シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
朝鮮通信使ものがたり−2 国際色豊かな友好と交流のつどい

会場のお寺に入ると、まだ受けつけの準備中。参考資料としての書籍を購入したのですが、おつりが出てくるまで5分以上かかりました。本当に“主婦がボランティアでお手伝いしているという姿”でした。「おつりは3日でも4日でも待ちますよ」というと、大笑いしていました。

慣れない受付で、はじめはテンヤワンヤでした

 

お寺の境内が開会式やパレードのあとのイベントの会場なのですが、まだ人影も疎(まば)ら。しかし、境内の端の方に、おなかやおへそを出した(おなじことかな)比較的若い女性やおばさんたちの群れがいました。リンボーダンスのグループの方たちです。

ベリーダンスの皆さんです。

 

この日の参加グループ名を書いてみましょう。国際色豊かで実に多彩です。

けやき学園=子どもたちが通信使の楽隊を模した衣装と演奏がありました。

子ども通信使=将来の国際友好をになう子ども隊の衣装とパレードです。

榎本弥左衛門=川越の豪商。1655年の第6回朝鮮通信使を江戸で見学して、川越に持ち込んだ人物。

朝鮮通信使=三使:正使、副使、従事官。正使役の柳鐘○さん:釜山文化財団代表理事。この人は往時の正使の子孫だそうで、この日も子孫という方が何人もいました。

この人が「正使」の子孫の柳さん

 

誕古団(テゴタン)=韓国の伝統音楽を通して、日朝・日韓の友好を願う在日コリアン・韓国人・日本人のグループ。

テゴタンの皆さんだかよくわからなくなってきましたが、かれらは川越高校の皆さんのようです。

 

カトリック埼玉西部有志の会=「世界のみんな兄弟さ。隣人さ、友達さ」と、フィリピン・ベトナム・日本、みんなで踊り、合唱します。

埼玉朝鮮初中級学校舞踊団

朝鮮学校舞踊団のみなさんたちです。女の子たちはお化粧をしてみんなきれいでした

 

平和の翼コーラス

日朝協会 東京・埼玉・群馬県連

はなこりあ=「はな」は「ひとつ」

よさこい鳴子踊りとアリランをミックスした「よさこいアリラン」

ベトナムグループ「シンチャオ」

「シンチャオ」はベトナム語で「こんにちわ」

アオザイがとてもきれいでした

 

現代の朝鮮通信使あいち=愛知県から参加。

ロクセラーナ=中東のベリーダンスのみなさん

民族衣装=世界各地の民族衣装を着ての参加

実に様々な国・民族の方がたがいました。

 

NPO川越きもの散歩

埼玉エイサー隊

13回を迎えたこの祭りも、かれらは13回出演しているそうです

 

ペウレ・ウタリの会=アイヌの人たちの参加です

越中おわら風の盆

なんとも幽玄な「越中おわら風の盆」でした。特に男の踊りが印象深かったですね

あいアイ=川越の障がい者施設の方がた

| 古代朝鮮の歴史 | 11:52 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−1 「川越唐人揃い」に行ってきました

シルクロードは、単に長安からローマまでを、お姫様がラクダに乗って砂漠を進むという幻想ではなく、人・モノ・宗教・軍隊・交易などのキャラバンが往来する文明交流のネットワークだというのが、シルクロード研究をしてきた私の考えです。

 

それを、まさに具現化したような姿が「朝鮮通信使」でした。

埼玉県の川越市で毎年、それをやっているという話は聞いていたのですが、これほどの内容だとは知りませんでした。

 

この催しがあることを知ったのは、60年来の人生の友人、私の生涯の友・石井賢二でした。かれは私より3歳年長ですが、いま、日朝協会の都連理事長を務めています。その都連の機関紙に書いてあったのです。彼とは会場で会いました。

 

といってもわたしは、すでに2008年に対馬・壱岐の旅に行っています。それは、このブログの冒頭に書いた問題意識があったからでした。中央ユーラシアや中国・モンゴルなどの文明が対馬や壱岐をとおして日本へ渡来したことは間違いがないので、それをじかに見てみたいということでした。

その時のブログに書いた内容をコピーしてご紹介したいと思います。

 

