シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
史君墓を見た!そして旅が終わった。

「西安市博物館」

 

 私は今までここには一度も来たことがなかった。昔の長安の都を観光するには1週間以上かかるとよく言われるが、まったくそうだということに気が付いた。西安市博物館には率直に言って私はあまり期待していなかった。それはほかの有名な博物館を希望していたのだが、そこが休館なのでしかたなく選んだところだったからだ。しかし、それは私がいかに浅学菲才であるかが暴露された一瞬だった。

 

唐三彩

 博物館で私が最初に喜んだのは「唐三彩」が見えたことだった。

唐三彩(とうさんさい)は唐代の鉛釉を施した陶器で、主として副葬用に制作された。いわゆる唐三彩は唐代の陶器の上の釉薬(ゆうやく)「の色を指し、後に唐代の彩陶(上絵を施した陶器)を総称する語として使われるようになった。唐代の陶器の釉薬の色は非常に多く、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫などがある。中でもクリーム色・緑・白の三色の組み合わせ、或いは緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせを主としていることから三彩と称されている。

 

 この唐三彩は以前から各地で眼にしていたが、やはり違う!すばらしいものだった。

 

史君墓

これが史君墓です

 

 調べたが日本語の書籍に史君墓を説明するものは見当たらなかった。

史君墓の「説明書き」を撮影したので、それを直訳してみたい。

この写真だけがインターネットです

 

「史君墓は北周の時代(557〜581年)現在の西安市の東で2003年6月に発掘された。この石類には文字が記載されており、墓の主の姓は史、北周の涼州(現在の河西回廊の武威周辺にあった)の薩保(一種のキャラバン隊を率いるグループ)の指導者であった。石の棺は580年に造られ、墓室の中央は長さが246センチ、幅155センチ、高さ158センチである。彼の名前は、封和突といい29歳だった。墓の底は・・・・・・以下略」。

中国のインターネットとは若干違うが仕方がない。

 

長安の城壁

 城壁へ行った。ここの観光で今回の河西回廊・チベットの旅が終わりである。

城壁は何度目かであるが、加藤老が100段近くの石段を上がるのに時間を費やした。加藤さんはゆっくりゆっくり階段を上って登り切った。やっと上がったがガイドがいない。かれは先に上った元気な3人だけを案内してずっと先を歩いている。私は彼をしかりつけた。「君は9人のツアーのうち3人だけをガイドすればいいと思っているのかっ!」と。

これは7枚の通りではありません。西門の上の城壁です

木の陰で見にくいですが、ここから遥か西域へ出発します

実に広い

これが西門の城壁です

 

 それは置いといても、やはり城壁は大きい。

西安の城壁は東西南北にあるが、現在の特徴としては、

北門は、遊牧民が来る。

東門は、交易の人が来る。

南門は、つり橋などがあるので外国人が来る。

西門は、日本人が来る、とガイドは説明していた。

 

 翌日は4時半に起きて朝早い飛行機で上海へ、そして羽田へ。

これで河西回廊・青海チベットの旅は終わりである。

疲れた。今回は私の「年齢」の笠張りを特に感じた旅であった。

とりあえずの旅の報告はこれで終わりです。

 

 以前にこのブログで連載した河西回廊の説明と併せてご覧いただければ理解が深まると思いますが、そんなヒマな方はおられないと思います。

いずれ、何らかの形でまとめてご報告したいと思います。

長い間、ありがとうございました。

                   野口

| シルクロード | 11:01 | comments(0) | - |
「成長しましたネ」 大慈恩寺・大雁塔

  兵馬俑のあと大雁塔に行く。希望者は塔の上に登っていった。

  私は何度も登っていたので、広場で中国人観光客のウォッチング。大慈恩寺・大雁塔である。塔は現在の西安の東南郊外の慈恩寺境内にある。

大雁塔入り口辺りにあるレストラン


5年前はなかった、一見、お寺の門のようにつくられている正体不明の門

マックのような店

 

 慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝の高宗李治が、亡くなった母・文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に建てられた。当時の慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていた。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎないという。現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけだが、塔の前方には明代と清代の建物が残っている。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されている。

講堂前の「大雄宝殿」には釈迦如来の三身仏と十八羅漢がある。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金(メッキ)をし、塗装して現在に至っている。

 

塔の東南に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が8基ある。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられている。

シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの求法の旅を終え、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った唐の高僧玄奘三蔵は、慈恩寺が訳経をするには最適の寺として、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願い出た。高宗は玄奘の願いを適(かな)え、玄奘の建議によってインドの塔婆を真似て、五層の塔を建てた。これが652年のことであった。

大雁塔は、はるかなり!

