シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
“シルクロードの起点”――長安

  唐の首都長安城は、隋の大興城を引き継いで完成させたもので、現在の西安市街を含み、東西9.7キロ、南北8.6キロの巨大な都城であった。唐代に長安は大変繁栄したが、10世紀はじめの唐代末期に戦乱のため破壊された。のちに城内北部の一部が市街として再建され、明代には西安と呼ばれるようになって現存の城壁が築かれた。しかし当時の市街の規模は唐代の約6分の1に過ぎなかった。

 

  現在、唐代の建築物として残っているのは、市街南部の大雁塔(玄奘三蔵将来のインドの仏典が安置された。当初5層、現在7層、高さ約64メートル)と、小雁塔(当初15層、現存13層、高さ約43メートル)のみである。ほかに市内の歴史的名所としては、唐代の東西文化交流を偲ばせる文物を数多く収蔵する陝西歴史博物館や、西安碑林博物館、唐代興慶宮の遺跡を整備して造られた興慶公園などがある。

長安(現在の西安)は北京と並んでユーラシア大陸東端の中心都市であった。前漢王朝のころに都が置かれてから唐王朝に至るまでの約1100年間、9つの王朝の都となった。

 

  長安はユーラシア大陸を1万キロ以上にわたって横断する遊牧地帯と農耕地帯の境目にある街だった。遊牧・狩猟地帯の物産と農耕地帯の物産とを交易する南北貿易の拠点であると同時に、ユーラシア東西交易の東の拠点都市であることによって、長安は中国の政治・軍事の中核地ともなったのである。

 

 

 しかし、10世紀以降、長安は二度と中国の都にはなれなかった。長安が同じ遊牧・農業の境界線上に位置する北京に取って代わられた理由は、海に面していないことと、9世紀以降にユーラシア大陸で生じた陸路から海路への交通システムの転換に応じきれなかったからである。

 

 また、遊牧・狩猟民族の活動拠点が東北に移動して、軍事最前線から遠ざかったこと、主要穀倉地帯に成長した長江下流域との水路・海路による連結が困難であったことなどが指摘できる。つまり、長安の都は、シルクロードが東西交易の主要ルートであった時代を代表する都だったのである。

| 河西回廊 | 07:04 | comments(0) | - |
ー22  “シルクロードの起点”――長安

※きょうは東京都議選の投票日です。都内在住の方は、棄権をしないで投票を済ませてください。国民・都民の権利ですからね。

 

 シルクロードの起点はというと、古代中国の諸王朝が都を置いた国際都市長安(現在の西安)こそがその名にふさわしい。

長安城の城壁の一部ですが、昔、この門からシルクロードの西のかなたへ出ていきました。

そのうち、幾人かが還ったことでしょう。と詠われています。

 

 現在の西安は陝西省の省都で、黄土高原地帯の関中平野の中央部に位置する。北には秦嶺山脈(しんれい)山脈がそびえ、南には渭水(いすい)が流れる。平均気温は14度くらい。人口は200万人を越える。西安の城壁は一周が約14kmだが、これは唐の時代のほぼ内城にあたり、かつての8分の1から10分の1ほどに縮小されていると考えれば分かりやすい。

 

 中国数千年の歴史の上でも、長安という都は特別な位置にある。8世紀、唐の玄宗皇帝の時代には、人口100万を擁し、世界最大の国際都市と言われたが、それ以前から、長安は中国の中心・世界の中心であった。

中国の王朝で最初に長安に首都を置いたのは、西周の文王である。紀元前1100年ころのことだった。

 

 西周は紀元前770年に滅ぶが、その後は前350年より、後に中国史上初の統一国家を打ち立てた皇帝を生んだ秦が、現西安の北方にある咸陽(かんよう)に都を置いた。

 

 この地に長安の名で首都を最初に置いたのは劉邦が建国した前漢である。

 前漢の長安城は現在の西安の西北約7キロのところにあった。以降、前漢を滅ぼした王莽(おうもう)の新、黄巾の乱(184年)の影響を受けた後漢の献帝の時代、晋の慇帝(びんてい)、南北朝時代(5世紀前半〜589年)の前趙、前秦、後秦、西魏、北周など北朝の歴々、そして隋、唐と計13の王朝が長安を都とした。

