シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―34  十二ムカーム

十二ムカーム

ウイグル各地では、この絵がもっともポピュラーになっている。

 

200年程前のウイグルの詩人メシュレプは多くの詩を残した。豊作の歌は、それ以前から歌い踊られてきたが、メシュレプの詩が登場すると、ほとんど、彼の詩で歌い踊るようになった。以来、豊作の歌は、詩人の名をとって「メシュレプ」と呼ばれるようになった。

 

    情の秘密なら聞くがよい
   別離に悩む恋人たちに
   享楽の術なら聞くがよい
   幸運をつかんだ人たちに
   金持ちや、お偉い方などに
   孤独の味など分かりはしない
   ああ、流浪者こそが
   貧しさの苦労を知っている
   友よ、このナワイーは
   愛の砂漠に生きている
   ナワイーに会いたければ聞くがよい
   愛の砂漠からやって来た旅人たちに

 

今でも、ウイグル十二ムカームは、バザールや豊年祭り、結婚式など、ウイグル族の生活の折り目、節目で歌われている。まさに音楽の母であった。だが、この14〜15世紀から歌い継がれてきたウイグル十二ムカームの中に、もはや、かつての亀茲音楽を探すことは困難である。

 

      「婚礼の歌」

    右側に花ひとつ            
    左側に花ひとつ            
    二つの花の真中に          
    ひばりが喜び言祝ぐ          
    村中が喜びにあふれ         
    人びとは心楽しく
    今日は花嫁を迎える日だ
    さあ 大声で歌おう 婚礼の歌を

 

   人びとは歌い、また踊る

   婚礼のメシュレプは楽しみの海だ

   ダップを叩け

   ラワールの絃を爪弾け

   心をかき鳴らすように

 

古代の亀茲音楽に使われた楽器は既にこのオアシスには存在していない。しかし、クチャ人の歌と踊りに寄せる愛着は、昔も今も変わっていないだろう。

ツアーでいくシルクロードの旅は、プロカメラマンにとっては行きたくないそうだ。

プロの息子(野口克也)が、ブーブー言いながら撮影した一枚の写真です。

 

 

宇宙を舞うクチャの飛天

これは日本の法界寺の飛天(インターネットから)

                 

西暦627年、玄奘三蔵がクチャを訪れた時には伽藍が100、僧侶が5000人あまりいたと記されている。亀茲国は7世紀に唐に破れて滅亡し、9世紀末にかけてはウイグル人たちがこの地域で勢力を伸ばし始め、10世紀すぎからはイスラーム化が始まった。

 

ある文献では、クチャにある仏教石窟は総計570あまり、代表的な石窟は亀茲石窟にある第236石窟がある。クチャ石窟の創作時期は初期(3世紀末〜4世紀初)、発展期(4世紀中〜5世紀末)、繁栄期(6世紀〜7世紀)、衰落期(8世紀〜9世紀)と4つの時代に分かて研究する人もいると書かれている。

これも日本の、薬師寺東塔水煙(模型)

これもインターネットからです。

クチャは、撮影は全面禁止ですので実写はありません。

 

クチャ周辺のキジル、クム・トゥーラ、キリシュ、シムシン、スバシなどの寺院跡では、20世紀初頭に発掘調査を行なったドイツのル・コックやグリュンヴェーデルその他の探検隊によって「最も西域的な」といわれる石窟美術・壁画が数多く採取され、持ち出されている、実質上の略奪である。4世紀頃から大乗仏教とともに盛んになった西域的な仏教美術・飛天図が色鮮やかな色で描かれ、西域が生んだ文化財産として今日まで残されている。

 

 

追記

 

私は明日から、所用があって沖縄へ行ってきます。

今週末には帰ってきますが、その間はブログはお休みします。

よろしくお願いします。

野口

 

 

 

| シルクロードの光と影 | 09:50 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―33 音楽の都クチャ

音楽の都・クチャ

 

