シルクロード日誌

日本シルクロード文化センターのブログページです。シルクロードに関する情報、コメント、旅日記などを綴ります。
40年ぶりのキューバに行ってきました ―その革命の系譜−

少し、キューバの歴史を振り返ってみましょう。

 

先史時代は、よくわからない。

コロンブスが入り込んで来たときから先住民を絶滅させるほどの侵略と虐殺と略奪の歴史であった。

 

 1959年、キューバの親米バティスタ政権に対する反乱は1953年のカストロの指導した「7月26日運動」に始まった。カストロは数人の同志とともに東部のモンカダ兵営を襲撃したが、最初の蜂起は失敗、メキシコに逃れ、その地で革命を目ざす組織をつくり、1956年キューバに上陸、同志のゲバラとともに苦しいゲリラ戦を展開した後、農民の支持を受けて首都ハバナを占拠し、1959年1月1日、バティスタ政権を倒した。

アメリカの傀儡独裁大統領バティスタ

 

フィデル・カストロ

チェ・ゲバラ

 

独裁政権の打倒

 カストロは民族主義的な社会改革を目指し、まず農地改革法を制定、小作人の解放をはかった。多くのサトウキビ農園はアメリカ人地主のものだったので、アメリカは激しく反発、キューバ産の砂糖の輸入を制限するなど対抗策をとった。キューバはソ連に接近し、60年2月に貿易援助協定を締結、社会主義路線への転換を明らかにし、アメリカ企業を接収して国有化を断行、61年に1月には両国は外交関係を断絶した。

 

社会主義革命
 アメリカは諜報機関のCIAが画策して、亡命キューバ人を支援して上陸させ、革命政府の転覆を謀ったが失敗、アメリカに不信感を強めたカストロはソ連に接近し、61年5月にキューバ社会主義宣言を発表し、社会主義路線を採ることを明確にした

 

キューバ危機

 アメリカのケネディ大統領はラテンアメリカ諸国に「進歩のための同盟」結成の働きかけを行ってキューバ孤立化を図り、さらに同年4月に亡命キューバ人による反革命軍のキューバ侵攻を支援したが、失敗した。1962年ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことを知ったアメリカはキューバを海上封鎖し、10月の「キューバ危機」となった。これは米ソによる第三次世界大戦の危機であったが、妥協が成立、ソ連はミサイルを撤去した。こうして社会主義キューバは存続することができたが、アメリカによる経済封鎖は継続されている。

 

キューバの社会改革

 カストロの指導するキューバ共産党の一党独裁の下で、当初はソ連の支援と影響を強く受けながら進められた。まずアメリカ人地主・資本家を追放してその農園、工場などの資産を国有化し、教育・医療などの無料化などの社会保障、道路・住宅・水道・電気などの建設、生活物資の配給制などが実施された。しかし、ソ連の援助と砂糖のソ連東欧圏への輸出に依存したため、経済は向上せず国民生活の困窮は続き、反革命の動きも現れたが、カストロはそれらを国外追放にするなど革命路線を維持した。また60年代に入ると中ソ論争のあおりを食らって社会主義陣営が分裂、カストロもソ連一辺倒から次第に離れて、第三世界との連携を重視するようになり、またラテンアメリカ諸国やアフリカの革命運動、民族運動への支援を強めた(ボリビアでのゲバラの活動もその一環だった)。

「世界史用語解説 授業と学習のヒント」=キューバ革命 を参照。

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40年ぶりのキューバに行ってきましたァ.魯丱併堝盍儻

 長時間のハバナへの空の旅の翌日は、いよいよ市内観光。最初からキューバ革命の神髄へのアタックである。この日のハイライトをご紹介しよう。

  • 革命広場

   革命広場は、私が見たことのある北京の天安門前広場やハノイの革命広場よりも質素な感じのものだった。まさに40年前の真夏、ここでフィデル・カストロの演説を4時間立ちっぱなしで聞いたところである。カストロの演説はスペイン語だから、もちろんよくわからないが、ときに切なそうに訴え、聴衆の心に分け入ってくるような演説だったことを今でもよく覚えている。

