベルギーなど)。(ケンブリッジ〈米マサチューセッツ州〉=小林哲

 

どうです?

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ベトナムの旅―22   フエ、その前に

 

 ハノイが終わって、空路、フエに向かう。その前に、ベトナムの革命運動に身を投じた人に触れて、その中から生まれた中国、フランスや日本の支配に抗する動きなどに触れてみたい。

 

フアン・ボイ・チヤウという人物

 

 「ベトナム人がもし、地は老い天は荒れ山は焦げ海は涸れるとも、その熱誠、その勇気が片時も消えることがなかったならば、数千余の天人ともに許さざるフランスの鬼が、五千万の愛国のベトナム人に抗しうる道理はなく、彼らがはじきだされるのは、すぐさまのことなのだ」。

フアン・ボイ・チヤウ

 

この文章を書いたフアン・ボイ・チヤウは、このように訴えて、1940年に生涯を閉じるまで、ベトナムの独立運動を続けた。

 彼は、ベトナム中部のゲアン省の貧しい農村の生まれであった。父は儒学者だったという。貧しいながら1900年には「科挙」に合格。普通であれば立身出世は約束されたようなものだったが、フランスに支配されているのを目の当たりにして、革命運動に身を投じた。

 

ベトナム各地で蜂起を繰り返したが、単独の蜂起ではフランスには太刀打ちできないことを自覚し、革命の同志を募った。「ベトナム維新会」を組織し、独立運動への援助を求めて日本に渡った。

 日本では中国から亡命していた梁啓超(りょうけいちょう)らの革命運動家と出会う。のちに中国の首相となり、5・15事件で暗殺された犬養毅からは、人材の育成こそが国づくりの基本だと諭され、ベトナムの青年たちに日本への留学を呼びかけた。

若き日の梁啓超、弁髪姿である

梁啓超 1901年4月17日

写真:フエにあるファン・ボイ・チャウの銅像)

 

 一時は200名を超えるベトナム青年たちが日本で学んだが、1907年以降はそれもうまく進まなくなった。それは、日本とフランスが協定を結んで、フランスは日本の韓国での権益を、フランスはインドシナ支配をそれぞれが認めると、フランスはこの協定をタテに、フアン・ボイ・チヤウやベトナム人青年を日本から追放させたのである。

東遊運動で日本へ渡ったベトナム人留学生

 

 この頃までフアン・ボイ・チヤウは、日本を同じアジア人の国として共感を持っていたが、しだいにベトナムを支配するフランスと何ら変わらないとして、失望していった。日本に失望したフアン・ボイ・チヤウは中国に渡って活動を続けた。1911年、辛亥革命がおこった。清朝を倒して、アジアで最初の共和国である中華民国が誕生したのである。フアン・ボイ・チヤウは、この革命にならってベトナム共和国の建設を唱え、広東でベトナム光復会を組織した。しかし、武装蜂起に失敗し、ベトナムに連行された。終身刑を言い渡されたが、全国で釈放運動が繰り広げられ、フエに軟禁された。

フエにあるファン・ボイ・チャウが晩年を過ごした家

 

 

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インドシナ半島5カ国の旅 ベトナム編―10

ホーチミン廟

広場から見たホーチミン廟

 

暑い!天気予報では34度とあったが、地表温度はそれ以上40度だろう。太陽の下を2〜3分も歩くと、額から髪の毛の間から首筋から汗がほとばしるように流れ出る。だがこのようなときは、覚悟を決めて外出するとかえって暑さが快適に思える。皆さんのなかでは私だけが短パンにサンダル。

 

ここは故ホーチミン主席の遺体が祀られている神聖な廟でもある。Tシャツ、短パン、女性のミニスカートなどは、ほんらいはご法度。みだりに私語を交わすことや写真撮影もだめ、という。しかし、主として欧米の連中に短パンの人が多い。したがって現在では、短パンはあまり規制されないようだ。ミニスカートも胸のギリギリ目いっぱいまでの女性も増えたので、きわめて緩やかになってきている。しかし、バッグなどは空港並みの検査でカメラも携帯電話もダメ!したがって、ホーチミン廟内部の写真は皆無である。

 

 ホーチミン廟は、「独立と自由ほど尊いものはない」と語った故主席の意思を継いで、遺体が納められている。命日は1969年9月2日。そして、このホーチミン廟ができたのは1975年9月2日の「建国記念日」だという。

 「故主席の意志」とは、ホーチミンは自分の遺体を火葬にしてほしいと遺言をしたが、党と政府は遺体をそのままにとどめて、永久保存できるようにガラスの棺に納めた。

朝と夜、衛兵の交替式。なかなか格好いい

 

