シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
旅の8日目、エチナ博物館からカラホトへ

 この日の朝はゆっくり。正午にホテルを出る。まず、エチナ博物館へ、

エチナ博物館ですが、この写真は先日、掲載しましたね。であれば、間違いです。

 

 この博物館は「カラホト=黒水城」から発掘された様々な展示があるので非常に貴重なところです。

 ただし、せっかくの博物館なのに、パンフが受付の無料で配布する簡素なものしかありません。“博物館の展示を見て判断しろ”と言わんばかりです。

 惜しむらくは、この博物館は見るに値するものが数多く展示されています。館内はフラッシュをたかなければ撮影が許可されていますので、たくさん撮りました。そのいくつかをご覧ください。

コズロフが発掘した当時の写真です

貴重な発掘品です

 

 

ここまでの写真は私の撮影したものです

 

 その後、居延海へ。

 ここも私の調査不足でした。調査不足ということは、私がここをリクエストしていなかったということです。それを現地の旅行社が一方的にここを選定したわけです。そこに注意を巡らせられなかったわたしの落ち度でした。

ガイドに、居延海について説明を求めても無言。わからないのでしょう。私が「ここには何があるの?」と聞くと、答えはただ一言、「木」。だけでした。

胡楊、紅葉の頃の写真です(ここ以下の3枚はネットから借用)

 

 

 わずかに分かったことは、ここは「胡楊の樹」がたくさん茂っているところだということです。私は胡楊の樹は何度も見ているのですが、ここはあまり見るところがないのか、30分で見終えるということで自由参加にしました。

 

 胡楊の樹は俗に“生きて千年、倒れて千年、枯れて千年”と言われます。

 帰国後、ネットで見ても、どこを見ても居延海は出ていません。わずかに中国語の説明があるだけです。きっと新しく造成された観光地なのでしょう。それを自治体の観光当局や業者たちが寄ってたかって観光客誘致のための「努力をした結果」なのでしょう。

 

 さぁ〜て、やっと今回の旅の最大の目的地であるカラホトです。

 

 以前は、故城のすぐ近くにしょぼくれた受付があって、そこで入場券を買ってすぐに入場できたのですが、今は違います。背の高い城壁用の造りの壁が長く続いていて、そこから車でかなり走りました。10分くらい走ったところが黒水城です。これが日本であったなら、「そんな広い土地なんかないよ」となるのですが、そんな心配はいりません。とにかく広いのですから。

料金所から、このような光景の砂漠をかなり走って黒水城まで行きます

この3枚の写真は私の撮影ですが、いつまでこのままの姿がみられるのか

シルクロードよ永遠なれ!

以前、仏舎利塔のある故城の内庭には、何もなかったのですが、

いまは木道が敷かれ、監視カメラを見ながらの怒声が鳴り響いています。

 

 いよいよ、かつての感動に浸ろうかと思ったのですが、かつての仏舎利塔のある場内には監視カメラのアンテナがそこかしこに立ち並んでいます。さらに、監視カメラを見ているだろうと思える、だみ声の中年の男が大きなボリュームでアナウンス。「あれをするな、これをするな」と怒鳴り散らしています。まるで年末のアメ横の呼び込みのように叫んでいます。何だろうこの状況は!!

 

 40度をはるかに超える暑さ、以前のあの心地よい涼風は流れてこなかった。

 そして、中国当局は、私たちの前からシルクロードを遠いかなたに追いやってしまった、と。

 シルクロードはどこへ行ってしまったのだろう・・・・・・・

 悲しい、苦い思い出とともにこの旅は終わりました。

 

 カラホトのご報告がこんな終わり方になってしまいましたが、この実際の姿をお見せして、考えを深めたいと思いました。

 長い間、ありがとうございました。

 

| シルクロード | 02:48 | comments(0) | - |
シルクロードと宮沢賢治

 大変失礼しました。きのう掲載したブログは、本来、今日のブログのあとに掲載する予定でした。夜中の2時すぎに作業したものですから、寝ぼけて、1日、取り違えました。ここに改めて掲載します。

 長距離ドライブ途中の青空トイレを眺めていたK爺の「おしっこ独白」から、この欄が生まれました。

 

 シルクロードと宮沢賢治

 この時は、車は太陽を追って走るので、なかなか太陽が沈みません。いつまでもいつまでも太陽を追いかけて車は走ります。しかも、夕焼け空はたとえようもなく美しくわたしたちと一緒に走ってくれます。だいたい8時過ぎに太陽はついにその乱舞に終止符を打ちました。

 すると今度は星空の出番です。K爺は以前から“一度は天の川を見てみたい“と言っていました。それが、出たのです!天の川が!

