シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
東西トルキスタンとモンゴル高原及び新疆の少数民族  2007年7月 野口信彦

 

トワ族

トワ族はチベット仏教を信仰する民族で、モンゴル語系の言語を話します。人口は1990年の調査で約19万人。3分の1の人びとが青海省互助トワ族自治県に居住しており、少数が北新疆に住んでいます。

トワの楽器を演奏する女性

 

 

彼らは自分たちを「チャガン・モンゴル」すなわち「白いモンゴル」と呼び、モンゴル本土のモンゴル族を「ハラ・モンゴル」すなわち「黒いモンゴル」と呼んでいます。

民間の伝承では、トワ族の祖先はチンギス・ハーンが率いた武将たちが現地の人びとと結婚し、繁栄したとされているようです。

トワ族の家

 

 

客を歓迎する踊り「アンショ踊り」は伴奏なしで歌いながら踊るもの。

「アンショ」はトワ語で「輪舞」を意味する。祝福や豊作祈願などを男女が交互に伸びやかに歌いながら、両手を振る輪舞です。女性はツバを反り返した黒い山高帽に、赤、緑、黄などの縦縞の衣装、男性は山高帽に紺や茶色の前合わせの衣装で、青いマフラーを巻いていました。

 

民謡「ホアル」は野趣に富み、日本の民謡を思わせる歌です。男女数名ずつが朗々と声を響かせ、こぶしも入り節を長く伸ばすのが心地よい。

ホアルは周辺民族に共通した歌の形式で、男女の愛や生活、事件などさまざまな内容が歌われます。「ホアル」の曲は「レイ」と呼ばれ、チベット語で「歌」を意味します。「ガリンシュ・レイ」と呼ばれる曲は、「恋人よ、あなたは水中の花です。水の中深くにあるので手も届きません・・・」などという内容になっています。

トワのおじいさん

 

 

かつての支配者 満州族

満族はかつて300年にわたって中国を統治した清朝の支配民族であった歴史的背景から、ほぼ中国全域にわたって居住しています。また、他の民族と同様、長い時間が経過する中で漢族との同化が進み、満族の言葉や風習が失われてしまっているのが現状です。

満族の女性(上と下)

 

 

清朝時代の満州民族。乾隆帝時代の大臣であるマチャン。

 

さらに、満州族の清朝が長年統治してきた王朝の崩壊後、孫文らがとった「大漢族主義」のもとで、多くの満族が自分の身分を隠さざるを得ない時代があり、それが新中国建国後も続いたこともあって、満族の独自の文化は長い間封印されてきたのです。

ツングース系民族の満州族を古くは女真族と言った。

 

 

1982年の人口は430万人でしたが、1990年にはその2倍以上の約985万人に達しています。※2011年の調査では、1038万人と発表されている。これは文化大革命が終わって社会が落ち着きを取り戻し、1984年に少数民族の優遇措置が取られ始めた結果、封印が解けたからなのです。

清朝末期の満洲族の武人たち

 

 

新疆のある集落でも満族の伝統文化が失われたままですが、小学生に週2時間の満語の授業が行なわれていると言うことでしたが、授業を担当していた先生が退職してしまったため、半年前から中断していました。改革開放政策で「拝金主義」が蔓延する中でのことです。

| 諸民族 | 06:48 | comments(0) | - |
東西トルキスタンとモンゴル高原及び新疆の少数民族 2007年7月 野口信彦

 

漢化の大波に耐える ダフール族

ダフールの女性

ダフールの女性

 

 

ダフール族の人口は、約122万人。主に内モンゴル自治区モリワダ・ダフール族自治旗と近くの旗県、黒龍江省チチハル市郊外地区と近くの県に集中して住んでおり、少数が新疆ウイグル自治区ターチェン(塔城)県に居住しています。

新疆には現在、約5400人のダフール族が居住しています。

 