 

この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米で、内部を土で築き、外面に煉瓦を積んだ。塔が1日でも早く出来あがるように、玄奘は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられている。塔が竣功してから、玄奘の持ち返った仏像などがその中に安置された。そして、玄奘は慈恩寺を訳経院とし、約11年間にわたって経典の翻訳を続けたのである。

 

これが昔から建っている大雁塔です

 

 

 大雁塔は則天武后の長安年間(701〜704)に大改造を行って十層になったが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊した。現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は人と漸くすれ違うことができるほどの幅だが、最上階まで登ることができ、西安の街並みが展望できる。また、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いている。塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑がある。碑文の内容は玄奘三蔵の労苦を称えたものである。

 唐の下部の東西南北にそれぞれ石門の上に横木が一本ずつある。南の石門の横木を潜ると、中央広間の回廊の南側の石碑の上に科挙の合格者の名前と出身地が刻まれている。他の石門の横木にはそれぞれ精巧な線刻の仏像と天王像があり、特に西側の石門の横木に陰刻した釈迦説法図と殿堂図は圧巻である。五門単層四柱造りの仏殿が拓本取りで真っ黒になっているが、陰刻された鴟尾や屋根などの状況は鮮明である。

この仏殿図は日本の奈良〜平安時代の木造建築の原形となっただけでなく、中国建築市場でも唐代の建築様式、絵画、彫刻芸術を伝える重要な文化財になっている。

大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に2度見舞われているが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せている。

しあわせ家族

 

 と、以上は前回、河西回廊の旅をしたときの5年前の私の文章である。

だが今回の旅でまたまた驚いた。5年前の時にも、あまりの変わりように驚いたものだが、今回はそれからまたさらに変わっているのである。大雁塔塔そのものは変わってはいないが、それ以外はほとんど変わっている。広い広場もなくなっている。狭くなったわけではないが、無くなっている。説明もしたくないので、皆さん、実際に行ってみればいいです。

お仕事の休憩時間のようです

何をしているのか・・・・・・

せっかく金をかけて造ったモノレールは、賄賂のためにどこかの寸法が寸足らず。

結局、動かないモノレールです。

 

| シルクロードの光と影 | 09:17 | comments(0) | - |
兵馬俑―2

 第1の方形陣営は弩兵陣営で曲形陣営の先端に位置し、230以上の弓弩手を持っている。その内甲冑を着た160余の重装備の跪射兵(きしゃへい)は陣営の中心に列に並び、その外側に170余りの戦闘服を着た軽装立射手が周りを囲んでいる。こうして敵に挑む時この二種の姿勢で射撃でき『百発不休止』、矢が雨の如く降り、敵に一歩も近寄らせない。

かなり身分の高かった兵士だという説明がある

 

 第2の小陣営は曲形陣営の右側で64台の戦車から成り、全ての戦車に1人の御者と2人の甲冑兵で構成され、歩兵は含まず、行進のスピードが速く、突破能力に優れていた為、当時の戦場では敵のド肝を抜いた軽戦車軍である。

 

 第3の小陣営は曲形陣営の中部にあり、戦車、歩兵、騎兵の混合編制でそれは19台の戦車を主戦力とし、260余の歩兵を補助とし、8騎の騎兵隊が後方を防衛し、特殊な役割を持っている。

 

 最後の第4陣営は曲形陣営の左側の騎馬兵陣営である。108の主要騎馬隊と6台の戦車で編制されている。この騎馬兵は強固な肉体を持ち、頭に皮の帽子をかぶり、皮の靴を履き、短い甲冑を付け、片手に弓を、片手に手綱を持ち、あか抜けして、戦馬も強くがっしりとしている。このような騎兵がいったん戦場に投入されると、電光の如くすばやく、風のように動き、雷の如く強く対決するであろうといわれている。

 

3号坑は【凹】字型をしていて発掘されたつの兵馬俑坑の中で一番小さい。兵俑66体、馬俑4体、戦車1台と兵馬俑の数も少ないが三つの兵馬俑坑の中で一番重要な役目をしていた。それはこの3号坑が全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部)であったためだ。

秦の兵馬俑坑は秦軍の縮小図であり、戦車や騎馬隊の千里にもおよぶ勝利の行進は又、固く守られた指揮中枢をも備えている。それは2200年前の古代帝国軍を今の世に甦らせている。

兵馬俑から始皇帝陵辺りまでを俯瞰した概略図


 秦の兵馬俑は当時の強大な秦大軍隊を再現しているだけでなく、軍陣の編列、兵器配列、及び戦略思想等を型象的な実物資料として呈している

 

3号坑は、始皇帝を、あるいは始皇帝の墓を守る儀礼兵と作戦司令官のために作られた俑と兵馬の人形であるだが、兵士の前に司令官はいない。司令官は始皇帝だから後ろから命令を下しているのだという。3号坑は2種類ある。弓兵と戦車である。戦車というのは馬に引かせた馬車に兵士が乗って闘いの先頭を走り、敵を打ち砕く役割を持っている。それを戦車という。戦闘は、主に歩兵、弩(ど)兵と射兵が戦う。

当時の馬はかなり小さく、兵士より背の低い馬が多かったようだ。だから漢の時代になって武帝は西域に強く大きく、持久力のある汗血馬を求めたのである。

同じ種類の概略図

 

 3号坑では土に埋められて姿を現していないモノが多々ある。空気に触れると原色が損なわれるということだが、“まだ始皇帝の魂が残っている”とみなされていることもあるようだ。

この俑は、まだ完全に地中から出てない

 

 この兵馬俑は当時の秦の製造技術の高さを目の当たりに見ることができるよく知られている話だが、兵馬俑の兵士の顔は同じものがふたつとなくすべて違う顔をしていだが、なぜ墓でなく兵馬俑だったのだろうか。それは秦の時代にはまだ「墓」というものがなかったからである。墓ができたのは漢の時代になってからである。

今回はあまり慣れたガイドではなかったが、「イヤホンガイド」があったことと、旅慣れた8人の同行者と一緒だったので、じっくり観察できたことが幸いだった。

 

| シルクロード | 11:37 | comments(0) | - |
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