クチャの舞踊歌曲 「クチャ・セナム」

 このクチャ地方で最も人気がある「セナム」とは、美しい娘の名前で15世紀以前から伝えられている歌曲である。

     高く青い山並みの果て         
     白銀は山頂に輝く            
     喜びにあふれた愛は、既になく
     あなたは去り、もう、却ってこない     
     誰もが私を出戻りだと噂する       
 
    だけど、私は気にしない

   たとえ鞭で八十回打たれようとも

   私はあなたのもの

   いつまでも、いつまでも

 

(東京藝術大学に留学中のウイグル人研究者・セミ氏の学位論文から引用。下記も)

 かつての西域には、「美しい娘、セナム」のように激しい愛を表現した歌曲や歌劇が多い。ムカームを演奏する人には年配の方が多いが、その歌の内容が、愛や恋や遠く離れた恋人よ、などが素敵である。

 

        月のように美しい女

   月のように美しい女(ヒト)よ       

   あなたの腰は、柳のように細い       
あなたの紅をつけた笑顔は        
   りんごのよう              
                     
月のように美しき女よ          
あなたは恋人を待っている
その心は
炎のように燃えている
月のように美しき女よ

   バラの花を見ない鳥は

   春の美しさを知らない

   あなたは、夜空に輝く月のよう

   胸に光る宝石は

   雲間に輝く星のよう

| シルクロードの光と影 | 09:16 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―32  クマラジュー

クマーラジーヴァ(鳩摩羅什=クマラジュー)

 

クチャを語る上で西域渡来の名僧クマーラジーヴァのことを忘れることはできない。

11年8月9日  クチャのキジル千仏洞にまたやってきました。

この像が、クマーラジーヴァです。

 

 クチャ(亀茲)は、4世紀ごろから大乗仏教が花開いた西域諸国、西域南道中部、タリム盆地の北縁に位置しているオアシスの1つであり、十六国の時期、亀茲の有名な仏教大師、中国古代三大仏教経典翻訳家として世界に知られているクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の生まれた場所でもある。

 これがスバシ故城の本堂。象の頭部分に似ていませんか?

 

クマーラジーヴァの父クマーラヤーナはインドの小国の宰相でありながら、出家して西域の亀茲国にやって来た。そして亀茲国王に推されて国師となり、王の妹ジーヴァを妻にしてクマーラジーヴァが生まれた。クマーラジーヴァ(名前を意訳すると「童寿」となる)は7歳で出家、9歳で北インドに留学して小乗仏教を学び、その後、カシュガルでは王子スーリヤソーマについて大乗仏教を究めて、サンスクリットの法華経を授けられた。そして、中国への布教を母から託されるようになる。

おそらく玄奘三蔵も、この道を通ったことでしょう

 

その頃、中国では前秦の符堅( ふけん ) (338〜385年)が力をつけ始めていた。仏教に篤い信仰心を持つ氐(てい)族の符堅は、西域にクマーラジーヴァという高僧がいることを聞きつける。そこで、西域の征圧に向かわせた将軍の呂光に、クマーラジーヴァを連れて来ることも併せて命じていた。しかし、呂光が西域を平定し、クマーラジーヴァを伴って帰国する段になって、中国内部で政変が起こり、前秦そのものが滅亡してしまった。仕方なく自立した呂光の後涼に留まっていたクマーラジーヴァであったが、ようやく後秦の姚興()(ようこう 366〜416年)に招かれて長安の地へと辿りついた。

 後漢時代の烽火台

 

401年、後秦王姚興は後涼を討ち、クマーラジーヴァを迎えて国師とした。クマーラジーヴァは本格的に仏典の翻訳と構築に取り組んだ。訳した経典は、『中論』『百論』『十二門』『大智土度論』『法華経』『阿弥陀経』『唯摩経』『梵網経』と多岐にわたり、その数35部297巻との説もあり、中国仏教の中で非常に大きな役割を果たすこととなった。中国への布教という大きな目標を持った彼は、そのために時の権力者であった符堅・呂光・姚興らに巧みに接近するという面も持っていた。そのためには仏教僧侶のタブーである妻帯を迫られ、妓女をあてがわれても断らなかったという。別の説では、呂光がクチャ王の娘を無理強いして娶らせたという説もあるが、ともあれ、このことは彼の最大の汚点となってしまった。


