シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
徳王 デ・ワンー4  その独立の夢と挫折
 これまで、1030年代から45年まで、デ・ワンがモンゴル人の独立国家の樹立を求めた際、日本側は終始認めませんでした。1937年10月に成立したモンゴル聯盟自治政府(首府はフフホト)と1939年9月に成立したモンゴル聯合自治政府(首都張家口)の地位は自治政府にとどまっていました。これはデ・ワンの意思とかなりかけ離れています。デ・ワンは終始、日本の内モンゴルに対する行き過ぎた関与に不満があって、「蒙疆」という中途半端な用語を認めませんでした。

デ・ワン(徳王)

 
※この「蒙疆」という言葉を検討してみましょう。
「蒙」は中華思想で見た“無知蒙昧(むちもうまい)”の「蒙」からとっています。
そして、「新疆」の「疆」と言う漢字を見てみると“文化果つる何もない荒れ果てた辺境の地”という意味になります。
 それをこの地を占領した日本の支配者までもが引用して使っています。
 言葉や文字というものは、それを使用する者の思考と立場を見事に表すものですね。

現在の内モンゴル自治区
 
 1941年2月、デ・ワンが2度目に日本を訪問した際、日本政府に「モンゴル建国促進案」と「日華蒙三方協定」を提出し、「中華民国建設大綱」で約束された民族自決権にもとづいて、万里の長城を国境線とし、モンゴル自治国(それができない場合、自治邦)を樹立する許可を求めていました。日本は、自治国の成立を認めませんでしたが、自治邦の成立は認めました。
 
 1945年8月、ソ連・モンゴル人民共和国連合軍が中国の東北と内モンゴル地域に進攻し、日本がアジア大陸という舞台から退場したあと、デ・ワンは依然として内モンゴルの進路を模索していました。同年9月、デ・ワンは蒋介石に大英帝国に属するカナダ、オーストラリア等の例にもとづいて、内モンゴルに自治領の地位を与えることを要求しました反対されました。
 
※この辺がデ・ワン(徳王)の政治力量と人物の限界といえます。ヤルタ協定が何を言ったのか、ヨーロッパやアメリカとソ連は何を欲しているのか、そして中国の国民党と共産党はどのような位置にあるのか、などが推し量れなかったのですね。無論、それにはデ・ワンが収拾できる情報の量の多寡があるでしょうから、数十年後の私が何を言っても無理なのかもしれませんが・・・、それは言えます。
 もはや、デ・ワンは“井の中の蛙”状態だったのですね。何か事をなそうとするには、情報収集は必須の活動だといえます。
 
 3年間の隠居を経て1949年にデ・ワンは内モンゴル西部のアラシャンに赴き、自治運動を行いました。しかし、この時の東北アジアと中国の情勢はすでに大きく変わっていました。アラシャーの定遠営にいたデ・ワンにとって中国共産党軍の包囲を越えて、外部の支援を得るのはもはや不可能になっていたのです。
 
 日本軍の撤退後、中国共産党を含む外部勢力は皆デ・ワンを自分の陣営に入れ、その威光と求心力を利用しようとしていました。当時、デ・ワンに与えられた選択肢は少なくありませんでした。ほんらい、デ・ワンにはアメリカや日本、台湾、インドなどに行くことも可能でしたが、彼は死ぬのであれば自民族の国――モンゴルで死ぬという心の準備をもって、1950年の初めに、モンゴル人民共和国に赴く道を選びました。しかし、彼を待っていたのは、ソ連の意志による逮捕、モンゴルでの過酷な獄中生活、そして中華人民共和国への送還でした。

 
抗日運動中の毛沢東と上海の二流女優だった江青夫人

 長男ドガルスレンも「日本のスパイ」と断罪され、1952年にモンゴルで処刑されました。中国では、デ・ワンは、「戦争犯罪者」「売国奴」「蒙奸」として弾劾され、1963年まで十数年間牢につながれました。1966年5月に一代の英豪デ・ワン(徳王)はフフホトで永眠しました。
 
 デ・ワンの悲壮な行動はこの時代の内モンゴル人の戦いと分かちがたいものでした。中国では公式にデ・ワン(徳王)を「売国奴」「蒙奸」として批判してきました。他方、日本では徳王は、日本の対中、対内モンゴル政策の協力者として描かれがちです。しかし、内モンゴル人から見ると、デ・ワンはモンゴル人の独立ないしは自立した準国家の樹立のため、日本と中国の間にバランスを探し求めたといえると思います。    (主として、ボルジギン・フスレ著)

