シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
兵馬俑―2

 第1の方形陣営は弩兵陣営で曲形陣営の先端に位置し、230以上の弓弩手を持っている。その内甲冑を着た160余の重装備の跪射兵(きしゃへい)は陣営の中心に列に並び、その外側に170余りの戦闘服を着た軽装立射手が周りを囲んでいる。こうして敵に挑む時この二種の姿勢で射撃でき『百発不休止』、矢が雨の如く降り、敵に一歩も近寄らせない。

かなり身分の高かった兵士だという説明がある

 

 第2の小陣営は曲形陣営の右側で64台の戦車から成り、全ての戦車に1人の御者と2人の甲冑兵で構成され、歩兵は含まず、行進のスピードが速く、突破能力に優れていた為、当時の戦場では敵のド肝を抜いた軽戦車軍である。

 

 第3の小陣営は曲形陣営の中部にあり、戦車、歩兵、騎兵の混合編制でそれは19台の戦車を主戦力とし、260余の歩兵を補助とし、8騎の騎兵隊が後方を防衛し、特殊な役割を持っている。

 

 最後の第4陣営は曲形陣営の左側の騎馬兵陣営である。108の主要騎馬隊と6台の戦車で編制されている。この騎馬兵は強固な肉体を持ち、頭に皮の帽子をかぶり、皮の靴を履き、短い甲冑を付け、片手に弓を、片手に手綱を持ち、あか抜けして、戦馬も強くがっしりとしている。このような騎兵がいったん戦場に投入されると、電光の如くすばやく、風のように動き、雷の如く強く対決するであろうといわれている。

 

3号坑は【凹】字型をしていて発掘されたつの兵馬俑坑の中で一番小さい。兵俑66体、馬俑4体、戦車1台と兵馬俑の数も少ないが三つの兵馬俑坑の中で一番重要な役目をしていた。それはこの3号坑が全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部)であったためだ。

秦の兵馬俑坑は秦軍の縮小図であり、戦車や騎馬隊の千里にもおよぶ勝利の行進は又、固く守られた指揮中枢をも備えている。それは2200年前の古代帝国軍を今の世に甦らせている。

兵馬俑から始皇帝陵辺りまでを俯瞰した概略図


 秦の兵馬俑は当時の強大な秦大軍隊を再現しているだけでなく、軍陣の編列、兵器配列、及び戦略思想等を型象的な実物資料として呈している

 

3号坑は、始皇帝を、あるいは始皇帝の墓を守る儀礼兵と作戦司令官のために作られた俑と兵馬の人形であるだが、兵士の前に司令官はいない。司令官は始皇帝だから後ろから命令を下しているのだという。3号坑は2種類ある。弓兵と戦車である。戦車というのは馬に引かせた馬車に兵士が乗って闘いの先頭を走り、敵を打ち砕く役割を持っている。それを戦車という。戦闘は、主に歩兵、弩(ど)兵と射兵が戦う。

当時の馬はかなり小さく、兵士より背の低い馬が多かったようだ。だから漢の時代になって武帝は西域に強く大きく、持久力のある汗血馬を求めたのである。

同じ種類の概略図

 

 3号坑では土に埋められて姿を現していないモノが多々ある。空気に触れると原色が損なわれるということだが、“まだ始皇帝の魂が残っている”とみなされていることもあるようだ。

この俑は、まだ完全に地中から出てない

 

 この兵馬俑は当時の秦の製造技術の高さを目の当たりに見ることができるよく知られている話だが、兵馬俑の兵士の顔は同じものがふたつとなくすべて違う顔をしていだが、なぜ墓でなく兵馬俑だったのだろうか。それは秦の時代にはまだ「墓」というものがなかったからである。墓ができたのは漢の時代になってからである。

今回はあまり慣れたガイドではなかったが、「イヤホンガイド」があったことと、旅慣れた8人の同行者と一緒だったので、じっくり観察できたことが幸いだった。

 

| シルクロード | 11:37 | comments(0) | - |
銅車馬−2

話が前後して申し訳ありません。おとといの続きの銅車馬です。

人込みでにぎわう兵馬俑博物館の入り口

 

銅車馬は秦始皇帝が巡行する際に使用された車馬(馬車と馬)を銅で製作したもので、発掘された2台の大型彩絵銅車馬は、それぞれ2つの車輪と1つのカジ棒、4頭の引き馬、一体の御官俑で構成され、2台で1組とし、前の方を立車(便宜上1号車)といい、後ろの方を安車(2号車)という。この2つの銅車馬の長さは2.253.17、高さは1で大きさは実物の2分の1で作成されている。