「遣隋(唐)使よりも足繁く往来した朝鮮との交流・交易

1万2千年ほど前、日本と大陸が海によって隔てられるようになって以降の交流は、間違いなく海路を通じてでした。大陸と日本列島が陸続きの頃ではなく、飛天が空を飛んできたわけでもありません。日本へのルートはさしずめ「海のシルクロードの東海ルート」といえるでしょうか。

正倉院の宝物といえば、唐やローマなどがまず想起されます。そこには西域との関わりなどがイメージされると思いますし、遣唐(隋)使船によってもたらされた文物がほとんどだと思われている向きが多いでしょう。

しかし遣唐使の往来は630年から894年までの264年間のうち15回でした。むしろ最近、朝鮮半島の新羅(しらぎ)などとの交易のほうが圧倒的に多いことがわかってきています。今、注目を集めているのは、新羅や渤海(ぼっかい)などとの交流関係です。その点で九州国立博物館(通称・キューハク)の果たす役割は非常に大きいものがあります。そしてその入り口としての対馬と壱岐の役割は大きいものでした」。

 

 

その朝鮮通信使のお祭りやパレードが、なぜ、川越でやられているのか、これに大きな関心があったわけです。場所は川越市の蓮馨寺(れんけいじ)。

 

わたしはワイフがメモしてくれたルートで行ったのですが、東武東上線の川越駅で降りたので、会場まで小一時間もかかってしまいました。小春日和の日でしたが、下着まで汗びっしょりになりました。あとから会場に来た彼女から怒られました。「だから言ったでしょ!川越駅でなく川越市駅と言ったでしょうッ!」。駅の名前は大した違いはありません。場所が違っただけです。

その通り、帰りは実に早く川越市駅まで行かれました。

 

もう13回目。13年も続いていたのですね。

長くなりそうなので、きょうは写真を少々。

毎日とはいきませんが、しばらくはこの連載を書いてみます。

1回で終わらせたかったのですが、そうもいかないとこれを書きながら思ってしまいました。

 

このお寺は「檀林」です。仏教僧が学ぶ大学という意味があるようです。

 

真ん中の帽子をかぶった人物が石井賢二日朝協会都連理事長。

12時開会なのに、私が会場のついたのは10時すぎ。まだ受付する準備中でした。

まず「朝鮮通信使」をユネスコの世界記憶遺産へ!という看板が目につきました。

今年10月に決まったようですが・・・

会場で最初に出会ったのが、どういうことか「ベリーダンス」の女性たちでした。

トルコという民族のことなのでしょうかね

朝鮮のなにかの踊りだと思います。

これも

| 古代朝鮮の歴史 | 10:34 | comments(0) | - |
中国人か、朝鮮人か、衛満をめぐる出生の謎

女子400メートルメドレーリレー決勝 3分55秒73の日本新で3位になった日本の上田(左下)、寺川(右端)、鈴木(中央奥)、加藤ゆか(中央手前)=水泳センター(共同)


銀メダルを手に笑顔の藤井瑞希、垣岩令佳組=ウェンブリー・アリーナ(鈴木健児撮影)


後半、ヘディングシュートを決め喜ぶ吉田(中央)。右は鈴木=オールドトラフォード(共同)

中国人か、朝鮮人か、衛満をめぐる出生の謎

朝鮮を開いた衛満については、従来、『史記』の記述などにもとづいて、亡命中国人であるという説が有力でした。

ところが近年、衛満は朝鮮人だったという説が、朝鮮の学者を中心に展開されています。

 古朝鮮のイメージ写真


この説の根拠とされているのが、衛子朝鮮が朝鮮半島の先住民族と、亡命中国人との連合国家だったという事実です。

右渠に逆らって国外に亡命した濊(わい)君の南閭(なんりょ)や歴谿卿(れきけいけい)などは、彼らに従った民があまりにも多いことから、それぞれ一部族を率いる部族長だったと考えられているのですが、衛満もこうした部族の長だったのではないかと考えられているのです。

 

また、『史記』には、「衛満」ではなく、ただ単に「満」としか記されていないのも争点となっているようです。これまでも衛満の「衛」は姓ではなく、“国境を守備する者”を意味しているにすぎないという説が唱えられていましたが、これが、衛満が中国人ではないという根拠の一つだというのです。

 

イメージ写真

自分の祖先と血すじを何よりも重視する中国人で、王ともあろう者が姓を持たないというのは考えられない・・・・。衛満=中国人説を否定する人びとは、このように主張しているのです。

| 古代朝鮮の歴史 | 05:06 | comments(0) | - |
オリンピックあれこれ、そして「衛子朝鮮は存在したか?」

銀と銅で、なぜこうも違うのか

 

柔道女子で杉本美嘉が銀メダルに泣いた。というキャッチフレーズは良くありますが、せっかくの銀メダルを彼女は「悔しい」といいます。

メダルを望めないレベルにいたけれど、やっと獲得した銅メダルに泣いて喜ぶ選手がいます。なぜでしょうか?

