シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
青海湖でノ〜〜ン〜〜ビリ

別件・わたしのトレーナーから指示されていたトレーニングをサボりまくっている私に業を煮やしたのか、ワイフがきのうからの「2人のウォーキングメモ」を「決定」してくれた。

きのうときょう、朝30分間だけ近くのウォーキング・ルートを歩いた。おまけに朝食後の午前、昼食・昼寝のあとも3時間ずつのウォーキングを義務づけられた。

 

出かけるときには北朝鮮がミサイル発射したとのニュース。その後のニュースはこれで持ち切りだが、発射されてすぐ、「頑丈な建物の中か地下に・・・」というテロップ・ニュースが繰り返し流されていた。

「日本政府は8月29日午前6時すぎ、北朝鮮からミサイルが発射された模様と全国瞬時警報システム(Jアラート)で速報した。

 

菅義偉官房長官は緊急の記者会見を開き、北朝鮮が発射したミサイルが日本の上空を通過して、襟裳岬の東の太平洋上に落下したという。「我が国の安全保障にとって重大な脅威である」と警告した」。

戦時中の竹ヤリの話を思い出した。近代兵器で武装してくる米軍におかみさん連中が竹ヤリで対抗しようというものであった。

「北朝鮮がまたひどいことを」という絶好の宣伝にはなるが、何の効果もないことは明らかだ。大切なことは、瀬戸際までの挑発ではなく、外交交渉で解決する努力に全力を挙げるべきであろう。

 

本題に戻ります。

 

朝6時にいきなり部屋のドアを拳でドンドンドンと叩く音。火事か!と驚いて飛び起きたが、電話でのモーニングコールができないので、女性スタッフがドアをたたいて回ったのだ。

これでこのホテルのグレードは「三ツ」星だそうだ。この基準は、まったく面白い。国際基準などなんのその。その街が位置している省か町が「独自」に決めているのだろう。

途中のサービスエリアの加藤さん(右・85歳)と栗原さん(左・80歳)。

うしろの看板は、四川料理の食堂という意味。

栗原さんの頭のところにある文字は、「ヤクのヨーグルト」という意味。

 

 

この日は青海湖へ行く。遊牧民のテントで昼食をとることになっているが、往復で300勸幣紊發△襦F始事情の関係でマイクロバスでは行かれないので、3台のランドローバーに分乗して出かける。

久しぶりにのこちゃんと積もる話をする。新疆シルクロード・ツアーの突然のキャンセル、そこで河西回廊・チベットの旅を持ちかけたのだから彼女も大変だったろう。

同行の仲間たちは、敦煌の次のガイドさんだと思っている方が多いのだが、彼女は、今回の私たちの旅のコーディネーターなのである。敦煌や西安の旅行会社には、すべて彼女から指令が出ている。

のこちゃんが甲斐がいしくおじいちゃんの世話を焼いています。

おじいちゃんもまんざらではない様子。

 

 

途中の休憩所や街のウォッチングを楽しむ。青海湖は久しぶり。正直言うと、私は今日の日程をあまり期待していなかった。だが、強行軍の連日の旅の中で、今日はこの旅一番の、の〜〜ん〜〜び〜りできる一日になった。

仲間たちも、のちに感想を一言ずつ話してもらうと、この青海湖が最もよかったと言う人が多かった。

標高3200メートルの青海湖を3500メートル地点から俯瞰

青海湖は世界で2番目に大きい内陸塩湖である。標高は3200メートル、湖の周囲は360kmとある。

ご多聞に漏れず、この湖も1960年代には108の河川が湖に流入していたが、2005年時点では、湖に流入する河口部の85%は干上がってしまった。湖の水位も徐々に低下しており、生態学的な危機にさらされている。原因は周辺の過剰放牧、土地の開拓、その他の自然要因と考えられる。

のこちゃんは、もうわたしの娘のようなものだ

 

過剰放牧といっても、ここは千数百年来チベット遊牧民の遊牧地。過剰ということは当てはまらない。漢人の流入と、それに伴う野放図の開拓・干拓などが真の原因であろう。

 