賢治

 

 次の文章は、先日、7月末にこの欄に掲載したばかりですが、内モンゴルの夜空の天の川を見たばかりですので、再掲載します。ただし天の川の写真はありません。

 実は宮沢賢治の作品には、西域・シルクロードを謳ったものが多いのです。

 

 詩「奏鳴四一九」では、

 「これは吹雪が映したる/硼砂(ほうさ)嵐Rap.Nor(ロプノール。湖)の幻燈でございます/まばゆい流砂の蜃気楼でございます」と謳っています。

 

 地上の「シルクロード」に対して、天空には「天の川」いわゆる銀河があります。賢治には「シルクロード」を素材にした作品がかなりあり、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」から「シルクロード」を想い起こすことができます。童話『雁の童子』もあります。このように「銀河鉄道とシルクロード」は、たえざるハーモニーを私たちに醸し出してくれます。

 シルクロードここにあり!だと思いました。

  AMAZON から

 

 越境するイーハトーブ

 イーハトーブは東北地方に限定されず、故郷の海岸や延々と続く丘や山々を超えていきます。そして大洋の島々にまで伸び広がり、砂漠と大陸を横断し、東方と西方にまたがった理想郷へと昇華していきました。

さらに『銀河鉄道の夜』で描かれた透明な軌道を走り、はるか天空まで昇りつめ、「永久の未完成これ完成である」(『農民芸術概論綱要』)の彼方へ、永遠へと向かうのです。

イーハトーブは賢治の心の中にある理想郷だ。賢治が生まれた岩手の風土がそのモチーフになっている

 

 賢治はすさまじい精神力でイーハトーブの世界を描き続けることで、生命を燃え尽くしました。そして今、私たちは作品の中に描かれたイーハトーブによって、賢治が追い求めた夢とは何かを知るのです。

 

 「天山山脈」は、「春と修羅」において、

砕ける雲の眼路をかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげらふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ

 

 宮沢賢治と中国

 環境問題への意識がまだ普及していなかった100年ほど前、宮沢賢治はその概念を創出して昇華させ、さらに作品の主題として取り入れました。そしてそれを「イーハトーブ」と自ら呼びました。

 

 賢治のこのような、時代を先取りした意識の源は、有史以来の中華思想に深く関係しています。春秋戦国時代の「老荘思想」では人間と環境に対する関係性も説かれました。万物が混成していると主張する斉物論(せいぶつろん)は、人間と自然界における多様な生命が相互に作用して融合するという生成観を表しています。賢治はこうした老荘をはじめとする東方の賢者の知恵を融合させていたのです。

 

 賢治はその身を岩手県の郷里に置きながら、心は西域、天竺への漫遊に何度も旅立たせました。それは共に北緯40度前後に位置する岩手県とシルクロードを結ぶ心の通路であり、イーハトーブの夢を描く空間であったのです。日常生活もたびたび西域とシンクロし、時には「悟空」『春と修羅 第二集』)を呼び出して同行させたり、時には父親への手紙の中に「一躍十万八千里」(1918年2月23日)と旅の心境を表したりしてもいます。

 

 西域の古城である「高昌(こうしょう・トルファン郊外)」の遺跡の写真が宮沢賢治記念館に飾られており、「沙車(さしゃ=現在の南疆ヤルカンド(莎車)」や「亀茲(きじ)=現在のクチャ」(『小岩井農場』)などの地名もたびたび自身の作品に登場させています。彼は『西遊記』に示されている地図に沿って創作の筆を進め、西域の砂漠や上海の夜景を記しました。さらに古琴の演奏を楽しむなどして、シルクロードに通じる中国に翔(かけ)る思いを綿々と記述したのです。

 

