シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
3.鮮卑の歴史
鮮卑(せんぴ)は、モンゴル高原東南部から大興安嶺南部を本拠地として、中国北部に侵入した遊牧民集団です。彼らは東胡の末裔といわれ、言語はモンゴル系だったといわれていますが、はっきりしていません。鮮卑は1世紀末からしばしば長城を越えて侵入し、人や家畜を略奪していきました。
 
2世紀後半、檀石槐(だんせきかい)という人物が君長になると(在位151年〜181年)勢力を拡大し、かつての匈奴の領域を占拠したといわれるほど強勢を誇りました。檀石槐の父親は匈奴の武将でしたが、3年間従軍して家に帰って来ると妻が妊娠していました。妻は、“あるとき稲光とともに雹(ひょう)が降ってきて口に入り、それによって妊娠した”と説明したのですが、父親は信用せず、生まれた子供を殺させようとしました。しかし、妻は密かに子どもをかくまい、養育しました。

2世紀頃、鮮卑(檀石槐政権当時)とその周辺国
 
その檀石槐は少年のころから知力・体力ともに優れ、衆望を得て君長に推戴されました。彼は領域を東部・中央・西部に分け、自らは中央にいて統治しました。3分割統治=
三極構造(宇宙から世界地図を見るようにして、右・中央・東部と分けること)は匈奴と同じなのですが、その支配体制は匈奴ほど整っていませんでした。

鮮卑の版図
 
檀石槐の治世の、とくに末年に中国は体制が弛緩し治安が悪化したのですが、大勢の中国人が長城を超えて鮮卑の領域に移住しました。人口が日々増えて農耕・牧畜・狩猟では食糧を賄いきれなくなったので、檀石槐は漁労に巧みな倭人=日本人を連れてきて、今日のシラムレン川で魚を獲らせたといいます。

鮮卑族が使用したベルトのバックル
 
『三国志』などにみられるこの記事は、遊牧民集団鮮卑のもとでも(おそらく漢人によって)農耕がおこなわれていたことを示しています。
なおこの倭人を当時、東シナ海で活動していた海洋民であるとする説もあります。檀石槐の死後、鮮卑の勢力は急速に衰えました。

鮮卑の戦士の像
 
2世紀末に比能(かひのう)という者がかなりの領域を掌握したのですが、檀石槐のときの勢力には及ばなかったと言います。軻比能が支配した2世紀末〜3世紀初には中国国内がさらに乱れ、より多くの中国人が鮮卑領内に流入しました。
『三国志』によれば、彼らは武器の造り方や漢字を鮮卑に教え、そのことが鮮卑の勢力を強化したといいます。

 
西晋の時期における北方諸民族の分布図

しかし、軻比能が中国側の陰謀で殺されると鮮卑は再び分裂してしまいました。中国は一時、西晋によって統一されましたが、八王の乱などの内紛が起こると、各勢力が北方遊牧民を傭兵として国内に導入し、その結果、かえって混乱に拍車をかけることになってしまいました。中国に入った鮮卑諸部族は自ら小王朝を建てましたが、その一つ拓跋(たくばつ)部の建てた北魏が中国北半部を統一することになります。
 
鮮卑の言語は烏桓と同じようです。鮮卑の言語系統について、古くはチュルク系であるとする説が有力でしたが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっています。

その後、鮮卑族は北魏となって、雲崗石窟を開くなど漢族に勝るとも劣らない文化芸術を駆使して、華開かせました。


※(今回の一覧のシリースは、主に『中央ユーラシアを知る事典』平凡社2005年刊を引用しています)
 
| 諸民族 | 06:55 | comments(0) | - |
月氏の歴史と変遷ー2
大月氏との同盟はうまくいかなかったものの、張騫がもたらした西方の事情は漢人の世界観を一変させました。“自分たちの中華の世界とは違う「西域」という世界があったのだ”と。武帝をはじめ、多くのものが、西の世界の存在を知り、それを知りたいと思いました。これを“張騫、穿空の功”(ちょうけんさっくうのこう)と言います。

スルフ・コタル出土のバクトリア語碑文(1957年発掘)
 