これは銅車馬発掘当時の写真

 

 

前の立車の車体は横長の長方形で長さ48.5m、幅は74。車箱は三面を覆われ後ろは乗り降りのため開いている。車の上には円形の傘があり傘の下には位の高い御官俑が立っている。その他、車の内外には精巧な青銅製の弩(いしゆみ)、金属製の鏃(やじり)、盾などの兵器が配置されている。

これは兵士の弩(いしゆみ)の引き金に当たる部分

これは(たぶん)銅車馬のシャーシー(台車)だろうと思います

 

 

後ろの安車は車箱が前後に分かれ、前室は御者の乗る所で位の高い官俑が一体置かれている。後室は主人に供される座で比較的大きく、長さ88贈蹇幅78。四方を囲んであり、後部は戸になっていて、屋根はアーチ型楕円の車蓋となっている。始皇帝はこの安車に乗り何度も巡行した。始皇帝の巡行はその重要度及び行程などにより大駕、中駕、小駕の三つに規定し、重要な巡行は大駕で属車を81台、中駕は36台、小駕は9台としている。

車馬の御者

 

 

銅車馬は盛んな彩絵の装飾がされていて、金銀の装飾部品は4千にも昇る大量の金銀を使用している。2号車を例にとると、金部品737件、銀部品983件と、車馬は宝物の如く異彩に包まれ金銀の光の中に主人の尊い身分を示している。

これは結局、なんだかわかりませんでした

 

 

銅馬車は何度見ても圧巻である。始皇帝とこの俑や銅馬車を造った人びとは兵士や芸術家だろうが、彼らの芸術的な迫力が伝わってくるようである。

 

この銅馬車は発見当時、粉々になっており8年間かけて修復したという。大変な苦労だったろう。先頭は護衛車で始皇帝は後ろの馬車に乗っていた。

 

| シルクロード | 09:21 | comments(0) | - |
大混雑の中の銅車馬

自動小銃で迎えられた西安(実際は咸陽)の空港では、3時間遅れの機をガイドが待っていてくれた。しかし、湖のガイドは声が小さい。これは西安から離れて上海へ向かう時まで、この声の小ささに悩まされた。

 

ともあれ、城壁の中、西安ではというより、中国では都市をすべて城壁で囲む。城壁の中が都市なのである。そこで飲茶の店へ。夜も遅いのでおかゆは正解だった。そして冷たいビール。西寧ではムスリムが多いので、アルコールを置かない店が多かった。

 

しかし、バスの中で長安の都の歴史やあれこれを説明するガイドの説明が、かなりおかしい。しかし理解できる。世界であるいは日本で私たちが学んできた歴史があるが、そのなかでも突出して多いのが中華思想にもとづいた歴史観。すべての物事がこの“中華思想”というオブラートに包まれているので、そのすべてに違和感があるのである。

 

午前1時に寝て、朝6時にはモーニングコール。7時朝食、8時出発。目が覚めたのは4時すぎだから睡眠5時間弱である。

きょうは1日で兵馬俑・大雁塔・シルクロードへ向かう西の城壁、そして西安市博物館を一挙に見学するという強行日程である。そして外はかなり強い雨。天気予報はきのうもきょうも晴れ。

朝のうちの篠つく雨も兵馬俑に着いたときには猛暑。そして人・人・人

 

 

兵馬俑に着いていよいよ見学だが、85歳の加藤さんは車いすを頼んでそれで見学。元農民が押す車いすは250元。もともとこの地域は農地だったのだが、兵馬俑が発見されて農民は土地も農業も失った。要するに兵馬俑で生業(なりわい)を失った元農民への失業対策だったのである。

 

加藤老はご機嫌である。だが、降りしきる雨。彼はうちのカミさんがプレゼントした「草鞋(わらじ)」をことのほか愛用していた。バスから降りてこのわらじで出ようとするから、みんなが「雨ですから・・・足が濡れるから・・・」と言うが、ガンとして聞かない。「いいんです。わたしはこのわらじで行くんです!!!」と。私にとってこの頑固さが、この旅ではだいぶ助けられていたのである。詳細は避ける。

加藤老はワイフの送ったわらじでゴキゲン。

 

きのう30日も拙宅へ加藤さんを夕飯に招いた。うちのカミさんとの3人の食事だったが、旅の思い出話で2時間ほどは爆笑に次ぐ爆笑であった。こんなボケていないおじいさんが私は好きだ。ぼけていてもお年寄りは可愛い。といいながら、私も年寄りだったことに気がついた。