 賢治と中国の関係はわたしたちに多くの示唆を与えてくれます。

(この文章は、王敏(ワンミン)の文章とワイフの所属していた「賢治の学校」から拝借したものを引用しています)。

| シルクロード | 03:23 | comments(0) | - |
カラホト(黒水城)を発見した探検家・コズロフ

 8日 この日は正午にホテルを出発してエチナへ。この日からは連泊です。

 ここらへんで少し長い休息をとらないと疲れがたまる一方になります。

 朝8時まで寝ました。初めての洗濯。シャワーを浴びる足元に洗濯物を置いて、洗剤を振りまき、頭や体を洗いながら足踏み。あとはこれをゆすげばOKです。

 忙しいときは、Tシャツなどは着終わったら丁寧にたたんでおいて重ねておき、次の機会にそっと下から出して着ればOK。日本と違って乾燥しているので汗臭くないから大丈夫なのです。

 

 午後、カラホトへ

 カラホトに関して記すなら、まずシルクロード探検者としてカラホトを最初に発見した、プルジェワリスキーの弟子コズロフを紹介しなければなりません。

 コズロフ(1863−1935年没)1863年、スモレンスク県生まれ。

小学校を卒業し、家計が苦しいため同県のスロボダ村にあるブドウ酒醸造工場で働く。1881年、17歳の時、スロボダ村に転居してきたプルジェワリスキーに出会う。彼の屋敷に書生として住み込む。プルジェワリスキーの助言により、実業学校に入学、卒業後モスクワの歩兵連隊に入隊。

スヴェン・ヘディンと並ぶシルクロード探検家・プルジェワリスキー

筆者が2015年、ロシアのサンクトペテルブルクで撮影

 

 

 1884年、プルジェワリスキーの第4回、1888年の第五回中央アジア遠征隊員に加えられる。

 その後、ペフツォフ隊、ロボロフスキー隊に参加。

 1896年、97年スヴェン・ヘディンとロプ・ノール論争。

スヴェン・ヘディン(1865〜1952年没)スウェーデン生まれ

 

 

★チベットの東南地方(カム)及び四川省への遠征(1899-1901)遠征隊隊長として指揮を執る。

 アルタイスカヤ―コブト―モンゴル・アルタイ―ゴビ砂漠―クク・ノール―長江上流まで。ラサを目指すが失敗する。

 記録―「モンゴリアとカム」

 1904年、イギリスのヤングハズバンドがラサ制圧。これでコズロフはモンゴルに遠征するという方向に転換する。

フランシス・ヤングハズバンド、イギリスの探検家(1663〜1942年没)

 

 

 ★モンゴルとアムドへの遠征(1907-1909)

 遠征隊隊長として指揮を執る。エッチン・ゴル(エチナ河)東部で西夏国の古城ハラ・ホト(黒水城)を探し当てる。

 記録―「モンゴリアとアムドと死の町ハラ・ホト」

 1917年ロシア革命

コズロフがカラホトを発見した際の仏舎利塔の写真

2018年8月、同じ場所で野口が撮影

探検時の光景

 

★モンゴル遠征(1923-1926)

 ウルガ(現、ウランバートル)東方のヘンテイ山麓のノイン・ウラで匈奴の200余りの古墳を発見。さらにハラ・ホトまで足をのばし、西夏国の経典、仏画など持ち帰る。

 1935年、72歳で逝去

ロシア王立地理学協会は「グレートゲーム」におけるロシア側の密偵組織でもある

ほとんど全員が軍人であった

 

※写真は野口の名前入り以外はネットから借用。

 

| シルクロード | 01:14 | comments(0) | - |
いよいよ西夏王陵からエチナのカラホトへ

 車もドライバーも交替しました。

 懐かしい西夏王陵のある場所へ到着しました。まず、西夏博物館へ。詳しくは写真をご覧ください。

ここが「西夏博物館」です

西夏といえば「西夏文字」です!

