シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています−5

 イスラエルはエジプトに本拠を置くプトレマイオス家によって、前320年から前202年まで支配され、シリアや小アジアを統治するセレウコス家の傘下に入りました。

 多神教の代表格、ギリシアの宗教と一神教のユダヤ教は水と油の関係です。互いの立場を尊重すれば、争いを避けられたのですが、支配者・権力者の視野は狭量になりがちで、ヘレニズム化を強引に進めるセレウコス家によって、ヘブライに対して容赦ない弾圧が加えられるようになりました。

 

 なかでも、アンティオコス4世エピファネス(在位前175〜前164年)は、エルサレムの神殿にギリシア風の祭壇を築き、反抗したヘブライ人たちを虐殺するなど、徹底して弾圧しました。たまらず前168年、ヘブライ人たちはマッカビー5兄弟を核にして反乱をおこしました。

 

 マッカビー兄弟たちは次つぎに戦死していったのですが、士気は衰えず、前141年にはついに独立を達成しました。マッカビー王朝(ハスモーン王朝)がスタートしました。

 しかし、前64年にはローマのポンペイウスによってエルサレムが占領されると、それ以降、この地方はローマの支配下に入ります。ローマに隷属したヘロデ王が、皇帝アウグストゥスに代わって、この地を治めていた頃に誕生したのが、のちに神の教えを広めるキリストだったのです。

キリスト降誕の情景を再現するイタリアのプレゼピオ

 

 ヘロデ王が死ぬとユダヤの地は完全にローマの直轄地となってしまいます。ユダヤの人びとはローマから独立し、再び栄華を取り戻すために「メシア(救世主)」の到来を待ち望みました。

 しかし、イエスが説いたのは、ユダヤ人の厳しい律法によらない隣人愛でした。イエスの教えは多くのユダヤ人に受け入れられましたが、ユダヤ教を批判する言動から祭司の怒りを買い、西暦30年頃にローマ提督によって反逆者だけに処される最も重い刑罰の磔(はりつけ)にかけられました。

 

 その後、キリスト教は激しい弾圧を受け、多くの殉教者を出しますが、西暦313年にコンスタンティヌス帝によってローマに公認されると、急速に広がっていきました。

コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵)

 

 一方のヘブライ人は、後70年に発生した反乱の際にエルサレムの街と神殿を完全に破壊され、世界各地に離散、以後、長い放浪を余儀なくされました。

| 中東問題、テロ | 11:07 | comments(0) | - |
−4 バビロン捕囚とユダヤ教の誕生

 バビロン捕囚

 アッシリアを滅ぼした新バビロニア王国では、ネブトカドネザル2世(在位前604〜前562)が即位すると、エジプトのネコ2世のシリア・パレスチナ遠征軍に当たってこれを阻むなど、領土拡大に熱心に取り組みました。前597年にはパレスチナにあったユダ王国を攻め、エルサレムに入城するとユダ王ヨアキンと配下の有力者をバビロンに連れ帰りました。

 これが第1回の「バビロン捕囚」です。

 

 その後、ゼデキヤをユダ王として国を治めさせましたが、反逆の気配が見えたため再びネブトカドネザル2世はエルサレムを占領し、ゼデキヤと多数の人びとをバビロンに連行します。

 これが第2の「バビロン捕囚」で、ユダ王国は滅亡し、バビロニアの属州になったのです。

 

 もっとも、改宗までは強制しなかったので、ヘブライ人は神ヤハウェへの信仰を捨てなくて済んだのです。捕囚されたヘブライ人は、律法のうち特に割礼と安息日にアイディンティティを求めました。

 割礼を施し、安息日に休むことで、周囲の人間たちとは異なる「選ばれた民」であることを終始、意識するようになったのでした。

 

宗教としてのユダヤ教の誕生 

 やがて事態を打開する救世主となる人物が登場します。

 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世(在位前559〜前529)が新バビロニアを征服し、それぞれの民族固有の生活と宗教を尊重し、捕囚されたヘブライ人たちも父祖の地へと帰還させたのでした。

 

 しかもキュロス2世は、ネブカドネザル2世が没収した備品などを返還し、神殿を再建する費用をペルシアが負担することを命じた詔書も発布したのです。詔書には「天の神、主は地上の国のすべてを私に下さり、主の宮(神殿)をユダのエルサレムに建てることを私に命じられた」と書かれています。

