シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
金婚記念のチベット・アムド旅行

※16日のブログは、一度、掲載してからあることに気が付いて、すぐに非公開にしました。原因は麦積山石窟と炳霊寺石窟を取り違えて書いてしまったことです。いや、炳霊寺と麦積山をまじりあって紹介していたのです。

これが麦積山石窟です。

さ〜出発です。一番上のはしごまで90メートル近くあります。

体力に自信がなかったのですが。この時は足の疲れは感じませんでした。

 

 

少しだけ弁解しますと、50年来の1人の先輩と2人の親友が、相次いでがんに侵されていることが分かり、今後の治療の方向を聞きながら、役割分担している今の仕事を、だれがどう担うのかなどの論議があったからです。それぞれ前立腺がんとすい臓がん及びぼうこうがんです。先輩という方は、妻の大学の先輩です英の初心者指導法である「ドル平泳法」を編み出した一人で、私の結婚を祝う集いの司会をされた方でもあります。

 

2人の親友は、今はスポーツ・オリンピック研究者であり。もう一人は私がつとめていた新日本体育連盟の後継者でもあり今は本部の会長でもあります。

長い間、兄弟のように深くつき合ってきただけに、本人の心境やいかばかりかと考えるとそれだけで胸がつぶれそうになります。

 

私が辞退しようと思っていた、スポーツの全国的な交流組織の事務局長を辞退するなどということを話せる状況ではなくなったのです。逆に、数十年来、隔週1回開いているスポーツ研究会の責任者代理を務めることになってしまいました。それやこれやで、精神的な負担が大きくなるについてのことと彼らの仕事を誰が引き継ぐかという善後策を取ることや、重圧にめげて気持ちが乗り切れないでいるという状態もあったのです。

 

 

では、改めて麦積山石窟をご紹介します。

ここは写真でもお分かりのように急な坂道や階段が天まで上っています。2年前はなかったのですが、今回は電気自動車がありました。これに乗って崖の下まで行けます。ずいぶんと助かりました。しかし、途中の参道で物売りをしていた人たちは失業ですね。「文明の発展」は、少なからぬ失業と貧困を生み出します。

同じ角度からの写真が多いですが、いわゆる写真映えがするんですね。

 

 

2人で撮る写真は少ないのですが、この時ばかりは寄り添ってくれました

 

ここが確か最高部だと思います。

 

 

麦積山の石質は礫岩で東崖と西崖に分れています。北魏、西魏,北周,隋,唐,宋,明代に続営された194の窟龕が現在知られています。

この日は再び蘭州に戻って一泊し、翌日は炳霊寺石窟です。

| チベット関連 | 12:06 | comments(0) | - |
金婚記念のチベット・アムド旅行

炳霊寺石窟は蘭州から300劼療型綮圓砲△蠅泙后3時間。そうです。時速100勸幣紊離好圈璽匹覗ります。

甘粛省の蘭州から車で約3時間少々です。もっとわかりやすく言えば、蘭州と西安との中間にあります。

位置は秦嶺山脈の西端にあり、1952年に発見された石窟寺院です。

これから私たちの後ろの石窟にこれから上ります

一番上の部分が90メートル近いところです

 

 

黄河の入り組んだ先にあるので、その奥に石窟寺院を造営したのですね。ですから長い間、発見されなかったのです。6年前はモーターボートで2時間もかかりました。一昨年からは30分ほどの距離からのスタートに代わりましたが・・・

桟橋には、ノコちゃんの仕事友達が待っていてくれました。

高度感を感じてください

 

 

「炳霊(へいれい)」とはチベット語の訳で「十万の仏」の意味です。全長2Kmの石窟回廊は、五胡十六国時代の西秦から隋、唐、明、清までの各時代に造営されました。
特に重要なのは、魏(220〜265
年)、晋(265〜420年)の時期です。岩壁には190あまりの石窟があり、大小700体近くの仏像が残されており、中でも最も有名なものは、171龕の唐代の大仏です。

 

うちの奥さんは、高いところは大丈夫と言っていましたが、「やはり怖かった」といっていました

 

一人の時は、しっかりと欄干を握っています

 

