シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
―69 ハミムカームの継承と古老の悩み

コムル(ハミ)市内のある団地の5階に行く。そこにはハミムカームの長老がいた。

長老の名前はローゼソフィさん。

 

「ハミの歴史については、自分が生まれたところしかわからない。みんなわたしと同じ考えを持っている。ハミも地域性があるから地域によって生活習慣も違う。ハミの歴史はとても複雑である」といって、ハミの歴史そのものについては結局、話してくれなかった。知らなくて話してくれなかったのか、知っていても話してくれなかったのかどうかは分からない。ウイでも間違いなく話したくなかったのである。ウイグル人はおしなべて歴史を語りたがらない。ローゼソフィさんは、後継者のために「ハミムカーム」をテープに録音して教えているという。

ローゼソフィさんは音楽教室を開いて、伝統を守り抜こうとしていた

 

「1000年前、ムハンマド・カシュガリーは日本を研究し、大陸の一番東に『JAPAN』という国があるといった。だから、そのうち日本人がわれわれ西域人を研究するはずだといった。それはあなたかもしれない。ハミではミイラもたくさん発見された。

 

ハミムカームが今日まで伝えられてきたのは、ハミ王朝のおかげである。1982年にハミで発見されたミイラは、今はカシュガル博物館に所蔵されている。1600年の歴史があるという。わたしが知っているのは、ハミムカームを今まで伝えてきたのは胡弓である。胡弓があってこそ、ハミムカームは今日まで伝えられてきた。昔、漢人がここにきて、この胡弓を見て、今の漢人が使用している二胡をつくった。

 

ハミムカームの特徴は、ただこの胡弓だけで伝えてきたものである。17弦の楽器があるが、これだけがハミムカームに一番ふさわしい。

以前は胡弓の形は簡単だったが、今はいろいろと改善されてこの形になっている。今はこのような胡弓をつくる工場もないし、このような胡弓を作れる人も少ない。今、この胡弓の値段は500〜600元ぐらいする。

以前、ハミのムカームをほかの楽器とあわせて演奏したこともあるが、一番微妙なところまで表現できなかった。やはり、この胡弓だけで演奏したほうがムカームの味が出る」。

誰が写したのか、ローゼソフィさんのおはなしをオスマンが通訳してくれる。私はそれを筆記で記録する。2004年のことである。

帰国後、録音したテープ(通訳の実力を知っていたので)をグリさんに聞いてもらったところ、「こんなでたらめな日本語はありません!」と、オスマンの通訳に怒りを表していた。でも、彼の実力では仕方のないこと。彼女が数カ月かけて通訳・翻訳し直した日本語で後日「シルクロードの光と影」を発刊することができた。

 

 

やがて長老は胡弓を取り出して弾きはじめた。楽器の大きな缶詰のような銅の部分は日本製だという。哀愁を帯びた音色がいつまでもわたしの心に残った。どういうことか、わたしは10数年前に行ったことのある、富山の「おわら 風の盆」を思い出していた。

| シルクロードの光と影 | 04:46 | comments(0) | - |
ウイグル人の風俗―68  野口先生の大歓迎会!

※漢語で「野口さん」のことを「野口先生」という。学校の教師のことではない。

 

ハミの街

 初めて訪れた新疆の玄関口ハミの街は、かなり漢化されているのかと思っていたが、決してそうではなかった。新疆の他のオアシスと変わらない顔をしていた。しかし、街の現代化はすすんでいて、トルファンの街と引けをとらない繁栄ぶりであった。

 

 以前、サラちゃんの夫・デリシャットが卒業した大学がハミ農業大学だった。彼は私を案内するためにわざわざ時間を作ってハミの街を案内してくれたのだ。ともあれ、まずは私を歓迎するための宴会に。市内の緑豊かな一角に宴会専用の建物があり、そこに案内された。宴会場には、彼の大学時代の男女の友人たちが、三々五々集まってきた。

これらの撮影は、私のカメラを持ったデリシャットの撮影である。

彼は農業大学卒だが、機械いじりが好きである。

 

ハミの出前演奏家

出前演奏家のバッタルさん夫婦。

 