私たちが休息をとった遊牧民のテントは、実はというか、やはりのこちゃんの会社のスタッフの妹家族が経営しているのだという。遊牧の世界は、何かをするにしても、すべて親・兄弟・親類から集まって行動する。

モンゴルが数年にわたる遠征に行くにしても、一つの騎馬部隊の単位はなんにしても家族や係累から始まっているのである。

遊牧民のテントの中。何日も前から私たちのために用意してくれたのだろう

なにか外国製の高いテントだそうだが・・・・

この日出されたものは、ミルクティー、ナンのミルク漬け、にんじんにぶどう、ツァンパ(むぎこがしのようなもの)、ヨーグルトだった。私は乳酸菌類はダメなので・・・・・

 

ここの娘さんと息子の顔が気に入った。絶好の被写体であった。私には、青海湖の景色もそうだが、「人の顔」が最もうれしい。

まずは写真をご覧ください。

遊牧民の一家。おとうさんはヤクの放牧に行ったのか、留守だった

この娘さんは何歳だったか忘れたが、眼がきれい

笑顔も素敵だ

だいぶ毛がとれてきたヤク。

メスはヤクとは言わないそうです。牡(オス)だけヤクといいます

| シルクロード | 10:08 | comments(0) | - |
あ〜あ、座席指定よ!

きのうのブログでは、西寧の駅に着いたところまで書いた。

電車やバスの乗り方について一言。

 

飛行機もそうだが、指定席であっても何でも、彼らはとにかく気に入った席に座る。そこへ本来の客が来ると、不承不承席を移るが、断固として動かない者もいる。まっ、ほとんどは車掌の権力で移らせられるが・・・・

昔、ウルムチからトルファンへのバスに乗ったときのこと。

 

そこで教わったことは、スーツケースなどはバスの腹の「荷物入れ」に入れるが、本当に入ったかどうかを最後まで見ておかなければならない。バスの横に置いた荷物を入れる前に持っていく者がいるからである。

そのときのこと、ウイグル人の老人が乗り込んできた。一番前の座席で、おそらく息子か娘だかが一番良い席のチケットを買ってくれたのだろう。しかし、そこへ乗り込んできた酒臭い中年の漢人が、「アッ、そこは俺の席だ。おじいさん、あんたの席はあっちだよ」と、自分の座席=一番後ろの外が良く見えない座席を指さした。おそらく文盲のおじいさんは、訳が分からず後ろの席に移っていった。ひどい奴がいたものである。

 

わたしや私たちの座席にも、多くの漢人が座っていた。ここまではガイドが仕事の張クンの奮闘でようやく座ることができた。私の隣は清楚な奥様風の麗人。数十人の黒竜江からの旅行団だが、彼女は昔の清の時代の満州族の女性の服(チーパオ。これを中国服と言う人がいるが、正しくない)を着ていたが、わたしが座ろうとしたら、脚の横のスリットが大きく割れて、上の方まで見える。慌てて眼をそらせたが、その後がどうも話しかけられない。彼女は右太ももを持ちあげて下に托し込んでいた。そんな服をきてこなければいいのに〜〜〜と思った。

このときはチケットもない人が乗り込んでいた。どういうつもりなのだろうか、分からない。

このあと、きのうのこのブログと同じ場面の西寧の駅に到着。ガイドは敦煌まで帰るのだが、汽車のチケットが手に入らないと言っていた。彼にチップを900元わたした。

このあとに会ったのこちゃんにそのことを話すと、怒られた。「野口先生がチップは私に任せると言ったので、私から1000元渡してあるんですよ」と。

参加したみなさんからは1人200元のチップを預かっていたのだ。

これは昨日も使った写真。

私は、きょうのテーマに沿った写真を撮らないので、きょうはイメージ写真だけです。

| シルクロード | 04:51 | comments(0) | - |
麦積山石窟寺院あれこれ

麦積山(ばくせきさん)石窟寺院は蘭州市から東へ300kmの天水市にある。

さあ〜、これからあの山を登るぞ〜〜。見上げると天まで続く階段。

 