張騫が西域を見てきたおかげで、漢がこれまで知らなかった世界を初めて知ったわけです。しかも、武帝にとってはそれまでの軍事上の最大の弱点であった良馬がいなかったという状態をなくせることができるからです。それからはおそらく大勢の遣いが西へ西へと向かったことでしょう。そこからのちに言われる「シルクロード」が踏み固められていったのです。
東西南北、縦横無尽にそのルートは広がっていきました。
 
漢の武帝はさらに積極的に西域進出を進め、それまで首根っこを押さえつけられていた大敵匈奴を圧倒し、ついに西域の覇権を握ることができたのです。そして月氏は再び漢と交流・交易するようになったのです。
その時活躍した漢の将軍には、衛青やその甥の霍去病(かくきょへい。紀元前140年〜前117年)などの若い将軍がいました。霍去病などは、今でいえば、若きイケメンの格好いい将軍だったようです。

霍去病の像(甘粛省酒泉市)
 
イシク・クリ(湖)周辺に逃れてきた月氏の残党(大月氏)は、もともとそこにいた塞族の王を駆逐して、その地に居座りました。しかし、老上単于(在位:前174年〜前161年)の命により、烏孫(うそん)の昆莫(こんばく)が攻めてきたため、大月氏はまた西へ逃れ、最終的に中央アジアのソグディアナに落ち着きました。いまのウズベキスタンのサマルカンドやあの辺でしょう。

紀元前1世紀の西域諸国

そこで大月氏はアム川の南にあるトハリスタン(大夏)を征服し、その地に和墨城の休密翕侯(きゅうびつきゅうこう)、雙靡城の雙靡翕侯(そうびきゅうこう),護澡城の貴霜翕侯(きしょうきゅうこう)、薄茅城の肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)高附城の高附翕侯(こうふきゅうこう)の五翕侯を置きました。これらの名前は、いずれも後代になって、漢の側が名付けたものです。

クシャン朝

クシャーナ朝の領域
それから100年余、護澡城の貴霜(クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼし自立して王となり、貴霜王と号しました。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となります。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将軍1人を置いてこれを監領したといいます。
この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定されます。然し漢土ではそのまま大月氏と呼び続けたようです。

ヘライオスのコイン。表には彼の横顔が描かれ、裏にはギリシャ文字で
“ΤΥΡΑΝΝΟΥΟΤΟΣ ΗΛΟΥ - ΣΑΝΑΒ ΚΟϷϷΑΝΟΥ”
「僭主ヘライオス、コシャンのサナブ」とあります。

 
キダーラ朝
『魏書』列伝第九十に「大月氏国、北は蠕蠕(ぜんぜん、柔然)と接し、柔然からたびたび侵入を受けたので、遂に西の薄羅城(バルフ)へ遷都しました。その王喜多羅(キダーラ)は勇武で、遂に兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を超え、南の北天竺(インド)を侵し、乾陀羅(ガンダーラ)以北の5国をことごとく従属させた」とあり、この頃の大月氏はクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝を指し、中国ではキダーラ朝までを大月氏と呼んだことが分かります。その後、キダーラ朝は匈奴(エフタル、フーナ)の侵攻をうけたといわれます。
  
小月氏
月氏から分かれて南山羌(現在の青海省)に留まった小月氏は、その後も生き長らえ、三国時代の記録に「敦煌西域の南山中(チベット高原)の西から葱嶺(パミール高原)までの数千里にわたって、月氏の余種である葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおり、それぞれに酋豪がいた」とあります。また、『魏書』にある小月氏国は上記の小月氏ではなく、クシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝の君主キダーラの子が治める分国で、都は富楼沙城(ペシャワール)にあったともいわれています。

わたし自身、この地域=パミール、ヒンドゥクシュ、カラコルム辺りのことは詳しくありません。「ヒンドゥクシュ・カラコルム会議」(略称・ヒンカラ会議)という団体もあるようですが、どうやら日本山岳会のなかにあるようです。「パミール中央アジア研究会」も私も理事ですがあります。このあたりのことを語り始めると、うっとりしてロマンを掻き立てられ、魅力を感じる方がたがたくさんおられることだけは確かです。
 
| 諸民族 | 06:50 | comments(0) | - |
グレートジャーニー  月氏の歴史と変遷^1
シリーズ・グレートジャーニーを再開します。
シリーズでは、西のかなたから東へ東漸していき、先ごろはモンゴル高原の遊牧民族・匈奴をご紹介しましたので、ここからは時系列に進めていきたいと思っています。では、モンゴル高原に端を発した諸民族のご紹介に移っていきます。そのはじめは月氏です。