 

はじめは兵馬俑の「銅車馬」。これは誰でも「銅馬車」と言い間違えるが、正しくは「銅車馬」である。ガイドでさえ間違えている。

 

この銅車馬は1980年に地下7メートルから発見された。現在の兵馬俑のある所のすぐ近くである。はじめは金と銀の塊の房(ふさ)だったという。さらに発掘を進めると、2台の銅車、8頭の銅馬と2体の御者の俑が発見されたという。

とにかく大混雑でこの撮影がギリギリだった。

 

2000年以上の時を経て破壊されていたが、2号銅車馬は1年後に、1号銅車馬は7年後に一般公開された。

これらの銅車馬は4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられている。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立っている。傘には夔龍紋あるいは夔鳳紋が描かれている。

人におされてカメラも動く、御者も動く

少しはまともな写真になった。

 

2号銅車馬は、安車または轀輬車といい、正座した御者1体が手綱を引いた。車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれている。おそらく始皇帝はこの2号車に乗っていたのだろう。

| シルクロード | 09:52 | comments(0) | - |
青海湖でノ〜〜ン〜〜ビリ

別件・わたしのトレーナーから指示されていたトレーニングをサボりまくっている私に業を煮やしたのか、ワイフがきのうからの「2人のウォーキングメモ」を「決定」してくれた。

きのうときょう、朝30分間だけ近くのウォーキング・ルートを歩いた。おまけに朝食後の午前、昼食・昼寝のあとも3時間ずつのウォーキングを義務づけられた。

 

出かけるときには北朝鮮がミサイル発射したとのニュース。その後のニュースはこれで持ち切りだが、発射されてすぐ、「頑丈な建物の中か地下に・・・」というテロップ・ニュースが繰り返し流されていた。

「日本政府は8月29日午前6時すぎ、北朝鮮からミサイルが発射された模様と全国瞬時警報システム(Jアラート)で速報した。

 

菅義偉官房長官は緊急の記者会見を開き、北朝鮮が発射したミサイルが日本の上空を通過して、襟裳岬の東の太平洋上に落下したという。「我が国の安全保障にとって重大な脅威である」と警告した」。

戦時中の竹ヤリの話を思い出した。近代兵器で武装してくる米軍におかみさん連中が竹ヤリで対抗しようというものであった。

「北朝鮮がまたひどいことを」という絶好の宣伝にはなるが、何の効果もないことは明らかだ。大切なことは、瀬戸際までの挑発ではなく、外交交渉で解決する努力に全力を挙げるべきであろう。

 

本題に戻ります。

 

朝6時にいきなり部屋のドアを拳でドンドンドンと叩く音。火事か!と驚いて飛び起きたが、電話でのモーニングコールができないので、女性スタッフがドアをたたいて回ったのだ。

これでこのホテルのグレードは「三ツ」星だそうだ。この基準は、まったく面白い。国際基準などなんのその。その街が位置している省か町が「独自」に決めているのだろう。

途中のサービスエリアの加藤さん(右・85歳)と栗原さん(左・80歳)。

うしろの看板は、四川料理の食堂という意味。

栗原さんの頭のところにある文字は、「ヤクのヨーグルト」という意味。

 

 

この日は青海湖へ行く。遊牧民のテントで昼食をとることになっているが、往復で300勸幣紊發△襦F始事情の関係でマイクロバスでは行かれないので、3台のランドローバーに分乗して出かける。

久しぶりにのこちゃんと積もる話をする。新疆シルクロード・ツアーの突然のキャンセル、そこで河西回廊・チベットの旅を持ちかけたのだから彼女も大変だったろう。

同行の仲間たちは、敦煌の次のガイドさんだと思っている方が多いのだが、彼女は、今回の私たちの旅のコーディネーターなのである。敦煌や西安の旅行会社には、すべて彼女から指令が出ている。

のこちゃんが甲斐がいしくおじいちゃんの世話を焼いています。

おじいちゃんもまんざらではない様子。

 

 

途中の休憩所や街のウォッチングを楽しむ。青海湖は久しぶり。正直言うと、私は今日の日程をあまり期待していなかった。だが、強行軍の連日の旅の中で、今日はこの旅一番の、の〜〜ん〜〜び〜りできる一日になった。

