シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
朝鮮通信使ものがたり−4 室町時代からはじまった朝鮮通信使

室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧政策を日本に要請することが目的でした。倭寇の朝鮮半島での活動は13世紀には始まっていたとの記録があり、15世紀以降は「明」が「海禁(鎖国)政策」によって私的な交易を禁じた影響もあって大規模化しました。

1410年には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われるという事件も起きています。

跳梁跋扈した倭寇の足跡

 

強奪・略奪・殺人をほしいままにした倭寇

 

日本では14世紀以降に朝鮮との貿易に進出していきました。

朝鮮で官職を得る「受職倭人」、朝鮮各地の港で暮らす「恒居倭人」、有力者の使いとして訪れる「使送倭人」と呼ばれるものもいました。

 

朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として「倭館」を建設する一方、倭寇対策として1419年には対馬を攻撃する「応永の外寇」も起きました。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役ともなりました。

 

この室町期の朝鮮通信使は都合3回行われました。

第1回は1428年、第2回は1439年、第3回が1443年。 

 

豊臣秀吉に派遣された朝鮮通信使

織田信長は明・朝鮮との通商交易をはかり、年使を派遣しましたが朝鮮はこれに応じず、次いで政権を掌握した秀吉は、1587年の九州平定後に対馬の宗義智に命じて交渉にあたり、朝鮮国王李昖の来日を求めました。

こうしてはじめから服属を求めず、秀吉による天下統一の祝賀使節を朝鮮に求めました。こうして1590年に朝鮮通信使が派遣されたのです。

 

今から420年ほど前、豊臣秀吉は突然、15万の軍勢で朝鮮を侵略しました(文禄・慶長の役159298年)。これには中国の明が朝鮮を支援しました。

この戦争は朝鮮を戦火に巻き込み、多くの朝鮮人が捕虜として日本に連行されるなど大変な被害を与えました。

 

1596年(慶長元年・宣祖29年)の朝鮮通信使

文禄の役において日本軍は朝鮮軍や明軍と戦い、やがて和議の機運が高まりました。

1596年の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行したものでした。

朝鮮では当初、通信使派遣に反対しましたが、派遣しなければ、再び侵攻があるかもしれないという議論になり、朝鮮通信使の随行がきまりました。

 

しかし、冊封使は豊臣秀吉に接見できましたが、朝鮮通信使は接見を許されずに堺で待機となりました。冊封使は日本軍の朝鮮撤退を求めましたが、豊臣秀吉は激怒して交渉は失敗に終わりました。

堺には和平の成功と帰国を期待する多くの朝鮮人が集まってきましたが、日本の再出兵を知った冊封使は」帰国して、慶長の役となったのです。

 

豊臣秀吉時代の朝鮮通信使履歴は、1590年と1596年の2回でした。

 

これは江戸時代の加納安信の朝鮮通信使行列です。

| 古代朝鮮の歴史 | 09:04 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−3 榎本弥左衛門と朝鮮通信使

なぜ、埼玉県の川越で朝鮮通信使のお祭りを開くのでしょうか。

それは榎本弥左衛門という人物がカギでした。

この人物は16261686年没の川越の大商人だったそうです。

彼は19歳の時に日本橋にも塩の店を持っていました。

塩だけでなく穀物やたばこなども水運を利用して川越に運んでいたそうです。

 

弥左衛門は165510月、朝鮮通信使を見るためにわざわざ江戸まで行きました。そしてそこで見た朝鮮通信使行列の華やかさや規模の大きさに驚いて、その後、弥左衛門が住んでいた本町では、川越氷川祭礼の「練りもの」として、朝鮮通信使の仮装行列である「唐人揃い」が始まったという話です。

 

弥左衛門は「三つ子よりの覚(おぼえ)」と「万(よろず)の覚」という『覚書』を書いていました。近世の町人で文書を残しているのはきわめて少なく、歴史的に貴重な書物としても有名だそうです。この本によって弥左衛門の人となりが分かると思います。

東洋文庫の『榎本弥左衛門覚書』平凡社刊

 

このように、むかし、朝鮮通信使は川越に行ったことはないようです。しかし、江戸から日光東照宮までは1636年、4355年の3回ほど行っているようです。埼玉県の草加・越谷・春日部・栗橋などの日光街道を通っていったようですが、川越には寄っていません。

 

弥左衛門はその後、1700年頃の川越氷川まつりで、朝鮮通信使の仮装行列である「唐人揃い」と呼ばれる練り物を出しました。

「唐人揃い」とは中国人のことではなく、この頃は広く外国人を指していました。

また、川越氷川神社には、「唐人揃い」が描かれた「氷川祭礼絵巻」や実際の通信使を描いた「朝鮮通信使行列大絵馬」も奉納されており、川越町人の進取と異国情緒を楽しむ心意気を感じ取ることができるとされています。

 

以上は、当日会場で配布されたパンフレットを参考にしています。

 

