シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
ウランフ 4  ―内モンゴルにおけるその功罪―
 1945年末、満州や内モンゴルはソ連赤軍とモンゴル人民共和国軍によって「解放」され、中国国民党と中国共産党の争奪の地となりました。日本によって工業建設が進んだ「満州国」は、国共両党にとって死活問題になってきました。内モンゴルの東部地域は満州国の一部であったため、国共の対立が内モンゴルの戦後の運命を決定づける一つの動機となりました。

毛沢東と王明

 中国共産党のエリートたちはウランフが求める内モンゴル自治の主張から自らに有利な一面を見出しました。それは、中国共産党の支持を得た内モンゴルの自治はモンゴル人に歓迎されるだけではなく、モンゴル人民共和国からも支持されます。なぜなら、後者は、せめて盟友である中国共産党が内モンゴルを良くしてもらいたいと思うからでした。

 そうした判断から内モンゴルの自治は中国共産党から支持されます。1947年5月1日成立の内モンゴル自治区政府は中国の主権を認め、中国共産党の指導を受けると宣言し、国民党政府から独立したのです。内モンゴルが中国共産党を選択したのは、モンゴル人民共和国との合併に失敗して、それ以外に選択肢がなかったからでした。

ウランフ

 もし、国民党が勝っていたならば、日本の敗戦と同様もしくはもっと悲惨な清算が待っていたはずです。そしてウランフが指導した内モンゴル自治政府は、1948年〜49年の国共内戦のなかで、一貫して中国共産党側に立ち、様々な戦闘に参加して大きな戦果を挙げました。1949年10月1日、北京の天安門広場で行われた中華人民共和国の建国式典に内モンゴルの騎兵隊が参加したことは、内モンゴルの人びとがこの「賭け」に勝ったことを意味しています。

 しかし、ウランフが指導した内モンゴルの自治が国際情勢の変化と戦略的連合の産物であったことを我々は認識しておく必要があります。したがって、その存在自体は極めて流動的なものです。第一次世界大戦の勝利は永遠の安定を意味するものではありません。内モンゴルの自治が、このように強い法的裏付けに欠けていたからこそ、その存続が極めて脆弱なものとなりました。そのため、1948年以降、ウランフは一貫して中国における民族自治の法的整備に努力してきました。

 協力的な民族主義であれ、中国における民族自治制度の法整備であれ、ウランフの努力はほかでもなく内モンゴル人の現代政治思想の産物だといえます。疑いもなくウランフは、20世紀の中国と内陸アジア地域の歴史に大きな影響を残した一里塚的な人物といえます。
(ウラディ・E・ポラク/ボルジギンブレインサイン訳)

※ここでは、ポラク氏自身の書いた内容を曲げない程度での言い回しの変更をしています。同時に、文中に私自身の考え も入れてあります。
 
 これでウランフの紹介は終わります。このあとはいよいよ、文化大革命期における「打倒ウランフ」と、いわゆるモンゴル人ジェノサイドと「内モンゴル人民革命党事件」の実際を楊海英氏から送られた基礎資料を基に、私の意見も含めて書き進めていきたいと思います。

 
| モンゴル関連 | 10:20 | comments(0) | - |
内モンゴルでもっとも影響力を持った男  ウランフ―2 ―現代内モンゴルの創立者―
 ウランフは内モンゴルでもっとも影響力を持った人物ですし、内モンゴル自治区をつくった人物でもあります。
 そしてウランフに対する評価もさまざまで、中国政府の公式評価は「試練に耐えぬいてきた共産主義の戦士で、党と国家の優秀な指導者、傑出したプロレタリアの革命家で卓越した民族工作の指導者」とあります。
それだったら、彼を批判していた時の評価の処理はどうしたというのでしょうか。

ウランフ(烏蘭夫)
1906年12月23日生1988年12月8日没
 
その反面、モンゴル人の中には彼の負の面を酷評する人も少なくありません。
ウランフがデ・ワン(徳王)と対立して内モンゴルを中国に売り渡したという人がいます。
 このウランフの項目の執筆者はウラディン・E・ボラク氏なのですが、彼はこういっています。