300劼歪垢ぁこの日はこの麦積山石窟だけの行動。ほとんどが車の旅になる。

天水市は人口が350万人。甘粛省2番目の街である。というよりも蘭州と西安の中間に位置していると言ったほうが分かりやすい。

 

記録によると1941年には日本海軍航空隊の空襲を受けて中国側の航空機に甚大な損害を与えたという。1985年に「天水市」になった。そして秦嶺山脈西端にあり、1952年に発見されたという。

これで少しは高度感が出たでしょう

 

そしてここは、前漢の武帝が匈奴とのたたかいに派遣した李広生誕の地。

李広は前漢の時代に天水で生まれた名将。
幼い頃から武芸に秀で、長じてからは匈奴に≪漢の飛将軍≫と呼ばれて恐れられた人物だった。ところが最後には匈奴の戦いで後方軍に回された挙句、道に迷って戦いに遅れたことから総司令官の衛青将軍に責任を追及されて自刃させられた悲劇の将軍と言われている。ここにある陵墓には李広の衣冠が納められているという。いずれも中華の考え方からのそれである。それを知ったのは私の帰国後のこと。

 

そしてなにか、天から水が落ちてきたという伝説もあるが、これは迷信・伝説の類で興味はない

 

 

長途のドライブのあと麦積山石窟寺院に着いた。

ここは写真でもお分かりのように急な坂道や階段が天まで上っているので、80歳以上のお2人は「棄権」。85歳の加藤老は我がワイフがプレゼントした「わらじ」を履いてご機嫌である。

 

石質は礫岩で東崖と西崖に分れている。北魏、西魏,北周,隋,唐,宋,明代に続営された194の窟龕が現在知られている。

東崖の涅槃窟,千仏廊,西崖の万仏洞,天堂洞,第 127洞などは北魏の開削で、塑像,石像,壁画などにすぐれたものがみられるが,隋,唐代にも栄えたと考えられる。

森の光景を写したかったんですが、このきれいな女性の犢盻蟠寡歉”ぶりが素敵だったので・・・・

 

ちょっと文章を拝借。

 

中国、甘粛(かんしゅく)省天水県の南東45キロメートルにある石窟寺院。 この山の名は、麦藁(むぎわら)を積み重ねたような山容に由来するが、『高僧伝』中にもみえ、420年ごろにはすでに300人もの僧が常住していたことを伝えている。北魏時代に開かれた石窟や仏龕(がん)が多く、その後、西魏、北周、隋(ずい)、唐、宋(そう)と造営が続けられた。

石窟は、山の南面の中央に崩壊した箇所があり、これを境にして東崖と西崖に二分される。現存の石窟と摩崖(まがい)仏は東西で194を数え、窟内には仏像や壁画、天井画が残っている。

東崖では、第1号涅槃(ねはん)窟、第3号千仏廊、第4号散花楼上の七仏閣、第5号牛児堂(ぎゅうじどう)洞、第13号摩崖大仏など、西崖では、第98号摩崖大仏、第133号万仏堂(ばんぶつどう)洞、第135号天堂洞などが著名で、これらの石窟は、そそり立つ断崖に幾重にもつくられた桟道によって互いに連絡している。

彫像には石像、塑像、石胎(せきたい)塑像があり、いずれも陝甘(せんかん)地域の様式を踏んだ彫りの浅い造形に特色がみえ、壁面に描かれた仏伝図など中国美術史の宝庫として注目される。[吉村 怜]
『名取洋之助著『麦積山石窟』(1979・岩波書店)』出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について |

 

 

麦積山石窟については、いずれ時間をかけてご紹介したい。だいたい、こんなことを言うとできないままに終わるものだが、今回はなぜかやらなければと思っている。高額な写真付きの書籍も買ったことだし・・・・・

麦積山石窟のママさんガイドさん。もう今では競争率も激しいので、かなりの知識を持っていないと就職できないそうです。しかし、どういうことか外国語のガイドはいないとのこと。

 

夜、ホテルに帰ってきてWiFiをセットしてもらってスマホの電話をみると、よく知っている女性の友人から留守電。彼女に直接電話すると、私の無二の親友Aが危篤状態とのこと。携帯に電話してもメールをしても出ない。固定電話はずっと通話中とのこと。