紀元前3世紀、秦帝国と北方民族
 
秦の始皇帝(在位紀元前246年〜前210年)の時代、中国北方からモンゴル高原では東胡(とうこ)と月氏が強勢を誇っていました。一方、イラン系の匈奴は陰山の北からオルドス地方を領する小国にすぎず、大国である東胡や月氏の間接支配を受けていました。ある時、匈奴の単于頭は、太子(息子)である冒頓を廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送りました。
 
しかし、頭曼は冒頓が人質としているにもかかわらず月氏を急襲しました。これは長男である息子が殺されてもかまわないという意思の表れでした。月氏は人質の冒頓を殺そうとしたのですが、あと少しの所で逃げられてしまいました。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築きあげたのです。
 
月氏はその後も依然として敦煌附近にいましたが、漢の孝文帝(在位紀元前180年〜前157年)の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は匈奴の盃にされてしまいました。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へのがれて大月氏となり、もう一つは南山羌(現在の青海省)にとどまって小月氏となったのです。
 
月氏は遊牧騎馬民族として素早く行動できる特性を持っています。その機動力を生かして、西方世界と西北地方の遊牧民族や漢族の居住する地域との交易を進め、ホータン産の玉や中央アジアの名馬を漢族地域に供給し、その見返りに中国特産の絹などを入手したといわれています。

紀元前1世紀の西域諸国
 
紀元前307年に中国趙の武霊王に“胡服騎射”(西方遊牧騎馬民族の服装をし、騎馬戦術を取り入れる)を教えたのも月氏だったと言われています。一方、モンゴル高原の遊牧民「匈奴」もやがて騎馬戦術を習得し、月氏との間に激しい勢力争いを演じていました。
 
なぜ、騎馬民族の衣服をしたのでしょうか。それは、それまでの遊牧民の衣服は前合わせの服装が多かったので、馬に乗ると着た衣服の前が割れて乗馬しにくかったため、現在のズボンの原型となる衣服をしたのです。
ですから遊牧騎馬民族は現代ファッションの先駆けでもあったのです。
 
月氏は紀元前296年に匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)から、紀元前162年には老上単于からの猛攻撃を受け、月氏の主要勢力は、はるかパミール高原を超え、アムダリア(川)の北岸にまで退却しました。この西方に移動した月氏を大月氏と呼び、中国西北辺境青海附近に残留した月氏を小月氏と呼びます。
 
一方、前漢では日々匈奴の侵入に悩まされていたため、遂に西方の月氏と共同で匈奴を撃つべく、武帝(在位:紀元前141年〜前87年)の時代に張騫を使者とした使節団を西域に派遣しました。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛、康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着きました。この時の大月氏王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で女王でした。大月氏女王は張騫の要件を聞いたのですが、すでに復讐の心はなく、国家は安泰しており、漢が遠い国であるため同盟を組むことはありませんでした。
 
| 諸民族 | 10:35 | comments(0) | - |
モンゴル高原の遊牧民族ー7 総論編
ウィキペディアによると、中華思想は、中国=漢民族が宇宙の中心であり、その文化・思想は神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持ちつづけた自民族中心主義の思想である。また、漢民族とは異なる周辺の辺境の異民族を、文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから「華夷思想」ともいう。
 
以下の文は著名なシルクロード研究者の長澤和俊氏の文から引用する。
 
中華思想と東夷・西戎・南蛮・北
数千年前から現在に至るまで中国に厳然として存在している「中華思想」について、この中華思想を理解してシルクロードを考えないと、正しい理解につながらない。
数千年前から使われてきた“東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)”という言葉の意味は、この世の中心に中華民族が存在しており、中原(その昔、漢民族が支配していた地域。ほぼ黄土高原そのままの地域に当てはまる)周縁の諸民族は“犬やケモノや虫けらのようで野蛮だ”と表現する言葉なのである。同じ類(たぐい)の文字で、たとえば、蒙古の「蒙」は「無知蒙昧」の蒙であり、匈奴はいわずと知れた兇悪な人という意味からきている。