 「まるで徳王が内モンゴルの指導者になっていれば内モンゴルは救われていたかのようだ。ウランフに対するこうした負の評価や徳王への惜しみない称賛は、結局、自らの運命を誰かに委ね、自分たちの不幸を誰かのせいにして、いっこうに反省しない内モンゴルの人びとの退嬰(たいえい)した姿としか言いようがない。
 逆に、内モンゴル現代史は“人民”がつくったのではなく、良かれ悪しかれウランフがつくったものだと言っているようなものである。なぜなら、現代的な意味で歴史を創造しうる内モンゴルのモンゴル族“人民”が形づくられず、今後も形成される見通しがないかもしれないという嘆きのようにも聞こえるからである。したがって、ウランフに対する評価はある意味で内モンゴルのモンゴル人が自らを正しく認識する良い機会といえよう」といっている。
 
 これを私なりに見ると、執筆者自身の中国の党と政府への“気兼ね”が垣間見えてなりません。ウランフが内モンゴルの統一への努力をどう見るのかという根本的な評価がないからです。さらに、デ・ワン(徳王)に対する評価にも同じことが言えそうです。しかし、この国で、自らの考えや意見を言えないという背景があることはよく承知しています。
 
 では、“お前はどう見ているのか”ですって?私は日本人であって、内モンゴルの人ではありません。それぞれの生まれた国土、それぞれの拠って立つ立場、それぞれのおかれた環境、拠って立つ考え方でいかようにも考え方は出ます。ただ、これまでのような、中国共産党のいうことをうのみにした言いかただけは避けたいと思っています。
 
 ウランフの生まれたフフホト近くのトメド部はモンゴル中央部6部の一つであり、16世紀に部酋アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派の首領ソナム・ギャムツォと連合したことは、内陸アジア史を根本から変えただけでなく、モンゴル人の世界観も根本から改造され、その後の運命が決定づけられました。アルタン・ハーンが建設したフフホトはモンゴル人にとって宗教の一大聖地となり、モンゴル人のパワーの内向きな傾向をモンゴル人の再興に向かわせるはずでした。
 
※アルタン・ハーン
 アルタン・ハーン(1507年〜1582年)は、モンゴルを支配したハーンで、ダヤン・ハーンの孫です。因みに「アルタン」は「黄金」の山を意味します。アルタイ山脈は、金の山というように。

この上下の写真は、アルタン・ハーンを
指しています。写真はなかったようです。
 
 ところが、その理想は実現されず、新興勢力の満州人と激しく衝突し、敗れたのでした。その結果、清朝時代にここは防備の重点地域となり、綏遠将軍という軍事要衝が置かれ、トメド部の首領であったチンギス・ハーンの末裔たちは消滅されました。清代に再編成されたトメド旗は他のジャクサ旗と違って、自主権がなく、満州人が総官をつとめる中央直轄地域となりました。
 
※綏遠将軍とは、およそ現在の北京市に相当する地域になります。この場合は、一個人の肩書ではなく、将軍府がおかれた都市のことです。のちに、満州の軍幹部が人の将軍として配置されましたが・・・
 

 
| モンゴル関連 | 06:19 | comments(0) | - |
内モンゴルでもっとも影響力を持った男ウランフ ―現代内モンゴルの創立者―
 私は北京でウランフと接する機会が何度かありました。人民大会堂での外国元首やスポーツのナショナルチームの歓迎晩さん会、あるいはメーデーと国慶節での天安門上での式典や、夜、行われる記念晩餐会などで何度か会ったことがあります。無論、挨拶を交わしたことはありませんが、握手は何度かありました。