 

ウランフ
※次回からは、いよいよウランフの登場です。この項目では、ウランフの略歴や行動について触れますが、主として、文革時における毛沢東派のウランフに対する批判・攻撃内容と「内モンゴル人民革命党」問題及び内モンゴルでの虐殺(ホロコースト)の真相について触れていきたいと思います。
とはいっても、きょうから、関連書類や書籍を見始めて書きはじめますので、果たしてどこへ進んでいくのやら見当もつきません。
 
| モンゴル関連 | 11:23 | comments(0) | - |
デ・ワン(徳王)ー2  独立の夢と挫折
 「内モンゴル物語」は、1週間のご無沙汰でした。世の中の動きや身のまわりの動きと無関係にモノを書いたり、生活することはなかなかできないものです。
 この間にも色々ありました。毎月の例会の「シルクロード講座」。
 これには8月のキルギスツアーの参加者の3分の2の10名もの仲間が参加してくださいました。一人ひとりに電話でご案内しました。


12月12日に開いた「シルクロード講座」

 これに先立つ午前には、来月1月におこなう「日本シルクロード文化センター」の総会に向けての準備の会議の準備。
 
 翌日の日曜日は、前日欠席したスポーツ連盟の全国理事会。ここでは10年前まで私が在職していた山岳連盟が、スポーツ連盟から脱退したいという問題が論議され、口角泡を飛ばして(古い言い方ですね)議論しました。久しぶりに、しゃべりつかれました。
 今週に入ってからも毎日でかけなければならない用事が続いています。きょうからは2日続いての忘年会。
さぁ〜、それでは・・・・・・
 
        デ・ワン(徳王)―2
 1919年、18歳になったデ・ワンは、ジャサグとして正式に旗の政務をつとめはじめた。同年2月、シベリアのナタで、ブリヤート人、ネイチ ・トイン・ホトクトを含む内モンゴル人が参加し、すべてのモンゴル人を統一したモンゴル国の樹立を目標とする会議が行われ、いわゆる「大モンゴル国建設運動」が繰り広げられました。

デ・ワン(徳王)
 
  この運動は短い期間で終わってしまいましたが、運動が及ぼした影響は大きなものがありました。他方、1921年、外モンゴルでは人民政府が樹立され、1924年にモンゴル人民共和国が成立しました。内モンゴル人民族主義者は自立の道を探求すると同時に、外モンゴルとの一体化を熱烈に望んでいたことはいうまでもありません。

  コミンテルン、モンゴル人民革命党の指導の下に組織された内モンゴル人民革命党は連邦制の「国家」(内モンゴル自治共和国、1925年)や、内モンゴル革命人民共和国(1928年)を樹立する主張を提出し、全モンゴル人の統一と独立を構想していました。同党は1927年に分裂しましたが、その指導者サインバヤル、アルタンオチル、マンダルト、モロンガーらは、のちにいずれも徳王政権に加わりました。
 
 中華民国政府の内モンゴルでの省設置や移民入植の推進などによって、モンゴル人の利益や地位、生存する環境などが大きく侵害されるなかで、また「満州国」の誕生からも刺激を受け、1930年代の初めに、デ・ワンが指導する内モンゴル自治運動がうまれました。その結果として1934年4月にウランチャブ盟のバト・ハールガ・イン・スム(百霊廟=びゃくれいびょう)でモンゴル地方自治政務委員会が組織されました。

モンゴル連合自治政府の成立大会

内モンゴル自治運動連合会の成立大会。
スターリンや毛沢東の 肖像が・・・

モンゴル地方自治政務委員会の王族たち
 
 これは満州国領に入っていない内モンゴル西部地域を統一する機構でしたが、モンゴル人の「政府」ではないため、デ・ワンはけっしてこれに満足していませんでした。同時に漢人の省と県も併存しており、モンゴル人の税負担、内モンゴルの分割状態は、実際上は何も変わらなかったからです。
 
 中国政府は公正を保障できず、内モンゴル人の要求した自治政府の成立を認めず、漢人地方官僚の言葉しか聞かなかったため、デ・ワンたちのモンゴル人民族主義者は独自の道を進むほかありませんでした。日本の大陸進出が必然になっていることを認識したデ・ワンは、日本の力に頼る道を選びました。