 

 考えてみれば、驚くほどの善政を敷いたといえるでしょう。アッシリア帝国以来、長年、残虐な支配者に脅かされてきたアッシリアの世界の人びとにとって、慈悲深いキュロス2世は解放者として歓迎されたのでした。

 

 エルサレムに帰還したヘブライ人たちは神殿の復興に全力をそそぎました。前520年には大司祭ヨシュアとユダ総督ゼルバベルが中心となって再建工事に着手、前515年に完成を見ました。ソロモンが建設した第1神殿に対して第2神殿と呼ばれました。

 

 さらに前445年にユダ総督として着任したネヘミヤと、ペルシア王によって「天の神の律法の書記」を命じられたエズラによって、社会改革が進められました。エズラは神殿の祭儀のマニュアル化を行ったほか、祭司職の体系化、律法を学ぶ学校の創設、シナゴーグ(集会所)での礼拝の制度化を進め、ユダヤ教の基盤を確立していきました。宗教としてのユダヤ教の誕生といっていいでしょう。

M. Gottlieb画、シナゴーグで祈るユダヤ人(1878年)

 

 前332年にはアレクサンドロス大王の東征によって、エルサレムは陥落、ギリシアの支配下に入りました。大王が亡くなると、将軍たちが後継を争い、エジプトはプトレマイオス、アナトリアはアンティオコス、バビロニアはセレコウスが領有することになりました。

エルサレム攻囲戦 (1099年)

| 中東問題、テロ | 09:29 | comments(0) | - |
ー3  ヘブライ人の放浪 ユダヤ教国家の誕生とバビロンの捕囚

紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています−3

 

きょうからは、2010年4月にブログ欄に掲載した文章を、多少、筆を加えてご紹介します。野口。 

 

  ヘブライ人の放浪 ユダヤ教国家の誕生とバビロンの捕囚

バビロンの捕囚の絵

 

 オリエントは一神教が誕生した地でもあります。

 私たちの日本での日常生活のなかでは、キリスト教の信仰を持っている方以外は、ふつう、『旧約聖書』をあまり読む機会がありません。でも、中東の出来事と歴史を知る上では、これが必要なのです。シリアやヨルダンに行ってみて実感しました。

 

 新バビロニアのネブカトネザル2世によって、エルサレムからバビロンに連行されたヘブライ人たちは、アイディンティティの確立に全力を尽くしました。

 やがてペルシア帝国のキュロス2世によって解放され、エルサレムに帰国した彼らは、体系化された律法、祭祀儀礼、行動様式を築き、「ユダヤ教」をつくりあげました。

 

 神と契約を結び、与えられた約束の地

 オリエントの地は後世に圧倒的な影響を及ぼし続ける「一神教」が生まれた地でもありました。一神教とはユダヤ教、キリスト教、イスラームの3宗教をいいます。

 

 「紀元前2000年頃といえば今から約4000年も前に、世界の宗教史上に決定的な一つの起点がおかれた。それはメソポタミア地方である。このヨーロッパにもアフリカにもまた大きな意味でのアジアにも属していない三大陸の接点にこの非妥協的な一にして超越的な人格神の思想の根となるべきものが誕生した。その神は人間に似ていて、自己に感謝し、奉仕する信仰をもつ人間と契約を結ぶのである」(『ユダヤの民と宗教』A.ジークフリード)。

 

 『旧約聖書』に記された一神教共通の祖であるアブラハムは、メソポタミアのウルの出身とされています。神とアブラハムの間で「パレスチナ=約束の地」と契約が結ばれたことが、ヘブライ人の放浪生活の出発点とされているのです。

 

 紀元前13世紀頃、ヘブライ人の民族的指導者であるモーセが、エジプトの奴隷として使役され苦しむ民を神の命に従い、脱出させました。

 40年の苦難の末にモーセはカナン(パレスチナ)の入り口までたどり着きますが、神によってカナンに入ることを許されず、この地で終焉を迎えました。

 

 その後、ヘブライ人を約束の地・カナンまで導いたのが、モーセの後継者のヨシュアでした。士師(さばきつかさ)たちの共同支配の時期を経て、前1100年頃、サムエルがイスラエル王国を建国します。そして、サウル王、ダビデ王、その子ソロモン王のときに全盛期を迎えました。

 

