シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
白鵬批判への批判  ―もう一つの相撲観―

下記は友人にバー・ボルドーさんからの連絡で、12月9日にTBSで話すとのことでした。折よくフエースブックに掲載して下さったので、その文章をそのまま再録します。ご検討ください。野口信彦

白鵬批判への批判  ―もう一つの相撲観―

TBS「上田晋也のサターデージャーナル」は、相撲協会、貴乃花、白鵬の三者の立場を考えた比較的冷静な番組だったと思う。最近メディア全体が白鵬について勝利至上主義と批判的に捉えているが、わたしは異論を持っている。今回の番組でも「モンゴル人力士は大相撲の神事的要素を十分理解しているが、大相撲に競争原理が働いている以上、勝利にこだわるのは仕方ない」という趣旨のコメントをした。「神事的要素」と神事は異なる概念である。


わたしは以前拙論において次のように書いたことがある。
「大相撲はその近代的制度、競技性、商業性、職業性などの面からみて、伝統性と様式美を保持しながらも近代スポーツの論理を導入した、プロスポーツだと考えている。というのは、現在われわれが目にしている大相撲にはもはや本来の芸能性、神事性が希薄化し、勝敗が力士の出世、生活レベルを左右しているからである。(中略)端的に言えば、大相撲は競技スポーツと化し、様式美はその付加価値(商品価値)を高めているのである」。(「大相撲の国際化とメディア言説-朝青龍問題を中心に-」岡井崇之編『レッスル・カルチャー:格闘技からのメディア社会論』、風塵社、2010)。


決して大相撲の伝統を否定するものではないが、既成概念としての神事相撲と近代的興行相撲、つまりプロスポーツ化した大相撲との間の本質との乖離が感じられる。相撲に関しては本格的な論評を書くつもりだが、大相撲の力士は神事を重視しているのではなく、プロとしての稽古に精進し、さらに上を目指している。競争原理が働いている以上、勝利を重視するのはむしろ当然であろう。もし神事的の部分を強調するならば、勝負はむしろ演出になってくる。神事相撲では、五穀豊穣を祈願し、勝負は予め決められて、3本勝負で神が2勝1敗で勝利する事例は多い。


文化的伝統は大事であるが、現在の相撲に対して、相撲そのものや横綱に対して過剰解釈している部分が多くみられる。逆説的に言えば、「横綱は神様だ」「横綱は神格がある」と言いながら、横綱をバッシングしていること自体、横綱を生身の人間としての認めていることではないだろうか。


そういう視点から見ると、日本は実に不思議な国なのである。大相撲では、横綱になれば神様として位置付けられ、厳しく律せられるが、平たく言えば、日本では人間が神様を作り、また容赦なく破壊することもできる、という解釈もできる。この人間と神様の関係が不思議である。相撲協会がその者が神様にふさわしいかどうかを横審に鑑定してもらい、マスメディアが神様が善玉か悪玉かを裁いていく。特に悪玉であることを喜び、正義感あふれる「品格」という基準で木っ端微塵に破壊していく。

つまり、問題の神様は完全に悪玉にされてしまい、人間以下に成り下がっていく。メディアや相撲は神様に罰を当える恐ろしい世界なのだ。前述のように、こうした行為そのものが横綱の神格を否定していることである。つまり、相撲協会やメディアは神格を有する、または神様としての横綱を批判しているのではなく、大相撲の最高位としての横綱を批判していると捉えることができる。横綱=神様という虚像に、生身の人間としての横綱を当て嵌めすぎてはいないか。なぜ大相撲の歴史上横綱のスキャンダルが多いのか、考える必要はある。


相撲は世界に誇る素晴らしい文化であり、素晴らしいスポーツである。しかし、既成の相撲観から脱出しなければ、同様の問題が繰り返されるだけで、相撲の国際化を妨げる恐れがある。


白鵬は、モンゴルのある人気テレビ番組でこう語っている。

「自分は、相撲を取るとき、体を無にして、心を八割に、技を二割にしている。100%の状態になればいい成績を上げられるんだ」。これこそ白鵬流の相撲道である。一部コメンテーターが指摘する「白鵬は心の部分が足りない」という批判は、いかに的外れかがわかるだろう。換言すれば、彼らは表面的な事柄のみ判断し、横綱白鵬の内面的世界は全く無視しているといえる。メディアも同罪である。無論横綱たる者は、礼節を重んじ、地位にふさわしい行動を取らねばならない。文責:富川力道

| 大相撲を論ず | 09:26 | comments(0) | - |
大相撲を論ず―8 相撲の世界の賃金事情

  多忙でブログを書く心の余裕がありませんでした。

 きょうは日本シルクロード文化センターのシルクロード講座。夏に実施したシルクロード・ツアーの報告と「望年会」。 その前に午前11時から役員会です。

 