デムチュクドンロブ(徳王・左)、李守信(中)及び日本軍軍人
 
 このことをどう見るか、ですね。
 ほとんどの日本人は「日本の侵略者の力に頼る売国的なやり方」とみるでしょう。私もこれまではそのような見方をしていました。それを別な見方で見たときには、まだ、中国共産党の影響力がどれほど及んでいたかは分かりませんが、デ・ワン(徳王)の位置からでは、目につく範囲の、あるいは、せめてまわりの内モンゴル分野だけでも何とかしたいという考え方から抜け出すのは困難だったろうと思えます。それが彼の最善の策であったろうし、それが彼の限界だったのだと思います。これは私の「台湾研究」から得た教訓です。

 
 1936年5月、デ・ワン(徳王)を最高指導者とするモンゴル軍政府がジャブサル(徳化市)で成立しました。デ・ワンはモンゴル人の統一した国家の樹立という志を持っており、同政府の「組織大綱」では、将来、モンゴルの独立国家の樹立を明言しています。
 
 日本軍の支援を得て、あわただしく組織されたモンゴル軍政府の軍隊は内モンゴル西部地域の中国国民党軍を攻撃しましたが惨敗に終わり、傳作義(ふさくぎ)は一夜にして「抗日の英雄」となっていました。
 盧溝橋事件のあと、態勢を立て直したモンゴル軍は再び中国国民党軍を攻撃し、1937年10
月にフフホトを占領し、中国政府軍は次第に内モンゴル西部地域から追い出されていきます。

 
| モンゴル関連 | 10:26 | comments(0) | - |
徳王 デ・ワンー1 独立の夢と挫折
 1930年代から1945年までの内モンゴルにおいて最も重要な人物は疑いもなく、デ・ワン(徳王、デムチグドンロブ王)でしょう。チンギス・ハーンの第30代の子孫としてデムチグドンロブは1902年2月12日に生まれました。父チムジルワンチグはスニド右翼旗の世襲のジャサグ(旗の長官)でした。

デ・ワン(徳王)
 
 父チムジルワンチグが亡くなったあと、清朝政府は1908年に徳王(デ・ワン)にスニド右翼旗世襲ジャサグ・ドゥーレン郡王を継承することを許可しましたが、ジャサグは18歳になってから旗の公務を実行できるという規定があったため、同旗の政務の実際は、協理タイジ・バンディの指導のもとで行われていました。
 
 デ・ワン(徳王)の幼年時代のモンゴル地域は内憂外患に悩まされ、社会は激動の中にありました。清朝が崩壊寸前の状況のなか、生存の危機を強く感じたモンゴル人は期せずして進路を探し求めはじめました。1912年12月、ボグド・ハーンがフレーで独立を宣言した際、内モンゴルの多くの旗が同調し、スニド右翼旗も同年12月19日に外モンゴルの独立を支持し、ボグド・ハーン政権に帰服することを表明しました。シリンゴル盟ドゥーレン郡王デムチグドンロブの公印を押印し、帰順を表明したこの公文は今モンゴル国立中央文書館に保存されています。

デムチュクドンロブ(徳王・左)、李守信(中)及び日本軍軍人
 
 この時デムチグドンロブはわずか11歳でしたので、この公文は協理タイジ・バンディの指導のもとで作成したものと思われますが、この経験はデムチグドンロブに大きく影響したはずです。中華民国成立後、内モンゴル人のフレー政権との合流を防ぐため、北京政府は「蒙古待遇条例」を定め、モンゴルの王侯に爵位やよい待遇を授け、デムチグドンロブも1913年にドゥーレン郡主よりホショイドゥーレン親王に昇進しました。モンゴル人の習慣では、地位のある人をフルネームで呼ぶのを避け、名前の最初の音節を取って、その爵位とあわせて呼ぶのが普通でした。デムチグドンロブ王が、デ・ワン(以下はデ・ワンとします)と呼ばれたのも、こういう理由からでした。
 
| モンゴル関連 | 10:13 | comments(0) | - |
内モンゴル物語りー2 グンサンノブル王(貢王)の近代化志向とその挫折
 1901年、貢王は中国本土から軍事教官を招聘し、ハラチン右旗の青年たちを募集して新式の軍隊を編成しました。1902年には王府において「崇正学堂」を創設。日本の政治・経済・文化・教育などの現状を視察し、福島安正の紹介で当時、陸軍大尉であった伊藤柳太郎を崇正学堂の教官として招聘する約束が結ばれました。1909年、貢王は陸軍貴冑(きちゅう)学堂に入り、北京に駐在するようになりますが、1910年、貢王は資政院議員に指名され、清朝が崩壊するまでモンゴル王族の有力者の一人として清末の政治舞台で活躍しました。