ダフール族の人びとはダフール語を話し、ダフール語はアルタイ語系、モンゴル語派に属し、ブトハとチチハルの2つの方言があります。

ダフール族の言葉は語彙が豊富で、漁業・牧畜・狩猟、農耕を表すものが多く、その中には漢語、満州族語、オウンク語から吸収した語彙もあります。

ダフール族には自民族の文字がなく、主に漢語を使用し、少数の人たちは満州族語、モンゴル語、カザフ語にも通じています。 

彼らはシャーマニズムを信仰しており、シャーマニズムは自然崇拝、トーテム崇拝、祖先崇拝を含めた原始宗教であり、少数の人たちはチベット仏教を信仰しています。

ダフール族

 

ダフール族は中国北部地域の悠久の歴史と農耕文化を持つ民族です。

ダフールという言葉の意味は「耕すもの」で、彼らは自分たちをそう呼んでおり、元代の末、明初のはじめに現れた呼称です。清代の康熙初年頃に、「打虎児」の訳名が現れ、のちに「達胡爾」「達虎里」と訳されるようになりました。

 

新中国成立後、この民族の人たちによって、統一してダフールという呼称が定められました。これは中国政府の「民族識別工作」による認知作業の結果でもあります。

 

ダフール族は“スキタイの子孫だ”とも言われており、清代においては、八旗制度(旧称)、満州の戸籍制に編入され、辺境の要衝を守るため重用され、新疆に家族ぐるみで移駐させられました。新疆のダフール族はそのような経過をたどって存在しているのです。

 

切り紙が得意な女性たち シボ(錫伯)族

シボ(錫伯)族の人口は約17万人。その祖先は古代北方民族の鮮卑人だといわれています。当初は大興安嶺の東麓一帯で遊牧生活を送り、紀元4世紀前後に南の黄河流域まで移住して政権を作り上げましたが、ほとんど漢族に同化されています。

 

その後、東北地方で生存を続けて今日のシボ族に至っているのです。中国の東北地区に居住しているシボ族では、すでにシボ語がほぼ消滅して漢語を使用している状態です。

シボ族の軍人(1882年の絵画)

 

シボ文字は1947年に、満州文字にいくらか修正を加えて創られたものですが、大多数のシボ族は、現在では漢字を使用しています。

1764年には1016人のシボ族が清朝政府によって招集され、新疆のイリ地区に屯田するよう命令されました。新疆のシボ族は、主にイリ川流域のチャプチャル(察布査爾)、ホルゴス(霍城)、トックズタライなどの県に集住しており、その言語はアルタイ諸語のトゥングース・満州語派に属しています。新疆では1954年3月25日、イリ・チャプチャルシボ自治県として成立しました。

シボ族の女性

 

新疆のシボ族の住まいは庭付きが多く、花や木や野菜などを植えており、玄関は南向きで、寝室の窓や箱、タンスなどの家具には彫刻をほどこします。図案は牡丹と蓮が多いようです。女性はワンピースを好み、男性は前合わせのジャケットを着て、ズボンの裾は足首で括ります。シボ族の女性は切り紙が得意で、窓などを切り紙できれいに飾りつけます。

シボ族の男女

 

食べ物は小麦粉と米を主食とし、ミルク入りのお茶、バター、クリームなどの乳製品を好みますが、犬の肉は漢民族と違って食べません。キャベツ、ニラ、ニンジン、セリなどに唐辛子を入れて漬物をつくり、狩猟や漁撈で得たものを塩漬けにして、干して食べます。

 

シボ族は礼儀を重んずる民族です。家庭内では、年長者から子どもまでの序列が明確にできており、親族の間では、若い人が年長者を尊敬する仕草である「打千」というあいさつをします。シボ族の祭りごとも、伝統的な行事は姿を消してしまい、今では漢人とほとんど同じになっています。

 

シボ族はイリに移住してから、毎年旧暦4月18日に、東北地方から西へ移住してきた日を、父母や兄弟との別れの記念日として、集落全体の人たちが郊外でイベントなどを行うことを最大の楽しみにしています。

| 諸民族 | 08:51 | comments(0) | - |
東西トルキスタンとモンゴル高原及び新疆の少数民族  2007年7月 野口信彦

 ここで、大谷大学教授の礪波護氏が朝日新聞の『週刊 新シルクロード No.39』で執筆している「チベット仏教」の欄を抜書きしてご紹介したい。

 