 

石窟寺院のある「劉家峡ダム」は、1974年に完成した中国最大級の発電所の一つ。さらに春には黄河の雪解け水をため、夏の渇水期に下流に放流して、灌漑に利用します。このため、このダムの下になった広大な地域の農民は強制的に移住させられました。住民による「強制移動反対運動」などは存在しません。中国共産党がすべてを統治しているのだから、ここでは「命令」であり、抵抗するだけで「逮捕」となるのです。ましてや「社会主義建設」をしようというのに、それに抵抗する「環境保護」や「自然保護」の運動などは国家反逆罪に当たるので、生み出される基盤がそもそも成り立たないのですね。

 

石窟の上部には、素晴らしい壁画も残されており、階段と桟道から観光できるようになっています。険しい峡谷の中腹に石窟があり「偶像禁止」のイスラム教徒による破壊や欧米の探検家による持ち出しを逃れたため、貴重な仏像が多く残されています。

後ろのドルジェも、あとから「実は私も高度恐怖症なんです」と告白

 

「偶像禁止」は仏教国にある私たち日本人やキリスト教国の市民には理解しにくいことでしょう。だが、逆も真なり。イスラム教の人たちにとっては、なぜ、偶像を掲げるのか理解しにくいことなのでもあるのでしょう。だから、偶像を破壊したことが、即=悪ではなく、良いことをしているのでする。イスラム教にとっては、それこそが正義であり「真実」なのですね。ここのところの理解がないと、“まるでイスラムは悪の集団”となってしまいます。これは現在にも通じること。

 

ここは写真でもお分かりのように急な坂道や階段が天まで上っています。2年前はなかったのですが、今回は電気自動車がありました。これに乗って崖の下まで行けます。ずいぶんと助かりました。しかし、途中の参道で物売りをしていた人たちは失業ですね。「文明の発展」は、少なからぬ失業と貧困を生み出します。

石質は礫岩で東崖と西崖に分れています。北魏、西魏,北周,隋,唐,宋,明代に続営された194の窟龕が現在知られています。

 

東崖の涅槃窟,千仏廊,西崖の万仏洞,天堂洞,第127洞などは北魏の開削で、塑像,石像,壁画などにすぐれたものがみられますが,隋,唐代にも栄えたと考えられます。

| チベット関連 | 05:26 | comments(0) | - |
金婚記念の中国・アムド旅行

いま、台風19号の猛威のもとで、閉めた雨戸を少しだけ開けて、猛烈な雨を横目に見ながら、遅ればせながらの旅日記をやっと書く気になりました。

9月5日の出発前は側頭部に酸素が空白になったような状況になり、チベットでの3000メートル以上の滞在は無理だろうなと、我ながらビビった状況でした。

 

目的地は青海省の首都西寧ですが、いつものガイドノコちゃんのプロデュースです。甘粛省の麦積山石窟と炳霊寺石窟などです。

そこから西寧まで行って、最近、カレー屋さんを始めたというノコちゃん夫婦のお店へ行ったり、回族のモスクなどへ行きます。

 

そのうえ、最近はあまり体を動かしていないので脚が萎えて体力が弱っている状態でした。

たった1人の同行者にも一度“キャンセルしようか?”と言ったのですが、「何人もの友達に金婚のお祝いで2人でチベットに行くのよと言ってるし、もうあなたなんかと絶対に旅行なんか行かない!」と、おきまりの速射砲弾が飛んできます。

ここは麦積山石窟です。高さ80メートルあたりまで足で登ってたどり着きます。

けっこう、仲良く見えるでしょう?