川島浪速と同郷・松本市出身の陸軍大将 福島 安正
 
 しかし、このような認識はあくまで貢王のような数少ない王族たちの個人的願望であって、実現する可能性をほとんど欠いていました。清朝政府はモンゴルに対する新政に関し、短期的な経済利益を齎(もたら)せる移民開墾以外の事業に関心はなかったのですから。
 
 貢王の管轄下にあったハラチン右翼旗の状況からみても、清朝半ばから内地の漢族移民の増加により、モンゴル人が農耕下されていくなか、当地のモンゴル人社会もその文化、習慣、経済生活などいろいろな面で伝統的遊牧を営むモンゴル人地域とだいぶ違っていました。しかも、清朝以来内モンゴルが相互従属関係のない数多くの旗に分けられていた状態のなか、貢王の影響力はモンゴル全域に及ぶことは不可能に近かったのです。
 
 その上、20世紀はじめの列強による国際紛争のなか、東部内モンゴルを含む中国東北部での特殊権益を争った日露戦争で日本側が勝利し、日露の間で何回かにわたって密約が締結され、内モンゴル東部地域が日本の勢力範囲に入っていったからです。 このように、モンゴル全体の運命も大国によって翻弄されていく厳しい状況のなか、貢王の行った改革も教育の面でより多くの人材を養成した成績を除けば、別の改革措置は財政等と色々な困難に陥り、清朝の崩壊によって、失敗に終わったのです。

辛亥革命 古代より続いた君主制が廃止され、アジアで初めてとなる
共和制国家である中華民国が樹立された


康有為  
康有為を中心とする改革派は、日本の明治維新を
モデルとして立憲君主制を維持しながら政治・
社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い、
1895年(光緒21年)、光緒帝の支持を獲得、
1898年(光緒25年)に戊戌変法が実行に移された。
しかし、急進的な改革は保守派の反発を招き、
この 改革はわずか103日で失敗、
改革派は海外亡命を余儀なくされた。

 
 辛亥革命のとき、外モンゴルは清朝から独立を果たしたのですが、内モンゴルは中華民国の支配下に残されていました。当時、貢王は日本人川島浪速(なにわ)らの計画した「第一次満蒙独立運動」にも関わっていましたが、それが失敗したのち、1912年9月に北京政府蒙蔵事務局総裁に任じられました。1914年5月、蒙蔵事務局を改組した蒙蔵院で引き続き総裁をつとめ、およそ16年間在任しました。

※辛亥革命期から日本が満州,蒙古を中国の主権を無視し,勢力圏とすることをはかった運動。軍部が中心となり,この地における日本の特殊権益を確保することを目的として行われた。 1912年、参謀本部は満州に清朝を復活させようとして満州独立運動を進め,また蒙古のカラチン族などを援助して独立の挙兵を計画した
 
 これを見ると、一貫して貢王が中華民国の要職についていたように見えるかもしれませんが、そもそも“民国政府の監視下に置かれていた”というのが歴史の真実により近いかもしれません。在任中、北京に蒙蔵学校を創設し、モンゴル族の人材養成に力を入れていたほか、正白旗満州都統、善後会議会員、国憲起草委員会委員などを歴任しました。1931年1月13日に病没。享年59歳でした
 
| モンゴル関連 | 10:02 | comments(0) | - |
内モンゴル物語りーグンサンノブル王(貢王)の近代化志向とその挫折
 これから、引き続き内モンゴルの様ざまな歴史や群像を『内モンゴルを知る60章』その他の資料を参考にしながら書いていきます。しかし、ここで書くことは必ずしも私の考えに合致しているわけではありません。うなずけるところもあるし、うなずけないところもあります。文末に私見を添えたいと思いますが、私自身が内モンゴル初心者です。考えの至らないところもありますので、そこは皆さんとそれぞれで考えていくことにしましょう。
 
 グンサンノブル王(貢王)は清末期の政治家でモンゴル族の王族の一員でした。号は夔庵(きあん)。清末民初には内モンゴルの教育・産業振興に大きな貢献をなした人だといわれています。そしてチンギス・ハーンの血統ということは、それは永遠に貴族としての称号と名誉にまもられていたことが約束されているといえましたが、貢王はその功臣ジェルメの末裔だといわれています。グンサンノブル王(貢王)は、日本でもよく知られている川島芳子(本名・金壁輝)の実父にあたる愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき。粛親王)の妹善坤(ぜんこん)の夫でもあります。

グンサンノブル王(貢王)
 