 チベット仏教――明や清王朝が信仰と統治のために、北京で「西蔵大蔵経」を「出版」――

 チベット仏教とは、古来、「ラマ教」と呼ばれてきたもので、ラマとは師匠を意味した。ただラマ教とは師匠とは異なった淫祀邪教を示すかのように受け取られるので、最近では「チベット仏教」と称するようになった。これは、チベット古来のシャーマニズム的なボン経と習合したこと、そして最大宗派のゲルク派は、大乗も小乗も、また祆教も密教も、すべてを包括するのが特徴である。現在の中国では「蔵伝仏教」と呼ばれ、チベットや内モンゴルをはじめとする中国各地、ネパール、シッキム(現インド北東部の州)、ブータンなどに広まっている。

 

 チベット仏教がはじめて政治的に統一されたのは、七世紀初頭のこと。ラサの南東ヤルルン地方にソンツェン・ガンポ(?〜649年)という英雄が現われ、全チベットの農耕と遊牧の諸部族を征服して吐蕃と呼ばれる王朝を開いた。

チベット帝国のソンツエンガムポ

ソンツェン・ガンポと文成公主、チツン

 

 王は、唐からは文成公主を、ネパールからはチツンを妃として迎え、伝承ではこの両妃がそれぞれ本国の仏像をもたらしたという。この王がトンミー・サンボータという人物をインドに派遣し、彼の地の文物を学ばせ、同時にインドの文字に倣ってチベット文字を作らせ、仏典のチベット語訳を始めさせた。

 

 八世紀の後半、第五代チソンデツェン王(在位754〜797年)はインドと唐から高僧を招き、仏典のチベット語への訳経を一大国家事業として始めた。しかし、第八代ダルマ王(在位841〜842年)が廃仏主義者として暗殺され、吐蕃は崩壊した。古代チベットの吐蕃時代は、ダルマ王の死までが仏教の前期伝播期(グンタル)である。

第五代チソンデツェン王

 

 吐蕃の分裂・崩壊に変わって仏教も衰退したが、約1世紀を経て仏教の再導入が始まる。10世紀後半からが仏教の後期伝播期(チタル)で、仏教翻訳事業が続き、その集大成として一四世紀初めに『チベット大蔵経』が成立した。

 

 仏典は、仏陀の教説集である「経」、教団の規定集である「律」、経と律に対する注釈集である「論」の三蔵に分類される。この三蔵を網羅したものが、『大蔵経』で、『パーリ語三蔵』や『漢訳大蔵経』も、三分類で編集された。

 しかし『チベット大蔵経』は、経・律・論の分類ではなく、カンギュル(甘殊爾=仏説の翻訳)と、テンギュル(丹殊爾=注釈書の翻訳)という、二部に分類される。

 

 注目すべきは、チベット大蔵経が最初に木版出版されたのはチベットではなく、明・清代の北京においてであって、『西蔵大蔵経』と題し、勅命によって開板(出版)されたことである。これはチベットでは写本を重要視するのに対し、モンゴル王朝の元のみならず、明・清の宮室と政府が、信仰と当地の両面でチベット仏教を重視し、傾倒した結果である。

 

 仏教の後期伝播期には、チベット独自の仏教が生み出され、サキャ派、ニンマ派、ゲルク派などの宗派が成立した。モンゴル帝国時代には、元の朝廷でクビライ・カアンの帝師となるパスパ(八思巴、1235〜80年)が属したサキャ派が優先的な地位を占めた。

 チベット仏教最大の学僧ツォンカバ(宗喀巴、1357〜1419年)によって開創されたゲルク派は、黄色の帽子を被るので黄帽派(黄教)とも称され、従来の紅帽派(紅教)と区別される。

ツオンカバ(1357〜1419)

 

 このゲルク派からダライ・ラマやパンチェン・ラマの系統が生まれた。ツォンカバの生誕地に建てられた青海省西寧のタール寺はゲルク派の大寺院として多くの学僧を輩出した。

| 諸民族 | 01:14 | comments(0) | - |
東西トルキスタンとモンゴル高原及び新疆の少数民族 2007年7月 野口信彦

 