 

 広場の周囲には説明を聞いたがよく覚えていない記念になる建物などがある。

 『地球の歩き方』によると、周囲には高さ18メートルのホセ・マルティの像、ラウル・カストロ議長(フィデルの弟。弟も兄と一緒に革命を戦った幹部である)のオフイスや共産党本部があるという。さらに内務省とその壁にはゲバラの顔、情報通信省、郵政省などもある。よく知らない人物の顔はカミーロ・シエンフエゴス(キューバ革命の重要な人物だそうだが、1959年に飛行機事故で亡くなったという人)もあった。

革命広場にあるチェ・ゲバラの絵

同じくカミーロ・シエンフエゴスの絵

 

  • モロ要塞

 モロ要塞は、1762年にイギリスが一時的にハバナを占領した際、ここモロ要塞を襲撃・占領したというもの。翌年、スペインはフロリダと引き換えにここを取り戻したそうだが、それからは二度とここを取られないように自衛力を高めたというもの。要塞の入り口には案の定というか定番なのだが、3〜4人のグループが演奏しており、おじさんが歌を歌っている。日本人が顔を見せると必ず演奏するのが「グアンタナメラ」。40年前も飽きるほど聞いた曲だが、いつ聞いても良い曲である。

モロ要塞での陽気な音楽屋たち

以下の3葉の写真は、いずれもモロ要塞

 

  • ゲバラの第一住宅

 革命前にアメリカの傀儡大統領だったバチスタの親類が住んでいたという建物。革命後にゲバラの住居となった。役職が上の順番からよい住宅が与えられるのだろう。どこでもそうだ。ゲバラの所持品やボリビアに潜入した際のカメラなどが陳列してあった。

ゲバラの住んだ住宅

ゲバラの住宅だった記念館の内部

同じ

  • 革命博物館
  • この博物館は革命までは大統領官邸として使われていたという。いろいろな記念物があったが、中でもカストロやゲバラたちがメキシコからキューバに密航してきた際に使用したヨット「グランマ号」まで陳列してあったのには驚いた。

グランマ号、かなりしゃれたヨットだった

 

「グランマ号」

195612月2、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨグランマ州, キューバ)へ上陸。(この二行はウィキペディアから引用)。

  • ハバナ旧市街
  • 私たちの一行には足の不自由な高齢の女性(といっても私鳥井1歳上だったが)がいたのだが、小雨の中、かなりの距離を歩かされた。文字通り「歩かされた」。添乗員はこの道20年だか30年というので、客扱いも慣れたものなのだが、”悪く慣れている”側面もあった。一人一人に気を使うということはあまりない。日程を卒なくこなす、というやり方が身につく。皆さんは口にこそ出さなかったが相当不満があたようだ。

   ついでに言うと、マリアという大学で日本語を教えているという女性がガイドについたが、彼女の日本語もひどいもので   あった。あとで聞くと、キューバには日本語をちゃんと使える人は4〜5人くらいしかいないとのこと。それじゃあ仕方   がないとは思ったものの、彼女は語彙も乏しく声も小さい。聞いていてもよくわからないので。時に「もっと大きな声で   話してください」という声がかかる。この添乗員とガイドで旅の興味と関心が半減した。

 

  • ほか

 この日の最後は、クラシックカーで1時間ほどドライブをしてホテルに帰るというもの。私が期待していたのは、ピカピカに色を塗りなおした車ではなく、座席から下を見ると道路が走っているように見える錆のついた車であった。だが、これを商売にしている人がかなりいるのでそれは仕方のないことだろう。

クラシックカーのドライバー

 