 余談ですが、川島芳子の姪を母に持つ女性と、私は北京の大学で同級生でした。たどたどしい日本語で話しかけてきたことを覚えています。満州族王族の末裔であった彼女は、文革では「反動派、日本のスパイ」とありもせぬ濡れ衣を着せられ、筆舌に尽くしがたい苦難を背負って生きて来て、現在は日本に滞在しています。

満洲国陸軍大将の軍服を着用した芳子

川島芳子が日本に留学するまで過ごした旅順の邸宅
(粛親王府跡)

昭和初期の川島芳子

川島浪速

川島浪速(左)と粛親王
 
 貢王はモンゴル語・漢語・満州語・チベット語の各言語や書、詩にも通じていました。1899年、ハラチンの扎薩克郡王を世襲し、ゾスト盟盟務幇弁となり、1903年には大阪で開かれた内国勧業博覧会を見学するために来日。その際に下田歌子と会い、女子教育の重要性を認識し、ハラチン旗に内モンゴルで最初の近代女子学校である毓正(いくせい)女子学堂の建設を決意し、日本人の女性教師を招聘しました。その後、毓正女学堂には河原操子、鳥居きみ子(鳥居龍蔵夫人)などの日本人教師が赴任し、近代女子教育を行いました。

下田歌子

 貢王は上記の毓正女子学堂(1902年)の他、モンゴル族にとって初めてとなる官立学校の崇正学堂(1903年)、図書館(1902年)、1903年には軍事学校の守正武学堂を創立しています。さらに留学生の派遣、内モンゴル初の新聞である『嬰報(えいほう)』の創刊、郵便・電報・桑畑・近代工場の整備などにも取り組んだとあります。1911年10月の辛亥革命勃発に際しては、清朝擁護の立場をとって皇帝退位に反対し、川島浪速らの斡旋で横浜正金銀行から借款を得て武器の購入と挙兵準備を行いましたが、皇帝退位と袁世凱による北京政府の成立を見ると、北京政府擁護の立場に転じました。

1912年3月10日、宣統帝の退位とともに袁世凱は中華民国臨時大総統に就任した

上・下いずれも袁世凱

袁世凱(清国内閣総理大臣時代)

 “機を見るに敏”と言うところでしょうが、貴族の出身ですし、当時の事情では世界の動きなどから自分の身の処し方などを判断することは大変困難だったと思えます。このような毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばするところがグンサンノブル王(貢王)らしいのではないかと思えます。これがのちの評価で「蒙奸」と呼ばれるもととなりました。しかし、この「蒙奸」というレッテルも現在の中国共産党の評価ですから、悩ましいところです。

 1912年3月には、ボグド・ハーン政権に帰服しますが、のちにこれに失望して同年9月には北京政府の蒙蔵事務局総裁に任ぜられ、10月には共和制擁護の功績により、郡王から親王に加封されたとあります。翌年12月には政治会議議員となり、1914年5月、蒙蔵事務局を改組した蒙蔵院で引き続き総裁をつとめます。このとき、正白旗満州都統も兼ねています。1922年4月、いったん蒙蔵院総裁を退いたのですが、翌年の1923年2月には復帰し、以後、北京政府崩壊まで同職にあったとあります。また1925年には、善後会議会員、国憲起草委員会委員を歴任し、後にゾスト盟盟長となっています。1931年1月13日、北平特別市(のちの北京市)の官邸で死去。

 話は前後しますが、1840年のアヘン戦争での清朝政府の大敗北以来、衰退の道をたどる一途だった清朝は内憂外患に陥っていました。それは1900年、イギリス、フランスなど八カ国の連合軍が義和団の乱に乗じて北京を占領したことから始まるようです。その結果、清朝は列強と北京議定書を交わし、膨大な賠償金、北京駐在権などを与えることになりました。

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵


道光帝

林則徐

 1901年1月、西安に亡命していた慈禧(じき)太后が「変法上論」を公表して新政が始まりました。それから1911年の辛亥革命勃発と清朝の崩壊までの10年間、清朝政府は政治、経済などあらゆる分野において全国的な改革を実施していくことになりました。貢王が新政を提唱し、学を興し、郵便を開通させるなどの改革も主として、このような大きな背景のもとに実施されたものです。

 あ〜〜、だいぶ堅苦しい文章になっています。申し訳ありません。漢語を使うと、黙っていても難しい感じになります。これからはできるだけ平易に書きますので・・・・・
 
| モンゴル関連 | 10:41 | comments(0) | - |
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