モンゴルの元朝はチベット仏教を国教化しようとしたこともありましたが、いわば中国はチベットというお寺さんの檀家でもあったわけです。

また清の皇帝がダライラマ5世に称号を送ったこともありますが、そのとき同時に、ダライラマも、逆に清の皇帝に「皇帝」の称号を授けているので、歴史的には兄弟のような関係だといえます。

ロサン・ギャツオ ダライラマ5世

 

 

近年、チベット文化圏はインド・中国の辺境に組み込まれ、国内ではさらに細かい行政単位に分割されました。

アムド(東北チベット)の大半は青海省となり、

カム(東チベット)の東半分は甘粛・四川・雲南3省に組み込まれ、

コンポ(東南チベット)とガリ(アーリー、西チベット)の南半分(ラダック、ザンスカール、キンノール、ドルポ)などはインドやネパールの領土内に

シッキムは75年、インドの内地にそれぞれ組み込まれ消滅してしまいました。

チベット文化圏で現在も独立を維持している国はわずかにブータン一国です。

伝統的なチベット地域と現在の地方行政境界分割を比較

中国が設置したチベット民族の自治行政体の領域。チベット自治区が、四川省、青海省、新疆ウイグル自治区に隣接している

チベットという国が世界地図から姿を消しても、今なおチベット文化は人びとを魅了してやみません。チベット文化の存続を願う人びとは年を追うごとに増え、世界の各地で増え続けています。国を失っても、チベット民族の主体性と誇りがなくなるどころか、よりいっそう鮮明となり、世界中に認知されてきた理由はなんでしょうか。

それはチベット文化、とりわけその仏教文化に国境や民族を超えた普遍的な性格があるからだといえます。

 

チベット自治区にはさまざまな自然と人文景観があります。首都ラサ市はチベット自治区の政治、経済、文化、交通やチベット仏教の中心ともなっており、ラサ市にはジョカン寺、ラモチェ寺、ポタラ宮、八角街、ダライラマの冬の宮殿でもあったノルブリンカとチベットの3大寺(ガンデン寺、レプン寺、セラ寺)などがあります。

ポタラ宮 ※ココから下の3枚の写真は私の撮影です

ダライラマの冬の宮殿ノルブリンカ宮の応接室

 

 

07年 河口慧海が学んだといわれるセラ寺

河口慧海

多田等観

 

また、ロカ地区はチベット文化の発祥地であり、チベット最初のポラカン、チベット主墓、サムイェ寺などもあります。

 

シガツエ(日則)地区の名所旧跡としては、主にヤンゾユム湖、黄金の色に輝くタシルンポ寺、バンコル・チョエテン寺などがあります。チベット民族にはこのほかにも数限りない無数の文化・自然の遺産があります。

チベット暦をもとにした各種の祝祭日、チベット文字をもとにしたチベット文学があり、チベット族の民間伝承文学・芸術、チベット考古学や各種書籍の出版、蔵医といわれるチベット医学と薬学など、汲めども尽きぬ学問領域の世界が展開されているのです。 

 

チベット人にとってのチベットは神々のものでしかないし、世界の人々の心から仏教の聖地というイメージが消えることもないでしょう。

| 諸民族 | 06:08 | comments(0) | - |
東西トルキスタンとモンゴル高原及び新疆の少数民族  2007年7月 野口信彦

悠久の歴史と深い信仰 チベット族

 

  チベット人の主食はツァンパです。日本で言えば、さしずめ「麦こがし」でしょう。それにヤクの肉があれば上等で、羊の肉芽でも出れば、ラバも踊りだすほどでしょう。日本では想像もできない貧しい食生活です。でも、貧しいというのは、飽食の日本を基準にしているからです。彼らは決して「自分たちが貧しい」とは思っていません。

ツアンパをこねる。突然現れたガイドの日本名・洋子ちゃん。しかし、彼女の正体は不明で、相当に怪しい人物でした。

たまたま訪れたチベット人遊牧民の家。

 

  遊牧民の住居もヤクの皮でつくります。燃料もヤクのフンです。ヤクが居なければチベット人の生活は成り立ちません。

2007年6月 彼女は同行の某社長夫人。ヤクの写真もこれしかなかったので・・・・

 