この牛さんが、ここの博物館の目玉です

 

 博物館を見てから、いよいよ西夏王陵へ行くのかと思ったのですが、ガイドは「エチナまで行くのに時間がかかるので、博物館だけ見学」とのことで西夏王陵そのものは遠望したのみ。「そんな計画ではなかった。西夏王陵そのものを見ることが大切だったのだ」と抗議する。以前撮影した写真をご覧に入れます。

これが「西夏王陵」です。私が2010年に撮影したものです

 

 今回の旅の主要な目的は、第一にカラホト(黒水城)を見ること。次の目的が「西夏王陵」を見ることでした。西夏博物館はそのための補足的な学習です。

 

 博物館を出ると、200メートルくらい向こうに王陵が見えます。ガイドは、「近くまでは行かれません」などと言って、行かない、行かれない正当な理由を述べ立てます。これは明らかに約束違反。ガイドは日本語の先生なので、あれこれ指図することは慣れているけれど、人からあれこれ言われるのは嫌いのようです。露骨にイヤな顔をします。そんなことで負けていられません。すると彼女は「エチナから帰ってきて、時間があったら行きましょう」といいます。

 

 800km、11時間の行程なので、帰りに行かれるわけがないのを見越して言うのです。意図は分かったのですが、この先800kmを行くわけですから、これ以上言っていても到着が遅くなるだけです。あきらめました。

 

 エチナへ

 800kmの行程を200kmほど行ったところでバスは止まりました。情報を集めると、昨今の豪雨で道路が壊れていて走れない、ということです。「料金所の職員も知らなかった」と言いますが、最低限、職員はそれくらい知っていて情報を流すのが仕事なのではないでしょうか。要するにそれくらいの情報も集められない技術水準だし、そのような方策も考えていないということなのでしょう。

 

 車はUターン。同じ道を戻って別の高速道路で行くことになりました。

 距離を合計すると約1350km。予定より550kmも延びました。東京から熊本辺りまでの距離になるでしょうか。 

 途中にレストランもないということで、ガイドはカップ麺と冷たい水を買い込んできました。冷たい水とはいっても時間がたてば暖かくなるんですから・・・

 結局エチナに着いたのは午前1時半。合計16時間半かかりました。

まさに「地平線」です。寝てしまってまた目が覚めても変わらぬ風景

空!!!

料金所にもモンゴル文字が表れました

 

 長距離なので途中のトイレにも神経を使いました。1時間か1時間半に1度はトイレ休憩です。その代わりいつものように、ゆったりのんびりのトイレ休憩はできません。素早く行動しなければなりません。また、男はどうでもいいのですが、女性は困ります。ガイドは「傘を使って」といいますが、そうもいかない場合もあります。

| シルクロード | 05:14 | comments(0) | - |
寧夏回族自治区の銀川へ、そして賀覧山の岩画、まがい物の展示場へ

 汽車は夜行寝台で銀川へ向かう。我々みんな「魔の上海空港事件」の再来を危惧して、乗り遅れないように神経質に乗車しました。案内のスタッフの女性に、何度も「乗車時間になったら教えてちょうだい」とお願いしておいたのですが、その時間になると、やはり知らんぷりでした。出発の遅れは30分以上。

 

 H田さんだけ4人コンパートメントから外れて隣の漢人たちの部屋に移りました。漢語も多少できるのと、なぜか1人が好みのように思えましたので、私は「替わろう」とは言わなかったのです。S山氏は痛風とのことで酒は飲まないので相手はK爺だけ。しかし、早くに寝てしまったので、1人で手酌をと思ったのですが、T女史がビールをつき合ってくれました。やはり古くからの友達です。車内販売の温かいビールで・・・・

 寝台で1時ころ寝て、6時半に目覚める。

 

 6日朝、2時間遅れで銀川(ぎんせん)駅に到着。

 小太りのがっちりした体格の女性ガイドが出迎えてくれました。ガイド関係の学校で日本語を教えているとのこと。初対面早々に「ずいぶん遅かったですね〜〜」と文句。汽車が遅れたのは私のせいではありません!