 ドライブ中に私が誤ってフロントガラスについていた小さな部品をもぎってしまった。お詫びに20兌換ペソをチップとして差し出した。それがキューバではいくらになるか考えもしなかったのだが、かなりの金額だったようで、車がついてからドライバーが車から降りてきて私に握手を求め、ハグをしてきた。彼は上海万博の時、数か月間上海に行ったそうで、帰国後になってから中国語を勉強し始めたという、私との会話は中国語になった。

 

| 旅日記 | 06:37 | comments(0) | - |
40年ぶりのキューバに行ってきました

私が昔からキューバ革命に関心を持っていた理由は、カストロでありチェ・ゲバラでもあったのだが、それよりも誰よりもホセ・マルティに関心があったからだ。それでいて彼のことをよく勉強したわけでもない。理由は、シルクロード研究そのものから言えば、関係はあるのだが一般的には無関係の国、そして何よりも日本から10,000kmも離れており、飛行機で乗り継ぎを含めて20時間近くかかるということも原因している。

 

ホセ・マルティはキューバの著作家であり革命家である。

19世紀後半のキューバ独立革命に参加し、キューバ史における英雄としてだけでなく、ラテンアメリカにおける近代文学の先駆者としても名高い。

彼は19世紀で最もすぐれたキューバ人の一人であると同時に、南米に於ける近代文学の先駆者としても名高い。 ホセマルティの独立に向ける戦いは思想の戦いであり、それは祖国キューバを超えてラテンアメリカ全域の自由獲得に対する理念の下に行われた革命であった。そして、42年という短い生涯で、彼は文学から政治に至るまで、生きることへの信念を自らの才能に反映させ、現在もキューバ国民の精神的支柱となり、更にラテンアメリカの希望の光をともなったのである。

ハバナの国際空港も彼の名を冠している。「ホセ・マルティ国際空港」と。

 

このブログをお読みの皆さんには、キューバそのものをまずご紹介しないわけにはいかないだろう。

キューバの国は日本の本州の半分くらいの広さといえば理解が早いだろう。全長は1250km、幅は200km近くあり、何よりも米国のフロリダから150kmくらいに至近距離にあるということだ。そして周りには1600近くもの大小の島がある。

 

そのキューバはこれまでにも記したように、1492年にコロンブスがこの地に到達し、そしてスペインの侵略を受けて、3つの主要な部族が絶滅させられ、1511年にスペインに征服された。

19世紀半ばからは奴隷の労働による砂糖生産で世界最大の砂糖生産地になり、1868年には第一次独立戦争が始まった。

 

キューバが砂糖産業で力をつけ、混血のクレオール農園主を中心にスペインに対する反発が強まっていき、スペインに対する反発が強まっていった。

普通、独立戦争というと先住民や土着の部族が圧政に抗して立ち上がり、そして中間層やインテリゲンティアが革命に加わるということがパターンなのだろうが、3つの主要部族が絶滅させられた関係で、中間層からの決起というスタイルになった。

 

しかしこの1868年の第一次独立戦争はスペインが独立軍を圧倒して鎮圧されるという結果になった。

しかし1895年、ホセ・マルティの率いる第二次独立戦争が始まった。これに“キューバ解放”を旗印に掲げた米国が参戦して米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)がはじまり、ホセ・マルティは95年に戦死した。

1899年、ついにアメリカの軍事占領下で、キューバはスペインの圧政から解放されることになった。

ハバナ市の革命広場にある、ホセ・マルティ・メモリアル像

 

これが曲者だった。アメリカはフィリピンの占領でもどこでも「アメとムチの政策」を採ったからである。日本が連合軍の占領下に入ったが、実際はアメリカの統治下になった。ここでかの有名な「ケネディ・ライシャワー路線」が採用されたのである。

 

見るスポーツが導入され、ジャズが入り込み、ロックンロールが流行し、「3S政策(スピード・スリル・セックス)」が産業としても導入された。キューバも例外ではなかった。

1901年にはアメリカ軍政下にありながらキューバ共和国憲法が制定されもして1902年に一応の独立を見たのである。

| 旅日記 | 04:12 | comments(0) | - |
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