 

 私が思うには、ホーチミン主席が、いかにベトナムのために尽くしたといっても、故人の遺志は尊重されるべきであろう。ガラスに収めて遺体を見ることができたとしても、それは国民一人一人の頭脳に一瞬間だけとどまるだけのこと。個人の革命にささげた事業とその貢献は、永遠に一人ひとりの胸に刻まれているということの方が重要なのではなかっただろうか。何か共通している“社会主義の負の遺産”を見るような気がしてならない。

 

 私も数年前、ワイフと息子、娘に言った。「お父さんの葬儀は人をできるだけ集めて、飲んで食って派手にやれ。骨は細かく砕いて多摩川とタクラマカン砂漠に撒いてくれ。手続きなんかいらない。行って、黙って撒けばいいことだ」と。だが、弁護士業を生業(なりわい)としている娘は爐修譴亘‥に問題がある”とか言って、賛成はしていない。私の願望を打ち砕かないでほしいと思っている。

今回の添乗員さんは、集合写真が好きだった

 

 ホーチミンは1776年のアメリカ独立宣言を引用して、「地球上のすべての民族は生まれながらにして平等であり、生存する権利、幸福かつ自由である権利を持つ」と述べ、1789年に出されたフランス革命の人権宣言もこう述べている。「すべての人は自由かつ権利において平等なものとして出生し、生存する」と訴えた。

衛兵が警備する入り口。

(今日の写真は、この衛兵の2葉をインターネットから借用した)

 

 「しかし、80年以上にわたるフランス帝国主義者は自由・平等・博愛の旗印を悪用して、わが国を占領し、わが同胞を抑圧してきた。かれらはわが人民からあらゆる民主的自由を奪った。かれらは非人道的な法律を押しつけた。かれらはわれわれの国家的統一を破壊した。かれらは学校よりも数多くの監獄を建てた。かれらは無慈悲にもわが愛国者たちを殺害した」。そして、それまでベトナムを支配していた日本人から独立を勝ち取った」と述べている。

(『これならわかる ベトナムの歴史Q&A』三橋広夫著 大月書店 2012年刊)から

 

 入場を待つ行列は、暑い中の長い長〜い行列であった。そのうち3分の1は幼稚園児から小学生のようである。可愛い子どもたちを見て、わが小学校入学前の孫娘を思い出した。今まで行っていた保育園から退去の勧告が出されて、近くの同系列の保育園に移った。仲良しになって、“力強くスキンシップ”をしたりして「乱暴だ」と思われたようである。女の子は少しくらい乱暴な方がいい。自分の意思をそのまま率直に表現し、行動することだ。“暴れろ暴れろ!世界を股にして暴れろ!”である。

 

保母さんたちもアオザイの下にはいている真っ赤なスラックスが素敵である。

外国人が多い。とくにアメリカとフランスからの観光客が多いという。アメリカ人は、先人の犯した過ちと罪を多少でも感じているのだろうか。多少は感じているだろう。ベトナムの女性たちは色とりどりの美しいアオザイを着て廟に行く。この正装がベトナム人の気持ちなのだろう。

0426 ホーチミン廟へはカメラを持ち込めないが、

正装しておまいりする家族連れ

 

ここでアオザイについて

 

 見かけた女性たちが着ていたアオザイが私はことのほか美しく思えた。「アオ(衣服)ザイ(長い)」は、ほんらいは男女を問わずに着ていた礼服だったそうだ。

 グエン朝の時代に中国の役人の服を簡略化したものが「アオザイ」と呼ばれ、それが一般の人にまで広がったようだ。その後、1930年代にハノイの美術家たちがカット方法を改良して、シルエットを現在の形に変えた。

この女性は、ホーおじさんの家のスタッフ

 

 女性の服となったアオザイはその人に合わせて裁断するため、一人ひとり採寸してから仕立てる。ウエストの高い位置まで切れ込んだ両脇のスリットが特徴である。現在は女子高生の制服や正月、結婚式などの特別の日に着る衣服となっている。

 

 話を戻そう。

 

 ホーチミン廟は総大理石で、ホーチミン主席の遺体がガラスケースに収められている。この日もそうだったが、実に多くの人が詣でている。これがホーチミンの命日の9月2日になると、ものすごい人出だとガイドさんは言っていた。この日だけでも、廟に入る人の行列の波がものすごく長かったのでウンザリしていたのだが、この日の何倍もの人手だというから想像を絶する。だが、考えてみればそれだけ、“ホーおじさん”が多くの人びとから愛され、親しまれているのだといえる。我が国の権力者もよく見ならうべし、である。

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