 大相撲に関して、最後に一つだけどうしても書きたいことがありました。

 以下は相撲協会のホームページから。

 力士の給料

給料は月給制で、十両以上の力士に支給されます。幕下以下にはありません。
月給の内訳は、「基本給」と「手当」に分かれており、これを合わせた額は次のとおりです。

  • 横綱  260万6,000円
  • 大関  216万9,000円
  • 三役  156万4,000円
  • 幕内  120万9,000円
  • 十両   95万7,000円

 これはあくまでも月給ですよ。年収ではありません。

 

私の現役の頃から見ても、公務員の平均給料から見ても、断然高いですね。

 しかし、相撲の世界は氷山と同じ。幕内以下の相撲取りたちには給料というものがありません。

 貴の岩も休場すると十両、その下は幕下ですから無給になります。まさに天国と地獄です、

 

 現代社会において“それはないよ”と言いたいくらいの低賃金です。いや、賃金というものではないですね。なにしろ毎月5〜7万円前後しか支給されません。ブラック企業より低いですね。

 すべてが部屋丸抱えですから衣食住の心配がないとはいえ、社会的常識程度の賃金は必要ではないでしょうか。「力士会」があったとしても、「待遇を改善せよ!」という声は上がってきません。

 

 白鵬いじめが始まっており、貴乃花親方叩きもありますが、マスコミが触れない、このようなことにも目と耳を傾けてほしいと思います。

 時間がありませんので、とりあえずはこれまで。また気のついたことがあれば、書きます。

| 大相撲を論ず | 09:37 | comments(0) | - |
大相撲を論ず―7 相撲協会は「近代的労務管理の導入を」

いま必要なことは、相撲協会と部屋の「近代的労務管理」です。

これには「部屋」や「一門」という壁を取り払うというもう一つの大仕事も喫緊の課題になっています。

この「壁」を打ち砕くには、現在の相撲協会の組織構成を改革しなければ実現は不可能です。

それには相撲協会の理事に外部からの有識者が加わらなければなりません。

横綱審議会だけでは間に合わないのです。

 

近代化のもとで大切なことは力士のケガ=傷病のことです。

9月場所や九州場所に典型的に表れたように、けがによる休場が非常に多くなっています。

 

相撲の世界に入ると、“とにかく太れ、大きくなれ”と言わんばかりに、太るために沢山食べさせます。

まるで北京ダックかアヒルに餌を与えるかのように。

しばらく前まで、相撲を引退した者で還暦を迎えた人が少ない、とよく言われました。

必要以上に食べさせられるから、心臓など内臓に疾患を起こす者が多くなるのは当然です。

ですから短命の者が多かったのです。

 

相撲の稽古や本番でのけがも多くなっています。このままでは、幕内の半数以上が休場して本場所が成立しなくなるなんてことにもなりかねません。

要は、科学的な食事のための管理栄養士を配置することや、科学的なトレーニング方法の取入れ、トレーナーや指導者が必要です。

その点で「国立科学スポーツセンター」などとの提携も必要でしょう。

 

さらには、2カ月に1回の本場所ではけがを治す余裕ができません。

さらに巡業も含めれば年間10ケ月は本場所か巡業です。

少なくとも本場所を多くても年4回くらいに減らす、

さらにはケガの休場を補償して治療に専念できる体制も必須です。

協会にとっては収入減になることなのですが、大相撲を長く維持・発展させたければ、これくらいのことは必要です。

 

そのような措置を講ずることができる病院と医師・看護師や栄養士・トレーナーなどの配置や、大手の病院と契約を結ぶことあるいは専属の病院の充実ことも必要になってくるかと思います。

 

1129日、日馬富士の引退が報じられました。

この際、積年の桎梏をここで取り出して解決するいい機会です。

そのためには、国会での問題提起や政策の提起が必要だと思います。

 

以下は「相撲協会」のホームページの写真です。

 疏案 巡業地へ出発

開場〜朝太鼓

K覯式焚爾侶慮

ぐ手会

ソ塾勝λ詁發侶慮

子どもとの稽古

Ъ茲蠢箸潦始

土俵入り

横綱土俵入り

幕内取り組み

弓取式

次の巡業地へ

 

相撲甚句

 

しょっきり(初切)

櫓太鼓打分

 

| 大相撲を論ず | 09:41 | comments(0) | - |
大相撲を論ず―6 相撲を教えるということ

まず、「相撲教習所」について

ここは、相撲界に入ってきたすべての新弟子に研修をしていますが、モンゴル人や諸外国から訪日した新弟子たちも当然、例外ではありません。そこでは日本の大相撲のことを教えます。

相撲教習所の看板。不鮮明ですが・・・

 