 シリアやヨルダンは、まさにこのモーセやダビデが歩いた地でした。

 モーセがなぜ、エルサレムの地に入れなかったかということは、ヘブライの難民が水を求めて、モーセが神に水を乞う願いをした際、神から「杖を1回だけ地に突け」といわれたのに、欲張って2回突いたことが原因だったといわれています。

 その言い伝えは、私にはうろ覚えでしたので、これは『旧約聖書』を学ばなければ真の理解は得られないと心底から悟ったのでした。

 

 ソロモン王が死ぬと、ヤラベアムを父に戴く北のイスラエル王国(首都サマリア)と、ソロモンの後継者レハベアムを王とする南のユダ王国(首都エルサレム)に分裂します。

古代のイスラエル王国とユダヤ王国

 

 イスラエル王国はクーデターが相次ぎ、国力が衰退し、前721年、アッシリア王サルゴン2世の攻撃を受け、滅亡しました。

 続いてアッシリアはユダ王国にも迫ったのですが、このときはバビロニアが隙をうかがっていたため、アッシリア軍はあわてて引き上げていったのでした。

 

 前7世紀後半にはヨシヤ王(在位前647〜前609年)が、異教徒を排除し祭儀と司祭制度の中央集権化を進めて国力を充実させました。これを申命記改革と言います。

 しかしその王も、シリア・パレスチナの覇権回復をめざすエジプトのネコ2世(ネカウ2世、、ネクタネボともいわれる)の侵攻の際に、メギドで戦死してしまいます。

| 中東問題、テロ | 11:05 | comments(0) | - |
紛争激化の中東シルクロードが困難に直面しています−2 ―故郷を追われて70年 530万人 見えない帰還への道―

 1948年5月14日、ヨーロッパなどで迫害され続けてきたユダヤ人が、イギリスの委任統治領だった中東パレスチナにイスラエルの建国を宣言しました。その前年、国連総会がパレスチナをユダヤ人と同じ土地に住むアラブ人(パレスチナ人)の2ケ国に分けるパレスチナ分割決議を採択したことを受けたものでした。

 

 翌5日、アラブ諸国がイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争が勃発しました。イスラエルが勝利したことで約70万人のパレスチナ人が難民になりました。彼らはこの出来事を「ナクバ(アラビア語で大破局の意味)」と呼び、イスラエルに残した土地の権利書や家の鍵を持ち続ける人も多いといわれます。

イスラエル人は67年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸とガザ地区も占領し、さらに多くのパレスチナ人が難民になりました。

1948年からの第一次中東戦争

 

1967年の第三次中東戦争で占領した地域

 

 

 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、パレスチナ難民は現在約530万人。ガザ地区とヨルダン川西岸地区のほか、周辺のヨルダンやレバノンなどで暮らしています。

 ガザ地区やヨルダン川西岸地区の難民キャンプで暮らし、仕事が見つからない人も非常に多い状態です。ガザ地区のパレスチナ難民の失業率は47・2%と高くなっており、ヨルダン川西岸地区は22・7%になっています。周辺国に逃れた。パレスチナ難民も、レバノンやシリアでは国籍の取得が難しく、就業や移動の自由が制限されるなど苦境にあります。

 

 国連総会は48年、パレスチナ難民の「帰還権」を認め、故郷に戻らない選択をした難民には財産の補償をするよう求める決議を採択しました。しかし、イスラエルが存在する以上、帰還は困難です。

 イスラエルとパレスチナの「2国家共存」をめざす和平交渉への道を開いたオスロ合意では、パレスチナ難民の帰還問題はエルサレム難民の帰属とともに、イスラエルとパレスチナの交渉で解決されるべき課題として先送りされました(5月16日、朝日)。

 

 各地のパレスチナ難民数(国連パレスチナ難民救済機関の2017年のデータから)

レバノン 46万人

パレスチナ自治区ヨルダン西岸地区 81万人(失業率22・7%)

ガザ地区 135万人           (失業率47・7%)

シリア  54万人

ヨルダン 218万人

 

 

ガザ地区の子供たち。元気に見えても、ほとんどの子どもが何かしらの栄養不足の状態にある

爆撃の跡

 

2014年のガザ侵攻の戦争の跡はいまだに色濃く残る

シュジャイヤの街にはいたるところに弾痕が残っている

 

| 中東問題、テロ | 10:30 | comments(0) | - |
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