しかし、それでもなお彼が中国仏教の発展に与えた影響は、それを補って余りあるものであったことは間違いない。入寂(にゅうじゃく)()し、荼毘( だび ) に付されたその身には、舌だけが燃え残っていたという。布教に生きた彼の執念を感じる逸話である。

クチャの本堂には僧が5000人もいたという

 

私が担当している新聞社の講座(2005年当時)にもクチャのクマーラジーヴァ・ファンが多い。おそらくNHKテレビの「新シルクロード」放映の際のクマーラジーヴァの(ヤラセではあったが)歩く姿を見て、ロマンを感じたのだろう。ある漫画家の女性は、ツアーに便乗して06年10月、クチャまで行って壁画を描き、挙句の果てにクチャにアパートを借りて住み込見たいと言い出した。将来、壁画から漫画を描いて個展を開きたいといっている。わたしと同じような、無茶で向こう見ずなDNAを引き継いでいるようで楽しみである。

| シルクロードの光と影 | 06:13 | comments(0) | - |
31 クチャ・アクス・カラシャハール地域

今年(2017年)7月の新疆の旅に下記の地域は含まれていない。

だが、ここに紹介するクチャは、あえて紹介するにふさわしいオアシスでもある。

 

クチャ・アクス・カラシャハール(焉耆)地域とは、タクラマカン沙漠の北、天山南麓中央部のクチャ(亀茲)、アクス、カラシャハール(焉耆)、ショルチュク、そしてバインゴル・モンゴル自治州一帯で、西域北道の中間に位置する。

 

タクラマカン沙漠のちょうど北縁に位置するクチャには、沙漠特有の樹木である胡楊樹と駱駝草が多い。さらにクチャには渭干河(ムザルト河)とクチャ河と2つの河があり、クチャ文明の発祥地と呼ばれている。キジル千仏洞はその渭干河の北岸にある谷間に位置しており、その地下水源は豊富で、砂漠を30〜100メートルぐらい掘ると水が出る。クチャの天山山地の中に南天池と呼ぶ大龍池があり、ここは山々に囲まれ海抜は2300〜2380mほど。長さは2.5キロ。玄奘三蔵の「大唐西域記」の中では「龍池」と記録されている。

クチャは砂嵐や風が多く、3〜4日間も続くことがある。杏の名産地と知られ、産出量や品種も多い。杏には23種類の杏があり、新疆では杏の種類が一番多いとされている。また葡萄、ざくろ、桃、梅、ナツメ、いちじくなどもたくさんとれる。クチャの羊皮や小刀も有名である。

2004年のクチャは、まだまだ貧しい街だった

 

クチャは昔から「ムカーム」の故郷と呼ばれてきたので、クチャ・ムカームはとても有名である。「ムカーム」という言葉は「大曲」という意味になり、クチャのキジル千仏洞に描かれた伎楽飛天は、クチャが昔から音楽の故郷であったことを証明している。

 

クチャ(庫車)

天山山脈の南麓に位置するクチャは、35万人あまりの人口を持つアクス地区第二の都市である。住民は90%がウイグル族。ウルムチからは汽車で約9時間、車ではコルラから天山山脈の山中を抜けて4時間以上かかる。ここでは鉄道のほうが“ゆっくり”なのである。

 

クチャは北西に天山山脈を突っ切ってイリやアルタイなど北新疆に向かう街道の要衝で、亀慈国が栄えた土地でもある。亀慈国は、前漢時代に歴史に登場したオアシス都市国家で、後漢時代には西域都護府が、唐代には安西都護府が置かれ、亀慈楽と呼ばれる舞楽が有名である。その後、亀慈楽は日本にもたらされて、雅楽となった。

いまではこんな光景を見ることは望むべくもないが・・・

 