しかし来日したばかりの外国人少年・青年たちは、日本語が分からない場合が多いでしょう。日常の会話ができても、専門的な話は無理でしょうし、日本の高校に留学していたような青少年でも、日本語のボキャブラリーも少ないでしょう。ましてや相撲の世界の言葉や生活には全く未熟なことだと思います。

 

実技の指導員は、普通、力士経験者や現役力士が担当しています。現在は4名の親方と現役の幕下力士が指導しています。他方、教養講座は大学の講師や有識者などが担当しています。

(相撲協会のホームページから)。

肝心なことは“カリキュラム”と新弟子が理解できるかどうかの講義だと思いますが、果たして・・・・

 

 

朝食前の稽古でもありますから、空腹で勉強するどころではないでしょう。「相撲道の精華」などと言われて“なんのこっちゃ”となるでしょう。これは「研修」の形骸化につながりかねません。協会の立場からすれば、内容よりも“やった”という実績が必要なのでしょう。ですから、このことに対する解決策は、ある程度の出世を果たしてからの再度の「研修」が必要だと言えます。

 

教える基本は、日本の憲法の精神、法律とその考え方=人を殴ったり、人のものを盗んだら罰せられるなど=の基本を教えることだと思います。おそらくそのような機会はこれまでになかったことでしょう。

 

私の立場から言わせていただければ、「スポーツマンシップ」、「互いの技術を教え合う」、「科学的なトレーニング方法の交流を通してアスリート同士が技術向上を学び合う」などだと思います。あえて、現在の相撲の世界であまり使わない言葉を使いましたが・・・・

いずれも小さい時から相撲の世界に入ってきて、一般常識や法律を学ぶ機会が少なかったでしょうから、これらの修養は必要です。

両国国技館

 

さらにこの研修は親方たちにも必要です

親方にも必要だということは、親方自身も新弟子時代から長い間、相撲の世界にいました。何よりも現代に適応した組織運営や科学的な指導法を学ぶ必要があると思います。科学的な指導方法や一人ひとりに合った栄養や食事などは、当然、学んではいないでしょう。

超満員となったファン対象のトークイベント中の教室

 

ここの修養が足りないから、先輩力士からの「秘伝の教え方」のような非科学的・非合理主義的な指導方法がいまだに存在していて、それらもろもろを引き継いできていると思われます。

 

これは、昨日今日問題になっているような、国会の「相撲議連会長」が「相撲取りは体が大きいから・・・」と言う差別的な言葉とは無縁のことです。それぞれの専門家いわゆる有識者の専門性を求めて、誰でもが分かりやすい研修を受ける。合理的な考え方を身に着ける援助をしていくということの大切さを言いたいわけです。

かつて貴の花親方が相撲教習所の所長をやったことがありましたが、彼でさえもこの壁を打ち破ることができなかったから、大切な仕事です。

| 大相撲を論ず | 05:00 | comments(0) | - |
大相撲を論ず―5 大相撲は国技ではありません

なぜこのような暴力事件が起きたのか、から、その原因について考えてみましょう。現在の公益法人・日本相撲協会の中身について。

 

で、よく言われる言葉。「国技」

大相撲は公益法人・日本相撲協会が運営しており、衆目も一致しているように見える、この「国技」


当麻蹴速(たいまのけはや)と角力を取る野見の宿祢

(月岡万年 『芳年武者無類』より)

大小の刀を佩刀し武士と同じ待遇であった力士。

江戸時代まで力士は大名や旗本に召し抱えられていました。

良くない言葉ですが「男芸者」と言われた時期もありました。

 

実は法律にも文科省の条例にも、どこにも「相撲協会の大相撲は国技である」、などと定めていません。なぜ、そうなったのでしょうか。

簡単な話です。相撲専用の体育館を「国技館」と名づけたからです。そこにきて、神話か伝説にある“野見の宿祢(のみのすくね)以来の伝統”がかぶせられ、「神事」などといわれるので、「国技だろう」となってしまったのです。

當麻蹶速と野見宿禰の天覧相撲

 

野見宿禰 Wikipediaより

天穂日命14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、第12代の出雲国造である鵜濡渟(宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命という[1]垂仁天皇の命により当麻蹴速角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた[2]。また、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)のを与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった[3]。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである[4]播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された

野見宿禰

 

まだあります。きのうきょういわれている「横綱は神である」

これは「神事」からきているのでしょうが、何も根拠はありません。

そして「横綱の品格」。これは外国人には翻訳不能です。

分かるようでわからない言葉ですね

 

私はいつも言います。“横綱だから品格が必要”なのではなくて、力士なかんづくアスリートすべてに求められることでしょうし、さらには人が人であるからには、生きていく上で、この「品格」というものは、絶えず追求されるべきものでしょう。ですから横綱だけに求めることはないわけです。

| 大相撲を論ず | 09:43 | comments(0) | - |
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