 今度は以前の狭い車から14人乗りのマイクロバスに。

 

 そのまま銀川から北西60キロくらいにある「賀覧山の岩画」を見に行きました。ここはもう、寧夏回族自治区です。

 

 寧夏回族自治区は黄河中流域とゴビ灘(砂礫砂漠)と黄土高原が交わるところにあります。人口は620万人、そのうち回族は3分の1を占めており、中国では最大の回族密集地帯となっています(銀川で入手したパンフから引用)。

 

 ここの岩画は賀覧山の山麓の両側に約600メートルにわたって1000以上の画が彫られています。観光客用に木道が敷かれています

 岩画の多くは春秋戦国時代(紀元前770〜221年)に北方から来た騎馬遊牧民によって彫られ、その後も西夏の時代から、西夏が元によって滅亡させられるまで彫られ続けてきたとあります。

岩画の数々です

 

自撮りではありませんよ

 

  このような岩画は、中央アジア。キルギスのチョルポンアタ岩画博物館があります。ここは何度も行っているのですが、近年になってドイツの科学者集団が古くからの岩画を長く残すためだということで、なにやら薬品をかけたそうで、その失敗の跡が無残に残っていました。

これが中央アジア。キルギスのチョルポンアタ野外岩画博物館の岩画

スキタイがユキヒョウをつかって「マルコポーロ・シープ」を狩猟している図です

 

  また、河西回廊をハミに到達する手前にも同様の岩画を見たことがあります。残念なことに、それらに関する説明やパンフレットが存在しないことです。どこかにはあるのでしょうが・・・・

  いずれも観光客招致に忙しく、そこまで頭がまわらないのかもわかりませんが、この傾向はどこの観光地でも同様です。

 

 

 どのような岩画があるかというと、人面像のほかに動物画、当時の人と動物・家畜との生活が描かれています。中には岩画の横に西夏文字が彫られており、説明文によると「繁栄」という意味のようです。北方騎馬民の記録が岩に描かれている貴重な岩画となっています。

 岩画を見てから出発前にトイレに行きました。2〜3分で出てくると外は大雨。豪雨です。

旅の心得は、トイレがあるところでは必ず用を足しておくこと、です。

 

 岩画から車に戻ると車内は煙草の煙とにおいが充満。ドライバーにはガイドを通して車内でタバコを吸わないようにと伝えると、典型的な“ふくれっ面”。

 これはこの先が思いやられるなと思ったので、ガイドさんと相談。明日から別の車とドライバーに交替してもらうように話す。

 

 そのガイドはというと、いろいろこまごまとしたことは言うのですが、自身は助手席に座ってスマホにかじりついたままです。いえ、これは彼女がサボっているという意味ではなく、仕事の相談ごとのようです。

 

 この後のコースの時間配分、所属する会社との打ち合わせなどなど。しかし、賀覧山と岩画の紹介やこれからの日程などのアナウンスはありません。特筆して注意したことは、助手席に座っていても、あの中国人女性特有の頭から突き抜けるようなカン高い音声で会話します。そのボリュームは並外れて大きいのです。さすがにそれには「もう少し小さい声で話してくれ」と注意しました。

 

 しかし、彼女は教師です。生徒に教えたり指示することには慣れていても、人から支持されるなどという習慣がないようです。軽く私をにらみつけます。この辺の駆け引きは慣れていますから、ときには恫喝まがいの言い方をしたり、ときには“お願い”を強調してみたり・・・世話がやけます。

 

 ドライバーと車を替えること=中国では客の乗る車は多くの場合、ドライバーの持ち込みです。TOYOTAのマイクロですから、日本で1千万円とすると関税が高いですから、こちらでは2千万円するでしょう。ドライバーだけ替えるということはできません。

 

 その次には、出発前、自分のあまりの忙しさでよく注意していなかったのですが「水洞溝区」というところへ向かいました。

 パンフによると、ここは旧石器時代の「遺跡」ですが、発掘されたものもあるようですが、多くは、観光用に造られたものもあるようでした。それと「万里の長城」を併せ持ったということが特徴とか、なんだかよくわからないところでした。

 

 私自身は、出発3日前まで北九州の沖ノ島・宗像神社関連施設群の研究旅行をしていて、あまり印象に残っていなかったのです。「水洞溝区」についてガイドに聞いても夏休みのアルバイトなのか、自分でもあまりよくわからないようです。そのようなときは、話を違うところに持っていくのが彼ら彼女らの特徴だということもよくわかりました。決して、「わかりません」とは言わないのです。

 

 

 

| シルクロード | 09:23 | comments(0) | - |
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