 

そんなこんなで、いつものような万全の準備もロクにできないで成田を後にしました。といっても出発前から、「上海空港付近の天候が荒れていて、上海から来る飛行機の到着が遅れている」とのアナウンス。最近は外国へ行くたびに、おしゃべりしての乗り遅れや、時間前に飛行機が出発してしまったりの災難続きでしたが今度も、です。

 

上海から蘭州行きの乗り換えなので、機内で何度かCAに聞いたのですが、みんないい返事しかいいません。漢人の性格は知っているつもりなのですが、その中に日本人のCAが居ました。彼女は最後にこう言いました。「上海空港に着く30分後に蘭州行きが出ますので、間に合いますよ」と。わざわざ調べてくれたのです。でも考えてもみなさい。着陸から30分では間に合うわけがない。

 

私の予測が的中でした。アジアで一二を争う上海の虹橋空港の滑走路に着陸したのは確かに蘭州行きの便の30分前でした。そこから飛行機が誘導路を通ってターミナルまで行くのに30分以上かかりました。完全に諦めました。

もう一つ文句を言いたいことがあります。上海空港は絶好の好天気でした。空港内で通りすがりの職員に天気の状態を聞いたのですが「昨日からずっといい天気でしたよ」。中国東方航空は飛行機の遅れにもウソをつくのですね。

 

ターミナルに着くとガイドが待っているはずです。いましたいました!

歓迎の人たちの中に一目でそれとわかる女性です。というのは日本人女性のような化粧と服装です。車に乗ってから聞くと、驚いたことにまだ3週間前に日本での5年間の留学から帰ってきたばかりだと言います。

左が「ガイド」のドルジェ。

右はドルジェンに会いに来た友達。地域のテレビ局のアナウンサーだそうです。

 

 

東京女子大学の大学院で文化人類学を勉強したといいます。名前はドルジェ。ノコちゃんと同郷だそうです。もちろん、ガイドの経験はありません。西寧在住のチベット人ガイドの「のこちゃん」は、私のような何度も来たことのある経験者にはこのような「ガイド」を送り込んで来るのです。任せておけ、という気持ちです。

 

八王子に住んでいたという彼女とは話すことがたくさんあるゾと思いながら、とりあえずホテル近くで「牛肉面」を食べる。もちろんビールつきです。

この牛肉面は日本では「蘭州ラーメン」などと呼ばれています。最近は都内各地で開店しています。

私はこの夕食とよく日の朝食・昼食ともこの牛肉面でした。

 

(いま、12日午後4時、狛江市内で高齢者の避難勧告が出ました。わたしの住居は対象外でしたが。全国でも予測のつかないほどの被害が出る可能性があります。どうか大きな被害が出ませんように。午後4時に市内で全員が避難するようにスマホに連絡が何度も来ています。10分に1回くらい、ピンポンピンポンと警報が鳴って避難連絡が来ています。わたしたちは屋根が吹き飛ばされない限り、いざという時は二階にいればいいだろうと判断して水や簡単な食べ物などを移動しました。明日、このブログを送ろうと思ったのですが、午後5時半の今、お送りします。どうか大きな被害が出ないようにと祈るばかりです)。

| チベット関連 | 17:31 | comments(0) | - |
チベットのおはなし
チベット高原への人類定住は、オオムギがかぎだった
 
チベット高原の大自然。ツォナ湖(標高4594メートル)
今日の写真はすべて私の撮影です。

                   

私は、シルクロードにおける人類文明交流の道・シルクロードの原点は、「グレートジャーニー」だと考えています。
十数万年前にアフリカ東部で生まれた現生人類=ホモ・サピエンスは、何度かのアフリカ脱出に失敗した後、数万年前に地球全域に“拡散”して行ったと科学的にも確認されています。

ラサのポタラ宮
 
表題は、中国とイギリスなどの国際研究グループが20日付けの米科学誌『サイエンス』電子版に発表したものです。
世界の屋根といわれているチベット高原に、人類がいつやって来たのかはかねてから、私自身が知りたかったことなのですが、少なくとも2万年前だったそうです。しかし、いつごろから定住するようになったのかは、はっきりしていませんでした。

 
研究グループは、チベット高原の北東部にある53カ所の遺跡で見つかった遺物を詳しく調べました。これらの遺跡は、黄河とその支流の上流域にあります。
調査の結果、5200年前〜3500年前までの遺跡は標高が2500メートルぐらいまでのところにあり、そこからはアワやキビといった雑穀が見つかりました。
 
一方、3600年前〜2300年前までの遺跡は標高が4700メートルぐらいまでのところに進出しており、そこからはアワやキビでなくオオムギが見つかりました。
アワやキビは地面が凍ってしまうような場所では栽培ができません。これに対し、オオムギはそのような場所にも耐えることができます。
 