中華思想の概念図
 
東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)、―の「四夷」のうち、もっとも早く漢人文化に同化したのは、今日の江蘇省、低い湿地帯に住んでいた東夷である。
夷とは、大の字型に立った人のわきに、小さく人という字を添えた文字で、背たけの低い小柄な民族を表している。魯公伯禽(ろこうはくきん)が東夷・淮夷(わいい、淮水流域にいた原住民)・徐夷(今の徐州あたりにいた)などを討った。徐夷は退いて播陽湖のあたりに移った。また西周の穆王や東周の宣王が南征して蛮(けいばん)を退けた。それによって漢人文化圏は広く華中を覆い、やがて長江の流域までひろがった。
 
しかし北狄(犬戎・けんじゅう)と西羌(羌戎)とは、いずれも遊牧の民であって、肉、乳製品、皮革には事欠かないが、穀物と衣類を自ら生産することができない。彼らはつねに西周の鎬京(こうけい)を攻め、西周の幽王を馬麗山(りざん、今日の西安市東20キロ、華清池離宮の山)に攻め殺したため、紀元前770年、周は都を洛陽に移して、「東周」と呼ばれるようになった。
中国史の上で、紀元がはっきりするのはこれからあとである。
 
しかし遊牧民たちは、洛陽近郊の伊水や洛水のほとりまで進出して洛陽の都をおびやかす。東周王朝は諸侯の力を借りて防戦に努めるありさまとなった。周の東遷のあと、今日の陜西省に興(おこ)った秦は、北の犬戎を抑えつつ、比較的弱い羌族をしきりに西へ西へと圧迫して、羌戎を黄河上流の山地高原に追い払った。この西羌は、中古の吐蕃およびタングート(党項)、すなわち今日のチベット族の元祖である。
また、犬戎は秦・漢のころ、大きな騎馬民族国家を形成して「匈奴」と呼ばれた人びとの祖先である。
 
それに対して南方はどうであったか。いわゆる「蛮」のうちの荊蛮は、東周のころ漢民族文化に同化しつつ、今日の湖北省と湖南省の大半を領有する楚の国を建てた。しかし、北方文化になじみにくい荊蛮の一部は南中国の山間に退いて、今日の苗(ミャオ)族となり、農耕に長じた人たちは、亜熱帯の山地にいどんで、今日の広西省壮(チュアン)族の源流となった。
 
また、南蛮のうち越(えつ)族は、今日の太湖以南の浙江省において、約6千年も前から米を作り、魚介を漁り、草ぶきの家に住んでいた先住民である。彼らは徐夷や淮夷を併せて、一時は長江下流に覇を唱え、呉や楚と張り合ったが、秦・漢のころには分裂して「百越」と呼ばれた。その主力は福建・広東両省に南下して、紀元前2、3世紀には広州に南越王国を建て、その勢力は交趾(こうち)シナに及んだ。しかし漢の武帝によって広州の都を奪われてのち、彼らはトンキンデルタの先住民と混血して、今日の越南(ベトナム)人の元祖となった。また、華南山地に残った越族は今日の傜族(ヤオ)や余由(ショオ)族の元祖となった。


☆これでモンゴル高原における遊牧民族の総論編は終わりです。
次からはモンゴル高原の諸民族のご紹介に入りますが、まだ、準備が全然できていません。
おまけに今日と明日にかけて、静岡で行う野球全国大会の一連の会議や開会あいさつ・始球式などを行うために出かけます。
この時期は、17種目ほどの全国大会が全国各地で開かれます。

さらに12月に入りますと、わたしの小さな部屋を広くするリニューアル工事が始まります。
1週間くらいは部屋が使えません。パソコンも使えなくなるかもしれません。
しばらくご無沙汰になりますが、それまでブログの準備を進めておきます。