 そして、66年の春頃には私がいつも出かけていた「前門飯店」で夕食の最中にトイレへ行ったとき、何人かの紅衛兵に腕をつかまれて入ってきたウランフとトイレで遭遇しました。その後知ったところでは、前門飯店に拘束されたまま、およそ2か月間にわたって、いわゆる造反派や紅衛兵による、無慈悲で仮借ない攻撃が連日続いていた最中だったようです。自殺するしかない状況で、実際、多くの幹部や教授・文化人らが自殺をしています。
 
 きょうからは『内モンゴルを知るための60章』(明石書店 ボルジギン・ブレインサイン編著)。
静岡大学教授の楊海英氏(内モンゴル生まれのモンゴル人、帰化したあとの日本名は大野旭(あきら)氏)、編著の『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(3)―打倒ウラーンフー(烏蘭夫)』を参考文献とします。
 わが「シルクロード講座」でもお話をしていただいたことがあり、その後、同書の贈呈がありました。発行は風響社。本の定価は22,000円。

 
 ウランフという名。日本人の方は一部を除いておそらく初めて見る名前でしょうから、きょうは、まず、ウランフの経歴から始めましょう。ここの部分は主としてウィキペディアを引用しました。
 
 1906年生まれ1988年北京で死去。モンゴル族。内モンゴル自治区において党と政府・軍の最高職を兼ね、中央の政治舞台において、周恩来を補佐する国民副総理、国家副主席を歴任。北京では「蒙古王」とも呼ばれたことがありました。軍の階級は上将。
 ウランフは内モンゴル自治区西部のトゥメト旗の農家出身。地元の小学校を出て、23年に北平(ベイピン、現在の北京)蒙蔵学校(モンゴル人とチベット人)へ入学。同年12月には中国社会主義青年団(現在の共産主義青年団)に参加。25年に中国共産党に入党。

 続いてモスクワ中山(ちゅうさん。孫文の別名)大学に留学し、帰国後、西蒙工作委員会書記などを歴任。日中戦争では日本軍に対して抵抗運動を指揮、
38年4月に中京綏遠工作委員会委員、翌月には国民革命軍新編第三師団政治部主任代理。
 41年4月、延安に行き、陝甘寧辺区政府民族事務委員会主任、延安民族学院教育長などを歴任。共産党内での少数民族問題を担当。その後、八路軍が支配していた張家口に移転して内モンゴル自治運動連合会を結成、中国共産党の内モンゴル支配の基礎を構築。

 さらに東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西モンゴル自治政府の東西モンゴル共産党工作委員会(1949年に中共中央内モンゴル分局に改称)書記に。 この頃に「赤い息子」を意味するウランフに改名。国共内戦期には、綏遠政府主席、中共晋察辺区中央局委員、中共内モンゴル工作委員会書記などを歴任。
 
その後、1953年には内モンゴル軍区と綏遠軍区が統合、新たに蒙綏軍区設置、同年8月29日にウランフが司令員兼政治委員に任命される。内蒙古軍区司令員(初代)兼政治委員、中共中央東北局委員を兼任、遼瀋戦役や北津戦役にも参加。
1949年の中華人民共和国建国後、内モンゴル自治政府は内モンゴル自治区となり、中央人民政府委員、中央民族事務委員会主任・党組織書記、華北行政委員会委員、中共中央華北局副書記など、内モンゴル大学や中央民族学院の初代学長も。
1952年7月5日に綏遠省人民政府主席に就任、綏遠省と内蒙古自治区の統合を進め、1953年にはたに蒙綏軍区が設置されると、8月29日にウランフが司令員兼政治委員。
 
※このように漢字の肩書や地域名などが次々に出てくると頭が痛くなりますね。    
 このあとから、彼の身辺が怪しくなってきます。文革前期には真っ先に批判の対象となりました。もう少し我慢してお読みください。

 
 1945年9月、政府機構が再編されると、9月29日にウランフは国務院副総理に任命。内モンゴル自治区党委員会第一書記、自治区人民委員会主席、内モンゴル軍区司令員兼政治委員、内モンゴル大学学長、党中央華北局第二書記、内モンゴル自治区政治協商会議主席などの職務も引き続き兼任。
 翌年9月、中国人民解放軍上将の階級と一級解放勲章を授与される。