チベット高原の北にあるチャンタン高原は、青海省西南部からチベット自治区北部にかけて広がる5千探蕕旅眞話和咾如▲船戰奪塙盡兇涼罎任發箸に自然の厳しい地域です。ほとんど手つかずの自然が多く残っています。域内には6千丹幣紊諒が幾つも点在し、なかでもニェンチェンタングラ峰(7117叩砲蓮▲イラスについで聖なる山として、チベット族に崇められています。ここにも伝統的な遊牧生活を送る人々が暮らしているのです。

チャンタン高原を青蔵鉄道からみる 2017年6月

 

いま、チベット全体が漢化の大波に呑み込まれようとしています。しかし、悠久の歴史と深い信仰にもとづいた生活を送ってきている彼らチベット民族は、アイデンティティーを失うことなく生きています。

踊りを伴わない「ルー」と呼ばれる歌のジャンルがありますが、2人の娘さんが唄っていたその高く澄んだ歌声は、わたしの胸にいつまでも深く響いています。

寺の工事現場を通りぬけようとして瞬間的に撮影したこの写真と彼女たちの歌声が私の脳裏に深くこびりついています。

 

 ガイドに訳してもらいました。

 

 東から昇る太陽に光が前方の寺院に当たる。

 その輝きは私たちが編んだ敷物のようだ。

 その敷物には尊敬する神様が座っている。

 その神様に、羊が肥え、暮らしが豊かになるよう祈る。

 

チベットは中国に5つある自治区のうちの1つで、中国の南西部に位置しています。長さ2400辧幅200〜300劼離劵泪薀簑膸殻があり、この大山脈の平均標高は6000丹幣紂∪こ最高峰のエベレストがネパールとの国境に聳え立っています。チベットではサガルマータといい、ネパールではチョモランマといいます。チベットヒマラヤの平均標高は4000辰如¬明僂122万平方辧首都ラサの郊外にあるクンガ空港は標高が3600辰箸い高さにあります。飛行場で酸素を吸う人もいます。首都ラサのホテルのベッド脇には必ず酸素ボンベが設置されています。

 

チベット族は主にチベット自治区および青海省、甘粛省、四川省、雲南省などのチベット族自治州に住んでいます。というより、それらの地はもともとチベットの国土だったのですが、清の統治のもとで分割されたのです。

右上が内モンゴル自治区、左上が新疆ウイグル自治区、その下がチベット自治区。ここはいずれももともと中国ではなかったのです。※今日の写真は、これだけがネットから拝借しており、これ以外の写真はすべて私・野口撮影のものです。ただし、私が写っている写真は、誰かに撮影してもらったものです。

 

チベット族の人口は約500万人。そのうちチベット自治区内の居住者は90年の国勢調査では245万人。しかし、1960年には中国の侵略のために約120万人に人口が減り、10人に1人のチベット人が入獄の経験を持っているという悲劇の民族でもあります。

 

チベット文字は紀元7世紀ころサンスクリットの字体を参照して造られた、左から右へ横書きされる表音文字です。またほとんどのチベット族はチベット仏教を信仰しています。

 

チベット族の祖先は、ヤルツァンポ河中流域で生活して子孫を増やしてきました。6世紀頃、ヤルン部落の首領が部落群の指導者になって「ツァンプ」と名乗り、奴隷社会に入りました。7世紀に至ってソンツェン・ガムポがチベット全域を統括しました。これは歴史上「吐蕃」と呼ばれています(「蕃」の文字があるように、無論、中国が名づけたのですが・・・)。一時期は長安の都まで侵攻するほど吐蕃の力が極めて強大になった関係で、唐王朝が文成公主にソンツェン・ガムポ王と政略結婚をさせたことは有名な話です。

文成公主は漢の世界からチベットに入る前に、ここで名残を惜しんだと言われる観光地

チベット人に扮して早速、物売りをする漢人の女性

07年 チャンタン高原の山々

07年6月 ゴルムドから青蔵鉄道でラサへ。中央は元自由法曹団の会長さん、右は岡山県の弁護士。

 

 

| 諸民族 | 10:39 | comments(0) | - |
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