 

 前漢以後、東西交易の活発化により、長安は西方世界にも知られるようになり、4世紀はじめにはソグド人の間では「クムダン」の名で呼ばれていた。また4〜5世紀の前秦・後秦王朝下では、首都長安にクマーラジーヴァなど西方の仏教僧が多く集まり、仏典の翻訳・研究の一大拠点として、仏教の国際交流上重要な位置を占めた。

 

 唐の時代に長安は最盛期を迎えるが、この時長安は、中華帝国の政治・経済・文化・行政の中心であっただけではない。長安は、秦・漢の時代から切り拓かれていた、ユーラシア大陸を横切ってローマへと至るシルクロードの一方の起点であり、世界の物資・情報の一大集積地として、世界最大の国際都市となっていたのである。

| 河西回廊 | 04:58 | comments(0) | - |
ー20  では、西寧郊外にあるタール寺をご紹介しましょう

 タール寺は市内から高速道路で南西へ約25kmくらい行ったところにある、青海地方最大のチベット仏教寺院である。

 

 

タール寺の全景

 

 最大宗派であるゲルク派(黄帽派。このゲルク派からダライ・ラマやパンチェン・ラマの系統が生まれた)の開祖ツォン・カパ(13571419年)の生誕地に、1560年に創建されたといわれる。

 

 20世紀半ば、あの悪夢のような「文化大革命』でほとんどの寺院が破壊され、多くの僧侶たちが殺害・追放されたが、1980年代の「改革開放」政策以降、宗教活動が再開され、寺の再建が進み、96年に全面的に修復された。しかし、2009年に発刊されたチベット人写真家が撮影した文革時の写真集『殺劫(さつごう)―チベットの文化大革命。ツェリン・オーセル著、ツェリン・ドルジェ写真、藤野彰、劉燕子訳、集広社刊、2009年』によると、ポタラ宮も含めてほとんどのチベット仏教の寺院の中身は、文革で破壊され、略奪され、1998年末の改革開放政策のあとにやっと修復されたものばかりだということが判明した。

 いわゆる観光客目当てのニセばかりものだということである。あまり真相を暴露しても面白くないだろうが、事実は事実である。

このような仏閣が無数にある

 

 このタール寺は、宗教と政治の中心地として青海地方一帯に影響力を持ち、最盛期には4000人の僧侶がいたという。しかし、ここも僧侶の姿をした兵士の数のほうが多いのだろう。

 

 ラサのポタラ宮は50年前には5000人いた僧侶が3年前には16人だと聞いた。あとは僧侶の姿をした若い兵士であった。みな、文化大革命や反乱などで殺され、追放されたのである

タール寺の入り口の「看板」

 

 タール寺の寺院は標高2650メートルの山の斜面に沿って建つ。11メートルのツォンカパの大霊塔(通称・大銀塔)を納める大金瓦殿、バター彫刻で知られる上蘇油花院、九間殿、小金瓦殿などがある。

チベット語の「クンブム(十万仏)」は、大金瓦殿の前のライラック(一説では菩提樹)の一枚一枚の葉に、仏が現れるという信仰に由来する。

 

 寺域に入ると、近隣からやって来たチベット人の巡礼者たちに混じってモンゴル人の巡礼者もいる。民族服でない普通の衣服を着た人たちもいる。先日までの旅先であったモンゴルに行ってみたものは、チベット仏教に深く帰依している人が極めて多く存在していたことであろう。このあたり一帯は昔からチベット、モンゴル、タングート、ハサク、サラ族などさまざまな人びとが暮らしている。

 

 タール寺は、バターで作った供物の飾りで名が高い。色づけしたバターで、仏像や故事来歴などをまるで彫刻にように作り上げる。どこの寺にもこうした供物はあるが、ここタール寺のそれは、ひときわ立派で美しい。外国人はバターでできていることを知って驚くが、それを知っているチベット人たちでさえ、見惚れていく。

タール寺のあちこちで五体投地をする姿が・・・・

 