会場には約束した11時には石井賢二さん、踊りの稽古で遅くなったうちの奥さんは1時半頃に顔を出しました。会場で日朝協会の役員を紹介されました。

 

「第13回 復活! 唐人揃い! 朝鮮通信使! 多文化共生国際交流パレード 川越唐人揃い  争わず互いに助け合った歴史を現代によみがえらせる!」

と銘打ったこの日は、12時に市長や正使の子孫や参加者たちがそろって、この珍しい行事に集い合いました。

 

障がい児学級の「けやき学園」の子どもたち

 

次からは、順番が逆になっていますが、朝鮮通信使の歴史やそもそもについてお話を進めていきましょう。

ときあたかも、世界記憶遺産に登録されたばかり。その意義はともかくとして、地元や関係者、参加者たちは心から集いを楽しんでいました。そして私たちも楽しみました。

「世界記憶遺産登録」を喜んでいました。

「シンチャオ」ベトナムのグループがパレードにも参加していましたが、屋台も出ていました。フランスパンにベトナム風のものを挟んだものですが、私はそれとビールでランチにしました。そこでは多くのベトナム人がビールを飲んでいましたが、そのお父さんに「高い、高い」をおねだりして大喜びをしていた女の子がいました。印象的なシーンでした。

 

| 古代朝鮮の歴史 | 08:45 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−2 国際色豊かな友好と交流のつどい

会場のお寺に入ると、まだ受けつけの準備中。参考資料としての書籍を購入したのですが、おつりが出てくるまで5分以上かかりました。本当に“主婦がボランティアでお手伝いしているという姿”でした。「おつりは3日でも4日でも待ちますよ」というと、大笑いしていました。

慣れない受付で、はじめはテンヤワンヤでした

 

お寺の境内が開会式やパレードのあとのイベントの会場なのですが、まだ人影も疎(まば)ら。しかし、境内の端の方に、おなかやおへそを出した(おなじことかな)比較的若い女性やおばさんたちの群れがいました。リンボーダンスのグループの方たちです。

ベリーダンスの皆さんです。

 

この日の参加グループ名を書いてみましょう。国際色豊かで実に多彩です。

けやき学園=子どもたちが通信使の楽隊を模した衣装と演奏がありました。

子ども通信使=将来の国際友好をになう子ども隊の衣装とパレードです。

榎本弥左衛門=川越の豪商。1655年の第6回朝鮮通信使を江戸で見学して、川越に持ち込んだ人物。

朝鮮通信使=三使:正使、副使、従事官。正使役の柳鐘○さん:釜山文化財団代表理事。この人は往時の正使の子孫だそうで、この日も子孫という方が何人もいました。

この人が「正使」の子孫の柳さん

 

誕古団(テゴタン)=韓国の伝統音楽を通して、日朝・日韓の友好を願う在日コリアン・韓国人・日本人のグループ。

テゴタンの皆さんだかよくわからなくなってきましたが、かれらは川越高校の皆さんのようです。

 

カトリック埼玉西部有志の会=「世界のみんな兄弟さ。隣人さ、友達さ」と、フィリピン・ベトナム・日本、みんなで踊り、合唱します。

埼玉朝鮮初中級学校舞踊団

朝鮮学校舞踊団のみなさんたちです。女の子たちはお化粧をしてみんなきれいでした

 

平和の翼コーラス

日朝協会 東京・埼玉・群馬県連

はなこりあ=「はな」は「ひとつ」

よさこい鳴子踊りとアリランをミックスした「よさこいアリラン」

ベトナムグループ「シンチャオ」

「シンチャオ」はベトナム語で「こんにちわ」

アオザイがとてもきれいでした

 

現代の朝鮮通信使あいち=愛知県から参加。

ロクセラーナ=中東のベリーダンスのみなさん

民族衣装=世界各地の民族衣装を着ての参加

実に様々な国・民族の方がたがいました。

 

NPO川越きもの散歩

埼玉エイサー隊

13回を迎えたこの祭りも、かれらは13回出演しているそうです

 

ペウレ・ウタリの会=アイヌの人たちの参加です

越中おわら風の盆

なんとも幽玄な「越中おわら風の盆」でした。特に男の踊りが印象深かったですね

あいアイ=川越の障がい者施設の方がた

| 古代朝鮮の歴史 | 11:52 | comments(0) | - |
朝鮮通信使ものがたり−1 「川越唐人揃い」に行ってきました

シルクロードは、単に長安からローマまでを、お姫様がラクダに乗って砂漠を進むという幻想ではなく、人・モノ・宗教・軍隊・交易などのキャラバンが往来する文明交流のネットワークだというのが、シルクロード研究をしてきた私の考えです。

 

それを、まさに具現化したような姿が「朝鮮通信使」でした。

埼玉県の川越市で毎年、それをやっているという話は聞いていたのですが、これほどの内容だとは知りませんでした。

 

この催しがあることを知ったのは、60年来の人生の友人、私の生涯の友・石井賢二でした。かれは私より3歳年長ですが、いま、日朝協会の都連理事長を務めています。その都連の機関紙に書いてあったのです。彼とは会場で会いました。

