シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
スポーツマンシップの行く道

  先日のこと。隔週くらいに仲間内でスポーツ関連の勉強会を開いているのですが、そこで議論になったこと。

ピョンチャン・オリンピックの女子スピードスケートで小平奈緒選手が優勝して、韓国の選手が2位になった際、小平選手が2位になった友人の韓国選手の肩に手をかけて慰め、励ましている場面が“感動”を呼んでいるということに関して。

小平奈緒選手と2位の李相花選手(共同)

 

 私が、「スポーツ選手であれば、ああいうことは当然のことだから、何もマスコミが“感動!”“感動!”と騒ぐことはないんじゃないか」といいました。すると、誰に対してでもすぐに喧嘩口調で話す同年輩の女性が「感動でいいんじゃないの?」と異論を唱えました。女性というか年齢のかさばった彼女たちは決して持論を引っ込めません。ですから、「お互いの考え方と意見の持ち方だから、言い争うことじゃないから」と議論を打ち切りました。このテの人と言い争うのは疲れるからです。

 

 それはともかく、今回のオリンピックは数々の収穫がありました。北区西が丘にある「味の素ナショナルトレーニングセンター」の働きの成果でもあると思います。良い指導者、よい施設、そしてアスリート本位の国の予算。

現実は多くのスポーツ愛好者はその道をふさがれていますが・・・

味の素ナショナルトレーニングセンター

 

 「金メダルは目標であるけれど、そのためだけに努力しているのではない」

「自分の最大限の努力の結果が金メダルなのであって、まだまだ私は進化し続ける」・・・

 これらの彼女のアスリートとしての意識は、素晴らしいものです。

カメラとマイクを向けられるとロクに自分の意見も話せないスポーツ選手がいる中で、この人は優れたスポーツ思想を持っていると思います。

 

お相撲さんでも、金星を挙げたり、勝ち越した力士にインタビューすると、すらすらと話す力士が増えています。以前は“マグレです”を繰り返す力士ばかりでしたが。

それに比べるとオリンピック後の悪しき話題として、女子レスリング界の問題が持ちあがっています。

 

 伊調かおる選手とコーチとの関係が“パワハラ”だと騒がれています。そのこと自体については、事実関係を確かめて良い結論が出ればいいことですが、私が言いたいことは、残念ながら、あのようなことはスポーツ界にとっては日常茶飯事の普通のことになっているということです。「オレがかわいがって指導したのに、ほかのコーチに教わろうとしている。許せん」、「オレのメンツをつぶした・・・・」。

  それくらい人間関係や指導・被指導の関係は個人本位でいびつになっているのがほとんどです。

伊調馨選手(左)と栄和人強化本部長

 

 だからこそ“スポーツマン・シップ”が大切なのだと思います。

 試合や競技の時は正々堂々と戦い、それが終われば友だち。互いにリスペクトの精神で対し、相手から学ぶということが基本なのです。

 

 政治の分野でも同じことが言えるでしょう。国会に提出した国の文書に手を加えて改ざんし、存在している文書を「ない」とうそを言う、これなどは「退場!」です。

 カーリングのチームがさわやかな話題を呼んでいますが、北海道の言葉「そだね〜」がはやり言葉になっています。

カーリング女子3位決定戦で英国を破り銅メダルを獲得し、喜ぶ

(左から)吉田知、藤沢、本橋、鈴木、吉田夕=24日、韓国・江陵

 

  それに比べて安倍内閣の「うそだね〜」がなんと多いことよ。直さなければなりません。

戦争への道を一直線。政治は国と国民の平和と安心のためにあることを忘れた男。

「うそだね〜」。

 

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友あり、病気になる。また悲しからずや、いや、楽しからずや、だ。

 きのう、ブログを書いている途中で、60年来の親友が脳こうそくで救急搬送されたというはがきが来ていた。ポストの角に引っかかっていて気が付かなかったのだ。多忙な私を気遣って電話やメールでなく、はがきを送る彼の気持ちがうれしかった。

 

 顔も洗わず、歯も磨かず車に飛び乗って、狛江から多摩川を登戸に渡って多摩川堤通りをガス橋まで行き、そこから東京側に入りました。さらに多摩川沿い(私の子どものころはここを「六郷川」と呼んでいました)に六郷土手まで行き、羽田の大師橋まで。そこからは産業道路に合流して大森方面へ向かい、「大鳥居駅」を超えてから右に折れて「森ケ崎」へ向かい東京労災病院へ。

 

 幸い、脳こうそくもたいしたことなく(脳こうそく自体は大した病気なのですが・・・)、絶対安静が5日つづき、やっときのうから平常通りになり、来週には退院できそうだとのことでひと安心。

 

 わたしの妻も2年余り前に脳こうそくになりました。病状はそれまでと何ら変わりはなく、踊りに古武術にウォーキングにと、毎晩一緒の晩酌のビール一杯と普段通りの生活を維持できています。

 しかし、街に目を転じて気を付けてみると、実に多くの方が何らかの病気を経験して杖をついていたリ、体の不自由な歩き方をしていらっしゃいます。ですから、体に何らかの不具合があるからと言って、「障がい者」だとか「障害者」などという必要は全くありません。