 巡礼たちはそれぞれの仏塔の前で真言を唱えていた。年老いた人、子ども連れ、東京の街中でも見受けられるような若い女性などが、寺院を時計回りにまわる。「五体投地」も珍しいものではない。もともと「チベット」という名前には「歌と踊りの海」といういい方があった。チベットは昔からいくつかの地方名で呼び分けてきた。アムドは北東チベット、現在の地図で甘粛省の一部を含めた青海省の大部分と、四川省の北部に当たる。

| 河西回廊 | 05:23 | comments(0) | - |
青海省の首都・西寧の街

 西寧市は青海省の省都であり、人口約205万人。青海省全人口518万人の40%に当たり、漢族、回族、チベット人、モンゴル人などが住む。

 広義では青海のここ西寧も立派な河西回廊の街である。

西寧の駅。中国は虚勢を張っているのか、駅はものすごく、というかとてつもなくでかい建物。

 

 街の標高はおよそ2000メートル。8月の平均気温でも最高気温が24度C,最低気温が11度Cとなっており、夏でも涼しく、みな長袖を着ている。市域の主要部は、歴史的に河西回廊の一部分を構成してきた。紀元前121年、前漢の霍去病将軍が市域に軍事拠点・西寧亭を築いたのがはじまりである。「漢の西を寧(やす)らげる」という意味になる。

 

 前漢末に青海郡が設置され、                       

 五湖十六国時代には南涼の国都となった。                 

 代に西平・河源の二郡となり、                     

 唐代後半には吐蕃に占領された。                    

 宋代に収復され西寧州が設けられたが、                   

 のちに再び西夏に占領された。                                    

 清代には西寧府が置かれ、甘粛省に属している。

 

 因みにといっても、全然、因みにはならないが、私の孫娘の名前は、寧音(ねね)。

 娘たちは、この西寧から名前を採ったのか、いや、そんなことはまったくない(はず)。

 

 雍正帝のチベット分割以後、清朝の支配下に入った青海地方の青海モンゴル人や、チベット系、モンゴル系の遊牧集団「四十族(玉樹四十族)」は、この地に配置された西寧辨事大臣によって掌管されている。

 

 わたしは、この街に2013年9月に1週間ほど滞在した。

 千葉県の友人たちの旅行グループから新疆シルクロードの講師を依頼されたからだが、みなさんを北京に送り返してから、東京からこのあとの旅を共にする仲間2人を待つために、ウルムチから1人でこの西寧へきて、チベット高原への旅を待っていた。シルクロードの旅の「はしご」ですね。

 

西寧市郊外のノコちゃん実家に案内されて、チベットの普通の人の食べる食事をもてなされた。

 

 

 毎晩、西寧在住の若い女性のこちゃんという友人にホテルを紹介してもらって滞在した。

夕食は決まった食堂で食べ、決まった酒を飲み、女性や男性の店員さんたちとも顔なじみになっていた。

 

 街路や建物は、ほかの街と同じように大改造の途中。工事中の歩道や建築中のビルがあって、何か落ち着かない雰囲気。

彼女の実家の庭にあったボン教のなにか。

 

 

 昼間は、ただ街を歩くだけで、図書館も見当たらない、競技場もどこにあるか分からない。

 そんな思い出しか残っていない街であった。ただ、のこちゃんとご主人、まだ小さい3歳のお嬢ちゃんと会うのだけが楽しみなことだった。

 

 思い出したことがあった。日本語の堪能な西北大学の教授が、副業で旅行業をやっているのだが、さらにその副業で、デパートに日本製の赤ちゃんのミルクやおむつなど生活用品を販売していた。後日、来日したときに私たちの「シルクロード講座」で話をしていただいて、大好評だったことがある。

 

 さらに、その旅行会社の社員に、驚いたことに若く美しい日本人女性がいたのである。

 でも、それだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもない。世界を股に掛けた恋などは生まれなかった。フン!