 

柔道男子の監督が言う言葉に驚きました。「この上は精神力=気持ちで勝つ」と。気持ちで勝てれば苦労しません。いまだに“練習中は水を飲むな!”“先輩の苦労を忘れるな!”などとやっているのでしょうか?

私も中学生時代から、そのバカげた非科学的な練習で鍛えられました。精神がじゃありません。非合理主義に負けない精神が、です。

のどが乾いたら水を呑んだ方が合理的な練習ができるのに・・・・

 

“若人の平和と友情の祭典”のオリンピックが、いつの間にかナショナリズムに侵されて、勝利至上主義に陥っているからです。

国は“金を出すならメダルを取れ”といい、競技団体は“国から予算をとるから金メダルを取れ”と煽ります。

 

おかげでメダルを望めない種目は選手強化の予算もつきません。

メディアもメダル候補の選手や可愛い選手を追いかけます。

しかし、女子サッカーがブラジルに2−0で勝ったのにはしびれました。

負けたブラジルもよく戦いました。拍手です。

 

でも、「なでしこ」という単語が何を意味しているのかはっきりしてもらいたいものです。封建的な家風として、家の父や嫁に行けば夫に忠実に仕える女性・妻を「なでしこ」ともいいます。

いま、盛んに咲いている「なでしこ」の花は別の意味があるでしょう。誰がこの名前を命名したのか知りませんが、もし、前者であれば許せません。

 

今日はご招待したフランスのFSGTというスポーツ団体の代表団との会合や鎌倉観光、夜の歓迎パーティで終日、お付き合いです。

パリ郊外の、STAIN市の女性の副市長さんが団長です。

 

 

古朝鮮の歴史は面白いと思うのですが、つまらないですか?懲りずに続けます。

 

衛子朝鮮は存在したか?

 

檀君朝鮮、箕子朝鮮に次いで成立した衛子朝鮮は実在したと考えられています。

つまり、今のところ衛子朝鮮が朝鮮最古の王朝ということになりますが、その存在をうらづける理由のひとつに、衛子朝鮮の滅亡に至った経緯が、『史記』などの中国側の史書にかなり詳しく書かれていることが挙げられます。

 

『史記』などの中国側の指揮官の名や戦いの経緯、裏切って漢についた朝鮮の大臣たちの名前や、その褒美として彼らに与えられた侯爵の位の名称などが事細かに記されていました。

 

しかしながら考古学の見地からは、今までに衛子朝鮮のものとはっきりとわかる遺跡や遺物は見つかっていません。もっとも、衛子朝鮮が存在したとされる時期に、朝鮮の文化が青銅器時代から鉄器時代へと発展していったことは、発掘調査などから明らかとなっています。

 

朝鮮半島における鉄器文化は第1期から第4期までの4つに分けられますが、第1期の代表的な遺跡とされる竜淵里(りゅうえんり)遺跡からは矛や斧、犂や鍬といった様々な鉄器と一緒に、燕独自の通貨である明刀銭が数百枚出土しています。つまり先に述べた箕子朝鮮末期、紀元前3世紀の燕との接触をきっかけに、中国から朝鮮に鉄がもたらされたということでしょう。

 

続く第2期には、朝鮮半島独自の様式である、“つまみ”が数多くある多紐鏡(たちゅうきょう)などが出土しており、この時期が朝鮮における初の実在王朝である、衛子朝鮮だと考えられています。

 

その後の第3期と第4期は、衛子朝鮮が滅んだあと、漢によって楽浪・真番・臨屯・玄莬(げんと)の4郡が置かれ、およそ400年にわたって直接統治がおこなわれたのと同時期とみられています。なお、この頃の朝鮮半島では、スキタイ・サカの流れをくむ遊牧民族の影響を受けた鉄器も出土しています。