 

 と言って別にこの話題をパラリンピックに持っていこう意図はありません。脳や心臓あるいは体の動きに不自由を来たす病気の方が実に多いということと、だからといって特別な意識で見る必要もないということを言いたかったのです。

 

 もう一つの話題。

 この東京労災病院というのは、昔私が勤めていた会社の近くでした。

ちょうど、患者を見回りに来た若い看護師さんに「60年前のこの病院は、2階建てのボロボロの建物だったんだよ」というと、彼女は「ボロボロ」に関心を持つのでなく「60年前って冗談でしょう?」というのです。

 

 それはともかく、先日のキューバの話でも「40年前に行ったキューバ」のことでした。この年になると20年や30年は、ほんのちょっと前のことでしかなくなってしまいます。「近現代を一身にわが身で体験できるから・・・」なんていっても、要するにジジイになっているだけのこと。

 

 しかし、避けようのないこの「老化」という現在を私はこよなく愛することにしています。だって、避けようがないのだから、楽しむしか仕方がないと思っているのです。でも、孫娘が結婚するときまでは生きていたいと思います。医師になると言っていますから、あと20年で27歳。私は95歳。ちょっと無理かな〜〜

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40年ぶりのキューバに行ってきました ―その革命の系譜−

少し、キューバの歴史を振り返ってみましょう。

 

先史時代は、よくわからない。

コロンブスが入り込んで来たときから先住民を絶滅させるほどの侵略と虐殺と略奪の歴史であった。

 

 1959年、キューバの親米バティスタ政権に対する反乱は1953年のカストロの指導した「7月26日運動」に始まった。カストロは数人の同志とともに東部のモンカダ兵営を襲撃したが、最初の蜂起は失敗、メキシコに逃れ、その地で革命を目ざす組織をつくり、1956年キューバに上陸、同志のゲバラとともに苦しいゲリラ戦を展開した後、農民の支持を受けて首都ハバナを占拠し、1959年1月1日、バティスタ政権を倒した。

アメリカの傀儡独裁大統領バティスタ

 

フィデル・カストロ

チェ・ゲバラ

 

独裁政権の打倒

 カストロは民族主義的な社会改革を目指し、まず農地改革法を制定、小作人の解放をはかった。多くのサトウキビ農園はアメリカ人地主のものだったので、アメリカは激しく反発、キューバ産の砂糖の輸入を制限するなど対抗策をとった。キューバはソ連に接近し、60年2月に貿易援助協定を締結、社会主義路線への転換を明らかにし、アメリカ企業を接収して国有化を断行、61年に1月には両国は外交関係を断絶した。

 

社会主義革命
 アメリカは諜報機関のCIAが画策して、亡命キューバ人を支援して上陸させ、革命政府の転覆を謀ったが失敗、アメリカに不信感を強めたカストロはソ連に接近し、61年5月にキューバ社会主義宣言を発表し、社会主義路線を採ることを明確にした

 

キューバ危機

 アメリカのケネディ大統領はラテンアメリカ諸国に「進歩のための同盟」結成の働きかけを行ってキューバ孤立化を図り、さらに同年4月に亡命キューバ人による反革命軍のキューバ侵攻を支援したが、失敗した。1962年ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことを知ったアメリカはキューバを海上封鎖し、10月の「キューバ危機」となった。これは米ソによる第三次世界大戦の危機であったが、妥協が成立、ソ連はミサイルを撤去した。こうして社会主義キューバは存続することができたが、アメリカによる経済封鎖は継続されている。

 

キューバの社会改革

 カストロの指導するキューバ共産党の一党独裁の下で、当初はソ連の支援と影響を強く受けながら進められた。まずアメリカ人地主・資本家を追放してその農園、工場などの資産を国有化し、教育・医療などの無料化などの社会保障、道路・住宅・水道・電気などの建設、生活物資の配給制などが実施された。しかし、ソ連の援助と砂糖のソ連東欧圏への輸出に依存したため、経済は向上せず国民生活の困窮は続き、反革命の動きも現れたが、カストロはそれらを国外追放にするなど革命路線を維持した。また60年代に入ると中ソ論争のあおりを食らって社会主義陣営が分裂、カストロもソ連一辺倒から次第に離れて、第三世界との連携を重視するようになり、またラテンアメリカ諸国やアフリカの革命運動、民族運動への支援を強めた(ボリビアでのゲバラの活動もその一環だった)。

「世界史用語解説 授業と学習のヒント」=キューバ革命 を参照。

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また、新しい年が始まりました

あけましておめでとうございます

 

昨年11月23日に深大寺で「七五三」のお祝いをしました。

頼まないのに、お酌をしてくれました。

至福のひと時でした。

 

 

 今年も静かに新しい年があけました。

 いつも新年になってから書く年賀状も、いま、2日午前4時書き終えました。

 頂いた方には失礼なのですが、これはもうかなり負担ですね。

 一度「今年で終わります」と宣言したのですが、送っていただいた方には返事を出さなくてはと思い、また復活しました。

 例年のように2日のきょうは、息子と娘家族が来ます。

 どういうことか、婿殿の母親と弟まで来ます。

 