研究グループは、チベット高原に当初やってきたのは、狩猟の対象となる動物を追ってやって来た人びとで、その後、農耕をするようになった人びとが定住を果たし、寒さに強いオオムギがより標高の高いところへ進出したとみています。

チベット・青海のココシリ高原にいるガゼット
 
実はこのオオムギが現在のチベット人の主食ともいえるツアンパになっているのです。
チベットは高地ということもあって稲は作れませんが、寒冷地でも育つオオムギが主食としてつくられます。小麦もありますが、おおかたはオオムギです。これを炒って粉にしたものは「ツアンパ」と呼ばれるものになります。地方からラサに向かう巡礼者などは必ずこのツアンパを羊の皮で作った携帯用の袋に入れて持ち歩きます。
 
そしてバターをたっぷりと溶かしたお茶=バター茶で、このツアンパを指でこねまわすと、おいしい食べ物になります。日本でも東京育ちの私には「むぎこがし」と同じものだと思えます。チベット人にとってこのツアンパは主食なのです。

チベット人の農家で。
ガイドが持つものがツアンパです



 
3〜4年前、横浜の旅行社のチベットツアー参加者への講演会があり、チベットのお話をしました。
講演後、参加者の1人が、「チベット人は、ツアンパのような主食だけだそうですが、よくそんな貧しい食事で我慢していますね」という感想を述べました。

チベット人の農家とお母さん
このような台所でツアンパなどをつくります

 
私はこう言いました。「逆に私たちは毎日、おいしいものを食べられていますね。この状態は“飽食”と言えないでしょうか。こんな贅沢(ぜいたく)は多くの国ぐにでは想像することもできないのです。私たちの食生活を基準にするのでなく、発展途上国やチベットの食糧事情を考えることも大切なのではないでしょうか」。

チベットの人びとは、このような高原で生活しているのです。
 
チベット高原の遊牧民の食事はだいたい1日2食です。そのほとんどがツアンパとバター茶です。ヒツジやヤクの肉を食べられるのは、日本流でいえば盆と正月、あるいは結婚式か葬式くらいなのです。

手前がヒツジ、あちら側の黒い動物がヤク
 
そして、チベット人は思い切り日焼けしています。日本人の女性は極端なくらい日焼けを気にしますね。「チベット人の女性もお化粧をして日焼けを防げばいいのに〜〜」といった若い女性がいました。彼らが日焼けをして皮膚を守らなくなれば、たちまち強烈な太陽光線で皮膚がやられ、最悪の場合はがんになります。

都市に住むチベット人の若い女性
 
飽食の日本が基準なのではなく、世界の圧倒的多数の人びとが、そのような日常生活をしていることをお考えください。
 
| チベット関連 | 10:27 | comments(0) | - |
歌と踊りの集い 2013 「集い」のトリはチベット・アムドのドルチェ・ツォさんです
昨年12月のクラブ(日本シルクロード文化センター)の総会の議論の時から、1年後のこの「集い」のことが課題となっており、どのようなメンバーで構成するかがいつも私の頭にありました。
 
おかげさまで、これまでの私やクラブのお付き合いの中で、かなりのネームバリューのある方がたが出演を快諾してくれました。いくつかのグループやメンバーは若手役員になってくれた寺田亮平さんのご紹介がありました。
でも、その中でどうしても欠けている民族がいたのです。それがチベットだったのです。まさに“画竜 点睛を欠く”だったのです。

赤いしるしが青海省でドルジェ・ツォさんが生まれたところは、その北(上)の甘粛省でした。
青海省の南(下)が現在のチベット自治区、清朝末期は青海省全域と甘粛、東(右)の四川省とさらに北の雲南省の一部もチベット国だったのです。


青海とチベットの間にあるタンラ山脈の大草原

 
そこで、私はこの9月に青海省西寧市に滞在中のこと、ガイドのNちゃんの家に呼ばれて羊をごちそうになった時、彼女とご主人に聞いてみました。「知り合いの日本にいるチベット人で、この『集い』で歌うか踊れる人はいない?」と。