16日はご存知のように「シルクロードのつどい 2014〜音楽と踊り〜」を狛江駅前の「泉の森会館」で開きます。
役員一同、このイベントの成功に向けて大奮闘しています。きっとご満足いただけるつどいになると思います。
東京近辺にお住いの方がたは、是非、お越しください。午後1時半ころからお待ちしております。




 
| 諸民族 | 04:33 | comments(0) | - |
モンゴルなどの遊牧民族は文化不毛の野蛮人だったか
 しばらく前までは、モンゴルは文化不毛、文化の抑圧者・破壊者と思われていた。美術でも文学でもおよそ中華思想のエッセンスは“「異民族」の「征服者」であるモンゴルという支配のもとで、自らの健全な成長や発展、成熟を抑えられ、ゆがめられた”といわれがちであった。支配者モンゴルとチンギスーハーンは、ともかく文化にはほど遠い「野蛮人」で凶暴極まりない「圧制者」なのだとするのが通常であった。
事実よりも気分や感情が先走ったこういう志向は、近年、だいぶ修正されてきている。その理由は、モンゴルに支配された歴史のあるロシア&旧ソ連の崩壊、モンゴルやたの遊牧民族から支配された過去を否定したい中国などのチンギスハーン否定志向が大きかった。
 
遊牧民が動かす世界史

「第一の波」
スキタイ・サカと匈奴のあとには、ユーラシアの東西で多くの「遊牧国家」「遊牧帝国」を形成。西では、サルマタイ、フン、ハザル、アヴァールが、東には鮮卑・柔然・高車がいた。

スキタイの騎兵

2世紀、鮮卑と南匈奴
 
「第二の波」
中央アジアから北西インドにかけては、クシャーン朝、エフタルなどがある。
匈奴の流れのフン族はゲルマン諸族を圧迫してその西進の引き金となり、さらには自らも現在のハンガリー(フンガリア、すなわち「フンの地」の意味)に本拠地を定めて、ローマという名の地中海帝国を崩壊に追い込んだ。
 
「第三の波」
突厥=モンゴル高原から天山地域を本拠に出現した突厥が、短い間だったが、史上はじめて中央ユーラシアの草原地帯をひとつにした「大帝国」を形成した。突厥は、これもスキタイ・匈奴をはじめとする他の「遊牧国家」の場合と同様に、遊牧連合体の中核となった集団の名称であるとともに、多重複合の国家全体の呼び名でもあった。
 
「第四の波」
突厥以後=遊牧国家の存在はさらに鮮明な輪郭で史料に表れる。突騎施(チュルギシュ)、キルギズ、ウイグル、キタイ(中華風の国号は遼)、中央アジアの「チュルク・イスラーム化」を決定づけたカラ・ハン朝、ついで中東を大席巻した一連のセルジューク国家群、さらにはもちろんすべてを呑み込んだ真の世界帝国モンゴルなどである。

宋代に描かれた契丹人の絵

馬と契丹人の水墨画(1607年、明)
 
ポスト・モンゴル時代
ティムール帝国、明代モンゴル、ウズベク国家、カザフ国家のほか、カザン、アストラハン、クリムなどの一連のモンゴル王権や清朝と熾烈な死闘を繰り広げたジュンガル王国、そして最後の「遊牧王国」アフガニスタンのドゥッラーニー朝など。

ムガル帝国の最大版図

 
「第五の波」 満州族の清朝・ムガール朝・オスマン朝など。
 
モンゴル・歴史年表
1206年 テムジン、モンゴルを統一しチンギス・ハーンを称する。
1211年 チンギス・ハーンによる中国遠征、金(きん)と開戦。
121925 チンギス・ハーンの中央アジア遠征。
1227年 西夏を滅ぼす。その3日前にチンギスが死亡。
1229年 オゴデイが2代目皇帝に就きハーンを称する。
1235年 首都カラコルムを建設する。
1246年 第3代グユクが即位、わずか2年で急死。
1251年 後継者問題で紛争の後、第4代モンケが正式に即位。
1260年 クビライがハーンに推挙される。同時期アリク・ブケもモンゴル高原でハーンに推挙され、帝位継承問題が起こる。
1267年 クビライが大都(北京)建設に着手。
1271年 クビライが国号を「大元」とする。
    (『週刊新シルクロード紀行No.9』より週刊朝日百科編集部作成)
 
| 諸民族 | 06:44 | comments(0) | - |
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