クチャは仏教東漸の歴史の上で重要な役割を果たした都市である。4世紀後半に仏教を中国語に翻訳したクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の母はここクチャの出身。玄奘三蔵もインドに向かう途中、クチャに立ち寄っている。有名なキジル千仏洞――「塩水渓谷」の岩壁や谷の中途に穿(うが)たれた石窟群――は亀慈国の貴重な仏教施設であった。後漢から宋代にかけて開鑿が始まったというこの千仏洞は、漢代から唐代にかけて46窟が作られた。そのうち壁画の残っているものは11窟だが、戦争などで破損し、最前列の6窟だけが見学できる。

この姿は、わずかに残っているかもしれない

| シルクロードの光と影 | 04:19 | comments(0) | - |
ウイグル人の生活習慣及び風俗・伝統あれこれ ―30

中学校訪問

 

「書」のコンクールで中国のNo2になったというAさんの次男坊の留学を依頼された。

私は、中学3年生になるという次男坊君に「日本に留学するには、君自身がウイグル人としての伝統と習慣を守りながら、しっかり勉強して高校・大学を卒業して、日本語を勉強してから考えなさい。私もできることは応援しますよ」と言った。私に初めから経済的な面も含めて援助をお願いするというハラは読めているので、先手を打ったのである。

グリさんの新疆大学の同級生の彼。

 

帰り際、Aさんは私を村で一つしかない中学校に案内してくれた。今回はもう教務室には行きたくなかった。生徒たちにジカに接したかった。学校内に入ると、校舎の2階のバルコニーに出ていた生徒たちがニコニコしてわたしを見つめていたので、ニッコリして手を振ると、みんなとてもいい笑顔で手を振ってくれる。その中には高校生の長男坊がいた。みな本当に輝いた顔をして、一介の外国人であるわたしに手を振ってくれる。

中央のうしろに長男の顔だけが飛びぬけて見える。

 

やがてある教室に案内された。キラキラと瞳の輝いている中学生たちが机に座っていたので、ウイグル語で大きな声を出して「みなさん、こんにちは」と言うと、誰の指示もないのにみないっせいに席を立って「こんにちは!」と大きな声で答える。ビックリした。お客さんを大切にするという民族の伝統が、見事に生きていると思われた。大きな声で、半分ウイグル語、最後は中国語で「わたしは日本からウイグル人のみなさんの勉強に来ました。皆さんに会えて嬉しいです。ありがとう」と簡単にメッセージを伝えると、またもやいっせいに声を合わせて「ありがとうございました」と言う。嬉しかった。起立している生徒の後ろのほうに、あの背の高い次男坊の息子の姿があった。そうか、彼はちゃんと息子のいる教室に私を案内してくれていたのだ。

 

Aさんの家に戻った。やがて出発の時間が近づいたので立ち上がろうとすると、「野口先生の旅路の無事と仕事の成功のために羊を食べていってください」と言われる。朝食も腹いっぱい食べたし、もう時間がないからと言うと、「いけません。食べていってください。もし羊をつぶして赤い血が出れば、旅の無事が約束されるのです」。羊をつぶして白い血が出るわけがないではないか。赤い血が出るのは当たり前である。「食べてくれないなら、私は同級生のアルズグリと野口先生と友達になれなくなるから食べなくてはだめです」と、まるで脅迫である。「朝食を頂いたばかりですし、もうこれ以上食べられないので、私のために羊を1頭殺すのはもったいないから…」と言っても「これはウイグルの習慣ですから、だめです」と聞いてもらえない。苦しい思いをしながら、おいしい羊を食べた。このように新疆各地では毎日、数万頭の羊が人びとの胃袋に入っていくのであろう。だが、彼ら家族の私を歓迎する気持ちはよく理解できた。心から感謝したい。

残酷な写真のようですが、羊を食べるところでは、毎日数万頭の

羊がこのように食べられているのである。「かわいそう!」などといっていられない。

あわれ羊君の頭。ここもおいしいのですよ。

私がお世話になった一家の家族。私の隣が次男坊。その右がお母さん、後ろが長男。

 

 

再び、砂にまみれた集落を後にして、西域南道に戻っていった。

ご夫婦と一緒に。

| シルクロードの光と影 | 09:30 | comments(0) | - |
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