 1956年9月の第8回党大会において中央委員に昇進し、同9月28日の第8期1中全会で中央政治局候補委員に。
 しかし、1966年に発動された文化大革命では内モンゴル人民革命党粛清事件に巻き込まれ、内モンゴル人民共和国で暫くの間代表を務めた経歴などから「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」と攻撃され、同年5月1日のメーデーに北京入りした際に逮捕・拘留されて失脚した。

 同年5月21日から7月27日、共産党華北局の前門飯店会議が開催され、ここでウランフは徹底的に批判・攻撃され、4回の「自己反省」を強制された。7月27日、華北局は「ウランフの誤った問題に関する報告」を提出し、8月16日にウランフは自治区党第一書記の職を解任されたのを始めとし、党・政府・軍のすべての職務を剥奪されて失脚した。周恩来の保護を受け、北京で軟禁生活を送ったが、ウランフはこの時期、名前を漢風の王 自力と変え、文革期の圧迫を凌ぐ。
 
 文革中の1973年、第10回党大会で中央委員に復帰。1975年1月、第4期全国人民代表大会常務副委員長に選出される。1977年5月には党中央統一戦線工作部部長に就任。同年8月の第11期1中全会において中央政治局委員に選出される。翌1978年、第5期全人代常務副委員長と第5期全国政治協商会議第一副主席に選出。

 1983年6月18日、第6期全人代第1回会議において中華人民共和国副主席に選出。1988年4月に退任後、第7期全人代常務副委員長に転出するが、その年の12月、北京で死去。
 
| モンゴル関連 | 06:42 | comments(0) | - |
徳王 デ・ワンー4  その独立の夢と挫折
 これまで、1030年代から45年まで、デ・ワンがモンゴル人の独立国家の樹立を求めた際、日本側は終始認めませんでした。1937年10月に成立したモンゴル聯盟自治政府(首府はフフホト)と1939年9月に成立したモンゴル聯合自治政府(首都張家口)の地位は自治政府にとどまっていました。これはデ・ワンの意思とかなりかけ離れています。デ・ワンは終始、日本の内モンゴルに対する行き過ぎた関与に不満があって、「蒙疆」という中途半端な用語を認めませんでした。

デ・ワン(徳王)

 
※この「蒙疆」という言葉を検討してみましょう。
「蒙」は中華思想で見た“無知蒙昧(むちもうまい)”の「蒙」からとっています。
そして、「新疆」の「疆」と言う漢字を見てみると“文化果つる何もない荒れ果てた辺境の地”という意味になります。
 それをこの地を占領した日本の支配者までもが引用して使っています。
 言葉や文字というものは、それを使用する者の思考と立場を見事に表すものですね。

現在の内モンゴル自治区
 
 1941年2月、デ・ワンが2度目に日本を訪問した際、日本政府に「モンゴル建国促進案」と「日華蒙三方協定」を提出し、「中華民国建設大綱」で約束された民族自決権にもとづいて、万里の長城を国境線とし、モンゴル自治国(それができない場合、自治邦)を樹立する許可を求めていました。日本は、自治国の成立を認めませんでしたが、自治邦の成立は認めました。
 
 1945年8月、ソ連・モンゴル人民共和国連合軍が中国の東北と内モンゴル地域に進攻し、日本がアジア大陸という舞台から退場したあと、デ・ワンは依然として内モンゴルの進路を模索していました。同年9月、デ・ワンは蒋介石に大英帝国に属するカナダ、オーストラリア等の例にもとづいて、内モンゴルに自治領の地位を与えることを要求しました反対されました。
 
※この辺がデ・ワン(徳王)の政治力量と人物の限界といえます。ヤルタ協定が何を言ったのか、ヨーロッパやアメリカとソ連は何を欲しているのか、そして中国の国民党と共産党はどのような位置にあるのか、などが推し量れなかったのですね。無論、それにはデ・ワンが収拾できる情報の量の多寡があるでしょうから、数十年後の私が何を言っても無理なのかもしれませんが・・・、それは言えます。
 もはや、デ・ワンは“井の中の蛙”状態だったのですね。何か事をなそうとするには、情報収集は必須の活動だといえます。
 