仲間たちも、のちに感想を一言ずつ話してもらうと、この青海湖が最もよかったと言う人が多かった。

標高3200メートルの青海湖を3500メートル地点から俯瞰

青海湖は世界で2番目に大きい内陸塩湖である。標高は3200メートル、湖の周囲は360kmとある。

ご多聞に漏れず、この湖も1960年代には108の河川が湖に流入していたが、2005年時点では、湖に流入する河口部の85%は干上がってしまった。湖の水位も徐々に低下しており、生態学的な危機にさらされている。原因は周辺の過剰放牧、土地の開拓、その他の自然要因と考えられる。

のこちゃんは、もうわたしの娘のようなものだ

 

過剰放牧といっても、ここは千数百年来チベット遊牧民の遊牧地。過剰ということは当てはまらない。漢人の流入と、それに伴う野放図の開拓・干拓などが真の原因であろう。

 

私たちが休息をとった遊牧民のテントは、実はというか、やはりのこちゃんの会社のスタッフの妹家族が経営しているのだという。遊牧の世界は、何かをするにしても、すべて親・兄弟・親類から集まって行動する。

モンゴルが数年にわたる遠征に行くにしても、一つの騎馬部隊の単位はなんにしても家族や係累から始まっているのである。

遊牧民のテントの中。何日も前から私たちのために用意してくれたのだろう

なにか外国製の高いテントだそうだが・・・・

この日出されたものは、ミルクティー、ナンのミルク漬け、にんじんにぶどう、ツァンパ(むぎこがしのようなもの)、ヨーグルトだった。私は乳酸菌類はダメなので・・・・・

 

ここの娘さんと息子の顔が気に入った。絶好の被写体であった。私には、青海湖の景色もそうだが、「人の顔」が最もうれしい。

まずは写真をご覧ください。

遊牧民の一家。おとうさんはヤクの放牧に行ったのか、留守だった

この娘さんは何歳だったか忘れたが、眼がきれい

笑顔も素敵だ

だいぶ毛がとれてきたヤク。

メスはヤクとは言わないそうです。牡(オス)だけヤクといいます

| シルクロード | 10:08 | comments(0) | - |
あ〜あ、座席指定よ!

きのうのブログでは、西寧の駅に着いたところまで書いた。

電車やバスの乗り方について一言。

 

飛行機もそうだが、指定席であっても何でも、彼らはとにかく気に入った席に座る。そこへ本来の客が来ると、不承不承席を移るが、断固として動かない者もいる。まっ、ほとんどは車掌の権力で移らせられるが・・・・

昔、ウルムチからトルファンへのバスに乗ったときのこと。

 

そこで教わったことは、スーツケースなどはバスの腹の「荷物入れ」に入れるが、本当に入ったかどうかを最後まで見ておかなければならない。バスの横に置いた荷物を入れる前に持っていく者がいるからである。

そのときのこと、ウイグル人の老人が乗り込んできた。一番前の座席で、おそらく息子か娘だかが一番良い席のチケットを買ってくれたのだろう。しかし、そこへ乗り込んできた酒臭い中年の漢人が、「アッ、そこは俺の席だ。おじいさん、あんたの席はあっちだよ」と、自分の座席=一番後ろの外が良く見えない座席を指さした。おそらく文盲のおじいさんは、訳が分からず後ろの席に移っていった。ひどい奴がいたものである。

 

わたしや私たちの座席にも、多くの漢人が座っていた。ここまではガイドが仕事の張クンの奮闘でようやく座ることができた。私の隣は清楚な奥様風の麗人。数十人の黒竜江からの旅行団だが、彼女は昔の清の時代の満州族の女性の服(チーパオ。これを中国服と言う人がいるが、正しくない)を着ていたが、わたしが座ろうとしたら、脚の横のスリットが大きく割れて、上の方まで見える。慌てて眼をそらせたが、その後がどうも話しかけられない。彼女は右太ももを持ちあげて下に托し込んでいた。そんな服をきてこなければいいのに〜〜〜と思った。

このときはチケットもない人が乗り込んでいた。どういうつもりなのだろうか、分からない。

このあと、きのうのこのブログと同じ場面の西寧の駅に到着。ガイドは敦煌まで帰るのだが、汽車のチケットが手に入らないと言っていた。彼にチップを900元わたした。

このあとに会ったのこちゃんにそのことを話すと、怒られた。「野口先生がチップは私に任せると言ったので、私から1000元渡してあるんですよ」と。

参加したみなさんからは1人200元のチップを預かっていたのだ。

これは昨日も使った写真。

私は、きょうのテーマに沿った写真を撮らないので、きょうはイメージ写真だけです。

| シルクロード | 04:51 | comments(0) | - |
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