ハミ市郊外にある文化宮のような宴会場で友人たちが私の歓迎の宴を開いてくれた時、出前演奏家のパッタルさん夫婦がやってきた。みんなが金を出し合って呼んでくれたのだろう。いや、こちらの習慣では“割り勘”ということはないらしい。誰かが出してくれたのだ。とするとデリシャットしかいないではないか。彼のニキビの痕跡が色濃く残った顔の表情からは想像もできなかったが・・・・・

狃の子は歩き出すと踊り出す”というウイグル女性は、誰でも踊りが好きで、上手である。

因みに狠砲了劼呂靴磴戮蠅世垢伐里い世”である。

 

 

 

夫のパッタルさんは55歳。30年間も演奏をしてきたというが、2000年頃からこのように宴会場で演奏をして稼いでいる。2003年、ハミ市のコンクールで2位になったという。妻のアイシャムグリさん(50歳)は、夫に従って3〜4年前から同じ仕事を始めた。ハミの昔からの楽器・ヤギの皮でできたギジェツキ(ハミにしかない大きな胡弓のような楽器)を夫が、大きなタンバリンのようなダップを妻が演奏する。

大きなタンバリンのような楽器は「ダップ」という。指の叩き方でものすごく大きな音が出る。

私がやっても、当然、かすれたような音しか出ない。

 

 

夫婦の本業は農業だが、収入はプラスマイナスでほとんどゼロだという。それでは生活できないので、1回50元から100元くらいで演奏して収入を得ている。

みんな踊り出し、私も女性たちから踊りに引っぱり出された。

こういうことが苦手なんだが、デリシャットがせっかく準備した歓迎の席。

踊りを断ることもできない。

 

 ここの踊りもハミのメシュレプである。花束を持った女性が男性を誘い出して踊り、しばらく踊ってから3〜4回まわってお辞儀をしてから相手に花束を渡して次の人に移る。それを次々に繰り返すのだ。わたしも少し覚えた。

 

※これらの出来事も、2004年のことである。もう13年も昔のことになっている。

 今年の日本シルクロード文化センターのシルクロード・ツアーも爐△舛蕕療垤”で中止になった。

 そのことについては、書けるようになったら書こう。

 

| シルクロードの光と影 | 06:15 | comments(0) | - |
ウイグル人の歴史・風俗・習慣―67 ハミ(コムル)の歴史

ハミ(ウイグル名コムル)の地は、西から迫る天山南麓もほとんど尽きて、ゴビ灘に埋没するかに見える位置にあるオアシス都市である。その古い呼称は「伊吾」、ウイグル語では「コムル」。漢土の河西回廊から西域南道、西域北道へ渡る交通の要衝であった。

山脈との関係を描いたハミ(コムル)。上の地図のかなり右にある。

 

タリム盆地のルートと各オアシスとの関連を描いた地図

 

この地が歴史の脚光を浴びたのは、西暦73年、後漢の匈奴討伐の時で、この戦いの結果、後漢王朝はここを匈奴から奪取し、屯田を経営するようになった。この時、この地は「伊吾廬( いごろ ) 」の名で伝えられたが、一説によれば、この語は匈奴語を写したものという。

漢土からはじめて西域をみてきた、シルクローダー張騫

 

 

7世紀のはじめ、隋の煬帝は皇帝の使いである侍御使(じぎょし)の韋節や杜行満らを西域に送った。唐代に入ると多くの使節が西域に派遣された。630年には将軍季靖がハミを占領し、10年後には侯君集が高昌国を滅ぼした。7世紀中ごろには西突厥討伐のため梁建方、蘇定方らがスイアーブ(砕葉)を超えて中央アジアのタシケントに達した。661年にはトハレスタンに都督府を設置するため、王名遠がハミに派遣された。

 

 その後も、このオアシスは北方遊牧民と中国との争奪の的となってきたが、他の西域のオアシスと異なり、王をいただく国家を形成した形跡はない。ただし、交通の重要拠点として、ソグド人たちがこの地を買収し、聚楽(しゅうらく)としたことがあり、北方の遊牧国家もソグドを保護していた。

上と下の写真は、ハミ郊外にある「エンブラク」古墓群の碑

「絶対に立ち入ってはならんゾ!」と厳重に禁止している立て札。そんな価値があるのかナ〜〜〜と思った。

 

 