左がNちゃん。右は大阪の女子大の都倉先生
 
そこで彼女が紹介してくれたのは「うちの会社に以前、大学の観光研究の実習で来た女性が、いま、東京に留学していますよ。彼女は歌もうまいし、踊りも踊れます」の言葉でした。すぐに連絡を取ってもらいました。Nちゃんははじめ、同僚のガイドの日本語研修生に何度か連絡をして、その女性から連絡を取ってもらい、やっと出演にこぎつけました。
クラブの役員でもあるわがワイフを通して周東事務局長にも了承を得ました。少々強引でしたが。

ドルジェ・ツォさんです。

左端がドルジェ・ツォさん、そのとなりが助演のチベット人男性

 
一応、「面接」も必要ですので、10月6日に世田谷区の芦花公園で行われた「モンゴル・フェスティバル」に来てもらって、一緒にブフ(モンゴル相撲)を観戦して、そのあと、我が家で夕食会をしたのです。
我が家で歌ってもらった歌は、まさにチベットの大草原に通り抜けるような、澄み切った歌声でした。ということでチベット人の出演が実現した次第です。
 
ドルジェ・ツォさんは24歳。中国甘粛省(アムド地方)出身のチベット人。
何度も強調していますが、アムドは現在の青海省全域と甘粛省・四川省と雲南省の一部地域を含んだ地域を言います。
 
その彼女は、青海省西寧の「青海民族大学」で日本語を学びました。その先生が、今年2月のシルクロード講座で、私が「シルクロードツアーを面白くする方法」というテーマでお話をしたとき、たまたま営業で来日中のNちゃんの会社の社長と副社長のうちの副社長に出席してもらったのです。

昨年2月の「シルクロード講座」でお話をしていただいたタシさん
(青海民族大学教授)。


西寧にある青海民族大学前で。これは正門ではなかったです。
2012年、友人と。


 
その副社長が青海民族大学の教授で日本語を教えていたタシさんで、ドルチェツォさんは、大学時代その先生に日本語を教わっていたのです。
現在は東京で日本語の学習をしており、来年11月からは日本の大学院で学びたい、将来は日本で就職したいと思っているといいます。
 
彼女が集いで歌った歌は、「心からこの白いカターを差し上げます」でした。
チベットでは宗教儀式や結婚式、お客の送迎、友人の送迎、子供の誕生など様ざまなシチュエーションでカターと呼ばれる白いスカーフを、ご挨拶をしながら相手に渡す習慣があります。それはカターを相手に渡すことによって、自分の心からの純粋な歓迎と敬意を表すという挨拶の印なのです。
 
次は踊りでした。海南ゴチョ「楽しく会す」。
 
ゴチョはチベット族の人びとがとても良く熟知し好んでいる、自分たちで楽しむ踊りです。地方によって様々なゴチョ踊りがあります。今回のゴチョは青海省の海南州地方のゴチョです。
一見、日本の盆踊りのような踊りで親近感を覚えます。手の先まで覆う長い袖の衣装で、時折腰をかがめながらの踊りは、中央アジア各民族の踊りとは、また違った趣を見せます。


上の2枚の写真が西寧の名刹タール寺

西寧の街
 
実は、困ったことが前日に起きていました。
ドルジェ・ツォさんには、イベント当日にかける曲がUSBにしか入っていないので、それを送ってもらってこちらでCDに入れるからと前々から伝えておいたのですが、お嬢様の彼女はそれを私に送ることを忘れていたのです。
 
おまけに、「この海南ゴチョ『楽しく会す』の踊りは、大勢で踊る踊りですから、今、友だちのチベット人の男の子に踊りを教えているところです」というではありませんか。プログラムも何もすでに出来上がっているので、彼の名前を入れる時間がありません。まったく困ったノンビリお嬢さんでした。
 
でも、彼女を見ていると、それも許される気持ちになります。だいいち、彼女は日本人ではないのですからチベット高原で高らかに、軽やかに歌うのお嬢さんには、そんなせせこましいことは求めない方がいいのだと、思うようになってしまいます。
 
 
| チベット関連 | 05:53 | comments(0) | - |
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