 

といってもわたしは、すでに2008年に対馬・壱岐の旅に行っています。それは、このブログの冒頭に書いた問題意識があったからでした。中央ユーラシアや中国・モンゴルなどの文明が対馬や壱岐をとおして日本へ渡来したことは間違いがないので、それをじかに見てみたいということでした。

その時のブログに書いた内容をコピーしてご紹介したいと思います。

 

「遣隋(唐)使よりも足繁く往来した朝鮮との交流・交易

1万2千年ほど前、日本と大陸が海によって隔てられるようになって以降の交流は、間違いなく海路を通じてでした。大陸と日本列島が陸続きの頃ではなく、飛天が空を飛んできたわけでもありません。日本へのルートはさしずめ「海のシルクロードの東海ルート」といえるでしょうか。

正倉院の宝物といえば、唐やローマなどがまず想起されます。そこには西域との関わりなどがイメージされると思いますし、遣唐(隋)使船によってもたらされた文物がほとんどだと思われている向きが多いでしょう。

しかし遣唐使の往来は630年から894年までの264年間のうち15回でした。むしろ最近、朝鮮半島の新羅(しらぎ)などとの交易のほうが圧倒的に多いことがわかってきています。今、注目を集めているのは、新羅や渤海(ぼっかい)などとの交流関係です。その点で九州国立博物館(通称・キューハク)の果たす役割は非常に大きいものがあります。そしてその入り口としての対馬と壱岐の役割は大きいものでした」。

 

 

その朝鮮通信使のお祭りやパレードが、なぜ、川越でやられているのか、これに大きな関心があったわけです。場所は川越市の蓮馨寺(れんけいじ)。

 

わたしはワイフがメモしてくれたルートで行ったのですが、東武東上線の川越駅で降りたので、会場まで小一時間もかかってしまいました。小春日和の日でしたが、下着まで汗びっしょりになりました。あとから会場に来た彼女から怒られました。「だから言ったでしょ!川越駅でなく川越市駅と言ったでしょうッ!」。駅の名前は大した違いはありません。場所が違っただけです。

その通り、帰りは実に早く川越市駅まで行かれました。

 

もう13回目。13年も続いていたのですね。

長くなりそうなので、きょうは写真を少々。

毎日とはいきませんが、しばらくはこの連載を書いてみます。

1回で終わらせたかったのですが、そうもいかないとこれを書きながら思ってしまいました。

 

このお寺は「檀林」です。仏教僧が学ぶ大学という意味があるようです。

 

真ん中の帽子をかぶった人物が石井賢二日朝協会都連理事長。

12時開会なのに、私が会場のついたのは10時すぎ。まだ受付する準備中でした。

まず「朝鮮通信使」をユネスコの世界記憶遺産へ!という看板が目につきました。

今年10月に決まったようですが・・・

会場で最初に出会ったのが、どういうことか「ベリーダンス」の女性たちでした。

トルコという民族のことなのでしょうかね

朝鮮のなにかの踊りだと思います。

これも

| 古代朝鮮の歴史 | 10:34 | comments(0) | - |
中国人か、朝鮮人か、衛満をめぐる出生の謎

女子400メートルメドレーリレー決勝 3分55秒73の日本新で3位になった日本の上田(左下)、寺川(右端)、鈴木(中央奥)、加藤ゆか(中央手前)=水泳センター(共同)


銀メダルを手に笑顔の藤井瑞希、垣岩令佳組=ウェンブリー・アリーナ(鈴木健児撮影)


後半、ヘディングシュートを決め喜ぶ吉田(中央)。右は鈴木=オールドトラフォード(共同)

中国人か、朝鮮人か、衛満をめぐる出生の謎

朝鮮を開いた衛満については、従来、『史記』の記述などにもとづいて、亡命中国人であるという説が有力でした。

ところが近年、衛満は朝鮮人だったという説が、朝鮮の学者を中心に展開されています。

 古朝鮮のイメージ写真


この説の根拠とされているのが、衛子朝鮮が朝鮮半島の先住民族と、亡命中国人との連合国家だったという事実です。

右渠に逆らって国外に亡命した濊(わい)君の南閭(なんりょ)や歴谿卿(れきけいけい)などは、彼らに従った民があまりにも多いことから、それぞれ一部族を率いる部族長だったと考えられているのですが、衛満もこうした部族の長だったのではないかと考えられているのです。

 

また、『史記』には、「衛満」ではなく、ただ単に「満」としか記されていないのも争点となっているようです。これまでも衛満の「衛」は姓ではなく、“国境を守備する者”を意味しているにすぎないという説が唱えられていましたが、これが、衛満が中国人ではないという根拠の一つだというのです。

 

イメージ写真

自分の祖先と血すじを何よりも重視する中国人で、王ともあろう者が姓を持たないというのは考えられない・・・・。衛満=中国人説を否定する人びとは、このように主張しているのです。

| 古代朝鮮の歴史 | 05:06 | comments(0) | - |
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