 

4〜5年前、うちの奥さんが東北へ「鎮魂の踊り」で1カ月ほど出掛けた時のマネージャー役の女性も同様の状態で亡くなっていたことがある。だから「死んでいるかもしれない」と直感した。

 

いま私は、全国各地の友人たちとスポーツ関係の交流組織の事務局長として活動している。その発信元は私だが、かれが私の文章をメールで発信・ニュースを作成・発信するなどしてくれている。夜中の2時3時にも電話で相談し、あるいは論争もする50年以上の付き合いのある親友である。心配で寝られなかったが、ここ中国ではどうしようもない。

2週間後の現在の症状は、強度の熱中症と過労と糖尿病が原因だといわれている。まだ、面会謝絶だ。

下の街へ出ると、こんなノンビリした光景も・・・・・・

| シルクロード | 09:25 | comments(0) | - |
炳霊寺の麗しき漢語ガイド−6

実は旅の前から、きのう22日にスポーツ分野の大きなイベントがあったのです、帰国直後から最終準備をしていました。留守中は2人の仲間にお願いしてあったのですが、1人は極度の熱中症で生死の境をさ迷う重病になり、今でも集中治療室。もう1人の比較的若い仲間は、やはり経験不足でほとんど進展していませんでした。

かくいう私も旅の疲れは撮れたものの、精神的な疲れが取れないでいて、呆けていました。気合を入れた準備は、実は昨日の当日になってからでした。

しかし、つどいはかつてない盛り上がりで大成功・大盛況。気分も良くなって日本酒をたくさん飲みました。隣に座った都議は「野口さん、浴びるように飲んでいましたね」と。

青海省で買った「ヤクの干し肉」は大好評で「家に持って帰って妻に食べさせます」という方もいました。

 

炳霊寺の麗しき漢語ガイド−6

8月9日は炳霊寺石窟寺院へ。この旅で初めて朝9時にホテル出発。強行軍の毎日だったので助かる。炳霊寺石窟までマイクロバスで3時間。

今回の旅では、走行距離は3千劼砲發覆辰燭曚鼻⊆屬領垢多かった。私は車好きだから楽しかったが、そうでもない人はつらかっただろうと思う。しかし、それに不満を言う人はいなかった。

ボート乗り場が近くなって、今回の乗船時間は2時間でなく30分ほど。着いてから船着き場の船の中で昼食。レストランになっているのだ。多角経営。

この船が船着き場を兼ねたレストランになっています。

 

 

ここで85歳の加藤さんは、山椒の塊を口にしてむせて、息が止まるほど苦しがっていた。かなり歩くのでここで休息するように進言する。

炳霊寺石窟

「炳霊(へいれい)」とはチベット語の訳で「十万仏」の意味。全長2Kmの石窟回廊は、五胡十六国時代の西秦から隋、唐、明、清までの各時代に造営された。
 特に重要なのは、魏(220〜265
年)、晋(265〜420年)の時期である。岩壁には190あまりの石窟があり、大小700体近くの仏像が残されている。中でも最も有名なものは、171龕の唐代の大仏である。 

最も古い仏は、壁に「西秦建弘元年」(420年)と記されている第169窟。これは、ジグザグとした梯子を昇り継ぎ、てっぺんにある。拝観料がべらぼうに高額で、写真を撮るのも禁止。今回は特別料金を払っていないのと、修復作業中で入れない。良かったのか、残念だったのか・・・・・

階段を上ると特別料金のかかる窟になります。

 

 

石窟寺院のある劉家峡ダムは、1974年に完成した中国最大級の発電所の一つ。さらに春に黄河の雪解け水をため、夏の渇水期に下流に放流して、灌漑に利用する。このため、このダムの下になった広大な地域の農民は強制的に移住させられた。

モーターボートからみた風景。

 

石窟の上部には、素晴らしい壁画も残されており、階段と桟道から観光できるようになっている。険しい峡谷の中腹に石窟があり「偶像禁止」のイスラム教徒による破壊や外国人探検家による持ち出しを逃れたため、貴重な仏像が多く残されている。