また西に隣接する麹氏高昌国が唐に滅ぼされる前に、この地のソグド人で、ゾロアスター教の祭主となっていたものが長安に赴き、その呪術的な力によって皇帝を感服させ、将軍号を授与されたことが伝えられている。

地元のガイドも行ったことのない「白山岩絵」を、苦労の末、やっと探し出した。

 

ここがソグド人の聚楽となったことからも明らかなように、交易ルート上に位置する商人らの重要な交通拠点であったことは疑いないが、これが余りにも強調されてきたために、後漢以降、河西から天山方面へ渡る唯一の拠点であるかのようにいわれてきた。つまり、河西の敦煌方面から西域に行くのに、まず北行してハミへ行くルートのみが取り上げられ、それまで使われてきた敦煌から楼蘭、ロプ・ノール北方を経て西域南道へ行くルートが全く使われなくなったかのような印象を与えてきた。

 

それは、決してなかった事実ではなかった。

| シルクロードの光と影 | 05:27 | comments(0) | - |
ー66  ルクチュンのおばあさんの長〜〜い話

ルクチュンではズフラハンさん(84歳)というおばあさんに昔の話を伺うことができた。

ズブラハンさん(84歳、2004年当時)のおはなしは長かった。

だが、どこか気品のある人だった。

 

1920年代、「新疆王」と呼ばれた盛世才という政治家が新疆省を治めていた。彼は満州出身で日本に留学したが、帰国後、満州の実情を見て強固な反日主義に転じた。ルクチュンの王の名はスルタン・マモッサンで、王の子はマサイッガンとスキャンダ・アキム。ハミの王もここの王の子でマンスルガンと言った。当時、ルクチュンのハミからここルクチュンまでたくさんの人が住んでいたが、生活はとても貧しかった。

おばあさんとのお話は長かったので、サラマットも付き添いで来てくれた。

通訳はオスマン。

 

ある話の上手な夫婦がいた。夫はナイハン、妻はシムラーハンと言った。彼らには子供がたくさんいた。夫婦は一緒に王のところに行って面白い話をいっぱいして、たくさん食べ物などをもらった。ある人は、結婚したいけれどお金がなかったので、王のところに行って面白い話をいっぱいした。王は笑って食べ物やお金をたくさんくれた。

私は言葉が分からないけれど、一生懸命に聞いた。

すると、なんとなくわかるような気がしてきた。

 

面白い話ができない人が行くと「何をしにきたのか」と言われて追い返されたが、あとで食べ物を少しだけ送ってきた。王様には別のところにも領地があって、食べ物がたくさん取れたから、あげるものもたくさんあった。ここでは農民で自分が作ったものだけで食べていくには足りなかった。

 

王様は1ヵ月に1回くらい領地内の奥さんたちを集めて、生活のことや税金のことなど、どれくらい困っているかを聞いた。そして10キロくらいの小麦粉と1〜2キロの肉をくれた。

 

こんな昔話がわかる人はもうみんな死んでしまった。

 

私は昔、15歳の時、学校の教師と結婚した。3年後にできた子供は8ヵ月の時に死んだ。夫は子供が5歳の時に死んだ。父は私が8ヵ月の時に死んで、母は4歳の時に死んだ。だから祖父母の家で育った。そして1年後に再婚した。彼はアンドリ・ジンジャンという名前で、アフメッド・チューシュ政府で仕事をしていた共産党員だったが、結婚して8ヵ月で警察に捕まって、いまだに生死不明だ。いつも子供が、お父さんはどこにいるの?と聞くので、トルファンに仕事に行っていると答えていた。その子も4歳で死んだ。

 

3回目は25歳の時に5人の子供がいる人と結婚した。上は10歳で下は5歳だった。アホンも私のことを、よく頑張っているね、アッラーもほめているよ、と言ってくれた。3番目の夫は洋服を作っていて技術がよかったので、商売はうまくいった。その後、9人生まれて4人死んだ。10人は今もみな元気でいる。

 

新中国誕生や文革のころは、女は外に出ないで家の中にいたので何もわからない。子供が10人もいたからそれどころではなかった。

ルクチュンの遺跡だが・・・・

遺跡の真ん中を堂々と道路が横切っている

遺跡の横はタクラマカン砂漠。サラマットは私が「お父さん」だから、甘えてこんなポーズをとるが、

こちらはパニック状態だった。

 