 3年間の隠居を経て1949年にデ・ワンは内モンゴル西部のアラシャンに赴き、自治運動を行いました。しかし、この時の東北アジアと中国の情勢はすでに大きく変わっていました。アラシャーの定遠営にいたデ・ワンにとって中国共産党軍の包囲を越えて、外部の支援を得るのはもはや不可能になっていたのです。
 
 日本軍の撤退後、中国共産党を含む外部勢力は皆デ・ワンを自分の陣営に入れ、その威光と求心力を利用しようとしていました。当時、デ・ワンに与えられた選択肢は少なくありませんでした。ほんらい、デ・ワンにはアメリカや日本、台湾、インドなどに行くことも可能でしたが、彼は死ぬのであれば自民族の国――モンゴルで死ぬという心の準備をもって、1950年の初めに、モンゴル人民共和国に赴く道を選びました。しかし、彼を待っていたのは、ソ連の意志による逮捕、モンゴルでの過酷な獄中生活、そして中華人民共和国への送還でした。

 
抗日運動中の毛沢東と上海の二流女優だった江青夫人

 長男ドガルスレンも「日本のスパイ」と断罪され、1952年にモンゴルで処刑されました。中国では、デ・ワンは、「戦争犯罪者」「売国奴」「蒙奸」として弾劾され、1963年まで十数年間牢につながれました。1966年5月に一代の英豪デ・ワン(徳王)はフフホトで永眠しました。
 
 デ・ワンの悲壮な行動はこの時代の内モンゴル人の戦いと分かちがたいものでした。中国では公式にデ・ワン(徳王)を「売国奴」「蒙奸」として批判してきました。他方、日本では徳王は、日本の対中、対内モンゴル政策の協力者として描かれがちです。しかし、内モンゴル人から見ると、デ・ワンはモンゴル人の独立ないしは自立した準国家の樹立のため、日本と中国の間にバランスを探し求めたといえると思います。    (主として、ボルジギン・フスレ著)

 

ウランフ
※次回からは、いよいよウランフの登場です。この項目では、ウランフの略歴や行動について触れますが、主として、文革時における毛沢東派のウランフに対する批判・攻撃内容と「内モンゴル人民革命党」問題及び内モンゴルでの虐殺(ホロコースト)の真相について触れていきたいと思います。
とはいっても、きょうから、関連書類や書籍を見始めて書きはじめますので、果たしてどこへ進んでいくのやら見当もつきません。
 
| モンゴル関連 | 11:23 | comments(0) | - |
デ・ワン(徳王)ー2  独立の夢と挫折
 「内モンゴル物語」は、1週間のご無沙汰でした。世の中の動きや身のまわりの動きと無関係にモノを書いたり、生活することはなかなかできないものです。
 この間にも色々ありました。毎月の例会の「シルクロード講座」。
 これには8月のキルギスツアーの参加者の3分の2の10名もの仲間が参加してくださいました。一人ひとりに電話でご案内しました。


12月12日に開いた「シルクロード講座」

 これに先立つ午前には、来月1月におこなう「日本シルクロード文化センター」の総会に向けての準備の会議の準備。
 
 翌日の日曜日は、前日欠席したスポーツ連盟の全国理事会。ここでは10年前まで私が在職していた山岳連盟が、スポーツ連盟から脱退したいという問題が論議され、口角泡を飛ばして(古い言い方ですね)議論しました。久しぶりに、しゃべりつかれました。
 今週に入ってからも毎日でかけなければならない用事が続いています。きょうからは2日続いての忘年会。
さぁ〜、それでは・・・・・・
 