「偶像禁止」は仏教国にある私たち日本人やキリスト教国の市民には理解しにくいことだろう。だが、逆も真なり。イスラム教の人たちにとっては、なぜ、偶像を掲げるのか理解しにくいことでもあろう。だから、偶像を破壊したことが、即=悪ではない、のである。イスラム教にとっては、それこそが正義であり「真実」なのである。ここのところの理解がないと、“まるでイスラムは悪の集団”となってしまう。これは現在にも通じること。

世界で二番目に世界遺産の多い中国。

若い女性のガイドの麗しき漢語

この日のガイドは漢語のガイド。かなりの研究家のようで、石窟の仏像類を詳しく説明してくれた。とりわけ彼女の口から発する漢語の普通語=北京語が、とても美しい。聞いていてほれぼれするような美しさである。

下手な日本語の敦煌のガイドの張クンも、「野口先生、彼女の中国語はほんとうに美しいですね〜」と感嘆しきり(今回はなぜか彼女の写真は写していなかった)。

私は50年以上昔の漢語。いつだったか、誰かから「野口さんの中国語は日本でいうと明治時代の言葉のようですね」といわれてギャフンとしたことがある。50年という月日は、言葉をもそうさせてしまうのかと思ったものである。

 

 

第171龕の唐代の大仏。以前は見ることができなかった大仏である

| シルクロード | 10:16 | comments(0) | - |
初見参!榆林窟−2

林窟」は敦煌から車で2時間くらいのところにあります。

ここも敦煌の一部をなしていると聞きます。

“こんなに離れていても敦煌の一部か”と思いましたが、行ってみてここが敦煌の一部だということがよく理解できました。

 

ここの発掘作業も分析もガイド(解説員)も何もかも「敦煌研究院」が把握・運営・研究しています。

まだまだ発掘過程で、観光客も少なく、とてもいい雰囲気で歩くことができました。

入場料金を払うところも、チャンチキの机(四本脚の長さが長短あるという江戸言葉)にスタッフが粗末な椅子に座っています。

 

解説員は上手な日本語でした。ただ「チベット密教」という言葉を繰り返すので、「今は国際的にも“チベット密教”とは言わないで“チベット仏教”というようになっているんだよ」と言っておきました。

見ることができた窟は、13,14,15,19,26,27,43。

仏教と道教が同居している壁画もありますが、とりわけすばらしいものが「飛天」の図=絵です。

この窟はいずれかの機会にご紹介します。

 

ただし、どういうことか、ここ林窟の写真と「陽関」の写真が見当たりません。せっかく心を込めて撮影したのですが、間違えて削除してしまったようです。初めて行った林窟の写真をなくしてしまうという失態に愕然としています。

河の向こう側は、まだ発掘中で見ることはできません。しかし、

同行の85歳になる加藤さんは「30年くらい前に、当時、成城大学の

先生に案内されていったことがある」といい、解説員が驚いていました。

 

 

余談になりますが、同行の士には元朝日の報道写真部の方で、いまはプロカメラマンという80歳の方がいるのですが、“彼は彼、私は私”という気持ちで接していました。そのKさんは昨年、某旅行会社のウズベキスタンツアーに行って、同じ新聞社出身のIさん(その方はわたしの友人で同じ市内に住んでいる人。彼の奥さんは日本シルクロード文化センターの副代表を務めていた人なのですが・・・)の講師で行ったのですが、“もうあのツアーには行きたくない。インターネットで野口さんの著書を知って読んで、こんどからは野口さんのツアーに行くことにしました”と勝手に決めて宮崎県から参加した方がいました。不破になった原因が、“あのツアー”の側に原因があったのか、彼にあったのかは次第に分かってきましたが・・・そのことはここまで。

 

解説員に「この榆林窟こはホームページもない、紹介するパンフや写真集もない。私が日本へ帰るまでにはつくっておくようにしなさい」と。半ば冗談のように言っておきました。

ですから、今日の写真はインターネットからの借用です。

| シルクロード | 10:48 | comments(0) | - |
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