 

こうして朝鮮では、外来の文化を受け入れて発展させていく中で土着の勢力が力をつけ、紀元後4世紀には高句麗・新羅・百済という朝鮮独自の国家が鼎立する、三国時代を迎えるのです。

| 古代朝鮮の歴史 | 06:07 | comments(0) | - |
難民から朝鮮の王に

オリンピックというものはナショナリズムをくすぐるには格好の道具ですね。

日本選手の各種目でのメダル獲得争いに一喜一憂してしまいます。

でも、勝った選手も負けた選手もさわやかな美しい顔をしています。

 

女子200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した鈴木聡美選手。

男子200メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した入江陵介選手


私はこの数十年来、はじめて中国が「謝罪します」という言葉を聞きました。

きのうもこの欄で触れたバドミントンの無気力試合のことです。お断りしますが、謝罪したのは選手です。競技団体や国ではありません。

 

止まっている車にぶつかっても、「お前が止めていたから悪いんだ」と文句を言ったほうが勝ちというお国柄ですから、「謝罪」などは聞いたことがありません。“世界で一番偉い国”だし、“世界で一番すぐれた漢民族”だからでしょう、きっと。でも、この無気力試合だけは申し開きようがないですね。

 

皆さんには、是非、発展途上国や内戦・反乱などで疲弊している国の選手にも注目していただきたいと思います。それからシルクロード沿線(というものがあるかどうか知りませんが)の国々の選手にも応援してあげて下さい。

 

 

連載を続けます。

 

「魏略」によれば、箕子(きし)朝鮮の歴代の王は、中国の周王朝に臣下の礼をとり、良好な関係を築いていたといわれています。ところが周の力が衰えると、戦国七雄にも数えられる中国東北地方の国・燕が勢力を伸ばし始め、紀元前284年、箕子朝鮮は燕の将軍・秦開の攻撃を受け、2000里にも及ぶ土地を奪われ衰退してしまいました。

 

このように中国から強い軍事的・政治的圧力を受ける一方で、古代の朝鮮では大規模な人的流入も起こっていました。『三国志』『魏志東夷伝』によると、秦末期の紀元前209年に起きた大反乱、「陳勝・呉広の乱」を避けて、燕・斉・趙の難民数万人が朝鮮半島へと渡り住んだほか、前漢成立後の紀元前195年には衛満という男が、1000人余りの民を連れて朝鮮に亡命してきたといいます。

 

衛満は、中国からの難民たちの力を集めて朝鮮の民を服属させ、ついには王に即位、現在の平壌にあたる王険を都としました。これが古朝鮮のうちで最後の王朝、衛子(えいし)朝鮮です。王位についた衛満は、漢に貢物を贈って後ろ盾とすると、周辺の異民族の支配に乗り出し、真番・臨屯といた部族を服属させました。その領土は数千里四方に及んだといわれます。

漢代の兵士の姿が描かれた紀元前2世紀頃のレンガ。

衛子朝鮮は漢の軍勢によって滅ぼされました。

 

衛満の死後、数十年にわたり繁栄した衛子朝鮮でしたが、衛満の孫・右渠(うきょ)はいつしか傲慢にふるまうようになっていました。これに反感を覚えたのか、紀元年128年、衛子朝鮮の支配下にあった濊(わい)という部族の王・南閭(なんりょ)が、28万人もの民を率いて遼東郡に亡命しています。このほか歴谿卿(れきけいけい)という貴族も、右渠に愛想をつかして2000戸余りの民を連れて東方の辰(しん)国へと去って行ってしまいました。

 

さらに右渠は、真番や臨屯の漢への朝貢を妨害したのですが、これが漢の時の皇帝・武帝の怒りを買ってしまいます。武帝は陸から6万、海からは7000の大軍を派遣して衛子朝鮮を挟み撃ちにしたのです。

 

これに対し朝鮮軍も善戦して一進一退の攻防を繰り広げましたが、漢軍が朝鮮軍を構成する個々の部族に揺さぶりをかけたために寝返る者が続出。この裏切りが決定打となり、衛子朝鮮は1年余りの抵抗も空しく、紀元前108年に滅ぼされてしまったのです。

| 古代朝鮮の歴史 | 06:27 | comments(0) | - |
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