        デ・ワン(徳王)―2
 1919年、18歳になったデ・ワンは、ジャサグとして正式に旗の政務をつとめはじめた。同年2月、シベリアのナタで、ブリヤート人、ネイチ ・トイン・ホトクトを含む内モンゴル人が参加し、すべてのモンゴル人を統一したモンゴル国の樹立を目標とする会議が行われ、いわゆる「大モンゴル国建設運動」が繰り広げられました。

デ・ワン(徳王)
 
  この運動は短い期間で終わってしまいましたが、運動が及ぼした影響は大きなものがありました。他方、1921年、外モンゴルでは人民政府が樹立され、1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。内モンゴル人民族主義者は自立の道を探求すると同時に、外モンゴルとの一体化を熱烈に望んでいたことはいうまでもありません。

  コミンテルン、モンゴル人民革命党の指導の下に組織された内モンゴル人民革命党は連邦制の「国家」(内モンゴル自治共和国、1925年)や、内モンゴル革命人民共和国(1928年)を樹立する主張を提出し、全モンゴル人の統一と独立を構想していました。同党は1927年に分裂しましたが、その指導者サインバヤル、アルタンオチル、マンダルト、モロンガーらは、のちにいずれも徳王政権に加わりました。
 
 中華民国政府の内モンゴルでの省設置や移民入植の推進などによって、モンゴル人の利益や地位、生存する環境などが大きく侵害されるなかで、また「満州国」の誕生からも刺激を受け、1930年代の初めに、デ・ワンが指導する内モンゴル自治運動がうまれました。その結果として1934年4月にウランチャブ盟のバト・ハールガ・イン・スム(百霊廟=びゃくれいびょう)でモンゴル地方自治政務委員会が組織されました。

モンゴル連合自治政府の成立大会

内モンゴル自治運動連合会の成立大会。
スターリンや毛沢東の 肖像が・・・

モンゴル地方自治政務委員会の王族たち
 
 これは満州国領に入っていない内モンゴル西部地域を統一する機構でしたが、モンゴル人の「政府」ではないため、デ・ワンはけっしてこれに満足していませんでした。同時に漢人の省と県も併存しており、モンゴル人の税負担、内モンゴルの分割状態は、実際上は何も変わらなかったからです。
 
 中国政府は公正を保障できず、内モンゴル人の要求した自治政府の成立を認めず、漢人地方官僚の言葉しか聞かなかったため、デ・ワンたちのモンゴル人民族主義者は独自の道を進むほかありませんでした。日本の大陸進出が必然になっていることを認識したデ・ワンは、日本の力に頼る道を選びました。

デムチュクドンロブ(徳王・左)、李守信(中)及び日本軍軍人
 
 このことをどう見るか、ですね。
 ほとんどの日本人は「日本の侵略者の力に頼る売国的なやり方」とみるでしょう。私もこれまではそのような見方をしていました。それを別な見方で見たときには、まだ、中国共産党の影響力がどれほど及んでいたかは分かりませんが、デ・ワン(徳王)の位置からでは、目につく範囲の、あるいは、せめてまわりの内モンゴル分野だけでも何とかしたいという考え方から抜け出すのは困難だったろうと思えます。それが彼の最善の策であったろうし、それが彼の限界だったのだと思います。これは私の「台湾研究」から得た教訓です。

 
 1936年5月、デ・ワン(徳王)を最高指導者とするモンゴル軍政府がジャブサル(徳化市)で成立しました。デ・ワンはモンゴル人の統一した国家の樹立という志を持っており、同政府の「組織大綱」では、将来、モンゴルの独立国家の樹立を明言しています。
 
 日本軍の支援を得て、あわただしく組織されたモンゴル軍政府の軍隊は内モンゴル西部地域の中国国民党軍を攻撃しましたが惨敗に終わり、傳作義(ふさくぎ)は一夜にして「抗日の英雄」となっていました。
 盧溝橋事件のあと、態勢を立て直したモンゴル軍は再び中国国民党軍を攻撃し、1937年10
月にフフホトを占領し、中国政府軍は次第に内モンゴル西部地域から追い出されていきます。

 
| モンゴル関連 | 10:26 | comments(0) | - |
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
PROFILE