80有余年の人生を淡々と語ってくれたが、その人生には語っても語り尽くせぬ深い悲しみと喜び、そして苦しみがあったことだろう。心から感謝のお礼と長寿を祈る言葉を述べてその家を辞した。しかし、お話の内容は王様が善政を施して食べ物などをくれたということの繰り返しだった。王からの搾取や税金の多寡などを聞くことはできなかった。

グリさんの妹がつとめる学校(日本の高校)の運動会。といっても、女生徒は普段着のまま校庭を走る。

男子生徒は、やはり普段着のまま学校の外を、トラックに載せた国旗と軍歌が叫ぶ中を「マラソン」だった。

校舎を背に学校の教師たち。私の左がサラマットのすぐ上のお姉さん。

2004年の11月のことだった。

| シルクロードの光と影 | 09:11 | comments(0) | - |
ー65  ルクチュン中学の副校長さんに伺ったルクチュンの歴史

 ヤスン・バスムさんはルクチュン中学校の若い副校長さん(32歳)で、ルクチュンの歴史について伺った。アルズグリさんの3番目の妹の同僚である。

10年ほど前のルクチュンの写真。教師のグループとのツアーで。

私のうしろの右にいる若い人がヤスン・バスム副校長。

この頃私は、新疆に日本語学校を造ろうと奔走していた。

 

 ルクチュンの歴史

 

 ルクチュンは西暦1400年から1500年頃がもっとも盛んだった

 蘇公塔(スレイマン塔)はトルファン中心部の東2kmにある。1778年に建立された最大の古塔で、ウイグル族の古代建築技術の結晶といわれている。

蘇公塔(スレイマン塔)。どういうことか私の写真集の中から、

ここの写真が完全に欠落していた(ウイキペディアを使用)。

 

 

 トルファンの郡王スレイマンが、父のイミン・ホジャが祖国統一のために果たした功績をたたえて造ったものである。高昌故城は1470年に滅びたが、当時、ルクチュンの王はコルラ、トルファン、ハミまでも治めていた。その首都がルクチュンであった。現在は、高く美しく聳えるミナレット(尖塔)は危険なので上ることはできない。

 

 1630年から1934年まで10人の王がいた。1900年代になってから盛世才の国民党が来ても王は存在していた。

 1932年、ハミのホッジニアス・ハジが清朝と戦争をした。その後、ルクチュンにも来て、最後はソ連領まで行った

盛 世才(せい せいさい)は、中華民国の時代の新疆省の政治家であり、軍人だった。

1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治した。

その独裁的な治世から、「新疆王」とも呼ばれた。

(写真・文ともウイキペディア利用)

 

 

 解放後、1949年から90年までの人民公社時代の生活はよくなかった。

 

 ※この時期は、あの文化大革命の時期だったが、彼は、そのことには一言も触れられないでいた。

 

 改革開放は1978年に発動され、82年に政府が農地を解放して農民に分け与えられた。税金の制度などが整備されて90年頃から生活がよくなった。

 

 吐谷溝が仏教の聖地だったことを私は知っている。街ではそれを言ったら殴られるだろう。しかし、正しい歴史を理解できる人はわかる。ここにはカシュガルやホータンより400年遅れてイスラームが来た。1300年代には80%が、1400年代になってからは100%がイスラームになった。

 

 昔、ルクチュンはハミに所属していた。現在はトルファンに入っている。1978年からトクスン、ピシャンもトルファンに加わった。だが当時は隣の街と比べて貧しかった。

 

 私は7〜8年前、歴史を学んだが、次第に学ぶ機会がなくなってきた。歴史に関する良い本があるが、それを読むことは政府から禁じられているからである。

 

 ※蘇公塔(そこうとう、スレイマン塔)は新疆のトルファンにあるモスクのミナレットで、1778年に建てられた同国最大のミナレットである。トルファンのウイグル人の郡王のスレイマン2世が父オーミン・ホッジャ(額敏和卓)のために建てたもので、構造物の高さ35メートル、底部の直径は11メートル、頂上の直径は3.8メートルで、壁面は日干し煉瓦で様々な模様を施している。

 

| シルクロードの光と影 | 09:31 | comments(0) | - |
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