 年末ジャンボも先ほど見ました。

 末尾の300円のほかに1万円が当たっていました。

 これはいつもワイフにプレゼントします。以前は、3枚だけ買って「当たらなかった!」とプンプンしていました。

 

 3日は「日本シルクロード文化センター」の仲間たちが集まって、恒例の新年会です。最近は大酒を飲む人が少なくなって不満です。ビールをチョコッと飲んで、あとはワインとか言って!!!こちらがプンプン!です。

 

 と、いいながら今年も新しい出会いを求めて、24日にはキューバへ行きます。

 5月にはアフリカ南部を予定、6月にはイランの恒例のツアー、8月には黄河源流、11月にはミャンマーとラオスを検討中です。

 

 シルクロードもウイグルの地は銃剣の「歓迎」、中東はテロの跳梁、私自身もほとんどのところは行っていますので、ソロソロ年貢の納め時かなとも思っています。

 でもそうなると老いも早く来ます。行けるうちに行かねば、先輩たちが次々とこの世から離れていくので、身体を強くしなければなりません。

 フィットネスクラブに再加入することにしました。

 当面は、9日に発行するニュースの書き手を決めなければ・・・・

 と、こんな毎日が、またはじまります。

 

 今年もよろしくお願いします。

 

 1月2日  午前4時半    野口信彦

 

11月23日に、わが家へお泊りに来た孫に、クリスマスプレゼント。

事前に娘と相談していたのですが、あまりの喜びようで、涙を流していました。

今年も、孫Love の1年ですね。

クリプレも小学一年生になると、「おもちゃ」から「可愛いお人形さん」に変わりますね。

 

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シルクロード・私の忘れ得ぬ人 \沼篠子(ちょうこ)さん

あと1週間で新しい年が来ます。早いものです。

今年とくに感じたことは1週間がとてもはやかったことです。

こんな風にして私もやがてどこか黄泉の国へ行くのでしょうね。

 

11月末頃から「喪中はがき」が来ます。

亡き加藤九祚さんの古くからの友人で「オクサス学会」の代表でもあった古曳正夫さんが亡くなったことも残念なことなのですが、私は特に西村暢子さんを忘れ得ぬ人に挙げたいと思います。

 

いまから12年前の11月に「日本シルクロード文化センター」を発足させたのですが、それまでの数年間は、わたしとグリさん(ウイグル人研究者。彼女と私の2人が中心になってクラブを立ち上げました)の2人で、特にグリさんがウイグル語講座、中国語講座を担当し、そして私がシルクロード講座を担当しました。

 

毎月2回、月曜日の午後に「シルクロード講座」を実施したのですが、私もそのころはシルクロードを人一倍勉強して、月2回の講師を担当しました。

そのときの受講者の1人が西村暢子さんでした。

 

西村さんは埼玉県の桶川市から通っていました。

ご主人とシルクロードへ何度か旅行をして関心を抱き、グリさんからウイグル語を個人教授していただいていました。

 

新宿の「トルコ中央アジア文化センター」で、またある時は喫茶店で教わっていたようですが、それは教わる目的と同時に、生活苦にあえいでいたグリさんへの資金援助も兼ねていたようです。

 

そのグリさんが、野口と一緒に「日本シルクロード文化センター」を立ち上げるということで、陰ひなたになって応援をしていただきました。

西村さんはご主人が「奥さん可愛さ」で、1人で出かけることをあまり喜ばないというので、新宿で妹さんと会うという口実で出かけてきていました。

 

今年の3月7日に81歳で亡くなられましたが、1〜2年ほど前から、はた目から見てもほほがコケて、やせ細っており、“もう長くないのかなァ〜”という思いを抱いていました。

 

昨年には、身の回りの整理なのでしょうか、私宛にシルクロード関係の書籍や辞書などを段ボール箱に詰めて大量に送って来られました。

なかにはどういうことかタイ語の辞書までありました。

 

 

私は終活は何もできていません。する気もありません。

同じウオーキングクラブの50歳代の独身女性は「終活」に一生懸命でした。

「何をそんなに死に急ぐの?」と声をかけた覚えもあります。

そういう私は、シルクロードと自分に関する自伝でも書こうかと思っていますが、毎日の多忙さで気持ちだけで終わっています。

 

西村暢子さんは、私にはご自分の体の具合の悪いことは何もおっしゃりませんでした。おわかれの言葉もありませんでした。書籍を私に送られたことが“おわかれ”だったのでしょう。見事なお別れだったと思います。

斯くありたいとも思います。

 

女性そして妻であるが故に、夫の拘束を解きほぐして自由に振る舞えなかったという状態にありながらも、ご自分でご自分の自由、「個の自由」を探し求め、切り拓いていった西村暢子さんは、私にとってはまさに忘れ得ぬ方でした。

いま、幽明境を異にする場になりましたが、あなたのことを忘れません。

長い間、ありがとうございました。

                    合掌

 

 

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