 

| 河西回廊 | 09:58 | comments(0) | - |
面白くもない、青海省の紹介です。読まなくてもいいですよ〜

きのうは夜中の1時ころに起きて、徹夜でスポーツ分野の「速報ニュース」の原稿を書いて、1時間しか寝られませんでした。さすがにきのうの昼間はボーっとしていました。その前の日のブログは、なんだか訳の分からないもので、みなさんも訳が分からなかったでしょう?そしてきょうも、面白くもない青海省の紹介です。

 でも、”みなさんは、面白くもないだろう”と思うかもしれませんが、もっと研究すると、青海省はとても面白いところなのです。青海省は清朝の中ごろまでは、全土がチベットだったのです。四川省も大部分が、そして雲南省と甘粛省の一部もチベットだったのです。そうなると昔の「チベット」は広大な面積を有していたということがわかりますね。それに新疆と内モンゴルを含めれば、中国の領土は現在の半分くらいにしかならないのですね。だから・・・・なんです。何がって? あれがです。

赤が青海省です。右下が四川省、その下が雲南省。上(北)が甘粛省です。

さらに甘粛省の右上が内モンゴル自治区、左が新疆ウイグル自治区で左下がチベット自治区。

 

青 海 省

 青海省は中国西北部に位置する省級の行政区画のひとつで、中国内陸部としては最大の湖「青海湖」がある。河西回廊から青蔵高原に向かっての高原と祁連山脈が連なる地形が素晴らしい。

 

 青海省はこの美しい自然と豊かな鉱山資源で知られている。この地下資源はまだまだ開発されるだろうが、それゆえに美しい自然が破壊され、漢化が急速に進むであろうことは目に見えている。いやもうとっくに漢化は行きつくところ、極限にまで行きついているのだろう。最近のこの地域における大地震や土石流による被害などの自然災害は、ほとんどがこのような山間地域に起こっているが、その根本原因は見境のない乱開発による自然破壊が原因となっている。

中国内陸の最大の湖・青海湖。ここから下の写真4葉は私の撮影です。

今年も8月中旬にこの青海湖へ行きます。

 

 

 青海省の領域の大部分は、当時のチベット人自身の区分でいう「アムド地方」に属し、アムド地方の西部から中央部分を占めており、東南部に位置するキクド(ジェクンド、玉樹)一帯のみカム地方に属している。また、モンゴル人はこの地やモンゴル系住人を「デート・モンゴル」(高地モンゴル)と称している。

 

 青海省の領域を枠組みとする地方行政単位の成立は、清朝の雍正帝は1723年から1724年にかけて、当時、この地方を含むチベット全土を支配していたオイラト系モンゴル人のグシ・ハン一族を征服、彼らの支配下にあった七十九族と呼ばれる諸部族を、タンラ(唐拉)山脈を境に南北に分割した。青海四十族とチベット(西蔵)三十九族に二分したのである。

 

 清朝は青海モンゴルや四十族などの諸侯を、西寧から支配し、この枠組みは中華民国にも引き継がれ、青海省の基礎となった。中国の現行の行政区画としての西蔵(チベットをこういった)と青海は、直接的にはこの分割を起源としたものとなっている。

 

 面積は72万平方kmで、総人口は約520万人と報告されている。そのうち漢族を除く民族はチベット、回族、士族、サラール族とモンゴル族など53の民族を数え、その人口は236万人、人口の約45%を占める(2000年調べ)。だが、記録にはないが、この省は中国全体でも貧困の度合いが強いところである。

 

 青海省では多民族が共存しているがゆえに、漢語、チベット語、トルコ語系のサラール語とモンゴル語などが広く使用され、多様な言語文化と宗教文化が存在しているが、なによりも宗教文化の発達が地域社会の最大の特徴である。

 

 漢族の間では伝統的に道教と仏教が信仰されているが、それ以外の民族では、チベット仏教とイスラム教が普及しており、青海地域の宗教文化を代表するまでに隆盛を誇っている。

彼女たちは青海の回族女性。黒いスカーフが特徴です。

 

 チベット仏教圏は、それを基軸に文化的・政治的交流が展開していた場となり、チベット、モンゴル、満州族など3民族がこの世界に属し、時代的にはチベット仏教がモンゴル人や満州人に浸透した17世紀から、西欧列強によって仏教世界の統合性が崩れ始める19世紀末に至るまでである。

青海湖周辺でみかけた「五体投地」で巡礼をするチベット人

 

 イスラームは、中国から西アジアに至るシルクロード沿いの草原や砂漠の遊牧民やオアシスの農耕・都市居住者の生活様式と文化的アイディンティティを支える役割を果たしている。

| 河西回廊 | 10:19 | comments(0) | - |
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